第二話 東の丘で
マイアの朝はいつも早い。
占いくらいしか現金収入がなく、半ば自給自足の彼女は、早朝から森できのこなり果実を集めるのが日課なのである。
ただ、それにしても今朝は早かった。
まだ夜も明けぬうち、山並みの縁がようやくわずかに赤みを帯びてきたという頃に彼女は、森と村の境界あたりにある小屋を出た。使われなくなった猟師小屋をもらい受けたものだ。
彼女は昨日、ほとんど眠っていない。
眠れなかったのだ。
娯楽の少ないこの辺境、特に教会が置かれていない無教会地域には立ち寄る芸人も歌い手もほとんどいない。そんな中、南風演劇旅団は数年に一度、必ずこの地域に立ち寄って数日間の公演を張った。毎回、地域の全員が押し掛けるほどの盛況となる。
その劇団の人気俳優が、自分の望むとおりの役柄を演じてくれる。まる一日、傍にいてくれる。希望する言葉をなんでも言ってくれる。
マイアはいま、歩きながらすでに妄想を展開している。
あの若手の人かな。あの渋い俳優さんかな。あのかっこいい長髪の人かな。だれがわたしのところ、来てくれるんだろう。
昨日、当たりくじを抱きしめた彼女に、劇団長は当選を祝いつつ言ったのだ。
明日の朝、あの山に太陽が昇り切った頃、東の丘に俳優を立たせます。誰がゆくかはお楽しみ。あなたもその頃、いらしてください。そこから夕方、陽が沈むまでが、あなたがた二人だけの世界ですよ……。
その朝が、いま、これからなのだ。
まだ山際に太陽は上りきっていない。が、間もなくだろう。
マイアはふだん、ほとんど村の者と話さない。嫌われている、というより、距離がある。マイアがまだ上手に話しかけられないのもあるし、村の者もどう接してよいか戸惑っている様子でもある。
だから、マイアにとって誰かと親しく話せるということは、もうそれだけで事件であり、奇跡であり、祭事なのだ。まして相手は見目麗しい俳優。興奮するなというほうが無理がある。
化粧道具などはないから、昨夜はとりあえずなんどもなんども冷水で顔を洗った。身体を拭った。しまいには頭から水をかぶった。もはや水ごりである。今朝も同様の行動をとり、ふたつだけの装束のうち上等の方を選び、小屋を出て今に至る。
時間はずいぶん早いのだが、森の中で歩き回って時刻を待とうと思っていた。その方が気がまぎれると考えたのだ。
もう、森を五周もしたろうか。
途中、森の南端あたりでうるさい虫の集団に出会って、彼女はぎゃあと叫びながら追い払った。気持ち悪いのもあるが、今日の重大事を邪魔すること許さじという決意に彼女の瞳は燃えていたのである。
木立の隙間から山を見上げる。
もう太陽が少し顔を出している。
……時間だ。
彼女はごくりと唾を呑みこみ、東の丘に向けて足を速めた。
◇◇◇
王宮から目的地、東部の無教会地域までは馬で半日ほどかかる。
翌朝が指定されているから夕刻の出立でも間に合うのだが、レヴィンは朝を選んだ。長いあいだ仕え、護ってきた王宮。その姿を美しい朝日の中に見ながら、二度と戻ることのない故郷を後にしたかったのだ。
鬼の聖騎士団長、滅妖の聖騎士と異名をとったレヴィンの、それは人生で最後になるであろう感傷だったのである。
左右にわずかとなった聖騎士たちが剣を掲げて居並ぶ。肩に記章、黒の肩覆い。王前でのみ使うこととされている聖騎士の正装だ。涙ぐみながら団長を送り出す彼らのせめてもの手向けである。
レヴィンは泣きはしない。笑っている。
いい、仲間たちだった。いい人生だった。
王宮が遠く木立に隠れ、やがて故郷の山々も丘陵の陰に見えなくなる。
夜営地も慎重に選び、持参した食料を口にする。腹持ちのよい、といって戦闘に邪魔にならないものを時間をかけて摂る。明日の命がどうなっていようが、現在を大事にする。聖騎士の誓いを彼は今も誠実に実行しているのである。
翌早朝、まだ月が眩しいうちに起きだし、身支度をして馬に乗った。そう時間が経たないうちに東部地域に入り、やがて目的地が見えてきたころに、山並みが赤く染まりはじめた。
馬上で深く息を吸い、また吐く。
それで彼の覚悟は決まった。
馬の脚をわずかに速める。
◇◇◇
明日の夕方には出立するということで、劇団は道具類を片付けるのに慌ただしい。その天幕のひとつに、座組み、つまり舞台の出演者や構成を決める担当者が居眠りを決め込んでいる。
「なあ、例のくじ引きのあれ、決めなくていいのか。誰が演るのか。俺、行ってもいいけど」
役者のひとりが声を出すと、彼は目を瞑ったまま答えた。
「あれね、劇団長が決めるって。まああの人の思い付きの企画だからなあ。だけど、くじで金を集めるようになったらここも長くないよね」
ちょうど同じころに、劇団長の部屋。
「ねえ、あのくじ引きのやつ、決めなくていいの?」
鏡を覗きながら女が背後の男に向けて声を出した。劇団の歌姫と、劇団長だ。
「ん、ああ、座組みはいつもどおり担当にさせてるよ。誰か適当な若手、行かせるんじゃないかな」
◇◇◇
わずかにかかっていた雲が切れた。
透明な日差しが草原を照らし、山あいを貫く。
ゆっくりと丘を登ってゆくマイアも、秋の早朝の橙色がかった光に包まれている。
今日は外套を羽織っていない。あまりにぼろぼろで恥ずかしかったのだ。
飾りもないざっくりとした薄灰色の一枚着。が、丘を通り抜けていく風に揺らされる彼女の青紫の髪も、栄養不足でほっそりとしている手足も、この穏やかで柔らかな空気のなかでは不思議にきらめいて見えたのである。
「……ん、ふうう」
頂きに到着し、手を組み合わせて天に掲げ、伸びをする。村から少し離れており、家も畑もないから村人は誰も来ない。マイアも初めてだったが、良いところだなあと、自然と笑みがこぼれた。
それにしても、そろそろ太陽が山から離れる。
「お相手の俳優さん、太陽が昇り切った頃に……って、言ってたんだけどな」
独り言ちながら周りを見回す。
と、遠くにぽつりと、白い影を見つけた。
村とは反対の方角だ。西の方に向かう細道。
その奥、ずっと遠くに、なにかが動いている。
マイアは一気に緊張し、手を前に重ねて、遠くの影に深く頭を下げてみせた。