五夜目
「…っるさいなぁ。おちおち昼寝も出来ないじゃない」
目の前に広がる広大な本の森に目を輝かせるマリアを横から咎める輩が、一人だけいた。
むくりと本が山になった所からマリアと同じかやや年上の男が現れたのだ。気だるそうに欠伸を吐き目を擦っている。
「ラファエルさん?!またこのような場所でお休みになられていたのですか?!!」
どうやらこの可愛いエルフのメイドは男と知り合いらしい。驚いているというよりは呆れているといった方がこの場合は正しい。
「だって~。僕の研究室場所ないんだもの~」
気だるそうにしている男はエルフだった。
あんなに広い部屋をどうやったら一杯に出来るの、とレベッカの呆れ。
「それより、こちらのお方は旦那様の婚約者であるマリア様よ」
唐突に話題を変えたレベッカに合わせるようにラファエルという男はマリアへ近寄ってみた。
至近距離で真っ直ぐ顔を寄せられて、マリアは思わず一歩後退。
「へーぇ。貴女が、ねぇ…。僕はラファエル。この屋敷では主に魔法の研究なんかをやらせて貰ってるよ」
まほう……。
マリアは言われて少し思案する。この方は研究者さんだし、この人になら私の“魔法”を見せても何も言われないかな。
「きみ、」
ラファエルは一度首を捻る。「勘違いではないと思うんたけど、何か特別な魔力を感じるねぇ」
きみの魔法を見せてよ、と単刀直入に切り込んできた。先程まで眠たそうだったその紫の瞳は今や好奇心に輝いている。
「えっと、こういうことは旦那様に確認してみた方が…っ?」
「そんなの事後報告でも良いでしょ?それに魔法なんか隠すものでもなくない?」
そういうものでしょうか、とレベッカもすんなり引き下がってしまう。
マリアはいよいよ覚悟を決めるべきだと心中察した。
怖い。こわい。ハバロフスクのあの一家のように急に態度を変えてきたら私はどうすれば良いの。
しっかりしなさい、マリア。レベッカもガルシア様もあの一家とは違うのよ。
自分の中で異なる2つの意見が対立し、そのせいで思考をぐちゃぐちゃにかき乱された。
マリアは纏まらない考えを無理やり束ねて一度深く深呼吸をした。煩く跳ねている心臓を静まらせる。
そして、わかりました、と一度頷いた。
肩幅に足を開き両手を胸の前に突き出す。
静かに、少女は歌うように文字を紡ぎだした。
「“風よ、舞い上がれ(ヴァトラ.オトヴォリ.セ)”」
すると、どうだろう。
マリアを中心にしてどこからともなく柔らかい風が舞い始め、足元を駆け抜けて図書館の天井へと吹き抜けていく。ラファエルの周りに散らかっていた紙束もぶわっといっぺんに宙に舞っている。
「これは……っ」「この魔力ってさ、」
レベッカとラファエルはほぼ同時に感嘆の声を上げた。
マリアはすっと両手を下ろし一歩身を引いた。
「まだ…も、もう少しお見せ致した方が良いでしょうか?」
再び身を縮こまらせた赤い髪の未来の侯爵夫人。
そんな彼女に、もう良いよ、と魔法研究員は手をぱたぱたと振った。
それを聞いて、マリアはすとんと肩の力が抜けるのを感じた。
「今まで見たことないタイプの魔法だねぇ。もしかして、噂の文字魔法かな?」
「もじまほう…?」
マリアは小首を傾げた。
「貴女はどこでこの呪文を覚えたの?」
「えっと…昔ある方から頂いた本にあった言葉なのです。口で唱えてみたら不思議な現象がよく起こる面白いものでした」
研究員は少しだけ沈黙した。こめかみにほっそりした指を押し当ててなにやらぶつぶつと呟いている。
一方、えっと……、とマリアはとたんに不安になって隣のレベッカに目線を送る。そちらでは彼女も同じように困惑した様子だった。
「……ビンゴだな。ねぇ、このことは貴女の家の人たちは知っているの?」
何の前触れもなく目線を上げた男は真っ直ぐマリアを捉えた。
対して、マリアは静かに首を横に振った。
