TRACK‐4 埋火(うずみび)6
男と目が合ったとき、リカは反射的に両手で口を覆い、息を殺した。
正確には目が合ったのではないし、今のリカは精神体だ。呼吸しているわけでもないため、そんなことをする必要はない。精神体でも人間は、とっさの防衛本能が働くようだ。
(嘘……、この人、私が視えてるの!?)
訝しげな表情でこちらを見つめる男には覚えがあった。以前、自分を誘拐しようと襲ってきた痩身のマキニアンだ。ガルデに教えてもらった名前は、たしか、エブニゼル・ルドン。
エブニゼルが片腕を差し伸べ、おそるおそる近づいてくる。だが、その足の向く先は、リカがいる位置から、ややずれていた。
(視えてるわけじゃないんだ。でも、何かがいると感じ取ってる)
気配を感知できるだけでも驚異だ。ACUでは、誰も精神体のリカの存在を感知できなかった。マキニアンのガルデでさえ。
リカの精神体を視ることができたのは、同じパルス能力者のエヴァンだけだった。
であれば――、
(この人もパルス能力者……〈融合者〉なの?)
エブニゼルの伸ばされた手が、リカの横をかすめようとしている。逃げたかったが、下手に動けば感知されるかもしれないと思うと、身じろぎさえできない。
エブニゼルの顔が近づく。霧緑の目線は明後日の方向だが、いつこちらの位置を把握されるかわからない。
逃げようにも動けない。そのとき、
「ゼル、何をしてるの?」
自動ドアが開き、マキニアンの女性が声をかけてきた。エブニゼルの注意が、彼女に向けられる。
リカは大急ぎでその場を離れ、広いガラス窓をすり抜けて、メンテナンスルームの方へ逃げた。
エブニゼルに気づかれないよう、天井の角まで昇り、できるだけ身を縮める。
ガラスの向こうでエブニゼルが、部屋を見渡すように視線を動かした。リカがいなくなったのを察したのだろう。女性のマキニアンのあとに続いて、彼は部屋を出て行った。
自動ドアが閉まるのを見届け、リカはようやく胸を撫でおろした。
(よかった、見つからなくて。でも、あの人が〈融合者〉なら、どうしてあのとき何も感じなかったんだろう)
あのとき、というのは、エブニゼルに誘拐されかけたときのことだ。
パルス能力者同士は、互いを感覚で認知できる。だが、エブニゼルが現れたとき、リカは彼に対して、何かを感じ取ることはなかった。
(あのときの私は、自分の力に無自覚だった。ひょっとしたら彼も、まだパルス能力に目覚めてないのかも)
もし今後、エブニゼル・ルドンが〈融合者〉として覚醒したら、厄介なことになりそうだ。彼にどんな力が備わるにせよ、敵側にもパルス能力者がいるとなれば、一筋縄ではいかなくなるだろう。
リカは頭を振った。
(そこまで考えてる暇はないわ。とりあえずあとでガルデたちに報告するとして、今やるべきことに集中しなくちゃ)
気を取り直し、リカはエヴァンが眠るメンテナンスポッドの側まで降りていった。
部屋の中で忙しそうにしている研究者の誰一人、エスパス空間から物理世界を見つめる精神体のリカに気づいていない。
研修者の中に一人だけ、知っている顔があった。左目を眼帯で覆い、真っ赤な上衣を羽織る、異様に目立つ風貌の女。クロエ・シュナイデルだ。
(あの人……!)
