第1章 雨音とスレッド
その雨は、講義が終わる頃になっても弱まらなかった。
窓を打つ水の音が、古い講義室の壁や机に反射して、必要以上に耳に残る。外はまだ夕方には早い時刻なのに、雲が低く垂れこめているせいで、廊下の向こうまで薄暗かった。照明の白さばかりが浮き、ガラスの向こうでは、濡れた銀杏の葉が風もないのに小さく震えている。
葦原志津子は、教卓の上のノートパソコンを閉じながら、わずかに眉を寄せた。
雨音が、妙に張りつく。
ただそれだけのことに、理由をつけるつもりはない。疲れている時は、普段気にしない音が気になることもある。古い建物ならなおさらだ。だが、この日の雨は、窓の外から聞こえているというより、講義室の内側にまで入り込んで、空気の一部のように居座っている感じがあった。
「……では、今日はここまでにします。次回は近現代における民俗の再編成と、地域伝承の消失について扱います。レジュメの後半は各自読んでおいてください」
学生たちが一斉に立ち上がり、ノートやタブレットを鞄へしまい始める。椅子の脚が床を擦る音と、ひそかな話し声。そのざわめきの向こうで、なお雨音だけが変わらず続いていた。
志津子は、配布した資料の残りを整えながら、自分の性分を思う。
昔から、こういう仕事に向いていると言われてきた。感情よりも先に資料を見る。噂を面白がる前に、まず記録を当たる。何かが妙だと感じても、その“妙だ”をすぐ超常へ飛躍させず、一度紙の上に下ろして考える。
民俗学の講師という立場も、半分はその気質の延長にある。
奇談や怪談そのものが好きなわけではない。むしろ、怪談がどのように地域に根づき、どのように忘れられ、どういう条件で再び語られるのか。その過程のほうに関心があった。失われるはずだったものが、別の形で残る。語られることで生き延びる。あるいは、語られなくなることで封じられる。
そこに、父の影がある。
葦原典行。郷土民俗研究者だった父は、志津子がまだ二十代の頃、地方の聞き取り調査の最中に行方を絶った。事故か失踪か、結局は曖昧なまま処理されたが、遺品として残ったノートの量だけは異様だった。各地の禁忌地名、口伝の欠落、削除された旧地図、村から意図的に消された名。
忘却によってしか維持されないものがある。
父は、そうしたものを追っていた。
志津子は、最後に父が自宅へ送ってきた荷物のことを思い出す。段ボール一箱ぶんのコピー資料と、書き込みだらけの地図数枚。開封した時には紙が湿気を吸って波打っており、母がひどく嫌な顔をした。その中に、赤鉛筆で何度も同じような印がついたページがあった。
名前を変えた場所。
記録から外された場所。
「誰ももうそう呼ばない」と欄外に書かれた場所。
当時は研究者特有の執着だとしか思わなかった。今では、その執着に理由があったのではないかと思う。
「先生」
講義室の前方、学生たちがほぼはけたあとで、小さく声がした。
志津子が顔を上げると、市川結麻が立っていた。二年生。郷土伝承ゼミの所属で、派手さはないが、調べ物は丁寧だった。目立つタイプではないが、話を聞くときの集中力が高い。軽い気持ちで怪談に寄る学生とも違う。
その結麻が、今日は少しだけ緊張した顔をしている。スマホを両手で持ったまま、どう切り出すか迷っているようだった。
「少し、相談してもいいですか」
「いいわよ。研究室に移る?」
「……ここでも大丈夫です。そんなに長くないので」
長くない相談ほど、厄介なことがある。志津子はそう思いながらも、頷いた。
「何?」
結麻はスマホを操作し、画面をこちらへ向けた。
「“とある巨大掲示板”の怪談系のスレッドなんですけど……こういうの、私、普段は半分ネタだと思って見てるんです。でも、これだけ、ちょっと引っかかって」
画面には、細い文字列が並んでいる。ログの一部らしい。
雨音が、そこでひときわ強く聞こえた気がした。
「“宵泣き峠”っていう地名なんですけど、先生、聞いたことありますか」
