一夜目
主人公二人の簡単な設定
①ガルシア.ルイ.ブルッケンブルク(32)
……ハープシャー侯爵家の当主。若くして先代当主だった父を病気でなくして、十年程前に爵位を継いだ。女よりも仕事重視の人間で、その地位の高さ目当ての婚約者候補は今まで数多くあったが、性格が破綻している令嬢が多かったために全て蹴っている。相手への多少の配慮から、その令嬢の次の嫁ぎ先を提案して。なので、女性不信気味。貴族社会では、「冷笑の貴公子」「男色侯爵」などと揶揄されているが、ハープシャー領民からの支持率は高い。元々このハープシャーの土地は「王国の食糧庫」と呼ばれる穀倉地帯で、そのための対策や領民への配慮まで手を回している。
②マリア.ハバロフスク(19)
……ヒンター子爵家の長女。亡き祖父と現王との取り決め(二人は陛下と重心という間柄。祖父は若い頃陛下の右腕として支えていたこともあり、陛下からその礼にと持ち掛けられた縁談だった)、という点と遠い親族だということもあって、サグラダ公爵家の次男フィリップと婚約していた。しかし、義理の妹のユミルにより寝とられ、「お前には最初から興味ない」といいきられ、あっさり七年の婚約者期間は幕を閉じるのだった。フィリップは好色で有名で婚前交渉当たり前(マリアには興味なかったため性行為は一切やってない)で、かつそんな約束知るか知るかヴォケェェ!!な頭弱い王子なこともあって、あっさり婚約解消となった。
「悪いけど、最初からあんたに興味も何もないんだ。金輪際俺の前に顔を見せないでくれ」
このたった一言で、マリアの七年の婚約期間はあっさり解消となった。
「……。そうですか。殿下のお眼鏡に叶わず申し訳ありませんでした。」
しかし対するマリアの心中は穏やかであった。元々家通しの取り決めだったこともありフィリップ殿下との交流があったわけではなかった。
ヒンター領土内の仕事にかまけ婚約者の相手をしなかったマリアにも落ち度があるのかもしれないが、おそらく両親もそれは望んではいなかったと思う。
その理由に、マリアは余所行きのドレスというものは持っていない。普段使いのものを外に出るときも併用している。水仕事や畑仕事、家畜の世話や領地に届く手紙の返事の作成等々挙げたらキリがないくらいマリアの仕事はどっさりあった。
おかげで手入れの入らない肌はぼろぼろで痛み放題な赤い髪はくすんでごわついてしまっている。手指はかさついて血が滲み、爪の間には常に土が挟まって黒ずんでいる。
異母妹のユミル可愛さに彼女を社交界で目立たせようとする両親は、マリアを仕事に従事させ、ユミルは社交界や舞踏会に通わせて格差をつけている。貴族たちの社交場と言われる王都の上級学園に通っているユミルはその自慢の金髪と女性らしい肉付きの良い体型で常に男たちから熱い視線を注がれている。
一方で、そんなマリアでも数ヶ月に一度という頻度で外に出られる機会はあった。それは王都の図書館や役所へ出向かされる時だ。領地の管理一切を任せられている彼女は領主代行といったかたちで色々働いているのだ。そしてそのときだけ湯浴みも許可される。勿論他の家族全員が使ったあとの残り湯なため、ほとんど冷めた湯ではあるのだが。
そしてその外出はマリアの唯一の癒しだった。
たった1日だけではあるが、図書館へ行き大好きな本に埋もれられる、それだけが彼女の心の平穏を保っていた。
そんな彼女だからなのか、それとも異母妹の策略によるものなのかマリアの婚約期間はあっさりと終止符を打った。
「お嬢様。大丈夫ですか?……旦那様がお嬢様にお話があるそうです」
例え婚約破棄されどもその日の仕事はお構いなしに彼女のもとへ降りかかる。一着しかない粗末なボロを纏い、黙々と炊事や掃除を使用人とともにこなすマリアのもとへ、一人のメイドが駆け寄ってきた。
使用人たちは少なからずマリアのことを見下すことはしなかった。が、見方になってくれるといった風でもなかった。一応彼女も子爵の娘ということで、一線を引いて対応している。けれども、マリアにはそんな事務的な対応でも家族と接するよりは幾ばくかの安息があった。
「ありがとう。すぐに向かうわ」
これだけ片付けてしまうわ、と手元の作業スピードを上げつつ快く返すのだった。
ーーーーー
「マリア。お前宛にハープシャー侯爵家から求婚の手紙がきた」
マリアは思いがけない天からの一撃に開いた口が塞がりそうになかった。
ハープシャー侯爵家といえば、その領地は「王国の食糧庫」と呼ばれていて特に手厚く国から待遇を受けている大貴族の家柄だ。領主は「冷笑の貴公子」「男色侯爵」などと貴族社会から揶揄されていると以前ユミルが語っていたが、そんな御仁が一介の子爵家の娘に求婚するとはどういった魂胆だろうか。
ーーー顔もみたことがないし、何故ユミルではなく私なの?
