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TRACK-2 火の消えた街 3

 エヴァンは衣類タンスの抽斗(ひきだし)を開け、中身をさんざん引っ掻き回し、ようやく目当ての服を発見した。白っぽいパーカーに合わせるロングTシャツを探していたのだ。

「おお、あった! こっちの抽斗だったか」

 いそいそと袖を通し、上からパーカーを重ねる。裾から少しTシャツが見える着方が流行りだ。これにスウェットパンツを合わせ、最近古着屋で買ったレザージャケットを羽織れば完璧。

 鏡に自分の姿を映してチェックする。問題ない。というか、我ながらよく似合っている。

 服の合わせパターンとしてはいつもとあまり変わらないが、ちょっと奮発して買ったものを選んだ。

 今日はこれからアルフォンセとデートなのだ。普段よりいい服を着たいというのは、老若男女共通の心理だろう。

 腹の底の隅でもやもやしていた悩みは、今朝目を覚ましたときにはもう消えていた。愛する彼女とデートの日に、悩み事など抱えていられない。

 時刻は午前十時を数分過ぎた頃だ。そろそろアルフォンセを迎えに行かなければ。

 エヴァンは点けていたテレビを消そうと、リモコンを手にした。ふと、画面に映し出された光景を見て、電源ボタンを押す指を止める。

 テレビ画面の中で、建物が燃え上がっていた。見たことのある場所だ。表示されたテロップを読むと、「アンブリッジ議事堂爆破 テロか」とある。

「うわ、昨日ニッキーと話してた場所じゃねえか? たしか政治家たちがランチするんじゃなかったっけ」

 エヴァンはテレビが映し出す大騒動に、ほんの少し傾注した。

 それゆえ、携帯端末(エレフォン)が鳴り出したとき、ディスプレイの表示をろくに確認せず、通話をONにしてしまった。

 あと少し、注意をテレビから端末ディスプレイに向けていれば、非通知設定からの着信であることに気づけただろう。そうすれば、非通知からの電話には迂闊に出るな、という相棒の教えを思い出しただろう。

 けれどエヴァンは電話に出てしまった。

「もしもし?」

 意識をテレビに向けていたので、うわの空で応答する。

 抑揚のない低い声が返ってきた。


『時間だ、家に帰れ(・・・・)。ゲストと一緒にな』


 その刹那、目の前が闇に包まれた。

 エヴァン・ファブレルの意識は、そこで途絶えた。


         *


 の目覚めは唐突だった。しかし、いつ招集がかかっても応じられるように、彼は訓練されている。

 長い眠りに就いていたときでさえ、ただ一人の主の声を聞いた瞬間、即座に覚醒した。


はい長官(イエスサー)


 命令を受けた彼の行動は早い。電話を切り、携帯端末を握り潰す。最新技術の粋を集めた精密機械が、粉クズと化して床に散らばった。

 壊してしまった端末に、エヴァン・ファブレルにとって大切なデータがたくさん保存されていることなど、彼は微塵も興味がない。

 愛する恋人や仲間たちと撮った写真や動画、連絡先、音楽、コーヒーのブレンドのメモ。凍結睡眠(コールドスリープ)から目覚めて以降、積み重ねてきたエヴァン・ファブレルの人生の足跡が、たった一台の携帯端末に凝縮されていた。

 エヴァンにとっては自由の証でもあった。誰の命令も受けず、道具扱いもされず、愛するものだけで築き上げられた自由の象徴。

 しかしそれは、彼には無価値なものだ。

 早足で玄関まで移動し、ドアを開ける。脇目もふらず廊下を進み、向かいにあたる部屋の前に立った。

 力づくでドアを開けようとして、やめる。突然の来訪者に怯えたゲスト(・・・)が騒いで、アパートの他の住人たちに気づかれると面倒になる。それは命令の範疇にない。主の命令には忠実でなければ。