志津子の手が止まった。
聞いたことがある、とは言えなかった。正確には、聞いたことがある気がする、だった。
だがその“気がする”は、記憶のどこにもはっきり結びつかない。ただ音だけが、古い紙の匂いと一緒に、どこかの引き出しの奥から浮かび上がってくるような感触だった。
「宵泣き峠……」
「やっぱり変ですよね。検索しても出ないんです。地図にも出てこないし、観光ブログとか道路情報にも全然ない。でも、掲示板のログには時々出てくるんです」
結麻は画面をスクロールした。
志津子は、表示された文を目で追う。
──スレの流れの中に、その書き込みは埋もれるようにあった。
「宵泣き峠な。あそこはガチ。夜の七時、雨音と女の泣き声が重なったら“消える”ぞ」
(ID:YOI5nX5k)
別の書き込み。
「“宵鳴坂”って呼ぶうちはまだセーフ。“泣き”に変わるともうアウト」
(ID:YOI5nX5k)
さらに別の断片。
「昔は名前で封印してた。字面と音で閉じるんだよ。逆に言えば、名前をつけたら呼び戻すことになる」
(ID:YOI5nX5k)
同じIDが、ところどころに現れている。釣りやなりきりの可能性はいくらでもある。だが、志津子が気になったのは内容より、もっと別の部分だった。
言葉の扱いだ。
この書き込みの主は、“宵泣き峠”をただの怪談の題材としては扱っていない。場所の説明でも、体験談でもない。その名称自体が、何かを開いてしまう鍵であるかのように書いている。
地名ではなく、呼び名。
呼び名ではなく、封印。
「ほかに、何か気になることは?」
結麻は少しだけ息を整えた。
「私、昨日、駅前の古本市で古い道路地図を見てたんです。今の地図にはない旧道が何本かあって、その一本が、これと場所の話が合う気がして……。でも、名前が違うんです。七ヶ瀬峠ってなってて」
「七ヶ瀬峠」
「はい。で、掲示板では“町はずれの旧道”って書かれてる。時間も七時とか、雨の日とか、条件が妙に具体的で」
志津子は、画面を返してもらいながら考えた。
正式地名が残っていて、俗称や旧称だけが消えることはある。逆もある。行政上の整理、道路法の変更、地元住民の呼び替え。だが、こうした“名前だけがネットの断片に浮いて、実地の地図には残らない”現象は、父のノートに何度も出てきた。
削除された名。
口にしなくなることで封じた名。
呼ばないこと自体が、共同体の防衛になっていた名。
結麻は続けた。
「先生、こういうのって、実際にあるんですか。地名だけ消されるみたいなこと」
「ある」
志津子は即答していた。
結麻が目を丸くする。
「ただし、“消える”理由は一つじゃない。合併で消えることもあれば、差別語を含んでいたから変えられることもあるし、災害や事件で忌避されて呼ばれなくなることもある。けど……」
「けど?」
「忘れられたんじゃなくて、忘れるようにされた名というのはある」
その言葉を言った瞬間、自分の声が少し低くなったのがわかった。
講義室の照明が、一瞬だけちらついた。
雨音は相変わらず、内側に張りついている。
結麻は黙ったまま、スマホの画面を見下ろしていた。怖がっているというより、考えている顔だった。こういう時に、彼女は軽く流さない。だからこそ、志津子は少しだけ言葉を足した。
「面白半分で近づかないこと。こういうのは、仮に作り話でも、近づき方を間違えると現実側の事故になるから」
「現実側の事故……」
「崖、廃道、夜の山道、増水。怪談より先にそっちで死ぬ。だから、まず地図と記録。現地は最後」
結麻は小さく笑った。
「先生らしいです」
「そういう役目だから」
だが、その返事のあとでさえ、志津子の胸の奥には不安が残った。結麻がこの話を持ち込んできたこと自体が、すでに“最初の一歩”になっている気がしたからだ。
*
結麻が帰ったあと、志津子はそのまま研究室へ戻らず、学内の資料室へ向かった。