マリアは自分にあるのは文字を読み書きできることだけで他は何も令嬢らしからぬことはできないと自負している。それは決して謙遜ではなく、事実母が生きていた幼少期に母からそういった教育も多少教わった程度のことで、母亡き後は継母により令嬢としての教育は全て取り上げられてしまったからだ。
「ユミルは王家へ嫁ぐことになったから安泰だが、荷物のお前をいつまでも穀潰しとして飼い続ける余力はうちにはない。そんな穀潰しのお前をわざわざ引き取ってくれる家があってよかったな」
もう返事はしたから、明日の明朝に発て、と父はきっぱりと告げる。「お前の汚い赤毛と汚い体でせめて“奉仕”くらいは頑張ることだ」
ヒンター子爵は薄ら笑いを浮かせていた。
ユミルと違い令嬢の教育も何もないマリアなど娼婦の真似ごとでもしてさっさと婚約破棄されて路頭に迷って死んでしまえーーーそんな魂胆が透けてみえている。その証拠に、
「まあ、婚約破棄されたところでお前の帰る場所はないがな」
本心丸出しの言葉を浴びせかけてきた。
マリアはこっそり唇を噛み締める。よくもまあ実の娘にそのような台詞が吐けたものだ。
「……。わかりました、“旦那様”。荷造りを済ませて参ります」
言って、深く一礼すると、マリアは父の部屋をあとにした。
一方で、部屋を出た彼女の足取りは心なしか軽かった。
やっとこの家から離れることができる!
そう考えたら自然と口元が緩んでしまう。
いけないわ、とあわてて引き締めるもそれとは反対にその心はウキウキで小躍りしていた。
ーーー「男色侯爵」。
ハープシャーの領主は数多の女性から求められてもその要求を全て蹴っているらしい。いつぞやユミルが両親にそんな話をしていたのを聞いていたことがある。直接聞いたわけではないが、異母妹の硝子のように透き通り刺々しい声は屋敷のどこにいようと聞こえるのだ。
まあでも、そんな不快な家族とももう顔を合わせずに済むのだ。侯爵様のことははっきり言って顔も何もかも知らないが、それは今後埋め合わせていけば良い。令嬢としての嗜みも教育もまともに受けていない身ではあるが、せめて彼を失望させないように振る舞わなくては。
そこまで考えてマリアは不安よりもこの先の未来に淡い期待さえ抱いていた。大丈夫、今より酷い状況にはならないわ。何故だかそのときの彼女にはそんな確信が生まれていた。
ーーーーー
翌日。
湯浴みなど許可されるはずもないので、朝早く目が覚めたマリアは、屋敷の裏にある井戸から水を汲み上げ手早く濡らしたタオルで体を拭っていた。そしてたった一着しかない薄い黄色の古いドレスに身を包む。ぼさぼさの赤い髪は手櫛で伸ばし最低限の身だしなみを整える。小さな肩掛け鞄に隠し通してきた宝物の本を数冊入れたら、彼女の支度は完了した。
娘が嫁ぎにいく日だというのに家族の誰も見送りはない。
マリアは早朝から庭で作業をしていた庭師や数人の使用人へ小さく頭を下げると、正門で待っていた馬車へと乗り込むのだった。
からからと車輪の回る音、馬の蹄鉄の音。そして時折馬に鞭を振るう音が響くだけで、あとはとても静かに時が流れていった。
マリアはぼおっと窓の外の田園風景を眺めている。その膝の上で大切な宝物の入った鞄をしっかりと守っている。
緊張の糸をぴんと張りつめているはずなのに、だんだんと瞼が重くなってきた。
