その公爵令嬢、婚約破棄の場で自作の恋愛小説をバラ撒いてしまう
「デアトラ、君を呼んだ理由を改めて言おう」
多くの子息令嬢が集う王国の貴族学院。
その中の、日差しが差し込む応接室で王太子、ウィリアスの声が響く。
黒髪美青年な彼の姿は、まさに知的でクールなもの。
周りには複数人の従者が見守っており、堅苦しい雰囲気を放っていた。
そして対面するのは、彼の婚約者であり公爵令嬢のデアトラ・メイザリウス。
唐突に呼び出された彼女は、困惑した感情を押し留めるのに精一杯だった。
「ここにいるエリザ嬢が、君に嫌がらせを受けていると、僕に苦言を呈してきた」
「嫌がらせですか……?」
「そう。彼女の身分……男爵という立場について、差別的な発言をされたと聞かされた」
ウィリアスが軽く手を上げる。
すると従者に連れられてやって来たのは、男爵令嬢のエリザ。
どこか小動物を思わせる彼女は、必死な表情でデアトラに向かって声を荒げた。
「ローズベルは男爵家! 公爵家の方からすれば、身分が低いのは事実です! ですが、それを侮蔑するような発言は、あんまりだと思います!」
やっとの思い、という様子が伝わってくる。
ウィリアスに取り入りたいだとか、悲劇のヒロインを演じているだとか、そういう訳ではない。
本気でエリザは、デアトラに対して諫言をしにきたようだ。
声だけでなく身体も震えており、相当の覚悟を持ってこの場に来たことがわかる。
(全く身に覚えがありませんわ……)
しかし、デアトラの思考も困惑一辺倒。
今までエリザと話をすることは稀であったし、他貴族への侮蔑などした覚えもない。
何か勘違いをしていないか、というのが彼女の本音だった。
するとエリザの様子を見たウィリアスが、側近の従者に声を掛ける。
「どうやら気分が優れないようだ。支えてあげてくれ」
「仰せのままに。さぁ、エリザ様。こちらの席へ」
従者が傍の椅子に座らせるよう誘導する。
ウィリアスからエリザに近づくことはなかったが、その態度はいつもより余所余所しい。
以前から婚約者として共に在り続けたデアトラには、彼の変化がすぐわかった。
だからこそ、ある一つの予感を抱かせた。
(こ、この流れはまさか……婚約破棄ですの!?)
彼女の脳内に雷が落ちる。
同時に、以前読んだ恋愛小説が思い浮かんだ。
嫌がらせを行った悪役令嬢が、ヒロインたちによって糾弾され破滅する話。
これはまさに、その展開と同じではないか。
(ウィリアス様に限って、恋愛小説終盤のような展開に!? い、いけませんわ! この婚約は王家とメイザリウス家の了承の上で結ばれたもの! 破棄なんてことが起きれば、一大事に……!)
ウィリアスとデアトラの婚約は、彼女達の意志に関係なく決められていたもの。
王家と公爵家の意向が汲まれている。
それが破棄されるとなれば、国中を揺るがす大事件になってしまう。
小説の展開と勝手に結び付けたデアトラは、公爵令嬢としての振る舞いを保ちつつ、混乱する思考を巡らせる。
そのせいか、周囲の声が頭に入っていない。
彼女はせっかちな性格だった。
「エリザ嬢の話だけを信じるのは早計だろう。君達を呼んだのは、双方に誤解がなかったかを確かめるためだ」
(ウィリアス様との、こここ婚約破棄……!? とにかく弁明を……!)
「デアトラ。今のエリザ嬢の話を聞いて、君の意見を聞かせてもら……」
ウィリアスが冷静沈着に事を進めようとした瞬間だった。
バサッ、と何かが舞い散る。
彼だけでなくエリザも、周囲の従者たちも視線を上に向けた。
散らばったのは、何枚もの紙の一面。
表裏共に、多くの文字が書かれているのがわかる。
そして筆跡はデアトラ自身。
ハラハラと舞い落ちる紙面を前に、当の彼女は愕然としていた。
「こ、これは?」
(やってしまいましたわーーーッ!?)
