第6章 水神の子守唄
翌日の昼過ぎ、志津子は雨音のない静かな空気の中で目を覚ました。
眠ったのか、意識を落としていただけなのか、自分でもよくわからなかった。ただ、目を開けた瞬間、耳の奥にまだ何かが残っているとわかった。夢の中で聞いたものが、そのまま乾かずに残っているような感覚だった。
声だった。
歌に近い。
けれど、歌というには感情がなさすぎる。
抑揚のない旋律の上に、濡れた紙を一枚ずつ重ねるみたいに、言葉だけが静かに置かれていく。
「みずの みずの かわのみち……」
「なまえを しらぬ こがながれ……」
志津子は布団の上に起き上がり、そのまましばらく動けなかった。
子守唄のようでもあった。
だが、眠らせるための声ではない。
むしろ、眠っていたものを水の底から浮かび上がらせるための唄のように思えた。
窓の外は明るい。昨日までの雨が嘘のように空は高く、雲の切れ間から光が差している。なのに部屋の空気だけが少し湿っていた。机の上のノートの角がわずかに波打って見える。鏡台には布をかけたままにしてあったが、その布の裾だけが濃い色に湿っていた。
志津子は、喉の渇きを覚えながら机へ向かった。
父のノートを開く。
宵鳴坂、命名、呼び返し、消失。
これまで何度も読み返してきた頁をめくるうちに、見覚えのない挟み紙が落ちた。薄い原稿用紙の切れ端だ。父の筆跡で、小さく見出しがついている。
『宵泣きの唄』
志津子は、椅子に座るのも忘れてその場で読み始めた。
「みずの みずの よるのみち
こはかえさぬ なもたずに
よべばきえ なけばしずむ
なきこもり かえさずに」
短い。
四行しかない。
だが、読んだだけで喉の奥が冷たくなるような言葉だった。
そこに添えられた備考には、さらに小さな文字でこう書かれていた。
※実地で唄われた際の旋律・文言は一定せず。
※母の精神状態、雨量、月齢、儀式の場所によって変容事例あり。
※声に含まれる意図が怪異側に反映され、唄自体が変質していく兆候と考えられる。
志津子は、紙を持つ指先に力を込めた。
唄は固定されない。
意味だけが保たれ、言葉は少しずつずれていく。
それは口伝にありがちな揺れとも言えるが、この場合は単なる伝承の誤差ではない。怪異そのものが、唄を変えていくのだ。
音は記録できる。
だが、意味はそのたびに歪む。
だから“宵泣きの唄”は、同じように歌われるほど、同じものではなくなっていく。
*
午後、志津子は郷土資料館の地下で、再び山上と向かい合っていた。
昨日の時点で見つからなかった資料が、朝になって一つだけ出てきたのだと山上は言った。地下保管室の木箱の奥に挟まっていた、録音資料の整理表。その末尾に、短い一行が追加されていた。
『宵泣き唄・録音記録(昭和三十一年)』
「今まで見落としていたんですか」
志津子が問うと、山上は曖昧な顔をした。
「そうとしか言えません。整理表そのものは以前からありました。ただ、この行だけが……昨日までは目に入らなかった気がする」
志津子は追及しなかった。
それが本当に見落としだったのか、あるいは“いま見つかるべきだから現れた”のか、ここまで来るともう境目は曖昧だった。
古いカセットレコーダーの前で、二人はしばらく黙った。再生ボタンを押したのは山上だった。機械の中で、テープがぎこちなく回り始める。ジリジリとしたノイズ。遠くで風のような音。次いで、ひどく乾いた女の声が現れた。
「──よるの よるの みずのなか……」
志津子は、息を止めた。
高齢の女の声に聞こえる。
だが年齢よりも先に、生気のなさが耳についた。
歌っているというより、ただ湿った言葉を順に落としているような声だ。
「──こえも なも もたぬまま……ながれ……ながれ……」
そこで、志津子の背筋が凍りついた。
違う。
ノートに書かれていた『宵泣きの唄』とは、明らかに歌詞が違う。言葉も節もずれている。原形を留めているのは、せいぜい水と夜と名前の不在という骨格だけだ。
「……変わってる」
思わず声に出していた。
山上が横目で見る。
「わかりますか」
「父のメモにあった唄と違います。揺れとか伝承の誤差じゃない……もっと、別のものに寄っている」