マリアの実家であるヒンター子爵領は格段潤っているわけでもスラムが出来るほど貧しくもない。良くも悪くも平凡なのである。領主は領民の暮らしよりも貴族どうしの付き合いと、次女を玉の輿に乗せることだけに注力している。だから自領内にどれほどの外国人や異種族民が年間で入ってきているかなど微塵も興味も感心もない。地位も財も何もない外国人の相手をいつも管理調整を行ってきたのは、他でもないマリアなのだ。
けれどもそうした経験は全て悪いことではなかったとマリアはそう信じている。元々幼少から数多の外国語に明るかったこともあり、彼女が彼らと打ち解けるためにそれほど多くの時間はかからなかった。言葉を通して文化や生活の習性を学ぶことが出来るのは、本の知識だけでは少し心許ない。それにいくら知識を蓄えてもそれを使いこなし自分のものとするためには、やはり外国人との関わりはなくてはならないものなのだ。
さて話は変わるが、ハープシャー侯爵家とは王国の西端の広大な領土を有していて、その領内の生産物で国内の食糧事情を支えていることから「王国の食糧庫」と呼ばれ、国からの恩寵を賜っている。王国の北端に位置するヒンター子爵家からは一度王都を経由しないとならないため、気候やその他の条件に恵まれたとしても最低半日は馬車の中で過ごさなければならない。
早朝のまだ辺りが薄らと明るくなってきた時間帯に実家を出たマリアは、何度も態勢を変えたり適度に手足を伸ばしたりしながら馬車の中で過ごすうちに、いよいよかの邸宅へ到着したのは昼御飯の時間を有に過ぎた頃だった。
ーーーーー
広い屋敷に、左右対称に整えられた屋敷よりも広大な面積の庭園。屋敷は白を基調とした簡素だが荘厳な造りで、たった今馬車を降りたマリアはただただなにも言えず見惚れていた。
(うちとは大違いだわ……。そりゃあ、“旦那様”が嫁がせようとするわけだわ)
馬車の音が遠ざかるのを待って、マリアは大きな門扉の側に立つ守衛に声をかけた。
「ハープシャー卿から求婚の手紙をお受けいたしまして、ヒンター子爵領内から参りました。マリア.ハバロフスクと申します」
言って、ハープシャーの押印が入った手紙を取り出して渡す。
対する守衛二人はみすぼらしい格好のマリアとその手紙とを交互に見やり、やがて門扉脇の金の紐を二回引っ張った。
数十分、その場で待たせられる。
内心ぶるぶる震えていたマリアを他所に、鉄と地面を擦る音をさせて扉が開かれた。
「ハバロフスクお嬢様。大変お待たせして申し訳ありませんでした。私は旦那様にお仕えしているレベッカ.フィロソフィと申します」
ご案内させていただきます、と綺麗な茜色の髪を持つメイド服の少女が出迎える。
(……あ、)
マリアは彼女のツンと尖った長耳を見るなり、目を輝かせた。(エルフ……よね?!本のなかでしか見たことないけれど……やっぱり綺麗だわ)
「少し歩きますが、お疲れではありませんか?」
「大丈夫です」
お気遣い感謝します、とマリアも深く頭を下げる。
「お嬢様、凄く“お綺麗”な言葉遣いをなさるのですね。旦那様が見初めるのも分かる気がします。けれど、一介のメイド相手に敬語はお控えくださいませ」
「……。そ、そんな……。私のような者を迎えて下さるお家のかたがたに粗相があってはならないのでっ。
あと……えっと…失礼を承知でお尋ねします。旦那様は何故妹ではなく私になされたのでしょうか?私の妹は社交界でも評判だと聞いていましたのに」
マリアは歩きながら思った質問をぶつけてみた。
対するレベッカは申し訳なさそうな微笑を浮かせた。