ウィリアスの戸惑う声と共に、再びデアトラの脳内に雷が落ちる。
何を隠そう、この紙束は彼女が書き綴った恋愛小説。
婚約者である彼との恋模様を具現化した禁書なのだ。
どうやら手が滑って、扇を取り出す弾みに引っ掛かったらしい。
しかもタイミング悪く、繋いでいた冊子の紐が切れてしまうという始末。
そして何を隠そう、デアトラはウィリアスにベタ惚れだった。
昔からお転婆だった彼女に対して、彼は呆れもせずに傍にいてくれた。
微笑ましそうに笑みを浮かべつつ、危ないと思えば真剣な表情で手を引いてくれる。
家同士の婚約ではあるが、時には優しくそして厳しくしてくれる彼に、デアトラは幼い頃から好意を抱いていた。
しかし最近では、互いの身分もあって余所余所しくなるばかり。
周囲の目もあり、以前のように手を繋ぐことすらままならない。
だからこそ彼女は、日頃の思いを手帳にしたためていた訳だ。
「君の手記かい……?」
「お、おほほほ。すこ~しだけ、慌ててしまいましたわ。お待ちください、今すぐ拾いますから……」
そんな溺愛小説が今、辺りに散乱している。
デアトラは乾いた笑いで誤魔化していたが、冷や汗は止まらなかった。
ウィリアスに見られでもしたら、確実に終わる。
婚約破棄どころの話ではなくなってしまう。
手早く、そして迅速に処理しなくては。
動揺を悟られないように、彼女は散乱した小説を拾い上げさせようと、自身の従者に目で訴える。
だが、そこへ思わぬ声が響いた。
「思い出しました! デアトラ様は、私への悪口を手帳にしたためていると聞きました! きっと、今までのことも書いてあるはずです!」
(何を言っていますの、この子はーーーッ!?)
何処からそんな話を聞いてきたのか。
小動物を思わせる男爵令嬢は今、牙を向いていた。
無論、エリザへの悪口など一言も書かれていない。
あるのは恋に恋する言葉のみ。
しかしその発言は事態を動かすには十分過ぎた。
「デアトラに限ってそんなことは……。しかし真偽を確かめなければ、客観的な判断もできない、か」
「う、ウィリアス様……?」
「差し出がましい話かもしれない。良ければデアトラ、その手記を見せてはくれないか?」
救いはなかった。
ウィリアスが最後の退路を塞いでしまう。
彼は穏便に互いの誤解を解こうとしているのだが、今だけは逆効果だった。
本当に見せるんですかという視線を送ってくる従者から、デアトラは集められた小説を手渡される。
受け取った彼女の手は微かに震えた。
(コレを見せろと? ウィリアス様との愛を紡いだ、この小説を!?)
断れば余計に怪しまれる。
身の潔白を証明するには、今持っているソレを手渡す以外にない。
どちらに進んでも茨の道だ。
混乱の果てにデアトラは笑った。
嘲笑でも侮蔑でもない。
これは終わったわ、という諦観の笑みだった。
「ふふっ」
「?」
「良いでしょう。それで疑いが晴れるのなら、喜んでお見せいたしますわ。ただし……」
せめてもの足掻きに、デアトラは持っていた扇を開き、口元を隠した。
「死人が出ますわよ?」
「ひっ……!」
主に私が、とは言えないデアトラ。
そんな思いを余所に、エリザが小さな悲鳴を上げた。
圧と勘違いしたのだろう。
ざわっ、と周りも総毛立つ。
あそこに書かれているのは呪詛の類か、と囁く声が出始める。
「皆、落ち着け。僕はデアトラを信じたい」
「ウィリアス様、危険です!」
「彼女達をここへ呼んだのは僕だ! どのような結末を迎えようとも、最後まで見届ける責任がある!」
残念ながら今に限って、その責任はいらなかった。
しかし場を制するウィリアスの姿は、周囲に安堵をもたらす。
「さ、さすが殿下です!」
「どんな事態にも動じず、そして導く……! 王太子の座は揺るぎませんね……!」
「我々はウィリアス殿下の慧眼を信じます!」
ウィリアスは真摯という言葉をそのままに体現していた。
きっとエリザの苦言も、何かの間違いだと思っているのだろう。
それでも万が一の可能性も考え、デアトラに歩み寄る。
勿論その紙束に何が書かれているのか、彼は知る由もない。
「大丈夫だ。何が起きようとも、君の安全はこのウィリアス・キングスレイが保障する」
