TRACK‐4 埋火(うずみび)9
愛犬の吠え声で、シーモア・オズモントは目が覚めた。
二階の寝室まで聞こえるほど、激しく吠えている。
オズモントは枕から頭を浮かせ、部屋を見回し、窓の外を見た。室内も外もまだ暗い。
ベッド脇のサイドボードに置いた電子時計へ目を向ける。午前五時二十三分だった。
夜も明けない時間に吠えだすなど、普段の愛犬にはない行動だ。声の調子からすると、何かを警戒しているらしい。
強盗かと思い、一瞬オズモントは粟立った。だが侵入者であれば、セキュリティシステムが作動し、犬よりもけたたましい警告音で目覚めただろう。
愛犬はまだ吠えている。オズモントはベッドから降り、ナイトガウンを羽織って寝室から出た。
足音を忍ばせながら一階へ移動し、犬の鳴き声がする方へ向かう。念のため、踏み入れた部屋の明かりを点けていった。
ジャービルはリビングにいた。後庭に面したテラス窓の前に立ち、外に向かって吠え続けている。カーテンが少し開いていた。就寝前、完全に閉め損ねていたようだ。胸中で自分の不用心さを叱りつつ、ジャービルのもとへ歩いていく。
「どうしたジャービル、庭に何かいるのかね」
犬を落ち着かせようと、毛並みに沿って体を撫でてやった。ジャービルは主人が側にくると吠えるのをやめたが、まだ庭の方を気にしている。
オズモントも後庭に目をやった。明かりによって室内の様子がガラスに反射し、外がよく見えない。
もし泥棒なら、家の電気が点いた時点で逃げているはずだ。野良猫やリス、あるいはアライグマが入り込んだ可能性もある。が、よく見かける生き物に対して、ジャービルはここまで吠えたりしない。
オズモントは、愛犬の異変の理由を知ろうと、テラス窓を少し開けた。途端、ジャービルが外へ飛び出した。
「待ちなさいジャービル!」
慌てて首輪を掴もうとしたが、すばしっこい大型犬は、主人の手をするりとかわした。庭に降り立ったジャービルは、植え込みに向かってまた吠えた。
「なんだ、そこに何がいる?」
常緑低木が、後庭の端にこんもりと育っている。屋敷の明かりの照らされたその植え込みの陰に、黒い塊のようなものが潜んでいた。
ジャービルが吠え方を弱めた。今いる場所から動こうとせず、しかし植え込みに隠れた何かへの警戒は解かない。
オズモントは深呼吸して冷静さを保った。ジャービルに“待て”の指示を出し、ゆっくりと植え込みに近づく。
果たしてそこには、たしかに何かが身を潜めていた。
オズモントは最初、それが何だかわからなかった。まずは想像より大きかったことに驚いた。植え込みの丈にぎりぎり収まる程度に縮こまっているが、身体はもっと大きいだろう。
オズモントが近づいても逃げようとしない。襲いかかっても来ない。
これは一体なんだ? そう思った次の瞬間、ひらめきのように黒い塊の正体を理解した。
「そんな……、どうしてここに……」
老生物学者は両目を見開き、闇に身を潜める塊を凝視した。
その姿は、馬の胴体を持ち黒い鎧を纏う、伝説上の〈首なし騎士〉そのもの。
四肢を折りたたんでうずくまっているが、畏敬すら覚える荘厳な佇まいは、少しも損なわれていない。
明らかにこの世界の生態系から外れた存在だが、オズモントはこの異形の正体を知っていた。
トワイライト・ナイトメア。
最強クラスのメメントであり、その昔、オズモントの目の前で殺害された息子、バートルミー・オズモントの変異体であった。
*
朝七時。日に日に寒さが増していく。
ヴォルフは〈パープルヘイズ〉までの道を、まもなく訪れる冬の気配を感じながら歩いた。
夕べの客はまだ寝ているだろうか。朝飯は何を作ってやろう。そんなことを考えながら、ドアノブに手をかける。抵抗なく開いた。起きているようだ。
店内に入ると、ルミナスがカウンターを雑巾がけしていた。ヴォルフに気がつき、会釈する。
「ああ、旦那さん、おはようございます」
「おう、おはよう」
「勝手に掃除道具を使わせていただいておりやす。待っているだけってのも申し訳ねぇんで」
「そりゃ構わねえよ。むしろありがてェことだが」
マキニアン最強と言われた東方人の男が、自分の店の掃除をしている。ジョークみたいな絵面だ。
テーブルや椅子はきれいに設置し直され、拭き清められていた。壁際には掃除機が立てかけてある。