「昔……幼い頃、何度かお父様にお伝えしたことがありました」
ですが、とマリアは一瞬だけ言い淀む。「……気持ち悪いと、相手にもしてもらえなかったので……それ以降は誰にも言ったことはありません」
気持ち悪いですって?!、と隣のレベッカが怒ってくれているのを視界の端で感じながら、マリアは小さく頷いた。
「……。そうか。とりま俺を信頼して魔法見せてくれたことは、本当にありがとう!」
言って、ラファエルは太陽のようなきらきらした笑顔をマリアへ向けた。「貴女の魔法に関することで、もしかしたら協力してもらうことがあるかもしれない。その時はまたお願いしても良いかい?」
「わ、私で良ければ喜んで…!」
「おっけー!ありがと!じゃ、早速用事出来たから俺はここらで失礼しますわー」
お二人ともごゆっくりー、と簡単に挨拶を済ませると小走りで図書館を後にしていくのだった。
「まるで嵐のような人でしたね」
今しがた出ていった男にレベッカはやれやれと愛想笑いしている。
それを見ながら、マリアは微笑ましいなと思うのと共に笑顔を浮かべていた。
「あ、そういえば、二階部分も見ていきますか?」
あのアームに乗ってみませんか?、とレベッカはお茶にでも誘うかのような軽い言い方で場の空気を和ませる。
「乗ってみても良いんですかっ?!」
願ってもない提案に、マリアは望んだ玩具を与えられた子供のように目を輝かせた。
「勿論です。ではこちらへどうぞ」
少女はこのエルフのメイドに促されるまま、しばし図書館を満喫するのだった。
ーーーーーー
「だーんな♪」
さてこちらは図書館の別館から戻って本館の館主の執務室。
自前の転移用魔法札を用いて、どんなに距離が離れていてもひとっ飛びだ。
長い黒髪を頭の後ろで結い上げた紫の瞳を持つエルフが、勢いよく部屋に入室したのだった。
入って早々に、ノックは?、と銀髪の執事に睨まれたエルフだったが、茶目っ気たっぷりのウインクで流す。
「奥様のことで大ニュースだよー」
もう知ってたかな、とラファエルは可愛さたっぷりに切り出した。
「マリア嬢の?」
「うんうん。だんな、知ってた?
あの娘、多分文字魔法の使い手だよーん♪」
言われて、ガルシアは盛大にむせた。何度か咳払いして気持ちを落ち着かせる。
「それは……確かなことか?」
「あら?まだ知らない情報でしたか?」
それは失礼致しました、とたいしてそうも思っていなそうなあっけらかんとした態度のラファエル。「さっき図書館でお会いしたんですけどねぇー、ちょっと変わった魔力の流れだったから見せてもらっちゃった☆」
「まさかとは思うが、彼女に“強制”はしていないよな?」
ラファエルの軽すぎるテンションを牽制する目的でガルシアは少し語気を強めた。「今の状態の彼女はナイーブなんだ」
「別に無理強いはしてないよー。なんか悩んでるなーとは思ったけどさ、あの娘が自分から率先してくれてなきゃこっちも見れてなかったし」
魔法使いの言葉を聞いてガルシアは安堵する一方で、先程あんなに震えていた少女が?、とも疑問も沸き起こる。
「旦那様、」
執務机の脇に立って会話を一通り聞いていた銀髪の執事は、悩み顔の主にそっと声をかけた。「……貴方があまり深く考えすぎずとも、もしかしたら彼女は“過去”を乗り越えることが出来るのかもしれませんね」
「……。あぁ…そういったものは外部がとやかく言う問題ではないし彼女が我らを頼ってくるまで待て、そう言いたいのだな?」
「ご明察です」
それを聞いて、ガルシアはふぅぅ、と長く息を吐いた。
「……わかった。
ーーーラファエル、報告ありがとう」
館主の礼を述べる言葉に、飄々とした態度のエルフは、どーいたしましてー、と答えた後一礼して部屋から去っていった。
不定期ですがまだまだ続きます。よろしくお願いいたします。