「ほ、ほほほ。それは良かったですわ。では、存分に守って頂きますわね……?」
「あぁ、任せてくれ!」
乾いた笑みを浮かべるデアトラの真意に気付かず、彼は強く頷く。
その眩しさが、更に彼女の羞恥心を掻き立てた。
これは、終わる。
お転婆だった自分を隠すために、公爵令嬢として正しく在り続けた姿が終わってしまう。
とは言え、抗うこともできない。
プルプルと震えつつ、デアトラはパンドラの箱を明け渡した。
そしてソレを受け取ったウィリアスの決意は固い。
どれだけの呪詛が書かれていようとも、受け入れようとする包容力に満ち溢れていた。
状況が違っていれば、どれだけ頼もしかったか。
だが悲しいことに、彼に待っているのは呪いではない。
始めに目に飛び込んできたのは、次の一文だった。
『私とウィリアス様が紡ぐ、愛の輪舞曲』
「ん……?」
これはまだ序曲。
フリガナまで振られた丁寧な題名に後押しされて、間奏曲が奏でられる。
『私はメイザリウス家の長女。ウィリアス様との婚約も、生まれた時から決められていたものだった。愛情では結ばれない、王家と公爵家が交わした婚約。けれどウィリアス様は私に真っ直ぐな愛を向けてきて――?』
デアトラは愛に飢えていた。
お転婆な言動を抑えて公爵令嬢として正しく努めていた彼女が得たかったのは、ウィリアスからの溺愛。
言い換えれば、白馬の王子様展開だった。
これらは全て、彼との距離を感じていたからこそ溢れ出た産物でもある。
『もしかして、デアトラは僕の愛情が偽物だと思っているのかい?』
『そ、そんなことは思っていませんわ! けれど、これは家同士の取り決めで……!』
『確かに、始めは親同士の決まりだった。だけど幼い頃から君を見ていく内に、段々と惹かれていったんだ。公爵令嬢ではない、君自身にね。だから僕は君を愛したいし、たくさん甘やかしてあげたい』
小説のウィリアスは真っすぐに愛を囁いていた。
どんな時にも駆け付け、あらゆる危険を排除する。
これが架空の人物なら言い訳もできたが、デアトラはこれを読み返してホクホクするのが日課だったため裏目に出た。
加えて、当時の彼女は筆が乗ってしまったらしい。
『その美しい瞳が、見惚れてしまいそうな笑顔が、私を惑わせる』
以降、描かれるのはウィリアスへの恋文。
その辺りから彼もおかしいと思ったに違いない。
しかしこの中に、エリザに関連する文章があるかもしれない。
途中で手を止めることはできなかった。
『どうして、僕に本心を見せてくれないんだい?』
『わ、私はメイザリウス家の長女……はしたない真似なんて……』
『愛を伝え合うことが、はしたないことなのか?』
『う……』
『それに君は公爵家の人間である以前に、僕の婚約者。そしてここにいるのは、僕達二人だけだ』
『で、ですが……そんな、恥ずかしい……』
『ふふ。そうやって気を引きたいんだな』
遂に小説のウィリアスは、ゆっくりと彼女を抱き寄せて口付けをする。
彼はそこで、知らない自分を知った。
『君は悪い子だ』
終曲である。
そっと静かに紙束は閉じられる。
この時点でウィリアスは、理解を手放してしまったのか。
あるいは羞恥心が勝ったのか。
彫刻のように端正だった表情は、徐々に赤く染まっていた。
「ウィリアス様? 何故、顔を赤くして……?」
「い、いや……これは、その……」
従者に指摘されたウィリアスは、戸惑いながらも口ごもる。
まさか自分の婚約者が、自分との恋愛小説を何十何百枚と書き綴っていたとは思わなかっただろう。
周囲は彼の反応に疑問を抱いていたが、デアトラだけは分かっていた。
読まれた。
読まれてしまった、と。
ハッとして彼が顔を上げると、既に彼女は持っていた扇で必死に顔を隠していた。
顔だけでなく、耳まで真っ赤であった。
「も、もう……」
「!?」
「もう、お嫁に行けませんわーーーッ!」
「で、デアトラ!?」
こんな空気に堪えられる訳もない。
呆気に取られたエリザだけでなく、焦ったウィリアスの顔すら見られない。
止める間もなく彼女は背を向けて走り出し、扉を開け放った。
(あんな小説、書くんじゃなかったわ! 私のバカバカバカーーーッ!)
