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三夜目

人物紹介~その3


アレクシウス.ドストエフスキー(38)

……ハープシャー侯爵家に仕える執事長。生れは北方の方なため訛りなどで苛められてきたが、先代当主に拾ってもらいその恩義から忠誠を誓っている。

先代に引き続き現当主のガルシアの専任執事。

ガルシアのことは本当の弟のように思っており、何度も縁談が失敗している当主を心配し、ガルシアが見初めたマリアでさえ最初は怪訝な目でみている。 ガルシアには、アレクと愛称で呼ばれている。

「ーーーこちらが応接間です。この屋敷の訪問者はまずこちらで対応させて頂いています」



 豪華な朝食を堪能した後、マリアは銀髪の執事に連れられて屋敷の中を一通りまわっていた。

 「えっと…私はこちらで待たされていなかったと思うのですが……」

 「……。」

 執事は何を当然のことを聞くのだという風なツンとした冷ややかな眼差しを向ける。「貴女の身分は外門で確認しています。それに……旦那様の指示ですので」

 「そうでしたか…」

 変なこと聞いてごめんなさい、と少女は狭い肩をさらに狭めて頭を垂れた。

「…あまり謝りすぎる癖は宜しくないですねぇ」

ふぅ、と執事は一つ息を吐いた。「貴女はいずれこの侯爵家の夫人となる身。些細なこと一つにすぐ謝罪をしていては御身が持ちませんよ」

まだ貴女にその自覚はないと思いますが、と最後の台詞だけは心中で述べた。

あのそのことなのですが、と男に続いて応接間を後にしたマリアは一つ質問を投げた。

「旦那様は……えっと、ガルシア様は、文字を読み書きすることしか能のない私を、どうして婚約者という立場にして下さったのでしょうか…?」

かつかつかつ、という革靴の踵が固い床を叩く音。

その後ろから数テンポ遅れて、コツコツとマリアの小さいヒールの音。

二人はしばらく沈黙を守っていた。

まるで中世の城を思わせる石造りの渡り廊下を進み、目の前に迫った樫木色の扉に執事は手をかけた。

数十秒後、マリアは目の前の光景に思わず息を呑んだ。

(……わぁぁぁ!!まるで絵本の王子様が住んでいるお屋敷の中庭のようだわっ)

「……さぁ、着きましたよ。ここは王国でも評判の中庭です」

どうぞ、と先に一歩降りた執事の差し出された手を取ってマリアも中庭へ足を踏み入れる。

真ん中に伸びる遊歩道を中心に、左右対称に綺麗に刈り揃えられた美しい庭が広がっていた。色とりどりの花畑には蝶が舞い、トマトやナス等の野菜もみすみずしく実になっている。ぱちんばちんと、枝を鋏で選定する音と、時折唄う小鳥の鳴き声だけが響く静かでのどかな場所だった。奥の方には古風な噴水とあずまやもあった。

「ーーー先ほどの質問ですが、」

執事は振り返らず歩を進めながら口を開く。「何故お嬢様を旦那様がお選びになったのかですが……。

……。

ーーーその答えは私の目線からだけでお答えすることは出来ません。

が、一つ言えるとするのならば、旦那様は、何も縁がないと思った者には求婚すらなさらないタイプです」

「……え?」

「では私からも一つ質問を」

言って、銀髪の執事は足を止めて少女へ向き直る。「お嬢様から見て、旦那様はどのようにお見えになられますか?」

「わ、私は……っ」

急いで返答を考えようとしたマリアを手で制した。

「答えは今すぐでなくて構いません。

ーーー話の腰を折って申し訳ありませんが、紹介する者がございます」

ヨハン、と執事は畑の方へ声を響かせた。

すると、はい何でございましょう、と畑の中から小柄な老人がひょっこり顔を現した。

「旦那様の婚約者としてお越し頂いたマリア.ハバロフスクお嬢様だ」

言われて、あわててマリアは深く頭を下げた。

「ほほぅ。こりゃあ可愛らしいお嬢さんだ。

ワシはヨハン。このお屋敷の庭師をやらせていだいていますよ」

その老人の喋り方は北方の訛りが強かった。

対するマリアは、よろしくお願いします、と笑顔で応対した。ふわっと可愛らしい花が開花したと思わせるようなそんな表情に、その場の雰囲気が一瞬で和やかになる。

「……。

マリア様、次の場所へご案内させて頂いてもよろしいでしょうか……?」

「あっ……!だ、大丈夫ですっ。すみませんっ、今行きます!

