第2章 封じられた地図
夕方の旧道は、最初から人を拒んでいるような暗さだった。
市川結麻は、スマホの地図を何度も見直しながら、山あいへ入る細い舗装路の前に立っていた。手前の標識には「通行止」とある。けれど、柵はなく、鎖もない。道路脇の草だけが伸び放題に伸び、長いあいだ誰も管理していないことだけを静かに示していた。
空は重く曇っていた。まだ本降りではないが、いつ落ちてきてもおかしくない湿った空気が肌にまとわりつく。結麻は一度だけ大学のほうを振り返り、それから小さく息を吐いた。
先生には止められた。
怪談より先に現実の事故がある。夜の旧道や山道は、それだけで危ない。そう言われた時、もっともだと思った。それでも来てしまったのは、ただ好奇心だけではない。
“宵泣き峠”。
検索しても出ない。地図にも載らない。なのに、断片だけが残っている。
その歪さが、妙に本物じみて見えたのだ。
結麻はスマホのカメラを起動し、入口の写真を一枚撮った。画面の中では、道路は現実より少し暗く映る。標識の白い地肌はくすみ、その奥の道だけが、まるで水に濡れた布のように鈍く光っていた。
風はない。
けれど、どこかで水の音がする。
最初は気のせいかと思った。沢でもあるのだろうと。だが、立ち止まって耳を澄ますと、その音は一定しなかった。さらさらでも、ざあざあでもない。どこかに水面があり、その上を何かがゆっくり動いている時のような、曖昧で、輪郭のつかめない音だった。
結麻は喉の奥が乾くのを感じた。
「……行って、見て、帰るだけ」
自分に言い聞かせるように呟いて、一歩を踏み出す。
道の両脇には木が迫っていた。枝と枝が高いところで重なり、昼間のはずなのに夕暮れのような薄暗さを作っている。舗装は続いているが、ところどころに落ち葉が張りつき、端は苔むしていた。車が通った気配はほとんどない。
数分も歩くと、振り返った先の入口がずいぶん遠く見えた。
その時、結麻は奇妙な違和感を覚えた。
見られている。
はっきりした気配ではない。誰かが茂みの中にいるとか、背後に立っているとか、そういう具体性はない。ただ、道そのものが、自分を覚えていくような感触があった。足を踏み出すたび、濡れた紙に文字を刻むみたいに、自分の存在がこの場所に写っていく。
結麻は無意識に歩く速度を上げた。
*
同じ時刻、志津子は市立図書館の郷土資料室にいた。
大学の資料室だけでは足りなかった。学内にあるのは、あくまで整理された副本や概要だ。名前を消された場所を追うなら、地域の側に残る端本や、整理されきっていない旧資料に当たるほうが早い。
市立図書館の郷土資料室は、二階の奥にひっそりと設けられている。天井は低く、書架の間隔も狭い。分類ラベルは色褪せ、閲覧机の端には古いインク染みが残っていた。新刊の匂いはしない。紙と糊と、長い時間の匂いがする場所だった。
受付で事情を話すと、担当職員は少し困ったような顔をしたが、旧道路史と郷土誌の索引簿を出してくれた。
七ヶ瀬峠。旧道。町はずれ。雨乞い。水神。
語を変えながら、志津子は一つずつ当たっていく。
決定的なものはなかなか出ない。だが、完全に空振りでもなかった。
明治末期の道路誌に、七ヶ瀬峠の旧称として「宵鳴坂」と読める小さな書き込みがあった。印刷ではない。誰かが後から鉛筆で補記したものだ。消えかけた文字を、志津子は机上のルーペで何度も確かめた。
ヨイナキザカ。
読みだけが、掲示板の“宵泣き峠”と重なる。
さらにその郷土誌の余白には、同じ筆跡と思われる一文があった。
「泣き声と水音、重なる時、名無き者が帰る場所なり」
志津子は、指先が冷えるのを感じた。
“名無き者”。
“帰る場所”。