後悔先に立たず。
公爵令嬢としての振る舞いは、溢れんばかりの羞恥心によって吹き飛んだ。
通り掛かった令嬢たちが何事かと驚く中、彼女は半泣きになりながら学院を飛び出すのだった。
●
後を追いかけてきた従者と共に、デアトラはメイザリウス家に帰郷した。
予定にはない突発的な行動である。
学院から帰ってきた娘を見て、両親はとんでもないことが起きたのではと心配する。
しかし彼女が告げたのは、自作の恋愛小説がウィリアスに読まれてしまったというもの。
婚約破棄だの、男爵令嬢へのイジメだの、他にも伝えるべきことはあったが、恥ずかしさのあまり完全に抜け落ちていた。
そのため公爵家として腕を振るってきた両親も、どう慰めるべきか迷うばかりだった。
「そんな時は酒を飲んで忘れるべきだ! さぁ、今からワインを開けよう!」
「あなたっ!!」
かけるべき言葉が見つからず、焦ってワインを持ち出そうとする父に母が激怒。
メイザリウス家は混沌としてしまう。
結局、デアトラは自室のベッドで顔を枕に埋め、足をバタバタさせるだけだった。
これから一体、どうすれば良いのだろう。
どんな顔をしてウィリアスに会えばいいのか。
そんな考えがグルグルと彼女の脳裏を駆け巡る。
しかも例の小説は、未だに彼の手に残ったままである。
焦るあまり取るべき選択を間違えるのは、デアトラの昔からのジンクスだった。
「恥ずかしさのあまり、ウィリアス様から逃げ出すなんて……。きっと婚約破棄は確実……お父さまやお母さまに、なんて説明をすれば……」
自分の無実を証明するどころか、その場から逃げ出してしまった。
とてもじゃないが、公爵令嬢としてあるべき姿ではない。
きっとウィリアスも幻滅したに違いない。
そんな風に、彼女はどんどん悪い方向へ考えてしまう。
しかしデアトラがメイザリウス家に戻って来てから半日も経たない内に、転機が訪れる。
「お、お嬢様! ウィリアス殿下がお出でです!」
扉の向こうで慌てた従者の声が聞こえ、思わず彼女は枕を抱えて飛び起きた。
そしてまさか、とも思った。
王族が学院を離れるなんて、簡単にできることじゃない。
相応の理由がない限り、王家から許可が下りないのだ。
だというのに、扉の向こうから彼の神妙な声が聞こえてくる。
「デアトラ、君はそのままでいい」
「ウィリアス様……?」
「……どうしても謝罪がしたくて、皆に無理を言ってここまで来た。デアトラ、本当にすまなかった。君の安全を保障すると言っておきながら、君を辱めてしまうなんて……僕はあまりに愚かだった」
ウィリアスが部屋に入ってくることはない。
姿は見えないが、扉の前で申し訳なさそうに頭を下げているのがわかった。
デアトラも彼が謝る必要がないことはわかっている。
全ては小説をバラ撒いてしまった自分のせいだ。
寧ろわざわざ此処までやって来たことに感謝すべきなのだ。
そう思い、彼女は扉の前までゆっくりと歩み寄った。
「そんなことは……。元はと言えば、私があんなモノを書いていなければ……」
「いいや、それは違う!」
するとウィリアスは励ますように否定した。
「デアトラの思いは確かに伝わった!」
「うぅ……」
「あっ!? す、すまない! そうではなく! 僕が言いたかったのは、その……!」
再びデアトラが枕に顔を埋めると、焦ったウィリアスの声が聞こえてくる。
どうにも上手く噛み合わない。
昔は手を繋ぎながら遊んでいた仲なのに、いつの間に変わってしまったのか。
むず痒いような、居た堪れないような、そんな空気。
彼女が今まで抱いていた距離感が、ここにあった。
すると僅かな間の後、ウィリアスが切り出す。
「……公爵に君の小説と、僕の手記を渡しておいた」
「お父さまに、ウィリアス様の手記を……?」
「実はデアトラと同じように、僕も書いていたんだ。今まで封じ込めていた、君への思いを」
恥ずかしそうな声が聞こえ、デアトラは枕から顔を覗かせる。
彼が手記をしたためていたとは知らなかった。
しかもそれが自分に関することなら尚更だ。
彼女の小説を読んでしまった、せめてもの償いのつもりなのだろう。
けれど、本当に読んでしまっていいのか。
返答に迷っていると、彼の気配は徐々に遠くなっていく。
「もし良ければ、それを読んでみてほしい」
それだけを言い残し、ウィリアスは屋敷を去っていった。
結局、デアトラは扉を開けることは出来なかった。
ただ、彼が自分を心配して駆けつけてくれたことが、嬉しく思えた。
だからこそ彼女は考える。
ウィリアスの婚約者として正しく在ろうとした一方、はしたない真似は出来ないと自分を縛っていた。
