TRACK‐4 埋火(うずみび)7
(エヴァン? ねえ、エヴァンってば!)
リカはエスパス空間から、メンテナンスポッドで眠るエヴァンに呼びかけ続けていた。けれど、一向に応答がない。
(どうして返事がないの……私の声が届いてないのかな。エヴァンのパルスは感じられるから、こっちにも気づくと思うんだけど)
壁らしき何かに阻まれているかのようだ。
何度も名前を呼び、こちらの存在を伝えるパルスを送ってもみた。だが、どんな働きかけも梨の礫で、時間だけがいたずらに過ぎていくばかりだった。
肉体が睡眠状態にあり、ラグナの妨害を受けない今が絶好のチャンスなのに、肝心のエヴァンがリカを感知してくれなければ、どうすることもできない。
今のリカにできるのは、パルスを通じて呼びかけることだけだ。ラグナが自分にしたような、精神体に直接影響を与えるほどの能力は、リカにはまだないのだ。
リカの視界が徐々にぼやけてきた。精神体の輪郭も霞みかけている。
マインド・ダイブに時間をかけ過ぎたのだ。これ以上精神体でい続けると、肉体にも悪影響を及ぼしてしまう。〈ベルソー〉がある研究室ではヒルダたちが、リカのコンディション低下に焦っているかもしれない。
タイムリミットだ。もう戻らなければ。
(悔しい、ここまできたのに……エヴァン、どうして……)
あともう少しだけ、コンタクトを試したい。そう思ったが、すぐに考えを改めた。今ここで無理をして、肉体的に大きなダメージを受けてしまったら、誰が代わりにマインド・ダイブしてくれるというのだろう。
パルス能力が使えなければ、エヴァンやアルフォンセを救い出す足がかりも掴めやしない。
(待っててエヴァン。アルと一緒に、私たちが絶対に助けるからね)
リカは決意を新たにし、メンテナンスポッドから離れた。
ラボの〈ベルソー〉内に横たわる自分に向かって泳ぐ姿をイメージする。帰るべき場所をしっかりと把握し、どうやってそこへ行けばいいのかを理解していれば、パルスが導いてくれる。
リカの精神体はあっという間に〈VERITE〉の拠点艦〈ヴィスキオン〉を離れ、上空へと舞い上がった。
マインド・ダイブをスタートしたのは、宵の口頃だった。すっかり夜も更け、星を散りばめた濃紺の闇が天を覆っている。月は青白い光を纏い、大海原にその身を映す。
美しい秋の夜空に、リカは思わず見惚れた。と、そのとき。
強いパルスが襲ってきて、リカはその波に引っ張られてしまった。
(な、なに!?)
海流の如き怒涛の引力だ。抜け出そうと懸命にもがくが、まるで抗えない。パルスの奔流は、ラボとは逆の方角へ、リカを押し流した。
エヴァンを捜すためにマインド・ダイブした日と、同じことが起きている。あのときは、巨大なモルジットのうねりに巻き込まれたのだ。その結果、エヴァンとアルフォンセが囚われている〈ヴィスキオン〉に辿り着けたのだが。
今回はモルジットではなく、強烈な生体パルスだ。これほどのパルスを放つ存在など、メメントでもそうはいない。
このままでは、この生体パルスの中心まで引きずり込まれてしまう。
(いやだ! やめて! 止まってよ!)
リカは精一杯の力を振り絞って、パルスの激流から逃れようともがいた。
その必死の抵抗が通じたのか、唐突に流れの外へ吐き出された。
(ここはどこ?)