ルミナスはカウンターの端から端まで、丁寧に雑巾で拭いている。慣れた手つきである。その所作を見るだけでも、彼がきちんと躾けられて育ってきただろうことや、普段の人柄などが窺えた。
夕べ話し合ったときの真摯な態度を鑑みても、彼は本来、このように実直で律儀な人物なのだろう。
それに、
(すっきりした顔をしてやがる)
ルミナスの表情から、険が取れたように思える。吹っ切れたような、踏ん切りがついたような、軽やかさが感じられた。
「気ィ遣わせちまったな。それじゃ、朝飯作ってやるよ。ここで待ってな」
「ありがとうございやす。あの、旦那さん」
厨房へ向かおうとするヴォルフを、ルミナスが呼び止めた。
「ヴォルフでいいぞ。どうした?」
ルミナスは藤色の双眸でまっすぐにヴォルフを見る。
「昨日の兄さんと話がしとうございやす」
どうやら答えを出せたらしい。
「わかった。連絡しておく」
ヴォルフが頷くと、マキニアンの元隊長は、深々と頭を下げた。
ドアを開け、聞き慣れたベルが、小気味よい音を奏でる。
開店直後の〈パープルヘイズ〉は客が少なく、来るのは主にテイクアウト利用者だ。
レジーニが店内に足を踏み入れると、入れ替わりに、コーヒーのカップを手にした男性客が出て行った。
「おう、来たな」
先ほどの客にコーヒーを渡したのだろう。ヴォルフがエスプレッソマシンに付いた汚れを拭きながら、レジーニに軽く挨拶した。
レジーニがカウンターに近づく間に、厨房からルミナスが顔を出した。
「おはようございます」
やや硬い表情で、ルミナスが会釈する。レジーニは控えめに頷いた。彼に対しては、まだ気楽に挨拶を返せる気分ではない。
「最強のマキニアンに下働きを?」
レジーニは片眉を上げ、ヴォルフとルミナスを交互に見やる。
「タダ飯食うだけじゃ忍びねェってんで、ちょいと手伝ってもらってるだけだ。今日は奥の席を使え。客が来ても、そこならあんまり聞かれねェ」
ヴォルフが示すのは、厨房寄りの角のテーブル席だ。レジーニはいつも、カウンターのコーナー側の席に座る。
意図を酌み、指示された席に着く。続いてルミナスが、向かい側に腰掛けた。
「お呼び立てして申し訳ございやせん。正直に言いやすと、来てくださるとは思いませんでした」
「そうだろうね」
昨日の友好的とは言いがたいレジーニの態度を考えれば、そう思うのも無理はない。
今朝ヴォルフから「ルミナスが会って話したいそうだから、店に来てくれ」と連絡があったとき、応じるべきかどうか迷った。
が、その迷いは一瞬のことで、レジーニはヴォルフに了解の返事をした。
あれだけ険悪な雰囲気だったのに、わざわざ会って話したいというのだから、よほどの決意の表れだ。それを無下にするほど、思慮分別に欠けた態度をとるつもりはない。
「呼び出すくらいだから、僕が望む答えを出してくれると見ていいのかな」
とはいえ、まだ嫌味を込めたくはなる。
ルミナスは困ったように視線を落としたが、すぐに表情を引き締め、顔を上げた。
「ますは昨日の己の言動について、お詫び申し上げやす。みっともねえところをお見せしてしまいました。不甲斐なく思われましたでしょう」
淀みのないしっかりした口調で謝罪したルミナスは、額がテーブルにつかんばかりに、深く頭を下げた。
「昨日のことは、別に謝ってほしいとは思ってない。こちらも前言撤回するつもりはないからね」
「ええ、それは承知しておりやす」
「それで? あんたの迷いとは、結局何だったんだ?」
問題はそこである。
「そのことなんですが……」
ルミナスは言いにくそうに、口の端を歪めた。
「これまでの己は、何というか、拗らせていたといいますか」
「は?」
「いじけていたというか、すねていたというか」
なんだそれは。
「そんな感じです」
どんな感じだ。
よほど“解せない”という気持ちが顔に出ていたのだろう。ルミナスはレジーニを落ち着かせるように、あわてて片手を上げた。
「つまりですね。はばかりながら申し上げやすが、己は以前、〈処刑人〉の隊長を務めておりやした」
「それは知ってる」
「その立場を、ずっと引きずっていたんです。もう存在しない組織の役職を、身の内に残したまま、長い間悶々としていたというわけで」
「要するに、今は隊長でもなんでもないから、もはや無関係だと?」