 彼はドアを軽くノックした。


         *


 外出の支度をしていたアルフォンセは、にわかにテレビを賑わせる事件に息を呑んだ。

 テレビ画面は、〈パープルヘイズ〉の近くにあるアンブリッジ議事堂から黒煙が立ち昇っている様子を、延々と放送している。時おり、割れた窓から炎が踊り出て、野次馬たちの悲鳴が聞こえた。

 レポーターの実況を聞くところによると、反政府テロではないか、とのことだ。

「ひどい、どうしてこんなことを……」

 平和なはずの日曜日。悪意に満ちた凶行で、人々を恐怖に陥れるなど、あってはならない。

 事件現場がなじみ深い〈パープルヘイズ〉の近くなのも気になる点だ。日曜日は店休日なので、誰かが近くにいる、ということはないだろう。しかし、周囲に被害が及ぶ可能性もありうる。

 こんな大事が起きているときに、デートなどしていていいものだろうか。若干のうしろめたさを感じつつ、はらはらしながら成り行きを見守っていると、ドアをノックする音が聞こえてきた。

 エヴァンが迎えに来てくれたようだ。彼もこの事件をテレビで見ただろうか。アルフォンセはいそいそと玄関に向かい、ドアを開けた。

 入口を塞ぐようにして、エヴァンが立っていた。

「おはようエヴァン。ねえ、ニュースを見た? アンブリッジ議事堂が……」

 言いかけたアルフォンセは、奇妙な空気を感じて口をつぐんだ。いつもなら笑顔で「おはよう」と挨拶してくれるエヴァンだが、今日は無言だったことに気づいたのだ。

 どうしたのだろう、とエヴァンを見上げる。その顔に表情はなかった。

「エヴァン?」

 急に不安になり、おそるおそる名前を呼んだ。

 エヴァンはいつも明るく朗らかで、よく笑い、アルフォンセを見つめるときは、眼差しに優しさを湛えていた。もちろん、たまには無表情になることもある。だがそんなときでも、内面の快活さや鷹揚さが自然と滲み出ていた。

