TRACK-1 炎心 6
土曜の夜、大都会は眠らない。
陽が沈み、ネオンの光が厚化粧よろしく街を彩る。昼と夜とで表情を変える都会の二面性は、そこに住む人々の内なる本性を映し出しているようにも思えた。
誰しも表と裏の顔を持ち、双方を使い分けて、世の荒波を乗り越えていく。
果たして二つの顔のうち、一体どちらが真の姿なのだろう。光の中で生きるために闇さえも胸に抱くか。闇に生きながら光を従わせるか。
あるいはその両方か。
長く裏社会に身を置いていると、知らなくていい世間の一面を嫌でも見ることになる。ヴォルフは何度も失望させられた。
表も裏も裏切りだらけだ。自分自身もすねに傷を持つ身なれば、生き抜くための戦略と割り切り何とか飲み込んできたが、正直なところうんざりしている。
裏稼業者たちに仕事を斡旋し続けて、どれだけの年月が過ぎただろう。
かつては通称〈セミナーハウス〉という訓練施設で、新入りの裏稼業者たちを容赦なく鍛えていた。
己が指導した若手が、仕事の中で何人も夭折していくのを知りながら、それでもひたすら鍛えて裏社会に送り出し続ける。当時はそれがヴォルフの役割だったから、そうするしかなかった。ヴォルフが最も失望しているのは、ヴォルフそのものだ。
だから〈セミナーハウス〉を去ったのだ。しかし現在は〈窓口〉として、別の形で裏稼業者たちを死地に赴かせている。昔の俺と今の俺と、何が違う?
閉店後。エヴァンとドミニクを先に上がらせ、一人残った店内は、やけに静かに感じる。音楽でもかけようかと思ったが、気が乗らずやめた。
磨き上げたグラスを棚に置いて視線を戻すと、正面のガラス窓に映る自身の姿が目に入った。
生まれつきの恵まれた体格といかつい顔のために、熊と称され続けてきたこの容姿も、六十を近くに迎えてそれなりに枯れていた。
相変わらず筋骨隆々ではあるが、若い頃に比べたら筋肉量は落ちている。自然の摂理ばかりはどうしようもない。
白髪や顔のしわも、どんどん増えている。これが年月というものだ。老いだけは、貧富も性別も人種も関係なく、平等に訪れる。
ここ最近よく考えるのは、退き際についてだ。〈窓口〉にしても〈パープルヘイズ〉にしても、死ぬまでやるわけにはいかない。
〈窓口〉はいつ辞めてもいいくらいだが、世話してきた連中に対する責任をいきなり放り出すのは不義理なので、退くならばきちんとけじめをつけてからにするつもりだ。
〈パープルヘイズ〉に関しては……。
(そろそろ料理の仕方も教えてやろうか)
エヴァンがこの店で働くようになって、一年以上経っている。もう皿を割ることもない。段取りもよくなった。コーヒーの淹れ方に至っては、ヴォルフすら舌を巻く腕前だ。
エヴァンに商才があるかどうかはわからないが、店の常連客に可愛がられているし、なんとかなるだろう。ドミニクが引き続き一緒にやってくれるなら、一層安心だ。
もしエヴァンにその気があるなら、
(レシピを仕込んで、あいつに店を譲るのも悪くねえ)
そんなことを常々思う。
カラン、とドアベルが鳴った。顔をそちらに向けると、スマートで背の高いハンサムな中年男性が、優雅な足取りで店に入ってくるところだった。
大柄チェックのグレースーツに、光沢のある紫のネクタイ、胸ポケットには白のハンカチーフ。まるで立食パーティーにでもやってきたかのような装いだ。
「やあヴォルフ、こんばんは」
ヴォルフの個人的な客、ジェラルド・ブラッドリーが、にこやかに手を振りながらカウンターまで歩いてくる。ヴォルフの正面の席に座り、テーブルの上に両肘を置いた。
「食うのか?」
ヴォルフは、「いらっしゃい」とも「よく来たな」とも言わず、そう訊いた。ブラッドリーはにこにこしながら頷く。
