INTRO
息が切れるほど全力疾走するのは高校時代以来だが、今のアンドリュー・シャラマンには、そのことを思い出す余裕などなかった。
ラボにこもり一日中研究に没頭する日々のせいで、体力はすっかりなまっている。もともと運動神経には恵まれていない。体育の授業はいい思い出がなかった。
自分の鈍足を失念するほど、シャラマンは焦り、急き立てられていたのだ。
政府直轄の総合研究施設〈イーデル〉。あらゆる分野の研究が行われている巨大ラボラトリーである。
白い壁と頑丈なガラスで構築された建物、その西棟三階の廊下を、シャラマンは懸命に走った。足がもつれ、何度も転びそうになり、そのたびにたたらを踏んだ。心臓はばくばくと脈打ち、荒い呼吸のせいで肺が今にも破裂しそうだ。それでもシャラマンは立ち止まらなかった。
急がなくては。一刻も早く。一秒でも早く。
もう間に合わないだろう、と、心の影から声がする。その声には耳を貸さず、ひたすら走った。
角を曲がった直後、反対側から歩いてきた研究者と肩がぶつかった。あまりに勢いよく衝突したせいで、お互いにバランスを崩し、相手の方は手荷物を落としてしまった。
普段のシャラマンならすぐに謝り、荷物を拾うのを手伝う。しかし今ばかりは、相手を気遣うゆとりがなかった。
「アンディ!? 一体どうしたんだ?」
かけられた声で、ぶつかった人物が友だと気づいた。一瞬、足を止めようと思ったが、先を急ぐ方を優先した。
「す、すまないフェルディナンド、急いでるんだ……すまない」
謝罪の言葉もおざなりに、フェルディナンド・メイレインの顔を見ることもなく、シャラマンは前を向く。
友人が再度名前を呼んだが、振り返らなかった。
西棟と東棟を結ぶ連絡通路を、物々しい集団が足早に歩いていくのが見える。研究者といかめしいSP、という奇妙なグループの中心に、目的の人物が混ざっているのを発見したシャラマンは、最後の体力を振り絞って追いかけた。
集団はガラス張りの連絡通路を渡って、東棟に行こうとしていた。シャラマンは乱れる呼吸を何とか整え、あえぎながら叫んだ。
「ソニンフィルド長官!」
名を呼んだ彼が、ぴたりとその場に留まった。すると周りを取り巻く集団も、彼に倣って足を止め、シャラマンを振り返る。
彼――ディラン・ソニンフィルドは、奇妙な集団の只中にあってなお異彩を放つ存在だった。
体格はがっしりとたくましく軍人らしい。鍛えた身体を包むのは、彼のために特別に拵えられたオフィサーコートだ。これだけでも圧倒的な存在感を醸し出しているのだが、ディラン・ソニンフィルドという人物の特徴としてもっとも特筆すべきは、左の口元だけが露わになった黒い仮面であろう。
仮面の造形は、凹凸がほとんどなくつるりとしている。ソニンフィルドは常にこの仮面を被っており、誰にも素顔を見せない。軍部の長たる陸・海・空の三将軍でさえ、彼の顔を知らぬという。
顔だけではない。ディラン・ソニンフィルドの詳細な素性を知る者は、ほとんどいないと言われている。三将軍ならば、顔は知らずとも経歴くらいは把握しているだろうが、それらの情報が下々に伝わることはない。
あらゆる面で謎に包まれている彼の、公の肩書き。
それが、対メメント戦闘員マキニアン部隊〈SALUT〉の司令官、である。
ソニンフィルドの傍らには、シャラマンのよく知る人物がいた。白衣ではなく赤い研究衣を羽織った女性、シャラマンの助手であるクロエ・シュナイデルだ。
ソニンフィルドを畏怖する取り巻きたちとは違い、シュナイデルは堂々と彼の隣に立っている。自分はソニンフィルドと対等の関係である。周囲にそう主張しているのだろう。いかにも野心家の彼女らしい。
だが、なぜ今、シュナイデルがソニンフィルドと共にいるのか。
厭な予感が膨れ上がった。