リカは怒りを込めてシュナイデルを睨みつけた。あの狂気の科学者のせいで、どれだけの被害を受けたか。
フェイカーなどというとんでもない生体兵器を造り出したうえ、リカを実験目的で誘拐しようとした。
のみならず、リカの産みの母アンジェラが変異したメメント――オツベルさえも、身勝手な欲望のために道具のように酷使し、その挙句、死なせた。
彼女は絶対に許してはならない人物だ。
リカは両手をきつく握りしめた。生身であれば爪が食い込んで血が出そうなほど、強く。
しかしどれだけ憎かろうと、今は何もできない。リカは悔しい気持ちを押し殺し、シュナイデルから目をそらした。
(落ち着いて、リカ・タルヴィティエ。私が今やるべきなのはこっちよ)
自分に言い聞かせ、改めてメンテナンスポットを見つめる。
ポットの中で横たわり、眠っているエヴァン――今の彼をラグナと呼ぶべきなのかどうか。
リカは、マインドダイブで最初にラグナに接触したあの日以降、幾度もダイブを重ね、エヴァンの精神への呼びかけを試みていた。だが、そのたびにラグナに撥ねのけられてしまい、近づくことさえできなかった。
それでもあきらめず、今日も〈ヴィスキオン〉まで飛んできたところ、ラグナがこのメンテナンスルームに運び込まれる現場に行き合わせたのだった。
ラグナが眠り、無防備になっている状態は、またとないチャンスだ。今ならエヴァンに声が届くかもしれない。
リカは上半身までポット内部に入り込ませ、エヴァンの顔に自分の顔を寄せた。目を閉じ、集中してエヴァンのパルスを探る。やがて、毛糸のようにふわふわしたパルスの筋を見つけた。
リカはすぐさま、そのパルスを掴み、思念を送る。
(エヴァン、リカだよ。聞こえたら返事して)
何度も何度も、呼びかける。そうするうち、リカの意識は徐々にエヴァンのパルスに引き寄せられ、彼の内側深くへ潜っていった。
*
物音が聞こえた気がして、エヴァンは目を開けた。
「なんだ?」
仰向けの状態のまま、間違いなく聞こえたかどうか、耳をすませる。
何も聞こえない。
気のせいかと落胆した。
この虫の観察箱を連想させるムカつく部屋に閉じ込められてから、一体どれだけ経っているだろうか。時計はおろか、時間がわかるものなど何ひとつないので、今が昼なのか夜なのかも推し量れない。
ガラス壁の向こうは、相変わらず真っ暗だし、唯一のドアも開く気配がない。
アルフォンセはどうしているのか。デートの迎えに現れずに心配しているだろう。
きっとレジーニに相談して、二人で捜してくれているに違いない。
「くそ。閉じ込めたんなら閉じ込めたなりに、何かアクション起こしてこいよ。長時間放置プレイとか悪趣味にもほどがあるぞ。誰の仕業なんだよ、ったく」
もう何度声に出したかわからない悪態をつく。あまりの無音状態で、自分の声でも聞かなければ、本当に発狂しそうだ。
「俺をここに連れてきたのは」
つらつらと考える。
「やっぱ〈VERITE〉だよなあ」
思い当たるのはそれしかない。
「けどそれなら、なんで誰も出てこないんだ。特にあの眼帯マッド女。変な実験道具いっぱい持って来そうじゃん。あれか、俺がへたばるの待ってんのか? あいにくだな、俺はこの程度じゃヘコんだりしねえ」
「うるさい」
「つってもさすがに、こんな何もなくて静かな部屋に、長い時間ひとりきりってのは、まあ、なに、多少は? 多少は効いてるかもな。いいとこついてる。静かすぎて耳痛くなりそう」
「黙ってろ」
「だから黙ると静かすぎて耳が……」
飛び起きたエヴァンは、急いで周囲を見回した。
求めるものはすぐに見つかった。ガラス壁の向こうだ。ここに閉じ込められてから、初めて目にする他者。
その人物はエヴァンに背を向け、ガラス壁にもたれかかって座っていた。髪は茶色混じりの金髪。着ているのは、どうやらセパレートの病衣のようだ。