「もちろん。そのためにディナーは少なめにしてきたんだから」
「そうか。じゃあちょっと待ってろ」
ブラッドリーをカウンターに残し、厨房に入る。今夜店に来ると連絡があったあと、すぐに材料を準備した。彼が〈パープルヘイズ〉で食べたがるものはひとつしかない。ヴォルフ特製ハニーマスタードソースのチーズバーガーだ。
ヴォルフはハンバーガーをこしらえ、フライドポテト(これも欠かせない)を揚げる。それらをバスケットに盛り付け、ブラッドリーの目の前に置いた。
「ほらよ」
「ありがとう。いい匂いだ、食欲そそられるねえ」
ブラッドリーは子どものように破顔して両手をすり合わせた。大口を開けてチーズバーガーにかぶりつくさまは、到底“帝王”と呼ばれ恐れられる男だと思えない。
ジェラルド・ブラッドリー。裏社会を治める〈長〉の一人にして、大陸東エリア裏社会の四分の三を支配する、圧倒的権力を誇る“帝王”だ。
大陸の裏稼業者で、この名を知らぬ者はいない。新入りは真っ先に、自分が誰の犬なのかを教えられる。
もぐもぐと口を動かすブラッドリーが、満足げな唸り声をあげた。
「やっぱりヴォルフのチーズバーガーは最高だね。このソースがたまらない。うちのシェフだって、この味は出せないよ。クビにしちゃおうか」
「馬鹿なこと言うんじゃねえ。ありゃいい料理人だ。大事にしろ」
「冗談だよ冗談」
ヴォルフの前だからこそ通じる冗談だ。他の人間にとって帝王の“クビ”は、人生の終わりを突きつけられるに等しい。
ヴォルフは鼻を鳴らした。
「毎日三ツ星シェフのメシ食ってる帝王の好物が、下町のしがない飲食店のチーズバーガーとはな。しみったれてやがる」
「何言ってるんだい。君の作る料理は、どんな星付きシェフにだって負けやしないよ。だからときどき無性に食べたくなるんだ、昔が懐かしくてね」
「そうかそうかそいつァありがてえこった」
「なんだいその棒読み。このボクが褒めてるのに、嬉しくないの?」
「お前の褒め言葉は、軽すぎて響いてこねェ」
「ひっどいなあ。じゃあ手を出してごらん。両手で握って見つめながら言ってあげるから」
「気色悪ィことすんじゃねえよ。やめろ、触るな、手ェ出すな阿呆」
誰に対しても飄々とした態度のブラッドリーだが、ヴォルフにはふざけた調子で接する。帝王にひれ伏さず、対等にものが言える人間は、いまやヴォルフだけだろう。
ブラッドリーがチーズバーガーをたいらげ、フライドポテトをあらかた食べた頃合いを見て、ヴォルフはコーヒーを差し出した。
エヴァンが帰る直前に淹れてくれたコーヒーを保温しておいたものだ。そう時間が経ってないので、風味はあまり損なわれていない。
ブラッドリーは細い湯気が立つコーヒーカップを指差し、片眉を上げた。
「食後にコーヒー? 赤ワインかウイスキーを期待してたんだけど」
「大衆食堂にお前が好むような高え酒があるか。エヴァンが淹れたやつだ、まあ飲んでみてやれ」
ふーん、と頷いて、ブラッドリーがコーヒーを一口飲む。すると、ちょっと驚いたように目を開き、今度は感心したように、へー、と言った。
「なかなか美味しいじゃない。ヴォルフが教えたのかい?」
「俺ァコーヒーにゃ詳しくねえ。あいつが自分で淹れ方を身につけたんだ」
食後の酒を期待していた帝王だが、素人のコーヒーもまんざらではないらしい。一気に半分を飲んだ。
「で? 今日はどういう厄介事を持ち込もうってんだ?」
「その言い種、まるでボクがここへ来るのは、君に直々に無理難題を押しつけるためだって言ってるように聞こえるけど」