「いいえ。元隊長としての責任感ではなく、素の自分がどうしたいのか、何を望むのか。自分自身の本当の志をもって行動するべきだったと、やっとわかったんでございやす」
(ああ……、なるほど)
なんとなく、理解できた気がする。
この男は「〈処刑人〉の隊長だった自分」という、過去の姿に縛られ続けていたのだろう。
隊長だったのだからこうでなければならない。こうあらねばならない。だからこうしなければならない。
思考も言動も、元隊長ならばこうでなくては、という思い込みが強すぎて、雁字搦めになっていたのではないか。
ということは――。
「あんた、隊長が嫌だったのか?」
レジーニが思いついたままを口にすると、ルミナスは苦笑いを浮かべた。
「少なくとも向いてはいなかった、と思っておりやす。ただ、任を受けたからには、仲間の命を預かるわけでございやすから、半端な心構えでは務まりません。それで、隊長かくあるべし、と常に自分に言い聞かせ律しておりやした。ですがね兄さん、己という男は、そんな大層な人間じゃあないんですよ。普通なんです」
「普通の人間が街灯の上を跳び回って、細胞装置の翼を片方もぎ取れるのか?」
「身体能力だけの話でござんしょう。それだって、科学的肉体強化を施された結果でございやすよ。中身は、マキニアンになる前と何も変わっちゃいねえ。昔からずっと、己は普通の人間でした」
ルミナスの頬が少しだけ緩む。
笑って、いるのだろう。
昨日の彼には見られなかった表情だ。憑き物が落ちたような、いい意味で力が抜けたような、そんな顔。
レジーニは、ルミナスの“本当の顔”を見た気がした。昨日は怒りと軽蔑のあまり、ろくに彼の顔立ちを見てなかった、あるいは見ていても記憶から間引かれたのだと思う。
改めて見れば、初対面の印象より若々しい。真面目そうだというのは変わらないが、謹厳実直というよりは堅忍質直の方が適当かもしれない。
「己は普通です。普通だから、裏切られれば悲しいし、腹立たしいし、悔しい。誰だってそう思うもんでしょう。でも十年――今からですと十一年前ですか。あのマキニアン一掃作戦のとき、己は、マキニアンの隊長として絶望した。だから、全部失ったと、そう思ったんです」
ルミナスはもう目を逸らさない。
「でも己自身としては、失ったものは少なかった。組織がなくなり、大儀もなくなり、この身体の意味もなくなりやしたが、自分はまだ生きている。命がある。そしてまだ、仲間がおりやした。守るべき仲間がいたのに、全部失くしたと思い込んで、己は、背を向けちまったんです」
眉間にしわを寄せはしたが、俯かなかった。
「己はずっと、隊長にあるまじき選択をしたことに、後悔を感じておりやした。でも、隊長ではない自分なら。普通の自分なら、裏切られたことに悲しむのも、怒るのも、悔しいと思うのも、ごく当たり前の感情でござんしょう? そんな当たり前のことにも気づかねえで、長いこと己を責めておりやした」
チームを束ねる者ならば、感情に流されてはいけない。取り乱してはいけない。自他に厳しくあらねばならない。一般的な認識というものは、得てして先入観を固定してしまいがちだ。レジーニにも覚えがある。
「己はもう、隊長じゃありやせん。己は間違いやした。その間違いを正すことはできないかもしれねえ。でも間違ったからこそ、もう後悔したくねえんです」
ルミナスは姿勢を正した。
「一人の人間として、かつての仲間であり、友の誤りを止める。己も、兄さんと一緒に戦わせてくれやせんでしょうか」
立場も理屈も関係なく、ただ心に湧き上がった「そうしたいと思う気持ち」に、素直に従い飛び出す。
どこかのバカ猿と同じ考え方だ。
ルミナスの藤色の瞳が、緋色の眼差しと重なる。
その藤色の瞳が下を向く。唇をもごもごと動かしたかと思うと、はにかんだ様子で口を開いた。
「実は、アンソンに大事な人を残してきてしまいやした」
やっぱりそんなところか。レジーニは得心した。ルミナスの迷いの中には、そういう理由も含まれている気がしたのだ。
「ろくに説明もしねえで、黙って自治区を去ったようなもんです。自治区を出るとき、もう二度と戻れねえだろうと覚悟したつもりでしたが、腹の底じゃ、まだ未練がありやして」
「このまま〈VERITE〉と戦い続けるなら、別れたままの方がいい。でも今ここで引き返せば、まだやり直せるかもしれない。そんな考えがあったってことだな」
