TRACK‐4 埋火(うずみび)1
押しつぶされそうなほど濃い暗闇の中に、レジーニはいた。
立っているのか、座っているのか、どこを向いているのか、何もわからない。
怖くはなかった。ただ、ひどく侘しい。
少し離れた所に、ぱっと光が射した。舞台のスポットライトのような、強い円錐形の光だ。
光の中に、髪の長い誰かがいる。こちらに背を向けているが、体格からして女性のようだ。
女は地べたに座り込み、ゆっくりと動いていた。
何をしているのだろう。気にかけると、レジーニの身体が勝手に女の方へ移動していった。
スポットライトの中の女は、素手で地面を掘っていた。掘り起こされた土が、彼女のそばで小山を築いている。
女の腕は白く華奢で、道具も使わず土など掘っては、すぐに痛めてしまいそうだ。
何をしているのか。問おうとしたが、口にはしなかった。動きは緩やかだが、一心不乱に土を掘る後ろ姿に、思わず見入る。
長い髪が流れ落ちる、ほっそりとした背中。スカートの裾から覗く、白くなまめかしい足。
この女を知っている。唐突にレジーニは悟った。
途端、急いでこの場を離れたい衝動に駆られた。けれど、足が動かない。
女の手によって掘られた地面の穴から、何かが飛び出した。
空気を掴もうとするように曲げられた、小さな五本の枝を生やした枯れ木――。
――いや、人間の手だ。
女が掘るのをやめ、振り返った。
感情のない美しい顔立ちが、レジーニを見上げる。
哀しむでもなく、憎むでもなく、ただ虚ろな、レジーニと同じ碧眼で。
唇が薄く開く。
「あなたに誰を救えるというの」
――姉さん。
※
目覚めた瞬間、汗がじわりと滲むのを感じた。心臓が早鐘を打つどくどくという音が、やけにはっきり聞こえている。
レジーニは仰向けで寝ており、身体には毛布が掛かっていた。見上げる天井には、小ぶりなシーリングファンライトが取り付けられ、柔らかな明かりで部屋を照らしている。
レジーニは胸が落ち着いてから、ゆっくりと起き上がった。寝かされていたのはソファだった。
室内を見渡し、どうも見覚えがある場所だと思ったら、ここは〈パープルヘイズ〉のデスク部屋だ。ヴォルフが事務仕事と仮眠をとるための小部屋である。
なぜこんな所に? 一瞬疑問が頭をよぎったが、答えはすぐに出た。
ベネット議員事務所での戦いのあと、体力が尽きてしまい、気を失ったのだろう。おそらくドミニクがレジーニの車まで連れて行き、〈パープルヘイズ〉へ戻ってきたと思われる。
(まったく、無様だな……)
嘆息し、前髪をかき上げた。鏡を見ずとも、髪のセットが乱れているのがわかる。ジャケットは脱がされて、ドアの横のポールハンガーに掛けられている。呼吸しやすいよう、ネクタイも緩められていた。眼鏡はすぐそばのテーブルの上。
すっかりドミニクに世話を焼かせてしまったらしい。なんとも情けないことだ。
窓の外に目をやると、空が紫とオレンジ色のグラデーションに染まっていた。天高い秋の夕暮れだ。少なくとも三時間程度は眠っていた計算になる。
それにしても――。
(姉さんが夢に出てきたのは、ずいぶん久しぶりだ……)
亡き姉の顔が、脳裏に蘇る。
姉エルイーズの夢を見始めたのは、レジーニが裏社会に足を踏み入れて間もない頃だ。生き残るのに精一杯だった駆け出しの時期、エルイーズはたびたび夢に出てきては、あの虚ろな碧眼で、じっとレジーニを見つめた。
いっそ責めるなり当たり散らすなり、なんなりしてくれれば。
殴ってくれてもかまわなかった。
だが姉は、何の感情もない眼差しで、堕ちた弟を見るだけ。それがたまらなく苦しく、レジーニの罪悪感を揺さぶるのだった。
あるとき、姉が夢に出なくなった。ルシア・イルマリアを出会った頃のことだ。
ルシアが死んでから、また出てくるようになった。そうして再び、長いこと弟の悔恨の念に訴えかけてきた。
しかし、いつの間にか、姉の夢を見なくなっていた。
(たぶん……)
コンビを組んでから、だと思う。
――あなたに誰を救えるというの。
夢の中の姉が言葉を発したのは、今回が初めてだ。