「実際そうだろうがよ。前回来たとき、レジーニとエヴァンに〈政府〉に繋がりがありそうな余所者を調べさせろっつたろ」
「サイファー君だったっけ。護送中の囚人を手下にして、ボクの領域で暴れ回ってた子。結果的にあの二人で適任だったんだからいいじゃない」
一年前サイファー・キドナが巻き起こした事件を、エヴァンとレジーニが決着をつけることになったのは、そもそもブラッドリーが二人に調査させるようヴォルフに話を振ったのが発端だ。
自分の支配領域で好き放題に活動している余所者たちがおり、しかもその連中が現れた所に必ずメメントが湧いて出るので、エヴァンとレジーニに調べさせろ。
ブラッドリーは一年前、今夜のようにふらりと店にやってきて、ヴォルフにそう命じたのだ。
何かの調査だけなら、リサーチを得意とするチームにやらせればいい。わざわざレジーニたちを指名したブラッドリーの魂胆は、サイファーをきっかけに政府が隠蔽し続けてきた〈パンデミック〉の真実を焙り出すことだった。
サイファーには政府との繋がりがある、とブラッドリーが知っていたのは、彼にその情報を与えた人物が裏に潜んでいたからだ。
サイファーはマキニアンという、政府の計画の元に生み出された強化戦闘員であり、つまりはエヴァンにも大きな繋がりがあった。
エヴァンとレジーニはサイファーの事件を解決し、ブラッドリーはまんまと政府の弱みを握りせしめた。
事はすべて、帝王の目論見通りに運んだのである。
「あの博士さん、あのあとサイファー君を匿ってたんだけど、ちょっと前に二人でアトランヴィルを出てったらしいんだよね。今頃どこで何やってんだろうね」
“あの博士さん”とは、ブラッドリーに情報をリークした人物で、マキニアンの生みの親であるアンドリュー・シャラマンのことだ。ブラッドリーはサイファーの事件後、彼らの動向を部下に見張らせていたようだ。
「追わせなくてよかったのか?」
「いいよいいよ、問題ないから」
「じゃあ今日は何しに来たんだ」
「君とただおしゃべりしたいだけって言ったら信じるかい?」
「いいや」
「即答だね。君のそういうところが好きなんだ」
ブラッドリーはなぜか嬉しそうに口元を綻ばせ、両肘をカウンターに載せた。
「そろそろボクの隣に戻って来ないかい?」
ヴォルフは、首の後ろがビリビリと痺れるのを感じた。こめかみが引き攣り、無意識に歯を食いしばる。
ブラッドリーが苦笑した。
「やっぱり怖い顔したね。いつかこう言われるって予想してなかった?」
「してたさ。だが、俺が頷かねえことを予想してなかったとは言わせん」
「してたよ。だったらこれもわかってるよね? ボクは自分の望みは必ず叶えるって」
ブラッドリーの眼差しが、旧友から帝王のものに変わる。己が野望を余すところなく実現させてきは、絶対権力者の目だ。
ブラッドリーがヴォルフを幹部に戻したがっているのは、かなり前から――いや、彼のもとを離れた瞬間から承知していた。
いつか必ず連れ戻しに来るだろう、と。
「俺はお前のもとには戻らん。何度も言わせるな」
「ずっと〈窓口〉のままでいるつもり? こんな小さな店で毎日ごはん作って」
「それでいい。俺には充分だ」
「立場を落としたって、君の過去を消せるわけじゃないんだよ? かつての君は〈セミナーハウス〉で鬼教官と恐れられていた。何より、このボクの片腕だった頃を覚えている人だって、まだいるんだから」
「過去に背を向ける気は無ェ。地獄行きなんざ、とっくに覚悟してる。今のままで満足だと、そう言ってんのがわからねェのか」
「わかっているとも。君は昔から一本気だった。そんな君だからこそ、側に置いておきたいんだ」