「お前誰だよ、〈VERITE〉の奴か? いつからそこにいたんだよ?」
声をかけながら近づいていく。すると、相手の方も立ち上がり、大儀そうに振り返った。
顔を見た瞬間、エヴァンの心臓は跳ね上がった。足を止め、ガラスの向こうの訪問者を凝視する。
「お、お前……」
訪問者は虚ろな眼差しで、エヴァンを見据えていた。まるですべての感情をそぎ落としたような、死んだ目だ。瞳の色は、見覚えのある緋色。
「お前……、誰だよ」
そうとしか訊きようがなかった。
目の前にいる人物は、エヴァンとまったく同じ姿をしていたのだから。
顔立ち、目の色、髪、体格。着ている病衣まで同じだ。鏡の前に立っているかと思いたくなるほど、何もかもが同じ。
ただ一つ違うのは、無表情だという点のみ。
胸の内側を激しく叩く心臓を、落ち着かせるように深呼吸し、エヴァンはガラス壁まで歩いた。
正面から向かい合うと、“自分がもう一人そこにいる”という感覚が襲ってきた。自分ではない“自分”。はっきり言って気持ち悪い。
「誰なんだ。なんで俺と同じ顔してんだよ」
エヴァンが繰り返し問うと、相手は嘲笑うように鼻を鳴らした。
「それは本気で訊いてるのか?」
自分と同じ声で、癪に障る物言いをされると、腹立たしさが増す。気味悪さよりも怒りが勝り、エヴァンは乱暴にガラス壁を叩いた。
「ふざけんな! せっかくのデートだってときに、こんなとこに閉じ込めやがって。アルには何もしてねえだろうな? 指一本でも触れたら許さねえからな! 俺のピアス返せ、アルからもらった大事なものなんだぞ!」
「心配する点がそこか。つくづくおめでたい」
「お前ら〈VERITE〉だろ。わかってんだよ、お前はスパイだってな!」
「は?」
相手が眉根を寄せた。初めて見る表情の変化だ。エヴァンは人差し指を突きつける。
「その顔は変装だ、そうだろ! ベリィって剥がれるようになってんだろ、映画の中のスパイみたいに」
“スパイ”は呆れたように両目をぐるりと回し、首を軽く横に振った。
「なんだよそのリアクション。他人の顔かぶってるくせに態度がデカいぞ。もっと申し訳なさそうにしろ」
「くだらない言葉で目を逸らそうとするのはやめろ。わかっているはずだ。頭ではなく、本能でもう察しているんだろう。俺が誰なのか」
逃げ場を塞がれた気がして、エヴァンは口をつぐんだ。
さきほど強烈に感じた、“もう一人の自分がそこにいる”という感覚。
相手の容姿を目にした瞬間に、脳裏をよぎった事実。
見たくないものを、とうとう目にしてしまった絶望。
それらが、壁の向こうの人物が何者なのかを、如実に物語っていた。
エヴァンは嘆息する。
「わかってるよ。生き別れの双子だろ」
「なんで主人格がお前みたいな奴なんだ、死んでくれ」
自分と同じ顔で、間髪入れず淡々と返されるのは、複雑な気分だし腹も立つ。エヴァンは若干のきまり悪さを感じながらも、やけくそ気味に訂正した。
「認めたくねえことを、ユーモアのクッションで衝撃緩和しようっていう、涙ぐましい抵抗だってわかれよ。くそ……。ラグナ、なんだろ?」
ラグナ・ラルス。
眼帯マッド女――クロエ・シュナイデルによって、自分の中に植えつけられた、もう一つの人格。エヴァンにとっては敬遠したい存在だ。
今までエヴァンの中で眠っていたはずのラグナが――一度だけ目を覚ましたことはあったが――、ついにこうして目の前に現れた。見ないように、気にしないように、頭の中から締め出してきたモノが、ガラス壁の向こうで……、
「ちょっと待て。なんで俺たち、向かい合ってんだよ」
ありえない。そう、ありえないのだ。
ラグナは、エヴァンの中にあるもう一つの人格。共有している肉体は一つきりのはずだ。
ならばなぜ、両者は今、互いに向き合うことができているのだ。