「そんな……っ。ご謙遜なさらないで下さい!お嬢様は旦那様が直々に気に入られているのですからっ。何故…といわれましても。私どもにも一切事情はお話して下さっていないのですよ…」
歩くこと数十分。大きな樫木色の扉の前に二人は立った。ゆっくりと内側に開き、二人を迎え入れる。ふかふかの赤い絨毯が真っ直ぐに伸び、床は大理石が輝いている。床も壁もぴかぴかに磨かれていて顔が映りこむくらい反射している。
「旦那様のお部屋は二階にありますよ」
辺りをキョロキョロと見回しながら、マリアは彼女の後に続いて二階へ延びる階段へ足を乗せる。コツコツと靴音が反響する。一歩また一歩とこの邸宅の主の部屋へ近づいていく。絨毯に足をのせるとまるで沈み混むようなふかふかの重厚感。
階段を上がり左手に折れて二階の一番奥の部屋の前で、二人は立ち止まる。
マリアは生唾を飲む。
彼女の雪のように白い肌を、一筋の汗が伝う。
「旦那様。ヒンター子爵家の、マリア.ハバロフスクお嬢様をお連れいたしました」
レベッカの凛とした声。
通せ、と部屋の主は中から入室を許可した。
失礼いたします、とレベッカはその場で深く頭を下げると、扉に手をかけた。
「……!」
ゆっくりと開かれた扉の先には書斎机に向かう一人の紳士が見受けられた。その脇には銀の髪の執事が控えている。
この館の主はマリアの姿を見るなり立ち上がって歩み寄ってきた。
「やあ……遠路はるばるよく来てくれた…!久しぶりだな、マリア嬢。私のことは覚えているかい?」
なんとこの紳士はマリアとは初対面ではないという。年は彼女より10数個離れているように感じられる。短く刈り上げられた赤銅色の髪、深海を思わせるコバルトブルーの瞳。耳の下から顎にかけて綺麗に整えられたお髭。笑うと口元に皺が刻まれるが、なかなかの美形であった。
対して、マリアの方もこの御仁には既視感を感じていた。
「も、もしかして……大変失礼ですが、せ、先日……王都の図書館でお会い致したお方でしょうか?」
マリアの既視感は男の肯定により確信へ変わる。
「あぁ…よかった。あの時はこちらの自己紹介が出来なかったからこのタイミングで言わせてほしい。
ーーー私はガルシア。ガルシア.ルイ.ブルッケンブルク。このハープシャーの領主を勤めている」
男はその優しげで真っ青な瞳で真っ直ぐマリアを見つめている。「マリア嬢、本日貴殿をここに招いたのは他でもない……。ーーー私の婚約を受けては頂けないだろうか?」
マリアは心臓が張り裂けそうな程早い鼓動を打っているのを感じた。
それほどまでにこの雲の上の御仁からの告白は青天の霹靂だった。
呼吸するのも忘れて唇を震わせている彼女に、
「……とは言っても、もちろん貴殿も直ぐには答えを出せないということも承知しているつもりだ。ここに滞在している間にゆっくり答えを出してくれて構わない。
もうここは君の家でもあるのだから、何かあれば何でも言って欲しい」
良いだろうか、と御仁はそっと尋ねた。
「わ、わわ私……こちらに滞在しても良いのでしょうか…っ?!」
「あぁ、もちろん。私は君を“婚約者”としてたった今から迎え入れるよ」
「……つっ?!!」
マリアはけれど嬉しさのなかに苦しさがあるのもわかっていた。顔中真っ赤にしながらも、伝えたいことを絞り出す。「……旦那様にご迷惑をおかけしないように致しますっ」
「……そんなに気負わないでくれ。
それと、今後マリア嬢の専属のメイドとしてレベッカを付ける。それから、各所との連絡役にここにいるアレクシウスも付けるから、何か欲しいものがあったら彼に伝えて欲しい」