ーーーえっと、ヨハンさん、今度畑見せて頂いても良いでしょうか?!!」

「えぇ、もちろんですとも。これからよろしくお願いしますじゃ、奥様」

にこにこと人の好い笑みを向ける老人に会釈して、マリアは先を歩く執事の後を追った。





ーーー





「……なんだ、これは…?」

マリアたちがちょうど中庭へ到達した時、そこを見下ろせる日当たりの好い二階の執務室に、赤銅色の短髪の館主はいた。窓を背に大きな一枚木の書斎机に向かって、館主は大きなため息をついた。がしがしと頭を掻いている。相当彼を悩ませる内容がその報告書にはあるというのだろうか。「子爵家ではこのようなことは日常茶飯事だったということか?!」

早急に彼女に確認しなくては、と男は立腹している様子だ。机の上に高く積み上げられた書類の山に囲まれて、今日はいつも以上に眉間に皺が寄っているのだった。「……。金銭と引き換えに娘を売る、か…。そんな事情がまかり通るとは…うちも随分舐められたものだな」

わなわなと握った拳を震わせる館主と、外にはまだ何も知らない少女が一人いるだけだった。






ーーー





「……えっと、一つ質問しても良いですか?」

執事の後ろをついて館内を歩き回っていたマリアは、ふと芽生えた疑問をぶつけてみようと思った。

えぇどうぞ、と執事からの許しも出た。

「えっと……こちらで働かれていらっしゃる方々はどちらかというと男性の比率の方が高いのですね。ガルシア様は……失礼を承知致しますが、本当に女性があまりお好きではないのです?」

「……。」執事からの返答にはまた少し時間がかかった。「旦那様はそのお立場上、言い寄っていらっしゃる人間には数えきれないほどお会いしております。そのため女性……というよりは人間そのものに強い拒絶感を抱いています。そのような事情もあり、こちらで働くスタッフは皆忠義を重んじる同性で、かつ雇用の条件としてこの領内の者を採用しております。ーーー答えになっていますでしょうか?」

「えっと……はい。理解しました」

ありがとうございます、とマリアはぺこりと頭を下げた。

やはり侯爵の位ともなると、様々な爵位や身分の人間と関わることも多いのだろう。ハープシャーの地位は女性だけではなく勿論関係を強化したい同性の感心も引くはずだ。ユミルの言っていたことを信じるのであれば、ガルシアのもとに届いた縁談だけでも相当な数だろう。

マリアはそこまで想像して、やっぱり家とは比較にもならないかも、と内心ため息を吐いた。そしてそんなにも高名な領主から求婚されることは本来であれば飛び上がるほどの大事件であるにも関わらず、マリアにとっては本当に自分に務まるのかという心配事で脳内を圧迫させていた。

「……。お嬢様がそんなにも心配されることはありません。貴女は貴女にしか出来ない役割を全うしてください」

考え事でしばらく返事のなかったマリアをちらりと一瞥した銀髪の執事は、ここの館主や家のことはあまり深く考えすぎるなと言わんばかりに釘を指した。







応接間や厨房、中庭や客間等々だだっ広い屋敷を一通りまわったマリアが最後に辿り着いたのは、浴室だった。浴室というと一般にそれほど広くはないスペースを想像したが、その想像を遥かに越えた大浴場が彼女の目前にあった。さすが侯爵家、とマリアは黙って見惚れてしまっていた。

「あ、初めましてのお人だねぇ~。あたしはこのお屋敷のお湯番をしている、イリーナだよぉ」

可愛いこだねぇ、と妙に間延びしたゆったりした話し方を、今しがた浴室から顔を出した女性は使った。

「イリーナ、こちらは旦那様の婚約者にあたるマリア.ハバロフスクお嬢様だ。彼女を頼めるか?」

「はいはーい!このあたしにかかれば直ぐに全身ぴっかぴかに磨き抜いてあげる!」

おいでー!、とマリアはなにやら訳がわからないまま手を引かれていく。そんな彼女の背中に、

「用が済んだら先ほど案内した稽古場所へきて頂きたい」

そう告げた執事に対し、わかりました、とマリアは急いで返事を返す。

そのままずるずると浴室へと連れ込まれてしまった彼女は身につけていたドレスを光の速さで奪い取られ、気がついたら薔薇の浮かぶ広い浴槽の中にいた。

ふぅ、とマリアは一息。

今までの人生で体験したことのない広い浴槽と熱い湯。彼女の今までの人生では経験したこともない体験に、マリアは内心そわそわと気持ちが落ち着かなかった。額から玉の汗が伝って落ちる。波紋が広がる。

浴槽も床も大理石で作られているのだろうか。水垢など一つも見当たらず、それにはマリアの顔が映りこむほど美しく、芸術品を思わせる。

滑らかな肌触りの湯には薔薇がプカプカと浮かんでいた。そのうちの一つがやがてマリアの前に流れてきた。そっと手でお皿を作って掬い上げる。

彼女の体はお世辞も美しいとは呼びがたいものだった。うでや足など“見える部分”にはあかぎれや擦り傷といったものが多いが、服の下の“見え辛い部分”には青アザまみれで見るからに痛々しい。標準以下まで痩せてほっそりした白い腕や、マリアくらいの年頃の令嬢にあって当たり前の女性らしい肉付きの良い体躯はどこをどうみてもなかった。