ついさきほどまで心奪われていた美しい夜の光景から一変、そこは白い霧の立ち込める、何もない空間だった。
霧のようなものといえばモルジットだが、リカの周りに満ちるそれは、モルジットとは違うようだ。
一体どこまで運ばれてしまったのか。今いる場所を把握する手がかりはないか、全方向に目を凝らした。だが、海も陸地も、空さえ見えない。
例えるならば、白い宇宙空間。
恐怖心がリカの全身を駆け巡った。来てはいけない場所に来てしまったのかもしれない。
(やだ、何ここ……こんな所、知らない……帰らなきゃ)
心を落ち着かせ、帰るべき自分の肉体を思い浮かべる。だが恐れと不安で、身体に戻っていく姿がうまくイメージできなかった。
帰れない。最悪の考えが脳裏をよぎった。
突如リカのすぐ近くで、ドオンという爆発音が響いた。凄まじい衝撃だ。リカは悲鳴を上げ、身をすくめた。
何かと何かが、激しい衝突を繰り返している。そのエネルギーが、白い空間を震わせていた。
おそるおそる顔を上げ、あたりを見回す。
(何なの? すごい力を感じる)
強力な二つのパルスが、ぶつかり合っては離れ、また衝突している。そのたびに爆発のような音が起こり、力の余波が空間を振動させていた。
パルスの主同士がエスパス内で戦っている。どうやらそのエネルギーに引きずられてしまったらしい。
(一体、何と何が戦ってるの? こんな強力なパルスを発生させる存在なんて、そうそう……)
いない。
いや、いる。
少なくとも一体は心当たりがある。一人は、と言うべきか。
あのぶつかり合うパルスの片割れの正体が、リカの知るものならば。
一方のパルスの勢いが、徐々に殺がれていった。もう一方の力に押されているのだ。
劣勢に追い込まれた方のパルスは、それでも食らいついて反撃を試みている。優位なパルスはそれを、虫を払うようにいなしていた。
劣勢のパルスはやがて打ち負かされ、煙のように消えて行った。
白い宇宙に残されたのは、勝者のパルスと、リカのみ。この状況は非常に危険だ。
(いけない、早くここから離れないと)
勝者のパルスが、リカの知るものならば。
帰り道はわからないが、向こうに気づかれる前に、この場を離脱しなくてはならない。
そう思ったときには、すでに手遅れだった。
翔ぼうと身構えた、その一瞬のうち。
パルスの塊がリカの目の前に迫っていた。
パルスは実態を伴っていない。だがリカは、そいつが自分に向けて手を伸ばしてくるのを感じた。
掴まれたら、取り込まれる。消滅。“死”だ。
(いやだ、来ないで……!)
翔んでもたちまち捕らえられる。リカに敵う相手ではない。
迫ってくる。逃げられない。死神が、すぐそこに。
リカはきつく目を閉じた。
どれくらい目をつむっていただろうか。
わからないが、目を開けるのが怖い。自分が死んでしまったのを見たくない。
いや、もう、瞼を閉じていようが開けていようが関係ないのかもしれない。
(私、本当に、死んだの?)
あのパルスに吸収されて、なお“リカ・タルヴィティエ”という意識は存在していた。リカはまだ、自分自身の意識を持っている。
死んだ実感はない。そもそも“死の経験”がないのだから、生と死の区別などわかるはずもないのだが。
今の自分がどういう状態にあるのか、まったく見当がつかなかった。
生きているのか、死んでいるのか。目を閉じているのか、開けているのか。
周囲は明るいのか、暗いのか。白いのか、黒いのか。
(どうしよう……帰りたい、みんなのところに)
泣きたいけれど、どうやって泣けばいいのかわからない。
「大丈夫、君は生きているよ」
すぐそばで声がした。
突然のことなのに、不思議と驚かなかった。
「危ないところだったけど、間に合ってよかった。もう怖いことは起きないよ」
柔らかくて、優しい声だ。男の子だと思う。でも、口調は子どもっぽくなく、落ち着いている。
姿が見えないということは、やはり目を閉じているのだろう。けれど、瞼を開けようとしても、開けた感覚はなく、何も見えない。
「君にはここは視えないよ。だから、僕のことも視えない。今はまだそれでいいんだ。君にはちょっと早いから」
では、いつか視えるようになるのだろうか。
「もちろん。君の力はこっち側に向いているからね。でも、今は負担が大きすぎる」
リカの周りが温かな空気に包まれる。まるで母親の胸に抱かれているような安心感が、リカの不安を拭い去った。
この声がそばにいてくれるのなら、大丈夫だ。
なぜだか、そう思えた。
「ごめんね。あの子から隠すために、遠くまで連れて来てしまった。君の仲間が心配している」
仲間。ラボにいるみんな。
「そうだよ、ラボだ。君をそこへ送るね」
手を引かれ、ゆっくりと浮き上がる感覚。
あなたは誰?