アレク頼むぞ、と御仁は側に控えていた銀髪の執事に目線を送る。
一方の執事はちらっとマリアを一瞥だけすると、深く頭を下げた。
「今日は長旅で疲れただろう。部屋を整えさせてあるから、休むといい」
明日からよろしくな、と館の主はふわりと包み込むような笑顔をマリアに向けた。
「……ふ、不束ものですが、よろしくお願いいたしますっ」
対するマリアはあわてて頭を下げるのだった。
それからまだ何言か会話を交わし、ガルシアが呼んだレベッカにマリアは部屋へ案内されていくのだった。
ーーーーー
「こちらがマリア様のお部屋です」
レベッカによって通された部屋はまるで童話のお姫様が住む部屋のようだった。天蓋付きのベッド、淡い光を放つシャンデリア、可愛らしいデザインの一枚木で造られた書き物机と、それに付随した椅子。部屋の中心には、可愛い一本脚の硝子テーブルとゆったりとした四人くらい座れそうな革張りのソファ。一歩足を踏み入れれば、靴を履いていても分かるくらいふっかふかのフローリングが広がっている。
「こ、こんな…素敵なお部屋に住まわせて頂いても良いのですか……?」
「はい!女性に求婚なんてなされたことのない旦那様の、“初めての”婚約者様のお部屋ですもの!!しっかり整えさせて頂きました。もし何か御入り用のもの等ありましたら、ぜひお声がけください!」
「あ、ありがとうございますっ」
この可愛らしいエルフのメイドに気圧されたのと思った以上の豪華な部屋に圧倒されて、マリアはお礼を述べるだけで精一杯だった。
それを察したのかレベッカは、本日は本当にお疲れ様でした、ごゆっくりお休み下さい、と一言そう付け加えてお辞儀をすると、笑顔を向けたまま退室していくのだった。
ふぅー……。
誰もいなくなった部屋のなかで、マリアはそっと一息ついた。ふらふらとした足取りでソファまで進む。
あまり音をたてないよう気を配ってテーブルに鞄から取り出した数冊の本を置いた。そして自身はソファへ倒れこむ。
柔らかい……。
実家では部屋の代わりに納屋をあてがわれていたため、このような“人間らしい”扱いはとんと久しぶりだ。藁の香りも馬糞の臭いもしない。かわりにほのかな花の香りが鼻をくすぐる。
私ここで上手くやっていけるのかしら……。
そこまで考えると次第に目蓋が重くなってきた。ベッドで眠らないときっとはしたないと窘められるだろう。
しかし、頭ではそう判断しても体は断固として言うことを聞かず、ソファから動こうとしない。
と、そんな頭と体の攻防も虚しく、マリアの意識は深く深く夢の中へと落ちていくのだった。
ーーーーー
さて、マリアが眠りに落ちてからまだ間もないころ、領主の書斎に西日が射し込んでいる時間帯に、書類に向かうガルシアはふと目線を上げた。書斎机の脇で姿勢を崩さない銀髪の執事の姿が目に入る。執事の手にも束になった書類があった。
「なあ、アレク」
ガルシアの顔には疲れの色が窺える。「こんな歳のはなれたおっさんからの求婚は、マリア嬢は本当は嫌なんじゃないだろうか……?ただ俺の立場に気を遣って断りづらいだけなんじゃないか…」
「歳……年齢だけで判断することは尚早かと。これからじっくり仲を深めていけばよろしいのでは」
「……。そういえば彼女は“例の子爵家”の産まれだったな?可能な限り調べて欲しい」
「畏まりました」
「……今から、彼女に会いに行っても…変じゃないよな?」