手を繋ぐという行為も、その一つ。
もし彼が同じことを考え、手記を書き綴っていたのなら、それを読むことで何かわかるかもしれない。
デアトラは閉ざしていた扉を開け放った。
その後、彼女は両親から自分の小説とウィリアスの手記を手渡された。
中身は見ていないから安心してほしい、と言う父と母の言葉に感謝しつつ、自室でその手記を広げる。
緊張するデアトラだったが、もう二の足は踏まない。
視線を手記に落とすと、達筆な文字が目に飛び込んできた。
『王太子として、冷静沈着かつ正しく在り続けなければならない。生まれた時から定められていたことだ。その責任が、周囲からの憧憬の視線が、時折僕を縛りつける。そしてメイザリウス家との婚約も、幼い頃に自分の意志とは関係なく決められた』
今まで聞いたことのない、ウィリアスの独白が続いていく。
奇しくもそこに書かれていたのは、彼女が抱えていたものと似ていた。
『だが、そこで出会ったデアトラは美しかった。美貌が、という意味ではない。お転婆に舞う彼女の笑顔が、そこから放たれる柔らかな雰囲気が、幼かった心を惹きつけた。一目惚れだったのかもしれない』
『君にとっては何の気ない笑顔だったのだろう。けれどそれを見る度に、縛り付ける糸が解けていった』
手記はデアトラに対する思いで溢れていた。
そこには一点の曇りもない。
そして当時の幼かったウィリアスが、君の笑顔は素敵だと言ってくれたことを思い出す。
最近は王太子として冷静沈着な側面ばかりが目立っていたが、彼は変わっていなかった。
自分が恋焦がれていた相手は、今もそこにいる。
デアトラは、徐々に頬が熱くなっていくのを感じていた。
『それにしても当時、彼女のお転婆具合は天井知らずだった』
『奥手だった僕の手を引いて、庭園に連れ出されたこともある。あの時の僕の胸の高鳴りなど、君は知らないだろう。いや、知られないように努めた。僕は王太子なのだから』
『以前ほどではないが、彼女のお転婆具合は相変わらずだ。そのせいで時折、周囲から誤解を招いてしまう時がある。しっかり僕がリードし、彼女の助けにならなければ』
気苦労をかけることもあっただろう。
王太子の婚約者ということもあって、やっかみは少なくなかったし、余計な誤解を生んだこともあった。
今回の騒動だって同じだ。
自分の考えとは別に、周りを巻き込んでしまう。
それでも彼がデアトラを見放したことは一度だってなかった。
『デアトラ、僕は君のことをもっと知りたい。もっと愛したいし、甘やかしてあげたい。いつか君に、王太子としてではない僕自身の思いを伝える時を、必ず見つけてみせる』
そこまで読んで、デアトラは思い返してみる。
以前のように、彼と気兼ねなく話せた時はあっただろうか。
王太子の婚約者として、公爵令嬢として、正しくすべきと考える一方で自分自身の思いを伝える機会を失っていた。
相手は第一王子。
幼い頃のように、無邪気に手を引いて連れ回すなんてことは許されないと思い込んでいた。
「ウィリアス様……貴方も、不安だったのですね……」
けれど、この手記が何よりの証拠だ。
デアトラは小さく呟く。
彼も同じような考えを抱いていたのなら、やるべきことは決まっていた。
彼女は座っていた椅子から立ち上がる。
話さなくては。
文字を綴るだけじゃなく、今の自分の思いを伝えなくては。
羞恥心を捨て、デアトラは学院へ戻る決意をした。
●
時間にして数日程度の帰省。
学院の皆には、急用による一時帰省ということで話を付けておいた。
急用の理由は言える訳もないが、無理に事情を聞こうとする失礼な人もいない。
戻って来たデアトラの耳に、例の騒動が入ってくることもなかった。
どうやらウィリアスが、あの場にいた全員に箝口令を敷いたらしい。
恋愛小説が周知のものになっていれば、軽く爆ぜることも考えていたデアトラだったが、そこはホッするしかなかった。
そうして彼との再会を望んだ。
用意されたのは以前の騒動と同じ、学院の一室。
日差しが差し込む部屋に入ると、窓から流れる風に黒髪を靡かせながら、ウィリアスが待っていた。
あの時と違ってお互いの従者はいない。
いるのは彼とデアトラのみ。
話せる距離まで互いに近づいたものの、すぐに視線は別の方へと向いてしまう。
二人とも、何から話せばいいのか迷っていた。
「……」
「……」
「あの」
「あのっ」
どうにも上手く噛み合わない。
同じタイミングで声を掛けてしまい、反射的に口を噤む。
そのせいで余計に気恥ずかしい空気が流れてしまう。
「……何か、言いかけただろう?」
「い、いえ、ウィリアス様こそ」