「情けねえことながら」
それは、誰でも考えることだろう。長い間過酷な環境に身を置き、死と隣り合わせの任務に就いていた経験のある者なら、特に。
知ってしまった安寧を手離すのは難しい。愛する人がいるのならなおさらだ。
「でも、引き返しやせん。ここに残り、終わらせます。そうして全部片付いたら、アンソンに戻ってみようかと思いやす」
「その人は、そのときにはもうあんたを待ってないかもしれないし、待っていても許してくれないかもしれないぞ」
「承知の上です。悪いのは己だ。ですが、何の努力もしねえで諦めたかァねえんですよ。その女性を諦めたくねえんです」
恥ずかしげに緩ませていた表情を再び引き締めたルミナスは、カウンターの方に顔を向けた。
カウンターの内側で、ヴォルフがグラスを磨いている。こちらの会話に聞き耳を立てているわけではないだろうが、視線には気づいた。店主はちらりとレジーニたちを見ると、意味ありげに口の端で笑った。
「捨てたくねえものは捨てなくていい、両方選んでいいこともある。そういう選択肢もあると、気づかせていただきやした」
熊店主が何か入れ知恵したらしい。
「それは、ずいぶん普通な理由だな」
「ええ、普通です」
ルミナスは首肯し、柔らかく笑う。道に迷っていた旅人が、行くべき道を見つけて安堵した。そんな笑顔だ。
話し終えたルミナスは、口をつぐんで両手を膝に置いた。レジーニの出す決断を待っている。
(まいったな)
レジーニは音を立てずにため息をついた。
この東方人の男は、まっすぐすぎる。エヴァンよりもう少し堅いタイプのまっすぐさだ。
嘘をつけない、小細工も仕掛けられない、ずる賢く立ち回る器用さもない。
自身の過ちを認め、批判も誹りも受ける覚悟ができている。
これではもう、責められない。
「あんたが何に迷ってて、どんな答えを出したかはわかった。それで? あのバカを連れ戻す算段はあるのかい? 言っておくが、相棒のけじめをつけるのは僕の役目だ。それを邪魔するのだけはやめてくれ」
「承知しておりやす。己はあくまで、お前様の援護であるとわきまえておりやす。ただ、やはりラグナ相手では無理が過ぎやしょう。せめて、ラグナを消耗させるまでは、己に任せてもらえやせんでしょうか」
その点については、承服せざるを得ないだろう。少々気に入らないが。
「あとは、どうやってラグナからエヴァンの人格に戻すか、でございやすが。残念ながら己には、その手立てがございやせん。さて、そこをどうするか……」
ルミナスが右腕をテーブルに置き、その手を顎に添えて思案にふけった。
一方でレジーニは、以前アンドリュー・シャラマンから渡された装置のことを考えていた。小さなリモコンのような装置で、今は自宅のコンピューターデスクの抽斗に放り込んである。
エヴァンがソニンフィルドの手に落ち、ラグナの人格が目覚めた場合に、人格をシャットダウンさせるための装置だ。
シャラマンとしては、エヴァンがソニンフィルドの駒にされるならいっそのこと、と苦肉の策で装置を造ったのだろう。
だがレジーニは、あんな小さな装置ごときで人格を弄ぶなど、断固拒否である。
しかし、そんな唾棄すべき装置を使わなければならない状況なのかもしれない。
コンピューターでの強制シャットダウンは、データが失われたりハードディスクに負荷がかかるなど、物理的なデメリットがある。
それを人間の人格に対して実行するとなると、一体どんなリスクを負うことになるのか。
ラグナは止められるかもしれない。
だが、その後にエヴァンは目覚めるのか?
シャラマンは、装置はラグナの人格をシャットダウンさせるものだと言ったが、それによってエヴァンの人格が戻るとは言わなかった。
つまり装置は、あくまでもラグナを抑制するため、緊急処置に過ぎないのだ。
シャットダウンでデータが消失するように、エヴァンの人格が永久に失われることになったら?
(そんなことは……)
「兄さん?」
向かい側から声をかけられ、レジーニは思考の深淵から顔を上げた。
「どうなさいやしたか? ひょっとして、何か心当たりがおありで?」
「いや……」
装置のことを話しておくべきか。
そのとき、レジーニの携帯端末の着信音が鳴った。