彼女は実家でどんな体罰を受けていたのか。また、服の下の痣は子爵や子爵夫人が狙って行っていたのか。

湯番の女はそうした疑問がいくつも浮かんできていたが、マリアにはそれを感じさせまいととびきりの笑顔で接するように心がける。

「お嬢様…そのままでも十分お美しいですが、このイリーナ、誠心誠意ぴかぴかに磨き抜かせて頂きますわ!」

指通りの悪かった長い赤い髪を丁寧にほぐし何やら良い花の香りのする液体を髪に馴染ませて、湯番の女は端から見てもうきうきと弾んだ様子だ。「だって、女の子はしっかり磨いてさしあげれば綺麗にならない子なんていないのですからっ」

お湯に浸かることがこれほどまでに心を和らげる行為だったのか、とマリアはここに来たばかりでもう何度目かというほどの初体験をした。実家の家の裏手の井戸で体を拭っていた日々があまりにも一変しすぎて脳内が追い付かない。

ーーー私がこんなにも贅沢すぎる暮らしをしても良いのだろうか。

と、常にそんな暗い想いが全身を駆け抜ける。どろりとした重く苦い記憶が彼女の胃に落としこまれた。

「お湯のお加減はいかがですかぁ?」

後ろから唐突に声が飛んできた。

いや正確には唐突ではない。この女は一生懸命マリアへ語りかけてはいたが、如何せんマリアの方が心ここに非ずといった状態だったのだ。

「ぁ……。だ、大丈夫です。ありがとう、ございますっ…」

「よかった~。それにしても旦那様もなかなかすみにおけないわ~」

貴女のような可愛いこにお目にかかれるのだから、とイリーナはこれで何度目かの「可愛い」という言葉を使った。そしてその手もとを止めることなく一度マリアの髪を丁寧に湯で洗い流し二度目の洗浄にはいる。頭皮を指の腹で揉み混むように適度な力加減で丁寧に洗い上げていく。

ただただそれを享受するマリアは身も心も解されていた。「このお湯は打ち身や切り傷なんかにも良く効くの。だからお嬢様のお肌もあっという間に玉肌よ!」






ーーー





髪も真紅の輝きを取り戻し透き通るような白磁の肌に磨きあげられたマリアは、長くに湯に浸かっていたためもあってその頬が薄く桃色に染まっていた。お花のふんわりとした優しい香りを漂わせて、彼女は稽古場へ小走り気味に向かっていた。普段から着なれない青が美しいドレスの着心地は悪くはないが慣れることはまだ当分なさそうだ。

「ぁ……っ!」

急いで曲がり角を折れると、マリアは不本意にもそのさきにいた人物と接触してしまった。

ごめんなさい、とマリアはとっさに謝罪。

けれどそこにいた人物の表情はとても柔らかかった。

「あぁ、大丈夫だよ。だから頭をあげて」

頭上から降ってきた声には既視感がある。

マリアはおそるおそる顔をあげた。

「!?が、ガルシア…さまっ」

「私こそぶつかって済まなかった。けれどそのように急いでどちらへ?」

「えっと……」

マリアは少したじろいでいる。「稽古場へ向かっています。湯浴みが終わったら来てくれとアレクシウスさんから言われていまして……」

一方、先ほどから彼女から溢れる花の香りに頬が緩みそうになるガルシアは必死にそれを圧し殺していた。

「そうだったのか!では私がそちらまで付き添おう」

この屋敷は無駄に広いからね、と言ってくるりと踵を返した。

「それにしても、」

隣を歩く館主は少しどぎまぎした様子だ。

ーーー湯浴み、といっていたか。確かにイリーナに湯の準備はさせていたが、まさかここまで美しいとは。

「?……ガルシア様?

……えっと、私何か粗相をしてしまいましたか?」

言葉の出ない館主を隣から控えめに見上げるマリアにガルシアは頬に熱を帯びていく感覚を覚えた。

いや、違うんだ、ととっさに否定する。

今まで商売上の付き合い以外に女性との交流を図ってこなかったガルシアにとって、マリアという自身の“初めて”の婚約者は色々と心臓に悪い。

そして彼女は無自覚なのか意図せず動いてくる辺り、ガルシアは正式な結婚式までその身が持つだろうかと内心焦っていた。

隣で不安そうに見上げるマリアから少し視線を外し、ガルシアは一度咳払いを吐いた。

「……大丈夫だよ。さあ、行こうか」

ガルシアは少女の華奢な腰に手を回し、二人で執事の待つ稽古場へと歩きだすのだった。







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