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宵泣き峠、雨の子守唄  作者: 月白ふゆ


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10/10

第10章 名呼びの儀

 その雨は、音がなかった。


 窓を打っているはずなのに、志津子の部屋には打音が届かない。ガラスの外側を透明なものが流れているのは見える。街灯の明かりが水筋に滲み、細い銀の線となって夜を縫っている。なのに、耳には何も入ってこない。ただ、部屋の奥のほうで、水を張った桶に指を浸して、ゆっくりとかき回しているような、鈍い揺れだけが続いていた。


 志津子は布をかけた鏡台の前に立っていた。


 かけたはずの布の中央が、内側から湿っていく。濃い灰色の布地に、じわりと円形の染みが広がる。その形は、顔だった。誰かが向こう側から布越しに額を押し当てているように、丸く、静かに、確実に。


 今夜が最後だ。


 第九章の終わりにそう書いた自分の字が、机の上のノートにまだ生々しく残っている。橋は一人でいい。散った声を一つへ束ねる。自分が最後の橋になる。そこまで言葉にはできていた。だが、それを本当に行う夜が来たとき、体は思っていた以上に冷静だった。恐怖で震えるより先に、やるべき順番を確認している。


 机の上には、父の資料が積んである。

 宵鳴坂の写し地図。

 『境界詠唱と名返しの儀』。

 昭和三十一年の変質した録音。

 結麻の残した音声ファイルを移した媒体。

 自分で書いた対抗の子守唄。


 鏡。

 雨。

 唄。

 名。


 継承の条件は、もうすべて閉じている。


 志津子は布の湿った中央をしばらく見つめ、それからゆっくり背を向けた。鏡はここにある。だが、今夜向かうべき場所は別だ。


 宵泣き峠。


 忘れることで封じ、呼ぶことで解かれ、名を与えることでこちらへ近づけてしまった場所。


 そこへ戻るのは、退治のためではない。

 後始末のためだ。



 家を出た時、雨はまだ無音のままだった。


 傘を差しても、布地を叩く感触だけがあり、音はしない。志津子は一度だけ空を見上げた。雲は低く、町全体を覆うように垂れ込めている。その下で、街灯も信号も、自販機の光も、すべてが少しずつ輪郭を失っていた。反射面が一斉に薄く曇り始めている。


 アパートの廊下の窓。

 駐車場の車のボディ。

 停めた自転車の濡れた泥除け。

 どこもかしこも、水面の代替物になりかけていた。


 車のドアを開けると、内側のガラスに小さな手の跡が幾つもついていた。子供の手だ。外からつく位置ではない。拭おうとは思わなかった。今夜、その痕跡を消すことに意味はない。


 エンジンをかける。

 ワイパーが動く。

 ようやく、そこで雨に音が戻った。


 ざっ、と短く。


 それは本来なら安心していい変化のはずだった。だが志津子は、逆に背筋が冷たくなるのを感じた。無音の雨が、音を得た。向こう側がこちら側へ、少しだけ深く重なったのだと直感したからだ。


 旧道へ向かう県道は、妙に空いていた。対向車も少ない。信号は赤と青を繰り返しているのに、町全体が呼吸を止めているように静かだった。


 途中、スマホが震えた。


 画面を見なくてもわかる。

 とある巨大掲示板だ。


 赤信号で停車したタイミングで、志津子はスマホを取った。案の定、ブラウザが勝手に開いている。スレタイは、以前のものではなかった。


 ──『今夜、名前を呼ばれる人のスレ』。


 その>>1には、こう書かれていた。


 「鏡、窓、スマホ、全部曇ってる。

  雨が降ってるのに、最初だけ音がなかった。

  さっきから、どこ見ても同じ子がいる。

  でも今夜は、何か違う。

  呼ばれる側じゃなくて、“呼ぶ側”が決まった感じがする」

 (ID:fL2-mQ18)


 数レス下。


 「うちの洗面所の鏡、布かけたのに濡れてる」

 (ID:kV7-rM03)


 さらに。


 「子供の声で子守唄みたいなの聞こえてる」

 (ID:oN4-tR91)


 そのあとに並ぶ短い反応の列。

 そして、急に空白ができる。


 次に現れたのは、見慣れたID群だった。


 「橋は一人」

 (ID:YOI3mA7k)


 「今夜で終えるなら、いま」

 (ID:YOI8qL2d)


 「返さないで、呼ばないで、忘れないで」

 (ID:YOI5nX5k)