ウィリアスに促され、デアトラは慌てて先を譲る。
どちらも僅かに頬を赤らめ、いつもの姿とは少し違っていた。
だからだろうか。
何だかその様子がおかしく見えて、二人は思わず笑みを浮かべた。
「はは」
「ふふっ」
「始めに何を話すべきかと考えていたんだが、全て吹き飛んでしまったよ」
「私も同じですわ。でも今は、少し気が晴れた気分……」
今、この場には二人を除いて誰もいない。
周囲の目を気にする必要もない。
立場を忘れた二人の時間が、徐々に巻き戻っていく。
「不安だったんだ。婚約が正式に決まってから、次第に君の態度が余所余所しくなっていった、気がしたんだ」
彼は少し寂しそうな目をしていた。
「君が婚約を重荷に感じ、かつての明るさを曇らせているのかと思っていた。でもあの手記を見て、君の本心が分かった。今はそれが、とても嬉しいんだ」
「私も同じですわ。正式に婚約が決まってからは、公爵令嬢として以前のようなお転婆を治さなければ、きっとウィリアス様との距離は縮まらないと思っていました。けれどそれは間違いでした。本当に改めるべきだったのは、立場を言い訳に自分の本心を覆い隠していたこと……」
デアトラは両手を握り締める。
家同士の婚約である以上、貴族としての振る舞いを欠かしては、王家への礼を失することになる。
婚約が決まって以降、よりその思いが顕著になってしまった。
勿論それは当然のことだ。
ただそれに囚われるあまり、ウィリアスと二人でいる時でさえも、同じような態度で接してしまっていた。
彼女自身も、彼が余所余所しくなっていると気付いていたからだ。
そしてその原因は、幼い自分のお転婆にあると思っていた。
けれど、それは違う。
ようやく彼の思いを知ったデアトラは意を決する。
「わ、私はっ……!」
「デアトラ?」
「私は、ウィリアス様との婚約を重荷になど思っておりません! 前にばかり進んでしまう私の手を引いて下さったのは、いつもウィリアス様でした! 貴方がいたから、今の私があるのです! だからっ……!」
これで終わりたくない。
彼女は頭を下げ、訴えかけた。
「婚約破棄だけは、考え直して下さいまし!」
「な、何の話だ?」
しかし返ってきたのは、困惑の声だった。
「えっ?」
「君との婚約破棄なんて、考えたことはないけれど……」
「ええっ!? でも、婚約……あれっ?」
デアトラも更に混乱する。
それからよくよく考えてみると、以前の場では弁明を求められていただけで、婚約に関する話は一切出ていなかったことに気付く。
以前に読んだ小説とあまりの状況が似ていたため、早とちりしてしまったのではないか。
そう、彼女はせっかちな性格だった。
ハッとしたデアトラは、安堵や恥ずかしさで複雑な表情を浮かべてしまう。
するとそんな様子を見て、再びウィリアスは小さく笑った。
落ち着いた普段の彼とは異なる、柔らかい雰囲気があった。
「何だか、昔の頃に戻ったみたいだよ」
「ウィリアス様……」
「幼い頃は当然のように手を繋いでいたけれど……いつの間にか僕は、君に遠慮と気恥ずかしさを感じていたんだろうな」
時間の流れは早い。
純粋に接していた昔の頃と違って、成長するにつれてお互いを意識するようになった。
ムズムズするような空気に無意識に照れ、それぞれが一歩身を引いてしまった訳だ。
それがあの余所余所しさ。
本当に、上手く噛み合わない。
しかし、猛進することが本来の性分であるデアトラ。
ここで本領を発揮する。
「て、手を! 手を繋いでみますか!? 昔のようにっ!」
よく分からないことを言ってしまう。
目をグルグルとさせながら口走ったその表情は、次第に赤く染まっていく。
ウィリアスも気圧されつつ、その思いを汲んでわかったと頷いた。
妙にぎこちないが、互いの距離が縮まった瞬間でもあった。
そして差し出された彼の手を、彼女はひしっと握る。
「……」
「……」
「な、何か仰って下さい……」
「改めてすると、その……恥ずかしい、かな……」
「う……。そ、そうですわね……」
いつもよりウィリアスの顔が近くにある気がして、デアトラは視線を逸らしてしまう。
触れている手や胸の内側が、段々と温かくなっていく。
彼女自身、とても恥ずかしく感じていたが、悪い気はしなかった。
そしてこれは例の騒動のお蔭。
あの時はこの世の終わりかと思っていたが、こんな形で収束するなんて思っていなかった。
切っ掛けを作ってくれた人には感謝しなければならない。
と、そこまで考えて、デアトラはあることに気付いて手を放した。
「あっ」
「ん?」