掲示板の書き込みだけなら作り話で済ませられる。だが、地元の旧資料の余白に、それに触れる断片があるとなると話が違う。正式な本文から外れた場所に、誰かがわざわざ書いた文字。それは記録であると同時に、目立たぬように残された警告にも見えた。
その時、背後から低い声がした。
「それを見つけましたか」
振り返ると、五十代半ばほどの男が立っていた。背は高くないが、肩の線が妙に硬い。名札には「山上」とある。
「郷土資料担当の山上です」
その名字に、志津子はすぐに覚えがあった。父の古いメモの中に、何度か同じ名が出てきたことがある。
「葦原先生、ですよね」
「……父をご存じですか」
山上は、返事の前に一瞬だけ視線を逸らした。
「知っています。正確には、知っていました、ですが」
その言い方に、志津子は胸の奥が硬くなるのを感じた。
「私、父の失踪に関係する資料を探しています。あと、うちの学生が今日、七ヶ瀬峠の旧道へ行っているんです」
山上の表情が変わった。わずかだったが、それで十分だった。
「旧道へ?」
「市川結麻という学生です。連絡がつきません」
山上は書架の間を一度だけ見回し、小さくため息をついた。
「こちらへ」
*
通されたのは、一般閲覧の棚から少し離れた小部屋だった。段ボール箱と、地図筒と、未整理資料の束が積まれている。窓はなく、蛍光灯の白さだけが妙に強い。
山上は戸を閉めると、机の引き出しから薄い紙を一枚取り出した。
「本来、これは公開資料ではありません。あなたのお父上が見ていた写しです」
広げられた紙を見て、志津子は息を止めた。
地図ではある。だが普通の地図ではなかった。
道も川も描かれてはいるが、それ以上に目立つのは書き込みの文字だ。
「水ノ音」
「泣キ声」
「境界」
「還リ路」
「呼返シ禁」
地点ではなく、現象が記されている。
峠が、地形ではなく“起こること”によって地図化されている。
「……何ですか、これ」
「昔の聞き書きと、実地の観察を重ねて作られた図です。地元では、道順そのものより、何が聞こえたか、どこで何を見たかのほうが重要だったらしい」
「場所じゃなくて、現象の地図……」
「そうです。あそこは地形としてあるだけでは足りない。音と記憶が重ならないと、“その場所”にならない」
志津子は紙の上に視線を走らせた。峠の中央部にあたる位置には、赤い鉛筆で丸がつけられている。そのそばに小さく、
『名ヲ問フ』
と書かれていた。
喉の奥がひやりと冷えた。
「父は、ここまで追っていたんですか」
「ええ。かなり深入りしていました。正直、止めるべきだったと思っています」
「なぜ止めなかったんです」
責めるような口調になったのを、自分でも止められなかった。
山上は沈黙したあと、低く言った。
「研究者は、知ろうとする時、たいてい止まりません。あなたのお父上もそうでした」
その答えは、志津子には痛いほどよくわかった。自分だって今、止まってはいない。
その時、スマホが震えた。
結麻の位置共有。
画面を開くと、青い点はまだ動いていた。だが、表示位置が妙だった。道路上ではない。旧道の途中、地図にも何も表示されない空白のような場所に留まっている。
次の瞬間、点がふっと消えた。
通信切れではない。表示そのものが、なかったように消えた。
「……切れた」
志津子は立ち上がっていた。
「山上さん、この場所へ行く道を教えてください」
「待ってください。今から一人で行っても──」
「一人じゃありません。私が行きます」
「葦原先生」
山上の声が追ってくる。
「もし向こうで呼ばれても、返事をしないでください」
その一言だけが、やけにはっきり耳に残った。
*
旧道の入口に着いた時には、雨が降り始めていた。
最初は細い粒だった。だが空はすでに暗く、雨脚はすぐ強くなるとわかった。志津子は傘を差しながら、道の奥を見た。木々の影が重なって、数十メートル先から先はもうよく見えない。