リカが訊くと、男の子は何かを答えたあと、
「さあ、おかえり」
優しく諭し、リカの手を離した。
心地よい浮遊感が、徐々に薄れていく。
最初に耳に入ってきたのは、必死な様子で自分を呼ぶ、若い男の声だった。時おり女性の声も混じる。どちらもなじみのある声だ。
はっと目を開けると、ガルデとヒルダが、リカの顔を覗き込んでいた。
ずっと険しい顔つきをしていたのだろう。リカの覚醒を見た途端、二人は安堵で表情を緩めた。
「ああ、よかった! ちゃんと戻って来られたんだね! 今度こそもうだめかと思ったよ……」
ガルデが大きく息を吐いた。目覚めたての耳に彼の声は響きすぎるものの、目尻の潤みを見ては文句は言えない。それに、ガルデの熱気あふれる大声を聞くと、無事に還って来られたのだと実感できる。
リカは目だけを動かして周囲を確認した。〈ベルソー〉の中ではない。先日と同じように、医務室のベッドに寝かされている。
ああ、これは現実で、自分の肉体に戻れたのだ。
「ガルデ、ヒルダ先生。ダイブ中の私の状態、ひどかったのね」
喉が渇いていて、声もかすれていた。水を欲すると、ガルデが吸い飲みを差し出してくれた。寝たままひと口飲む。ぬるめの水が、優しく喉を潤した。
ヒルダは、リカが落ち着くのを見計らって、口を開いた。
「この前よりひどかった。急激な心拍数異常と体温低下。おまけに痙攣。これまで何度かエヴァン・ファブレルの精神面への接触を図ってきたけど、今回が一番異常だったよ」
長距離や長時間のマインド・ダイブによって被る身体的悪影響は、今までにも起きている。だが此度は、本当に命が危険に晒されているのではないか、と心配になるほど異常状態が続いたのだと、ヒルダとガルデは口々に説明した。
「ごめんなさい。またみんなに迷惑かけてしまって」
リカは謝りながら、上半身を起こそうとした。ヘッドボードにもたれかかりたかったのだが、身体に力が入らず、思うように動けなかった。
ガルデとヒルダが両側から支えてくれて、やっとヘッドボードに背中を預けることができた。
ヒルダが、リカの額に張りついた髪を払ってくれる。
「無理して動くんじゃないよ。肉体的にもかなり消耗しているはずだ。エスパスで相当なことがあったんだね」
「うん。何か、すごいものを見た気がする」
頭がボーっとする。記憶をたどろうとしたが、脳内が靄に包まれていて、はっきり思い出せない。
だが、すぐに取り出せる記憶もあった。
「エヴァンの精神面にかなり近づけたの。ラグナが眠っている状態で、チャンスだったから。でも、返事はなかった。エヴァンに私の声が届いてるのかもわからない」
「近づきすぎたから、消耗も激しかったのかい?」
ガルデの問いに、リカは首を振った。
「ううん、違うと思う。それと……、ひょっとしたら〈VERITE〉の方にも、私みたいな〈融合者〉がいるかもしれない。本人はまだ自覚がなさそうだけど」
エスパス内にいる精神体のリカの存在を、視えないながらも感知した者がいる。それがエブニゼル・ルドンだと名を明かすと、ガルデが瞠目した。
「ゼルのスペック〈サトゥルヌス〉はかなり強力なんだ。でも、控えめな性格だからか、本来の性能の半分も発揮できてないんじゃないかって、昔から言われてたよ。ゼルがパルス能力を持っているとなれば、細胞装置にも影響があるでしょうか、ヒルダ先生」
「ないとは言えないね」
ヒルダが応じる。
「クロセストや、あんたたちマキニアンの細胞装置の素材であるクリミコンは、モルジットをもとに生成している。モルジットはメメントを生み出す物質だ。だからクリミコンを通じて、ルドンの細胞装置に影響を与えるってことは考えられると思う」
「もし、ゼルにパルス能力があるのが事実なら、シュナイデルが放っておかないでしょうね」
「そりゃそうさ。貴重な実験材料が増えたって大喜びするだろうよ」
ヒルダは嫌悪感を全面的に押し出した顔つきで、ふんと鼻を鳴らした。
リカの直感が間違っていなければ、エブニゼルにはやはり、パルス能力の自覚がまだないだろう。彼の能力がどのように開花するか。それによって、状況が更に厄介になる可能性もありそうだ。
他にマインド・ダイブ中に起きた出来事と言えば……。
リカは、頭の中を覆い隠す靄を消そうと、丁寧に記憶をたどった。
ダイブスタートから、〈VERITE〉の海上拠点〈ヴィスキオン〉に辿り着いたところまで。