 ところが今はどうだろう。何の感情も読み取れない。

 火のような瑪瑙、と称された綺麗な緋色の瞳に光はなく、錆びた鉄玉のごとく淀んでいる。

 アルフォンセに向ける視線は、見知らぬ他人に対するそれで、よそよそしいを通り越した無関心さが強調されていた。

 アルフォンセの知る限り、エヴァンがこんな顔を見せたことはない。相手が敵であっても、エヴァンは何かしらの感情を持っていた。

 これではエヴァンの姿をした別人だ。

「エヴァン、どうしたの? なんだか……」

 言い終わる前に、エヴァンがアルフォンセの手を強く掴んだ。そのまま部屋から引っ張り出され、アパートの廊下に連れ出される。

「ま、待ってエヴァン! お願い、ちょっと待って!」

 アルフォンセは、大股で歩くエヴァンの背中を、信じられない思いで凝視した。普段の彼からは考えられない行動である。

 部屋のドアは開いたままだ。テレビも消していないし、バッグもコートも置きっぱなしである。何度も“待って”と訴えたが、エヴァンは聞き入れてくれない。

 怖くなって逃げようと試みたが、非力なアルフォンセの抵抗など、エヴァンにとってはいささかも妨害にならなかった。

 エレベーターに載せられ、一階まで降りる。その間、ずっと強い力で手首を掴まれていた。マキニアンの彼にしてみればかなり手加減しているのだろうが、それでも痛い。

 こんなふうに、痛みを与えて言葉もかけないなど、エヴァンがやることとは思えなかった。

「ねえ、何があったの? どうしてこんなことするの?」

 エヴァンの横顔を見上げて話しかけるが、返事はなかった。まっすぐエレベーターのドアを見据え、アルフォンセには一瞥さえくれない。 

 知らぬうちに怒らせるようなことをしたのだろうか? いや、たとえ腹を立てているとしても、こんな強硬手段をとるような人ではない。

 少なくとも、いつものエヴァンなら。

 エレベーターが一階に到着し、そのままアパートの外へ。

 冷たい風が一陣吹きつけ、アルフォンセはぶるりと震えた。エヴァンにこちらを気遣うそぶりはない。 

 引きずられるようにして連れて来られたのは、人気のないアパートの裏手だった。

 黒い車が二台、縦列に並んで停まっている。車にはアルフォンセの知らない人々が乗っており、二台目の車の後部窓はスモークフィルムで中が見えなかった。

 二台目の車の助手席から、一人の女性が降りてきた。前髪を綺麗にうしろでまとめた、ブルートパーズの瞳の美女だ。

 エヴァンがアルフォンセを車の側へ押し出すと、女性は二台目の車の後部ドアを開けた。

「乗って」

 ごく短い言葉だが、明らかな命令口調だ。

 乗りたくない。事態の把握ができないこんな状況で、見知らぬ連中の怪しい車に乗ることなど、どうしてできよう。

 アルフォンセはエヴァンを見上げた。どうか冗談だと言ってほしい。ちょっとたちは悪いが、驚かそうとしただけなのだと、笑ってネタばらしをしてほしい。心からそう願った。

 けれど、エヴァンは一度もアルフォンセを見なかった。それどころか、アルフォンセを女性に引き渡し、さっさと前の車に乗り込んだのだ。

 心臓をひねり潰されたような苦痛が、アルフォンセを絶望の海に叩き落とした。

 これは何かの間違いだ。エヴァンがこんな無体をするはずがない。あれはエヴァンの姿をした別人に決まっている。

 心の中で自分にそう言い聞かせても、黒い緞帳のような落胆は、アルフォンセに巻きついて離れなかった。

「乗りなさい」

 女性が再び事務的な指示を下し、アルフォンセの背中を押して、車に乗せようとした。抵抗する気力を失くしたアルフォンセは、言われるまま乗るしかなかった。

 女性はアルフォンセが乗るのを見届けると、助手席に戻った。

 後部座席には、すでに誰かが乗り込んでいた。ぼんやりとそちらを見やる。 

 ゆるく波打つ長い髪をひとつに束ねた、秀麗な顔立ちの若い男だった。軍服に似た白い服を身に纏っているが、軍人とは思えない佇まいだ。

 男が無言でアルフォンセを見つめ返す。その瞳が自分と同じ深海色だと気づいたとき、二台の車は発車した。

 男の顔立ちには既視感があった。どこかで会ったことがあるような気がする。

 だがそれよりも、エヴァンから受けた仕打ちへのショックが大きく、隣に座る男とどこで会ったのか、記憶を遡る余裕はなかった。

 

 車は傷心のアルフォンセを乗せ、サウンドベルの街を走り続ける。

 窓越しに流れ去っていく景色は、なんの慰めにもならず、スモークフィルムで薄暗く見える分、アルフォンセの心をますます曇らせた。

 こっそりドアロックを外せるか試してみたが、案の定開けられなかった。

 感情が消えたエヴァンの冷たい顔が脳裏をよぎる。思い出せば出すほど、無数の針で刺されるような痛みが、胸を苦しめた。


(今のエヴァンは、まるで別人のよう……)


 別人――。

 アルフォンセは小さく息を呑んだ。


(まさか……)


 そんなはずはない。沸き起こった推測をすぐに振り払うものの、それ以外に考えられないと、内なる声が強く主張する。

 エヴァンの中には、封印された“もう一人のエヴァン”が眠っていた。エヴァンの、失われた過去の記憶に関する重要な鍵であり、彼を悩ませてきた疎ましき存在。

 その人格が目覚めたとしたら?

 エヴァンの“過去の亡霊”が、とうとう彼を捕らえてしまったのだろうか。


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