 志津子は、そこで画面を閉じた。


 最後の一文だけは、もはや掲示板の書き込みではなく、自分へ向けた確認のように見えた。


 返さない。

 呼ばない。

 忘れない。


 ここまで積み上げてきた線が、最終的にそこへ戻るのだと、改めて理解する。



 旧道の入口に着く頃には、雨は完全に音を取り戻していた。


 それでも普通の雨ではない。

 打音の奥に、別の層がある。

 遠くで幾つもの子守唄が同時に始まり、しかし途中で互いを上書きし合って、一つの歌になりきれないまま崩れているような重なり方だった。


 志津子は車を降り、傘を閉じた。


 今夜、傘は意味を持たない。

 雨を避けることより、全身で受けたほうがいい気がした。


 旧道は真っ黒に濡れていた。街灯は届かず、懐中電灯の円だけが道の先を短く照らす。昨日までと同じ道のはずなのに、今夜は最初から“こちら側の道”ではなかった。木々の間に漂う白い気配。舗装の上に浮いた薄い水膜。歩き出すたび、地面の下にもう一枚、別の道が重なっているような感触がある。


 やがて、朽ちかけた木枠が見えてきた。


 あの鳥居とも門ともつかない骨組み。

 そこから先だけ、空気が水のように光る。


 木枠の手前で、志津子は立ち止まった。


 懐中電灯を消す。

 闇が濃くなる。

 そのかわり、向こう側の光がはっきり見えた。


 水面だった。


 地面に水が溜まっているのではない。木枠の向こう全体が、巨大な浅い水面のように見えるのだ。雨粒が落ちるたび波紋が広がり、そのたびに薄い人影が幾つも揺れる。


 結麻かもしれない。

 昭和三十一年の消失者たちかもしれない。

 あるいは、もっと前、水送りで名を持たぬまま沈められた子供たちの残響かもしれない。


 どれも、個として立ち上がるには輪郭が足りない。

 散った声。

 分かれた反射。

 名を持たぬまま、雨のたびに増えてしまうもの。


 志津子はノートを開いた。

 自分で書いた対抗の子守唄は、濡れないよう透明な袋に入れてある。父の資料の最後の一行も、そこへ挟み直していた。


 “橋は一人でいい”。


 ここから先は、自分が読む。

 誰の名も呼ばずに。



 水面の向こうで、無数の口が同時に開いた。


 声は一つではない。

 泣き声。

 子守唄。

 「おかあさん」。

 「お名前を」。

 「かえして」。

 「どうして置いていったの」。


 それらが雨音の中で互いを押しのけ、重なり、濁り合う。言葉としては聞き取れても、もう誰の声なのかわからない。個別の悲しみだったものが、長い忘却の中で混ざり合い、災いの形式だけを保ったまま増殖してしまったのだとわかった。