エブニゼルに存在を察知されてから、医療機器の中で眠るエヴァンの側へ近づき、何度も呼びかけた。
ダイブの限界を感じ、肉体へ戻ろうとして。
そして。
靄が突然晴れた。途端、抑え込まれていた記憶が波のように押し寄せた。あまりに急な奔流だったため、リカはめまいを起こして、ベッドに倒れ込んだ。
世界がぐるぐる回る。吐き気がする。同時に、焦燥感に駆られる。
「リカ、大丈夫かい? もう喋らないで休むんだ」
ガルデが心配そうに、布団を掛けようとしてくれた。リカはガルデの手を掴み、それを止める。
「だめ、まだ休めない。そんな時間、ない」
「何言ってるんだ。休まないと身体がもたないよ。まさかまたダイブする気? それは許さないからね」
ヒルダが眉を吊り上げた。彼女の立場からすれば、リカの研究チームの責任者として、リカの身柄を預かる者として、これ以上無理を重ねさせることはできないだろう。
二人の労わりの気持ちは、重々承知している。でも。
リカは定まらない目線を、なんとかガルデに合わせた。
「ガルデ、お願い。アトランヴィルに連れて行って。今すぐ」
「何を言い出すんだリカ! こんな状態で長距離移動なんてできないよ! しかももう遅い時間だ。行くならしっかり休息をとって……」
リカは首を振って、ガルデの抗議をさえぎった。
「待てない。時間が惜しいの。聞いて、エスパスで何があったか思い出した。強いパルスを持つ何かが二体、戦ってた。一方はわからないけど、もう一方の正体は、たぶん……ううん、間違いなく、シェド=ラザ」
ガルデとヒルダが息を飲む。
戦いに勝利したパルスの持ち主が何者だったのか。それに気づいたときのおぞましさが蘇り、再びリカを震え上がらせた。
シェドが近くにいる。実際に姿は視えなくとも、向こうはこちらにいつでも接触できるところにいる。そう、エスパスだ。
シェドの恐ろしさは、もはや説明の必要はない。出現したら最後、暴虐の限りを尽くすだろう。
一刻も早くこの危険を、アトランヴィルにいるレジーニたちに知らせなければならない。メールや通信ではなく、直接赴かねば。
悔しいが、リカにはシェドに対抗するだけの力はない。けれど、エヴァンがいない今、パルス能力者はリカだけだ。微々たる力でも、何か手助けできることがあるかもしれない。
それに――。
思い出したのだ。エスパスの中でシェドに襲われかけたとき、救ってくれた未知の存在が、最後にリカにささやいた言葉を。
――レジーニが怖がっている。支えてあげて。
あの存在が、なぜレジーニを知っていたのか。その答えはおそらく出てこない。だから考えるより行動しなければならない。
レジーニが怖がっている原因には、エヴァンの失踪もあるだろうが、それだけではない気がする。でなければあの存在が、わざわざリカに助言することはないだろう。なぜだか、そう思えた。
何より、冷静沈着で明晰なレジーニが“怖がっている”など、よほどのことが彼の身に起きたに違いない。
行ったところで何ができる?
一瞬、自問した。そしてすぐに、その問いを消した。
レジーニが怖がっているなら、寄り添っていたい。望むことを何でもしてあげたい。それで彼の心が、少しでも安らげるのなら。
リカは腕を支えに、上半身を起こした。身体が重くて満足に動けないが、気力を振り絞って、どうにか起こせた。
ガルデの手を握り直す。
「エヴァンがいないのに、シェドまで現れたら、きっと大変なことになる。お願いだからアトランヴィルに連れて行って。向こうに着いたら、少し休むから」
「馬鹿なことを言うな! あんた、そんな身体で外出させられるわけないでしょ!」
ヒルダがきつい口調で叱責した。
「モーゼス呼んでくるから、おとなしく寝てな」
「ヒルダ先生、時間がないの。今行かなきゃ」
「いいや、今じゃなくていい。あんたは休んで、ガルデに行ってもらえばいい」
「それじゃ遅いんです!」
思わず叫んだ、次の瞬間。
目の前で白い光が弾けた。
「……は?」
ヒルダは何度も目を瞬かせた。
科学者らしく、たった今起きた出来事を論理的に理解するため、思考を巡らせる。
だが、どうがんばってもわからなかった。
ヒルダの眼前には、医療用ベッドが設置されている。しかし、ついさっきまでそこにあった少女の姿は、ない。彼女が手を握っていた青年もいなくなっている。
リカとガルデは、ヒルダが見ている前で、唐突に、二人だけが世界から削られたように、忽然と消えた。