「よかったよ、そこに気づいてくれて。また軽口叩いたら本当に殺すところだった」
ラグナが嫌味たっぷりに、片方の眉を吊り上げた。
「おい、これはどういうことなんだ! 俺とお前は……どうなってんだ?」
エヴァンはガラス壁に手をつき、ラグナに顔を近づけた。ますます状況が理解できない。会えるはずのない存在同士が、どうして相対しているのか。なんとか理由を見つけようとしたが、エヴァンの頭は思考を放棄したように回らなかった。
「どうなっていると思う?」
ラグナが挑発めいた口調で問い返す。
「俺とお前がこうして対面している、その意味がわかるか? わからなければ、一生ここから出られない」
「ふざっけんなよ! クイズなんかやってられるか! あのドアの鍵、お前が持ってんのか? だったらすぐに出せ! さっさと渡してくれたら、ゲンコツ一発で勘弁してやってもいいぞ」
「鍵?」
「そーだよ鍵だよ、ドアとか窓とか閉めるやつだよ、鍵って見たことありますかー?」
エヴァンの煽りなど物ともせず、ラグナが口の端を歪めた。
「あのドアに鍵がかかっていると、お前は本気でそう思ってるんだな」
「どういう意味だよ」
ラグナは答えず、嘲笑を浮かべたまま、開かずのドアを指差した。調べてみろ。そういう意味だろう。
エヴァンの心臓が、疼くように早鐘を打ち始めた。なぜだかわからないが、今はあのドアに近づきたくない。
だが正体不明の嫌悪感より、ラグナへの対抗意識が勝った。エヴァンは内心の恐れを気取られないよう、平常を装ってドアの前まで移動した。
ドアノブを握ろうと右手を伸ばす。
ノブを回そうとした、そして。
「嘘だろ……なんで……」
散々、ドアを開けようと試した。何度も何度も。乱暴に殴ったり蹴ったりもした。いやというほどこのドアを見てきたのに。どうして。
鍵などついていないことに、気がつかなかったのだ。
鍵穴も、暗証番号を入力するテンキーも、カードキースリットも、何一つない。
エヴァンの身体は震えおののき、呼吸が荒くなる。そこにあるべきだと思い込んで、本当に鍵があるのかないのか、確認していなかった。ドアが開かないのなら、鍵がかかっているはずだ。そうであるべきだと、無意識に自分に言い聞かせていたのだ。
ドアが開かない正当性のある理由を、自分の中で作り上げ、それが真実だと疑わなかった。
そのことに、エヴァンは気づいてしまった。
「いや、違う。向こう側にあるんだ。そうだろ!? それか、どこか別の場所で遠隔操作するやつだ、そうに決まってる!」
それでもエヴァンは、たった今わかってしまったことを頭の中から振り払おうと、声を荒らげながらラグナのもとに戻った。
「いいかげんに俺をここから出せよ! こんなところに閉じ込めて、何が目的だ!」
エヴァンが怒声をあげても、ラグナは落ち着き払っている。
「お前はここから出られない。お前が出て行かない限り、出られない」
「何わけわかんねえこと言ってんだ! お前とクソみたいななぞなぞする気はねえんだよ!」
「なぜ開かないドアには鍵がかかっていると思った? なぜ鍵がないのにドアが開かない? なぜ俺たちは会うことができた?」
なぜ、
「なぜお前はここから出られない」
緋色の目が、自分と同じ目が、非難をもって見つめてくる。
視線をそらせない。そらすことが、許されないのだ。
凝視していると、自分が見ているのか、見られているのか、次第に自他の境界が曖昧になっていく気がした。
両者を区別する“個”の存在感が接触し、水中に流れた二色の絵の具のように、ゆっくりと混ざり合う。
こちらにいるのが自分なのか。
あちらにいるのは他人なのか。
「ドアを、開けろ」
ガラスの向こうで俺が言う。
どれくらい立ち尽くしていただろう。気がつけば、いつの間にか、目の前には誰もいなくなっていた。