レジーニは大きく息を吐いてソファから立ち上がり、ポールハンガーに掛かるジャケットを掴んだ。眼鏡をかけ、
「やってみせるさ」
ひょっとしたら背後にいるかもしれない姉に呟き、ドアを開けた。
普段入ることのない厨房を通り、店の方へ向かうと、そこにいた全員の視線がレジーニに注がれた。
「おお、目が覚めたか」
最初に声をかけたのは、定位置であるカウンター内にいるヴォルフだった。
「よかった、気がついて。もう動いて大丈夫なのですか?」
ドミニクが座っていたカウンタースツールから降り、心配そうに寄ってきた。
「大丈夫だ、ありがとう。君に手間をかけさせてしまったようだ」
頷いて言葉を返すと、ドミニクは、気にしないでと軽く首を振った。
客席にはユイとロゼットの姿もあった。レジーニと目が合った二人が、小さく手を振る。
そして、ドミニクの陰になって気づかなかったが、カウンタースツールにはもう一人、あの男が座っていた。
突如現れ、驚異的な戦闘力でラグナ・ラルスを退けた、黒髪藤眼の男。
穏やかながら、どこか倦んだような目でレジーニを見つめ、頭を傾けるだけの会釈をした。
それに対しレジーニは、何も返さなかった。目線をドミニクに戻し、彼女の左肩の具合を確認する。ラグナにやられた傷はどうなったのだろう。
「君の方は、もういいのか?」
「ええ、なんとか塞がりました。メンテナンスも受けたので、もう大丈夫です」
「メンテ?」
マキニアンのメンテナンスができるのは、専用の機材を所有しているアルフォンセだけだ。彼女がいない今、誰がドミニクのメンテナンスを行えたのか。
レジーニの疑問を察したのか、ユイがロゼットを指して言った。
「ロージーだよ。もしものときに備えて、メンテできるようにアルからやり方教わってたんだって。実際やるのは今日が初めてだけど」
「余計な一言付け加えないで」
ロゼットは空色の目を細めて、正直なユイを睨む。
ロゼットが座る椅子の背後に、小型のキャリーケースが置かれている。あの中に、メンテナンス用機材が入っているのだろう。
ロゼットは伏し目がちにレジーニを見た。
「万が一、アルがメンテできないときのために、私が代わりを務められたらと思って教えてもらってたの。こんな状況で、とは予想してなかったわ」
いつでも機材を持ち出せるように、アルフォンセの部屋のスペアキーも預かっていたそうだ。
ベネット議員事務所から〈パープルヘイズ〉に引き揚げる際、ドミニクがロゼットとユイに連絡し、メンテナンス機材を持ってきてくれるよう頼んだという。
破壊された二基の浮遊砲台は修理できなかったものの、ドミニクの負傷を治すには充分だったようだ。
「ニッキーから電話があったのは、ちょうど学校が終わった頃だったんだ」
ユイが恨みがましそうな目を、ドミニクに向けた。
「今日のこと、なんでもっと早くボクたちに教えてくれなかったのさ。二人より四人の方が有利になるだろ」
「あなたたちには学校があるでしょう。それに、ラグナが現れるような危険な状況に、連れて行けますか」
「こんなときにまで学校優先しなくたっていいじゃん。学校に通うのはボクらの希望だったし、ニッキーが将来のために勉強しなさいって言ってくれてるのもよくわかってるけど、それより大事なのは仲間だろ。ボクらだって……」
「私の姿を見たでしょう? ラグナは容赦しない。あなたたちまで襲われたら……」
「要するに信用してないってことよね、私とユイを」
ロゼットがドミニクの言葉を遮った。レジーニとヴォルフ、そしてルミナスを含めた全員の視線が、彼女に注がれる。
ロゼットは、ドミニクだけを見つめていた。
「私たちもマキニアンよ。戦う力は持ってるし、自分の身は自分で守れるわ。なのにニッキーは、私たちを戦いの前線から遠ざけようとしてる。私たちが弱いから。戦闘において信用できないからよ。そうでしょ?」
静かだったロゼットの声色が、徐々に熱を帯びていった。それにつれて、表情も強張っていく。
一方のドミニクは、ショックを受けたように目と口を開いていた。