録音の中の声は続いた。
「──かえさぬ よばぬ そのままに……」
「──こえを おもたぬ ままに……」
言葉が濁り、伸び、そこで突然、音声は途切れた。
部屋の中が一気に静まり返る。
志津子は、再生機の黒いプラスチック面に、自分の顔が青く映っているのを見た。
「記録された時点で、変わったのかもしれませんね」
山上の声は低かった。
「あるいは、録音されたのが、もう“人間の側の唄”ではなかったか」
志津子は返事をしなかった。
父の備考欄にあった文言が、今ならはっきり意味を持って迫ってくる。
唄は一定しない。
声に含まれる意図が怪異側に反映され、唄そのものが変質していく。
つまりこの録音は、儀式の場にいた誰かが歌ったものではなく、すでに怪異の側へ傾いた声を、そのまま閉じ込めてしまった可能性がある。
記録ではなく、残響。
保存された資料ではなく、封じ損ねた音。
*
大学へ戻ったあと、志津子は自分の端末の中を探し始めた。
結麻の名前は消えている。
だが、“名前のないファイル”はまだ残っているかもしれない。
ゼミ用の提出フォルダを一つずつ洗う。
日付順、更新順、拡張子順。
途中で、無記名の音声ファイルが一つだけ目に止まった。
『voice_815.mp3』
志津子は、その数字に見覚えがあった。
結麻が以前、雑談の中で自分の誕生日を「八月十五日なんです」と言っていたことがある。
ファイルを開く前に、一瞬だけ躊躇した。
父のノートには、録音された声が第三者を巻き込む危険があるとあった。聞くこと自体が、呼び返しの一部になるかもしれない。
だが、ここで止まるわけにはいかない。
志津子はヘッドホンをつけ、再生ボタンを押した。
最初に聞こえたのは、弱い雨音だった。
現地でスマホ録音したような、ざらついた環境音。
しばらく無言が続く。途中で、結麻のものと思しき浅い呼吸が一度だけ入る。
次に、低い水音。
そして、その奥から。
「……おかあさん……」
志津子の肩が強張った。
「……かえして……」
「……おなまえ……」
その声は、録音機器の性能では拾えるはずのない近さで耳元に落ちてきた。遠景に入っているのではない。マイクの向こうからではなく、こちらの耳へ直接囁きかける距離感だった。
志津子は即座に再生を止めた。
ヘッドホンを外してもしばらく、耳の奥に声が残っていた。
呼吸がうまくできない。
結麻は、現地でこの音を持ち帰ってしまっていたのだ。
しかも単なる現場音ではない。
“向こう側の声”そのものを、記録として閉じ込めてしまっている。
志津子は立ち上がり、研究室の窓を少し開けた。外気を吸ってようやく、自分がかなり長く息を止めていたことに気づく。
音が残る。
録音された声は、そこで完結しない。
保存されることで、新しい“窓口”になる。
父の考察が、頭の中でつながっていく。
地名は蓋。
鏡は反射。
名前は鍵。
そして録音は、開いた鍵穴を複製する。
*
夕方近く、志津子は再び父のノートを開いた。
宵鳴坂の項から少し離れた場所に、録音についての考察がまとまっていた。紙の端は摩耗し、何度も読み返されたことがわかる。
「録音という手段は、封印の反復となる恐れがある。
音は物理記録として残り、“名を呼ぶ行為”を第三者へ強制する可能性がある」
次の行。
「祟りの最も現代的な形とは、“保存された音”による再発動である。
書き起こしではなく、録音。声そのものが残ることに意味がある」
志津子は、ノートの余白に父が何度も書き直している言葉に目を留めた。
『聞くな』
『繰り返すな』
『歌うな』
インクの濃さが違う。
最初は研究上の注意として書いたのではない。
危険を知ったあとで、自分に言い聞かせるように書き足したのだろう。
結麻の音源がもし他へ共有されていたらどうなるか。
ネットに上がっていたら。
誰かが面白半分に再生していたら。
考えたくもない連鎖だった。
志津子は、ファイルを外付け媒体へ移し、研究室のネットワークから切り離した。完全な対処ではない。けれど今は、“声”の通り道を少しでも減らすしかなかった。
作業が終わった時、窓の外はまた曇っていた。
空全体が低く沈み、光が鈍くなる。