大学の本館地下にある旧資料室には、地域史関係の副本や廃棄寸前の旧地図類が残されている。整理は行き届いていないが、そのぶん、正式な目録に載せるほどでもない周辺資料が眠っていることも多かった。
四十分ほど、索引と箱番号を往復する。
七ヶ瀬峠。旧道。町はずれ。周辺河川。水神。雨乞い。
出てくるのは断片ばかりだった。正式な“宵泣き峠”の記録はない。地図にも、道路台帳にも、その名は載っていない。
だが、載っていないことそのものが、気になった。
普通に考えれば、存在しないだけだ。ネットの書き込みに引きずられて、そこに意味を読み込む必要はない。
それでも、指先が止まる。
旧地図の端に記された鉛筆の書き込み。誰かが後から書き込んだらしい細い字で、「旧称別」とだけある。別称があったはずなのに、その肝心の別称が抜けている。
道路改修前の簡易図にも、峠の位置だけに妙な空白がある。周辺には沢や祠の記号が並んでいるのに、その一点だけ、まるで名称を置く欄ごと削られたように白い。
父のノートに、似た文があったことを思い出していた。
志津子は資料室を出ると、帰宅してから久しぶりに父のノート箱を開けた。防湿剤の匂いと、古い紙の乾いた感触。何冊もあるうちの一冊、地名と忘却を扱ったノートの中央付近に、赤鉛筆の線が引かれている箇所があった。
そこには、こう書かれていた。
──「名称を持たぬ地は、忘却によって封じられる」
次の行。
──「ある場所は、地図から消され、行政記録からも削除される。それでも、語られてしまえば──解かれる」
志津子は背筋が冷えた。
“宵泣き峠”という言葉を、今日、口にしてしまった。
──そして、その場に居合わせたのは、自分と、市川結麻だった。
ノートの余白には、父の走り書きがもう一つあった。
『忘却は不在ではない。維持である』
その言葉の意味を、志津子は昔から完全には理解できなかった。忘れることが、どうして維持になるのか。だが今なら、少しだけわかる気がする。
呼ばないからこそ、そこにとどまるものがある。
思い出さないからこそ、動き出さないものがある。
そういう種類のものが、世の中には確かにある。
ノートを閉じたあとも、しばらく手を離せなかった。
父はこの一文を書いた時、どこまで知っていたのだろう。研究の対象として書いたのか、それとも、自分自身が何かを呼びかけてしまったあとで、その意味を悟って書いたのか。
わからない。
ただ、あの人が失踪したあともノートだけは残ったことを思うと、まるで言葉だけをこちら側へ押し戻したようにも感じられる。
*
翌朝、結麻からメッセージが届いた。
『やっぱり気になって、今日の夕方、あの場所に行ってみようと思います』
短い文章のあとに、写真が一枚添付されていた。
町はずれの旧道。山間へ入る細い舗装路。手前に立つ標識には、色あせた文字で「通行止」とある。けれど、柵はない。鎖もない。誰も管理していないように、ただ忘れ去られた道が、その先へと伸びていた。
雨は、写真の中ではまだ降っていない。
しかし路面は濡れているように見えた。
志津子はすぐに返信した。
『一人で行かないで。場所を送って』
既読はついたが、返事はない。
続けて電話をかける。呼び出し音は鳴る。だが結麻は出ない。二度目、三度目も同じだった。
胸の奥に、昨日から続いていた薄い不快感が、はっきりした形を取り始める。
もし、その道を本当に“宵泣き峠”と呼ぶ人間がいたなら。
もし、その名前が地図からだけ消されたのだとしたら。
そこは、単に廃れた旧道ではない。
忘れることで封じていた場所なのかもしれない。
志津子はスマホを握りしめ、再び父のノートを見た。
赤鉛筆の線が、まるで今この瞬間に引かれたように、生々しく目に刺さる。
窓の外では、また雨が降り始めていた。
細い雨筋がガラスを伝い、昨日と同じように、音だけが室内へ張りついてくる。
誰かの名前を、誰かの居場所を、失う前に。
そう思った時点で、もう自分はただの観察者ではいられないのだと、志津子は理解していた。