「何を言ってるのロージー。あなたとユイが弱いだなんて、そんなこと思ってません」
「思ってなくても、ニッキーがやってることは、私たちに戦力外通告を突きつけてるようなものよ。戦わないマキニアンにどんな価値があるっていうの?」
「ロージー、それは言いすぎだよ」
ユイが気まずそうにロゼットの手を握り、自制を促す。しかしロゼットはその手を振り払い、立ち上がってドミニクに詰め寄った。
「オツベルのときもそうだったじゃない。私たちには何も知らせてくれなかった。オツベルがどうなったか、あとから聞かされた私たちの気持ちがわかる? 肝心なときに力になれない。大事な人たちのそばにいさせてもらえない。こんな惨めなことってないわよ!」
レジーニの知るロゼット・エルガーは、およそ感情表現豊かという言葉とは縁遠い少女だ。
けれど今、涙目でドミニクに思いをぶつける様は、彼女が心の内では深い慈しみの情を持つ何よりの証であった。
義理の姉妹たち、ひいては仲間を愛し守りたいと願っているのに、マキニアンでありながらそれができない。ロゼットの性格上、これまでずっと吐き出せずに無念だけが募っていったのだろう。
人語を解し話す特殊なメメント――オツベルを、最初に保護したのはロゼットとユイだ。彼女の最期を伝えたときの二人の悲しみようは、レジーニでさえ胸を痛めた。
冷静沈着で、身体を動かす前に頭で考える。そんな性格ゆえに、秘める思いが積もりに積もって、あるとき一気に溢れかえってしまう。自分と似たタイプのロゼットの悔しさが、レジーニには理解できた。
横目でドミニクを伺うと、青ざめてはいるものの、目を反らさず義妹の言葉を受け止めているようだった。
「ロゼット。ドミニクが君やユイを信用していないなんて、本気で思っているわけじゃないだろう?」
レジーニは半歩ほど進み出て、ドミニクとロゼットの中間に立った。
「僕はワーズワース大学での、君たち三人の戦いぶりを見た。それぞれの役割をこなして、互いに信頼がなければとれない連携だった。君は充分戦力になっている」
仲裁役など、似合わないことをしていると自分でも思う。いつもならこういうとき、不和の間を取り持つのはエヴァンだった。
だがエヴァンが今この場にいたとしても、ロゼットの感情の奔流は止められなかったかもしれない。
ロゼットは一瞬レジーニを睨んだが、すぐに矛先をルミナスに変えた。
やにわに注目されたルミナスは、やや驚きはしたようだが、うろたえることなく空色の視線を迎え入れた。
「あなたは、どうして十年以上も雲隠れしてたんですか? もっと早く力を貸してくれれば、こんなことにはならなかったはずなのに。〈VERITE〉のやってることを、もっと早く止められたのに」
それに関しては、レジーニも同意見である。どんな弁解を聞かせてくれるのか楽しみだ。
ルミナスが何か答えようと口を開く。が、その口から声が発せられるより先に、ロゼットの感情がほとばしり出た。
「ラグナに勝てるだけの強さがあるのに、どうして今まで一緒に戦ってくれなかったんですか。戦うのが嫌で逃げてたのなら、私にその力をちょうだい。私に、前に立って戦える力をちょうだいよ!」
それは、レジーニが初めて耳にする、ロゼットの叫び声だった。
少女の心の訴えに、誰もが口をつぐんだ一瞬のあと。ロゼットは踵を返して走り出し、色素の薄い金髪をなびかせながら〈パープルヘイズ〉の外に飛び出してった。
ドミニクが、戸惑いながらも追いかけようと、出入り口へ駆ける。それを制し、ドアを開けたのはユイだ。
「大丈夫。ロージーのことはボクにまかせて」
ドミニクを元気づけようとしたのだろう。ユイは頼もしげに頷いてみせてから、外へ出てドアを閉めた。
にわかに静まり返る店内。やや沈んだ空気の中、打ちひしがれたドミニクが小さく嘆息する。
レジーニはドミニクの背をそっと押し、カウンタースツールに座るよう促した。素直に腰を下ろしたドミニクは、カウンターに肘をつき、両手に顔を埋めた。ロゼットの反発がこたえているようだ。
