とある平凡な子爵の日常
社交シーズン真っ只中のしがない子爵の僕には胃が痛くなる日々が続いている。爵位というのは足掻いてどうにかなるものではない。かと言って無視できる程の度胸もない僕は、今日も飲めない酒を飲みながら頭の悪い自慢話に付き合う事になるのだろう。
ようやく昨日の二日酔いが良くなってきたのに、またこれからあの液体を体に入れなければならないとは、贅沢な悩みなのかもしれないが。
気乗りがしないが出かける準備をする。それほど多くはない服から選ぶの楽な作業だ。こんな時は男で良かったと思う。あの鉛のような布の塊を拷問かと思うほど締め上げた体に纏うのは、正直狂気の沙汰だ。しかも毎回違うドレスを着るとは不経済極まりないと思う。
手早く身なりを整え姿見で確認してから、手袋とハットを持ってエントランスに向かう。
昨日は何とかすり抜けたが、今日は難しいだろう。しかし予想に反し、姿が見えない。安堵とも寂しさともつかぬ気持ちを抱えた瞬間、捕らわれた事に気がついた。
「…ベティ…。」
「いーやー!おとーたま、行っちゃやーの!」
足にしがみつくのは三つになる愛娘だ。愛くるしい大きな瞳は僕と同じ色だ。誰がなんと言おうが世界一可愛い。
「ベティ!離れなさい!」
そう言って近づいてきたのは、世界一愛おしい最愛の妻だ。怒った顔も最強に可愛い。
「お父様はお仕事なのよ?いい子だから離れなさい!」
「やーの!おとーたま一緒いるのー!」
あぁ、なんて幸せな時間なんだ。こんな可愛い娘と愛しい妻を置いて気乗りしない夜会に行かねばならぬとは一体どんな拷問なんだ。いっそ今すぐ高熱で倒れられないだろうか。
滲む涙を堪え唇を噛んだ僕に目もくれず、愛しい妻は愛娘に淡々と告げる。
「ベティ?お父様はお仕事なの!しがない子爵なんだから、こういう所で顔繋ぎしないといけないのよ?」
「…しがない?」
「そう!お父様は要領は良くないけど、とにかく人柄は良いから、こういう時に売り込みしないと。」
「…うりこみ?」
「ベティだって毎日おいしいご飯とお菓子が食べたいでしょ?そのためにはお父様が頑張らなくちゃいけないのよ。」
「お菓子食べる!」
「いい子ね。それにお父様は昨日も居なかったじゃないの。覚えてるでしょ?」
「うん!お菓子食べる!」
「お父様がいなくても大丈夫だったでしょ?いつだって夜ご本を読むのも、おやすみのご挨拶するのもお母様じゃないの。」
「うん!いなくても大丈夫!!お菓子食べるー!」
足から離れた愛娘は食堂へと駆けていく。振り向きもしない。
「じゃあ、行ってらっしゃい。」
分かっている。妻は僕の出発を遅らせないように気を使ってくれたのだ。悪気なんてない。虚偽もない。
さっきとは違う涙が滲むのは、僕の気のせいだ。でも何故だろう。HPが枯渇寸前になった気がする。ついでに胸も痛い。
「…行ってきます…。」
身体中が重い。疲れが三体くらい肩車している気分でノロノロと玄関に向かう。早く帰ろうかと思ったが、別に遅くても大丈夫そうだ。うん、僕は僕のお仕事を頑張る。
そんな僕の袖口を妻が引っ張った。何か用かと思う間もなくそのまま腕を引かれた。
「寂しいのはベティだけじゃないわ。…早く帰ってきてね。」
耳朶を擽る囁きの後、頬にちゅっと唇が寄せられる。離れていく彼女の頬は赤く、恨めしげに向けられた上目遣いの瞳は潤んでいる。
そのまま小走りに去っていこうとする背中を捕まえ後ろから抱きしめる。背の低い彼女はすっぽりと腕に納まる。唇を奪おうとするが頬を押されて出来ない。そんなあまのじゃくな妻も大好きだ。
仕方なく額と頬に触れるだけのキスを落とし、そのまま押し倒しそうになる自分に何とか打ち勝って拘束を解く。
「今日は早く帰るよ。」
そう言い残して玄関を出る。おかしい、世界は薔薇色だっただろうか?今なら空も飛べそうだ。
帰宅し愛娘を高い高いするのも、早すぎる帰宅に最愛の妻が嬉しそうに怒るのも、それからそう遅くない時間なりそうだ。