「部下なら余りすぎるほど抱えてるだろ。お前に気に入られるためなら、ドブネズミの目ん玉だってしゃぶれるって奴ァ五万といる」
「そうだよ。人手は足りてる。でも、君が足りない」
思わずため息が出る。このときが来るのを、ずっと危惧していた。ブラッドリーは決して退かない。ヴォルフを連れ戻すと決めたのなら、是が非でもそうするだろう。
ヴォルフにできるのは、最後まで抵抗することだけだ。おそらく、無駄な努力に終わってしまうだろうが。
「今さら俺に何をさせようってんだ。なぜ放っておいてくれない? 俺がお前にしてやれることは、もう何も無ェんだよ」
「あるさ。君はボクを恐れない。堂々とものを言ってくれる。ボクにとって君という存在がどんなに重要か、そこを自覚してくれないと」
ブラッドリーは、生徒に言い聞かせる教師のように、人差し指を振った。
「ねえヴォルフ。ボクたちなら、もっと世界を広げられる。何だってやれる。今のアトランヴィル裏社会を創りあげたのは、スラムの片隅で泥水をすすっていたみすぼらしい若造二人なんだよ?」
「その若造二人は、とっくの昔に道を違え、そのまま年食っちまってんだ。俺はもう、お前にはついていけん」
「ヴォルフ、君は自分を過少評価しているよ」
ブラッドリーは感情の読めない目で、まっすぐにヴォルフを見る。ヴォルフもまた、かつての相棒から目を逸らさなかった。
逸らしたら、喰われる。
「なぜ今になって俺を連れ戻そうとする? これまでだって機会はあったろ」
「君にも好きなことをやれる時間が必要だと思ったからさ。『可愛い子には旅をさせよ』とも言うじゃない。でもそろそろ、君がいるべき場所に帰らなきゃ」
「俺の居場所はここだ」
ブラッドリーが気を変えるとは思えないが、ヴォルフも譲るつもりはない。折れたらそこでおしまいだ。
ブラッドリーが、わがままな子どもに呆れるようなため息をついた。
「あ、そう。本当に頑固だね。わかった。今日はボクが退いてあげるよ」
席を離れ、ドアに向かおうとする帝王。引き留めるつもりはなかったが、ヴォルフはつい声をかけてしまった。
「ジェラルド」
久しぶりに名前を呼んだ。
「これ以上、何を望む? 金も権力も、使いきれねェくらい手に入れただろ。一体何が目的なんだ?」
旧友が振り返る。闇の世界の王にふさわしい、華やかで残忍な笑みを浮かべて。
「人生はよく、チョコレートの箱に例えられる。それは欲にも当てはまる比喩だ。一粒食べたら、また一粒欲しくなる。やめられなくなって、気がつけば全部食べてしまっている。そしてチョコレートはボクの大好物だ」
「食ったあとはどうする。空っぽの箱しか残らねェぞ」
「また新しい箱を開ければいいんだよ。それに、空箱にも使い道はあるさ」
「そうやってどこまで食い尽くそうってんだ」
どれほどヴォルフが訴えても、帝王は微笑みを崩さない。ヴォルフの言葉を、まるで意に介していない。昔からそうだった。
「『ショーは続けなければならない(Show must go on)だよ。一度始めたことは最後までやらなくちゃ。そうだろう?」
帝王ジェラルド・ブラッドリーは、その言葉を暇乞い代わりにして、〈パープルヘイズ〉を去った。
静けさが針の如くヴォルフに突き刺さり、深く嘆息させる。
ブラッドリーは、ヴォルフは自分を恐れない、と言った。それは間違いだ。彼を誰よりも知るからこそ、ヴォルフはブラッドリーが怖い。
その昔、肩を並べて裏社会を駆けた相棒が、一体何を望み、何を志して頂点にのし上がろうとしたのか。彼の真の目的をヴォルフは知らなかった。
すべてを掴んだ彼が、その先の何を得ようとしているのか。どこまでやれば終わりなのか。まったくわからない。
それが何より恐ろしかった。