それでも、水の音はわかった。
どこにも沢は見えない。なのに、道の先のどこかから、水面をなでるような音が聞こえている。
志津子は足を進めた。
路面はすでに濡れていた。ぬかるみはないが、ところどころに薄く泥が伸びている。周囲の枝葉が衣服に触れるたび、冷えた水滴が落ちる。歩きながら、子供の頃の断片的な記憶が不意に胸をかすめた。
雨の山道。
自分を呼ぶ母の声。
その反対側から、もっと低くて静かな、別の声。
だが、そこから先は繋がらない。
やがて、道の途中に朽ちた木枠が見えてきた。鳥居とも門ともつかない、役目を失った木の骨組み。そこから先だけ、空気の色が違って見える。暗いというより、薄い。水の底を透かして見ているような感じがした。
「市川さん!」
呼ぶ声は、雨に吸われて遠くまで届かない。
木枠の向こうに、人影があった。
制服姿の、細い背中。
結麻だった。
傘も差さず、ただ立っている。肩も髪も濡れているはずなのに、妙に輪郭だけがはっきりして見えた。
「市川さん!」
もう一度呼ぶと、その影がゆっくり振り向いた。
顔は結麻だった。だが、目の焦点が合っていない。どこを見ているのか、あるいは何も見ていないのか、その境目が曖昧だった。
唇が、ゆっくり動く。
「……お名前は……?」
雨が、そこで一瞬だけ止んだ。
完全な無音だった。
次の瞬間、風が吹き抜ける。木々がざわめき、志津子は思わず目を細めた。そのほんの一拍の間に、結麻の姿は消えていた。
そこに残っていたのは、水音だけだった。
*
志津子は、その場に立ち尽くした。
理解が追いつかない。見失ったのではない。逃げたのでもない。隠れられる場所もない。なのに、いま目の前から、ひとりの人間が消えた。
木枠の向こうへ踏み込むべきか、一瞬だけ迷う。
だが、足が動かなかった。
そこから先は、道ではない気がした。ただの山道の続きではなく、何か別の場所に重なっている。水音と名を問う声でできた、別の側の地続き。
山上の言葉が、遅れて思い出された。
──呼ばれても、返事をしないでください。
自分は結麻の名を呼んだ。だが、向こうから返ってきたのは別の問いだった。
“お名前は”。
その言葉の意味が、遅れて体の奥に沈んでいく。
名前を問うのは、相手を確認するためだけではない。
名前を得るためでもある。
志津子は濡れた前髪を払いながら、ゆっくり山を下りた。足元の感覚が曖昧だった。現実の斜面を歩いているはずなのに、水の中を進んでいるように重い。
*
町へ戻った頃には、雨は本降りになっていた。
車の中で何度も結麻に電話をかけた。つながらない。メッセージも既読がつかない。大学へ戻って、研究室のPCを開き、ゼミ名簿を確認した。
そこに、市川結麻の名はなかった。
志津子は瞬きを忘れた。
別のファイルを開く。履修一覧。提出レポート一覧。ゼミ配属表。講義の出席記録。
どこにも、ない。
スマホの連絡先にも、メッセージ履歴にも、写真フォルダにも、市川結麻に関するものだけが抜け落ちていた。昨日までそこにあったはずのやり取りが、最初から存在しなかったように滑らかに消えている。
志津子は、椅子に座ることもできず、その場に立ったまま画面を見つめた。
彼女が存在していた記憶は、志津子以外の誰にも残されていない。
──名前を失った者は、帰れない。
そういうことなのだ、と理解した瞬間、背筋を冷たいものが這い上がった。
封印されたはずの怪異が、目を覚ました。
しかもそれは、失踪や事故の形ではない。
存在そのものを削る。
記録から。
地図から。
人の口から。
そして、おそらくは世界の整合性から。
窓の外では、雨が降り続いていた。
その雨音は、もうただの雨には聞こえなかった。
名前を削る水の音が、静かに、執拗に、この町の輪郭を薄く削っているように思えた。