「そう言えば、すっかり忘れていましたけど……事の発端となったエリザというお方は……?」
「ローズベル家のことか……。それについては……」
思い出したように、ウィリアスが顎に手を当てた。
●
「本当に! 申し訳ございませんでしたっ!」
男爵令嬢のエリザは、自ら牙を引き抜いたらしい。
今にも土下座する勢いで、デアトラ達に向かって深々と頭を下げる。
「え、エリザさん、頭を上げて下さいまし……」
「いいえ! 王家と公爵家の方々には、とんだご無礼を! 私のことは、どのようにして頂いても構いません!」
場所を変えてやって来た学院庭園の東屋に、再度エリザの声が響く。
彼女の中では罰せられることは確定のようだ。
身体を震わせながらも、下される断罪の時を待っている。
デアトラも何が何やらといった感じだったが、とりあえずあの時の場は誤解だったということだけはわかった。
既に事情を聞いていたのか、ウィリアスが説明する。
「彼女は常日頃、他のご令息やご令嬢から陰口を受け続けていたらしい。ローズベル家が平民出身であることを口実にね。そしてその中で、こう言われたそうだ。デアトラも、エリザ嬢の身の程知らずを嘆いていると」
「それは、つまり……」
「その言葉を信じた彼女は、デアトラが陰口の中心人物だと誤解し、僕に苦言を呈しに来たという訳だ」
「……どうやら原因は、他にあるようですわね」
「既に手は打ってある。その陰口を言っていた人達の名前も精査済みだ」
あっけらかんと答えるウィリアス。
手早い対応だ。
最後まで見届ける責任があると言っていた通り、彼自ら行動を起こすようだ。
きっとエリザも同じだったのだろう。
ローズベル家は最近になって爵位を得た男爵貴族。
差別意識の強い貴族は質が悪く、その洗礼を浴びた彼女は、陰口に耐えかねて行動に移したという訳だ。
一応、その辺りの事情はデアトラにも理解はできた。
「けれど何故、私に直接言わなかったのですか?」
「は、はぐらかされると思っていたので……。ですから、デアトラ様の婚約者であるウィリアス様にお力添えいただければ、きっと私の話にも耳を傾けて下さると……」
「成程?」
「ひっ!? す、すみませんでしたっ!!」
圧と勘違いし、エリザは思い切り頭を下げる。
怯えすぎである。
ここまでくると、一周回って小動物に見えてくる。
しかし相手は王太子と公爵令嬢。
赤子の手をひねる感覚で家ごと潰せると思っているのだろう。
そして実際そうではあるのが、王家とメイザリウス家の権力だ。
ただ、そんな些事に力を使う意味は全くなく、デアトラに怒りなど微塵もない。
彼女はエリザを安心させるように微笑んだ。
「エリザさん、私達は貴方を罰しようとは思っておりません。どうか顔を上げて下さいな」
「こんな私を……許して頂けるのですか……?」
「許すも何も、貴方には感謝しているのですよ。こうしてウィリアス様と距離を縮める切っ掛けができたわ。それに貴方の猪突猛進ぶりを見ていると、何だか昔の私を見ているようで懐かしく感じますの」
むしろ、デアトラは受け入れる。
やり方はどうあれ、突き抜けた彼女の行動のお蔭で、お互いの気持ちを理解できた。
一歩近づく勇気が持てなかった中、歩み寄る切っ掛けを与えてくれたのだ。
今のデアトラがすべきことは、その礼を返すこと。
返し方も当然わかっている。
微笑ましそうにしているウィリアスを前に、デアトラは胸に手を当てた。
「不当な差別など言語道断! 爵位を授けた王家に対して、礼儀を欠く行為でもありますわ! ですからこの私が、エリザさんを守って差し上げます!」
「デアトラ様……! ありがとうございますっ……!!」
断罪を受け入れつつあったエリザの目に光が戻る。
きっと今の彼女には、デアトラが自分に手を差し伸べる女神に見えたのだろう。
虐げられるばかりだった男爵令嬢は、ようやく居場所を見つけたと気付き、涙ながらに感謝するのだった。
●
数週間後。
騒動を経たデアトラに大きな変化はない。
周囲に対しては変わらず公爵令嬢として正しい姿で在り続けた。
例の一件も関係者以外に知られることはなく、学院生活にもいつもの平穏が戻ってくる。
ただ、僅かな変化がない訳でもない。
その日、デアトラは学院の授業が終わり、小さな会議室に足を運ぶ。
整然とされた部屋の中では、婚約者のウィリアスが待っていた。
窓の外を眺め、木々に止まっていた小鳥を見つめる姿は、やたら様になっている。
そして彼女が来たことに気付くと、安心したように笑みを見せた。
デアトラは僅かに胸の高鳴りを感じつつ、とあるものを取り出した。
以前、ウィリアスが渡した彼自身の手記だった。