「……。旦那様のなさりたいように致せばよろしいのでは。彼女は旦那様の“初めて”の婚約者なのですから」
「そういうと何か語弊があるが……。では少し席を外すか」
その書類は適当に置いておいてくれ後で目を通す、と一言だけ告げるとガルシアはさっと席を立った。「じゃあ、行ってくるよ」
「……。えぇ、行ってらっしゃいませ」
ガルシアは内心逸る気持ちを抑えつつ、マリアの部屋へ足を運んだ。
ーーーーーーーーーー
「レベッカ。入っても良いかな?」
「だ、旦那様っ?!」
館主の姿をみたレベッカに男は微笑みを向ける。 「今しがたマリア様はお休みになられまして……」
入室は可能ですが、とレベッカの語尾はだんだんと尻窄みになっていく。
「ああぁ……そうだったのか…。少し顔を見たいなと思ったのだけど」
まだ完全に閉じられていなかった扉の隙間から中を伺い知ることができた。ソファーに沈み混みぐったりと力尽きている少女の姿があった。
「……。彼女をベッドまで連れていっても良いかな?」
「そ、そんな?!!旦那様のお手を煩わせるわけには……っっ」
今アレクシウスさんを呼ぼうとっ、とレベッカは急いで言葉を発した。
けれど対するガルシアは終始落ち着いた様子で、
「ああ、それは手間にはならないよ。君ももう休みなさい」
疲れただろう、と館主は最後にそう付け加えた。そしてはははと笑い声を立てると数回のノックの後少女の部屋へ入室していった。
さて、一回りも年の離れた婚約者の部屋を訪れたガルシアは、ソファーでぐっすり眠っているお姫様から目を離せずにいた。
(本当に…俺には勿体無いな。まだ年も若くてこれだけの美人であれば今後いくらでも嫁の貰い手はあるだろうに…。それを俺があの時の一時の感情で奪ってしまったのだから)
さらり、と少女の頬にかかる髪を指で掬い上げる。まるで宝石を思わせる美しい深紅の髪。雪のように真っ白な肌。人形を思わせる長い睫毛。林檎のような赤く小さな唇。それからは静かな寝息が漏れている。
どれも宝石のように美しいが、ガルシアは少女の柔肌に残る傷痕や手のあかぎれも見逃さなかった。
(いや……これだけ美しければ夜会や社交界でも噂で聞かないわけはない。あの場の空気は好きではないが、良い商談場には違いないしな。
……それにしてもこの体のぼろぼろ感。
子爵家、一度きちんと調べる必要があるな)
次の瞬間、童話のお姫様を思わせる美しい少女に見惚れているガルシアは、少女が身を捩る動作で一気に現実へ引き戻された。
(だ、駄目だ!女性の、しかもうら若い少女の寝顔なんてまじまじと見てしまうなんて……モラル的にアウトだろうが!)
気を取り直し、ガルシアは少女の肩と膝のうらに手を差し入れて少女を懇切丁寧にベッドまで運ぶ。その間幸か不幸か少女が目を覚ますことはなかった。引き続き起こさないよう細心の注意を払って掛け布団をそっとかけていく。
(……おやすみ)
良い夢を。
声には出さず、心中だけで告げたガルシアは額にぎりぎり触れない程度の軽いキスを落とす。
再び踵を返すと、硝子のテーブルの角に揃えられた分厚い書物が目に留まる。そしてその本の表紙とタイトルに覚えがあったようで、
(……確か同じような図書がうちの図書室にもあったな。途中の巻が抜けていた気がしたが……)
と、そこまで思い出したが今は詮索する時じゃないと結論付けると、部屋の入り口まで進んでいく。
そうして、物音を立てないよう静かに部屋をあとにするのだった。