 志津子は、その場に立ったまま、紙を持つ手の震えを止めた。


「返さない」

 まず、そう口の中で確かめる。


 「呼ばない」

 次に、呼吸を整える。


 「忘れない」

 最後に、目を閉じず、向こうを見た。


 そして、唄い始める。


「なまえを もたぬ こえのなか

 ゆびさす ゆめに ふれぬよう

 わすれずに でも よばぬよう

 おやすみなさい みずのなか」


 最初の一節を置いた瞬間、雨音が変わった。


 激しくなるのではない。

 むしろ整う。


 今までばらばらだった打音が、一定のリズムに寄り始める。水面の上に浮いていた無数の輪郭も、わずかに揺れを揃え始めた。


 志津子は、そのまま同じ唄を繰り返した。

 声は大きくしない。

 聞かせるためではなく、束ねるために歌う。


「なまえを もたぬ こえのなか

 ゆびさす ゆめに ふれぬよう

 わすれずに でも よばぬよう

 おやすみなさい みずのなか」


 雨が、そこで初めて“ただの雨”に近い音になった。


 向こうの声はまだ消えない。

 だが、互いを押しのけていたものたちが、少しずつ同じ流れに吸い寄せられていく。


 掲示板。

 鏡。

 スマホ。

 結麻の音源。

 昭和三十一年の録音。

 排水溝や窓ガラスに滲んでいた声。


 全部が、いまひとつの水脈へ戻ろうとしている。


 木枠の向こうの無数の影が、次第に数を減らしていく。

 三つが二つへ。

 十が五へ。

 やがて、最後に一つだけが残った。


 濡れた子供の影だった。


 黒い髪。

 白い顔。

 年齢を決められない細い輪郭。


 それが、水面の中央に立っている。


 志津子は歌うのをやめなかった。

 名前は呼ばない。

 個別にはしない。

 それでも、そこにいたもの全部を“なかったこと”にはしない。


 最後の一節を、もう一度だけ、丁寧に置く。


「わすれずに でも よばぬよう

 おやすみなさい みずのなか」


 水面の中央の影が、初めてはっきりと顔を上げた。


 唇が動く。


 声は小さかった。

 けれど、今夜初めて、それは泣き声でも問いでもなく、明確な言葉として届いた。


「……それで、いい」


 志津子は、息を止めた。


 影は、そのまま少しだけ微笑んだように見えた。

 ほんの一瞬、鏡の中で見た笑みに近い。

 だが、あれほど不気味ではなかった。

 ようやく終わりを受け入れた子供の顔に近かった。


 次の瞬間、影は崩れた。


 消えたのではない。

 水へ戻ったのだ。


 波紋が一度だけ大きく広がり、それきり木枠の向こうの光は静かに沈んでいった。雨音の裏に潜んでいたもう一つの層も、そこでようやくほどける。


 山道には、普通の夜の雨だけが残った。



 志津子はしばらく、その場から動けなかった。


 雨が肩を打ち、髪を濡らし、ノートの端を冷やしていく。

 だが、その雨音は、もう意味を持っていない。

 問いにも、泣き声にも、子守唄にも重ならない。


 ただの雨だった。


 それがどれほど異様で、どれほどありがたいことか、志津子はやっと理解した。


 振り返ると、木枠はただの朽ちた木に戻っていた。

 向こう側とこちら側を分けるような光もない。

 舗装の上には水たまりが幾つか残っているだけで、そこへ懐中電灯を向けても、映るのは濡れた木々と自分の影だけだった。


 峠は、ただの旧道に戻っていた。


 完全に無害になったとまでは言えない。

 土地に記憶は残る。

 雨の夜に、ふとした拍子に古い呼び名が浮かぶこともあるかもしれない。


 それでも、今夜の継承は終わった。


 散っていた声は一つに束ねられ、名前を持たぬまま、もう一度水の側へ見送られた。退治ではない。消滅でもない。後始末だ。


 それでいい。


 この土地には、この土地にしかできない終わらせ方がある。



 翌朝、雨はやんでいた。


 空は白く薄い晴れ間を見せ、夜の激しさが嘘のように静かだった。志津子はほとんど眠れないまま、それでもいつもの時間に起きて、部屋の中をゆっくり見回した。


 鏡台の布は、かかったままだった。


 湿ってもいない。

 ずれてもいない。


 志津子は少しだけ躊躇い、それから布を外した。

 鏡の面は乾いている。

 曇りもない。

 そこに映るのは、ただ眠れなかった自分の顔だけだった。


 洗面所。

 スマホの黒い画面。

 窓ガラス。

 どれも同じだった。


 部屋から怪異が完全に消えたかどうかはわからない。

 だが少なくとも、“見ている側”の湿り気は失われていた。


 鏡台の前の床に、何かがあるのに気づく。


 小石だった。


 黒くも白くもない、どこにでもありそうな小さな石。けれど表面だけが、水をくぐったあとのように静かに光っている。


 志津子は、それをそっと拾い上げた。


 冷たかった。

 軽かった。

 名前はない。


 けれど、なかったことにはならない。


 志津子は石を掌に乗せたまま、しばらく黙っていた。

 結麻は戻らない。

 あの子にも個別の名前は与えない。

 父もいない。

 地図から消された地名が、正式に戻ることもないだろう。


 それでも、覚えている者が一人いる。

 呼ばない。返さない。だが忘れない。


 その形でしか留められないものがあるのだと、志津子はいまは受け入れていた。


 窓を開ける。

 入ってきた空気は乾いていた。

 遠くで排水溝の水が最後の名残を流している。

 その音は、もう何にも聞こえなかった。


 ただの朝の水の音だった。


 志津子は小石を机の上、父のノートの隣に置いた。


 そこがいちばんふさわしい気がした。


 ノートを開き、最後の余白に一行だけ書き足す。


 『返さない。呼ばない。忘れない。』


 ペン先を離したあと、しばらくその文字を見つめた。

 やがてノートを閉じる。

 窓の外では、濡れていた町がゆっくりと乾き始めていた。


 宵泣き峠、雨の子守唄。


 その名を、もうむやみに口にすることはないだろう。

 けれど志津子は知っている。

 あの夜、あの場所にいた声たちを。

 名を持たぬまま、雨のたびに揺れ続けていたものを。

 そして、それを一つの唄へ戻すしかなかった自分のことを。


 朝の光は弱く、やさしかった。

 鏡はただの鏡に戻っている。

 雨は、ただの雨へ戻った。


 それで、いい。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


『宵泣き峠、雨の子守唄』は、怪異を倒す話というより、

名を持たぬまま置き去りにされたものを、どう記憶するか

を軸に書いた物語でした。


雨、水音、鏡、地名、そして名前。

民俗学的な「忘れることで封じる」という発想と、都市伝説やネット怪談のような「語られることで広がる」性質を重ねたくて、この形になりました。


宵泣きは完全に消えたわけではありません。

けれど、呼ばず、返さず、それでも忘れないことでしか届かない終わらせ方もあるのではないか。

そんな着地を目指しました。


結麻も、名を持たぬあの子も、きれいに救われる話にはしていません。

それでも「なかったことにはしない」という一点だけは、最後まで残したかった部分です。

少しでも、雨の音や鏡の反射が気になる夜をお届けできていたなら嬉しいです。


感想、レビュー、誤字報告などいただけると励みになります。

読んでくださって、本当にありがとうございました。

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