「ウィリアス様、この手記をお返しします」
「あぁ、すっかり忘れていたよ。ありがとう。けれど……」
「?」
「全部見たのかい?」
「まぁ、一応は……」
「ははは……。情けないことばかり書いてあっただろう……?」
「いえ、そんなことは! それでしたら、私だって情けない小説ばかり……!」
「いや、そんなことは……!」
お互いに似たような言葉で否定し合い、思わず笑い合う。
変わったのは、この関係。
あれ以来、デアトラ達はこうして二人だけの時間を設けるようになった。
昔のように分け隔てなく語らい合うためだ。
話す内容は単純なもの。
互いの身に起きた日頃の出来事を一喜一憂するだけ。
ただそうしたひと時は、二人にとってかけがえのないものへと変わっていた。
「まさか、ここまで変わるなんて思いもしませんでした。私達だけでなく、彼女も」
「エリザ嬢のことか。すっかり君を心酔しているみたいだな」
「ほほほ……。今の彼女は、私に右の頬を打たれたら、左の頬を差し出す勢いですわ……」
「そ、それはまた凄まじいな」
「けれどそれも一時のもの。親しい友人が増えれば、徐々に落ち着くでしょう」
「こちらも騒動の原因となった人達を一人ずつ呼び出し、今日で全員伝え終えたよ。君のお蔭で僕もデアトラも、とても良い機会に恵まれたと。これで彼女に陰口をする者はいなくなるだろう」
「聞くところによると、全員が戦々恐々だったらしいのですが……」
「気のせいさ。僕はただ、感謝の気持ちを伝えただけだよ」
ウィリアスは意味深に言う。
本当にそれだけなのか、はたまた恐ろしいことを口にしたのか。
詳しく知る必要ないだろうと、デアトラは苦笑する。
彼も詳しく教えるつもりはないらしい。
ゆっくりと息を吐いて近くのソファーに座った。
「さて、堅苦しい話はやめよう」
「ウィリアス様?」
「デアトラ、おいで」
そう言って、彼は手を差し伸べてきた。
これも最近になって変わった出来事の一つだ。
デアトラは高鳴る鼓動をそのままに、寄り添う形で隣に座る。
彼の傍にいるという感覚。
暫くそうしているだけで、自然と満たされた気持ちになっていた。
それでも気恥ずかしさだけは未だに拭えない。
「こんな、はしたないこと……良いのかしら……」
「僕もそう考えていた。王太子として自分を律して、常に正しくなければと。でも、もうやめた」
「えっ?」
「デアトラの前でだけは、自分を隠すことはやめるよ」
思わず視線を向けると、ウィリアスの顔が目の前にあった。
彫刻のように整った表情と、透き通った漆黒の瞳がそこにある。
そんな彼に見惚れていると、スッと頬に手が触れる。
「そろそろ、手を繋ぐだけじゃ物足りない」
「ウィリアス様……」
「今だけは、様なんていらない。昔のようにウィリアスと呼んでくれて良いんだ」
「そんな……まだ、お昼なのに……」
「……普段はお転婆な君が、こんな時はしおらしい顔を見せてくれるんだな」
包容力のある微かな笑みが向けられる。
そのせいで、デアトラの鼓動はどんどん早くなっていく。
胸の鼓動が彼に聞こえるんじゃないかと思う程に。
そんな動揺を知られたくなくて、彼女は目を瞑った。
「君は悪い子だ、なんてね」
穏やかな声と共に、頬にキスをされる。
温かい感触と火照る身体。
デアトラはあの小説をバラ撒いた時、羞恥心のあまり爆発しそうと思っていた。
だが今度は別の意味で爆ぜそうだと、そう思った。
ちなみにこんな空気だが、頬にキス以上のことは何も進んでいない。
今まで正しく在ろうとし続けた弊害である。
お互いの関係はまだ始まったばかり、ということだ。
そして互いにしたためていた手記や小説も、鳴りを潜めていった。
そもそもが、若気の至りで書き連ねていたもの。
時間が二人の関係を進めていくにつれ、いずれは懐かしい思い出としてすり替わっていくのだろう。
触れ合う二人を後押しするように、部屋の中の古時計がカチリと鳴った。
その後、学院にて――。
デアトラ「ふふふ……」(き、きききキスされてしまったわ!? い、いけないわ! 油断したら、口元が緩んで……!)
エリザ(デアトラ様が不敵に笑っていらっしゃる!? でも私には分かります! その慈愛に満ちたお心で、素晴らしいことを考えているに違いありません!)
ウィリアス「はぁ……」(さっきのキスは早まったか!? 倦怠期は避けるべきと本には書いてあったけど! 今思い返すと、恥ずかし過ぎる……!)
従者(ウィリアス様が溜息を? きっと我々には想像もつかないような、徳の高いことを考えているに違いない……! 流石、ウィリアス様です……!)