雨の来る前の匂いがする。
その瞬間、志津子の耳に、今朝の夢で聞いた旋律が戻ってきた。
「みずの みずの かわのみち……」
もう一度、あの断片だ。
今度は夢ではない。
起きたまま、はっきり聞いている。
部屋のどこからだろうと思い、顔を上げる。
すぐにはわからなかった。
だが、窓際の小さな水たまりに気づいたとき、背筋が冷たくなった。
いつからそこにあったのか、小さな雫が一つ、床に落ちていた。
窓は閉まっている。天井から漏れた跡もない。
なのに、その小さな水面だけが、かすかに揺れている。
そこから、唄が聞こえていた。
*
“音”を止めるには、“音”で対抗するしかない。
その考えに辿り着いたのは、論理というより、疲労に近いところからだった。
記録された声は消せない。
問いそのものも、もうなかったことにはできない。
ならば、別の音を置くしかない。
名前を返さない。
呼ばない。
だが、忘れない。
その三つを同時に成立させる言葉はないか。
怪異に現世の名を与えず、それでも“放置”ではなく、“見送る”方向へ向けるための唄。
志津子はノートを新しく開き、しばらく空白を見つめた。
最初の一行がなかなか出てこない。
言葉が、すべてどこかで“名付け”に転びそうになる。
何度か書いては消し、ようやく残ったのが、次の四行だった。
「なまえを もたぬ こえのなか
ゆびさす ゆめに ふれぬよう
わすれずに でも よばぬよう
おやすみなさい みずのなか」
書き終えたあとで、志津子はしばらく息を止めていた。
これは完成形ではない。
正しいのかどうかもわからない。
けれど、少なくとも方向だけははっきりしていた。
こちらへ呼ばない。
名を返さない。
だが、なかったことにはしない。
眠ってよい、と伝えるための子守唄。
封印の再演ではなく、後始末のための唄。
*
夜になり、雨が降り始めた。
今度は静かな雨だった。
昨夜のように急に降り出すのではなく、ずっとそこにあった水気がやっと形になったような降り方だ。
志津子は部屋の灯りを落とし、机の前に座っていた。
鏡台には布をかけてある。
窓も閉めてある。
それでも、部屋のどこかに誰かの気配があった。
しばらくして、それは足音になった。
ぬかるんだ土を踏むような、小さな音。
玄関の向こうで止まる。
一歩も近づかない。
ただ、立っている。
志津子は喉の渇きを飲み下し、部屋の中央で静かに言った。
「……名前は、返さない」
外の雨音が、少しだけ強くなる。
「でも、あなたのことは忘れない」
沈黙があった。
返事があるとは思っていなかった。
けれど、次の瞬間、雨音の隙間に本当に声が混じった。
「……それで、いい……」
ひどく小さかった。
子供とも女ともつかない、掠れた声だった。
それでもはっきりと、同意の形をしていた。
志津子は、その場に立ったまま目を閉じた。
足音は、それ以上近づかなかった。
やがて、玄関の外で気配がゆっくり遠ざかっていく。
雨はまだ降っているのに、部屋の湿り気だけが少しずつ薄れていった。
*
夜明け前、志津子はほとんど眠れないまま窓の外が白むのを見ていた。
空は低く曇っていたが、雨は止んでいる。
玄関を開けると、たたきの外に小さな水たまりが一つだけ残っていた。誰かが立っていた位置に、円く、浅く。
その中心に、ひとつだけ小石があった。
黒くも白くもない、どこにでもありそうな小石。
濡れているせいで少しだけ光って見える。
志津子はしゃがみ込み、その石を拾い上げた。
冷たかった。
それ以上の意味は、いまはまだなかった。
ただ、何も残っていないわけではない。
声も名前も持たぬまま去っていくものがいるとしても、その夜の痕跡まで完全に消えるわけではない。
志津子は石を掌に乗せたまま、しばらく動かなかった。
晴れているのに水音が残る町。
地名を書き換えてやり過ごしてきた土地の記憶。
録音された声が、もう一度怪異を開いてしまう時代。
その中で、自分はたぶん、まだ入口に立っただけなのだ。
だが、方法はひとつ見えた。
返さない。
呼ばない。
忘れない。
その三つを、唄の形にして持っておくこと。
掌の中の小石は、黙ったまま冷えていた。