ドミニクが二人の義妹を、戦力として信用していないなどあるわけがない。ワーズワース大学がメメントの群れに襲撃されたとき、彼女たち三人は見事なチームワークで敵を制圧していった。
長く共に生きてきた者同士の、無言でも通じ合える信愛があってこその団結力だと、レジーニは高く評価している。
「私が間違っていたのでしょうか。ロージーにあんな思いをさせていたなんて、少しも考えたことがなかった」
俯いたまま、ドミニクが震える声を漏らす。
「私はただ、せめてあの子たちには、まともな生活を送れるようにしてやりたかっただけ。オツベルのときのことも、あの子たちが傷つかずにすむようにと思って……。でもそれは、独りよがりの押しつけだったのね……」
「君が間違っていたわけじゃないさ」
レジーニはドミニクに語りかけながら、ロゼットとユイが出て行ったドアを見つめた。
「ただ、言葉が少し足りなかったのかもしれない。君たち三人がね」
互いを想うがために、悲しいすれ違いが起きてしまうことはままある。
言わなくてもわかってくれるだろう、という思い込みと、守りたいという意思が強いあまり、利己的な行動に走ってしまう。
つい先日、レジーニはリカに対して、独善的な言動を繰り返していた。そのせいで彼女を危険に晒したばかりか、結果的に傷つけてしまった。
そんな過ちを犯したゆえに、ドミニクの気持ちは理解できるつもりだ。
ドミニクがユイとロゼットを守ろうとしているように、ユイとロゼットもドミニクを守りたいのだ。けれどドミニクがなかなか頼ってくれないから、二人はもどかしく感じていたのではないだろうか。
ロゼットは特に、歯がゆく思っていたことだろう。
エヴァンと連絡がとれなくなり、アパートを確認しに行き、アルフォンセも行方不明だと判明したとき、ロゼットは珍しく焦った様子で、後先考えずに捜しに行こうとしていた。
彼女らしからぬ態度だったが、今ならその理由がわかる。
アルフォンセやエヴァンの身を案じるのに加えて、自分も戦力になれるのだということを、ドミニクに気づいてほしかったのだろう。一人で背負い込まず、もっと自分とユイを頼ってくれと、そう言いたかったのだ。
ルミナスがドミニクのそばに寄り、肩に手を置く。ドミニクが顔を上げると、ルミナスは口元を引き締めて小さく頷いた。
「あの子は……ロゼット・エルガーは、たしか後方支援特化の第三世代型、だったか。もう一人は、シェン=ユイ」
「はい。隊長はお会いになったことはありませんでしたか」
「あのときはまだ幼い子どもだった。〈パンデミック〉の犠牲になったのではと案じておりやしたが、二人とも立派に育てやしたね」
「隊長……」
言葉に詰まったドミニクが、片手で口を塞ぐ。
レジーニは、ルミナスとドミニクのやりとりに眉をひそめた。正確に言えば、ルミナスのふるまいに対して、不快感を抱いたのだ。
マキニアンの少数精鋭部隊〈処刑人〉の隊長だったかどうだか知らないが、その身分にありながら、長い間〈VERITE〉に与する元部下のマキニアンたちの暴走を止めもせず、いったいどこで油を売っていたのか。
責任放棄もはなはだしいくせに、かつての上官として心を痛める元部下を慰めるのは当然、とばかりにドミニクに話しかけている。
まずはおたくのアホの一人の面倒を見てきた僕に、諸々説明があって然るべきではないのかと、胸倉を掴んで問い詰めてやりたいところだ。
とはいえ、ここはヴォルフの店である。そして彼は一応、命の恩人だ。腹立ちまぎれに偏狭的にならず、良識ある人間らしく穏便に済ませなくては。
穏便に済ませようとして、溜まりに溜まった嫌味や皮肉や当てこすりが、口をついて出たとしても他意はない。
視線に気づいたルミナスが、顔上げてレジーニと向き合った。
レジーニはにっこりと愛想よく笑った。
「これはこれは僕としたことが、助けていただいたお礼をまだ言ってませんでしたね。でもすみません、僕は人見知りなので、きちんと紹介を受けていない初対面の方とはうまく話せないんです。
ドミニク、気落ちしているところすまないが、こちらの腰抜け与太野郎を僕に紹介してくれないかな」