「これはシャラマン博士、ごきげんよう」
ソニンフィルドが慇懃に会釈した。声色は朗らかだが、口調には抑揚がない。シャラマンは彼の醸し出す空気に呑まれそうになったが、なんとか勇気を奮い起こした。
「ソニンフィルド長官、どういうことか説明してください」
「どういうことか、とは?」
「あの計画は中止になったはずです。少なくとも、私の許可なしには実行できない。そして私が、計画実行を許可することは絶対にありません。それなのに」
気持ちが逸って息が荒くなる。シャラマンは一度深呼吸し、落ち着けと己に言い聞かせた。
「あなたが、任務でもないのにあの子をどこかへ連れて行ったと……そう聞いて……」
「私があなたに無断で計画を実行した、とお考えになったわけかな。まあ、あの計画の話が出たあとのことだから、疑うのも無理はない」
黒い仮面から唯一覗く口元が、不敵に歪んだ。
「アンドリュー・シャラマン博士。あなたは、実現不可能とされていた〈細胞置換技術〉を完成させ、マキニアンという奇跡の存在をこの世にもたらした天才だ。私はあなたには最大の敬意を抱いている。だが」
ソニンフィルドは静かに一歩、シャラマンに近づいた。
「私が何かを実行する際、許可を得るのはあなたではない」
そのとおりだ。ソニンフィルドは軍人、シャラマンは研究者。〈SALUT〉という特異な所属で繋がってはいるものの、両者の立場に上下はない。むしろ、司令官という役職に就いている分、実権を握っているのはソニンフィルドである。
けれどもマキニアンに関しては、シャラマンこそが権威だ。
「だとしても、私抜きであの計画を進めようとするなど、あまりにも横暴です! 今後は、疑わしい行動は慎んでください。あの子はどこですか? 連れて帰ります」
シャラマンが詰め寄ると、司令官は片手を顎に当てた。
「ふむ、それは難しい。このまま帰すには、まだ不安定だ」
「なんですって……?」
思わず聞き返す。するとシュナイデルが近づいてきて、司令官の代わりに答えた。
「気持ちはわかるんですけどね、先生。もう手遅れですよ?」
「手遅れ?」
その言葉の意味を理解したくなくて、シャラマンは小さく首を振る。シュナイデルが黄水晶の目を細め、見下すように嗤った。そして自分の背後を指差し、シャラマンによく見えるよう、わざわざ立ち位置をずらした。
シュナイデルの影に隠れて視界に入っていなかった人物が、前を向いたまま、つまりシャラマンに背を向けたまま立っている。
顔を見なくても、茶色混じりの金髪と背格好でわかった。
マキニアンが定期メンテナンスのときに着用する検査着姿で、これだけシャラマンが騒いでいるにも関わらず、振り返りもせず微動だにしない。
いつもの彼らしからぬ態度に、シャラマンは一層、焦燥感を募らせた。
(不安定? 手遅れ? まさか、いや……そんな)
今、自分はどんな顔をしているのだろう。よほど惨めな面構えになっているに違いない。こちらを見るシュナイデルの表情が、ざまあみろと快哉を叫ばんばかりに歪んでいる。
「君が……やったのか?」
「あなたがやらないんだったら、あたししかいないでしょ。優秀な助手を持ててよかったわね。いつでも引退してどうぞ」
シュナイデルが手をひらひら動かしながら、シャラマンを嘲笑う。
だがシャラマンには、助手の無礼な態度などどうでもよかった。背を向け続ける検査着のマキニアンのことしか、頭になかった。
「エヴァン」
マキニアンの名前を呼ぶ。しかし、反応はない。
「エヴァン、私だ。部屋に帰ろう」
駆け寄ろうとしたが、たちまちSPに行く手を阻まれた。SPをすり抜けようとするも、ことごとく防御され一歩も前に進めない。
いくら声を張り上げて名前を呼んでも、マキニアンの彼は一切応えなかった。
(嘘だ、嘘だ……ああ、そんな……、そんなことが)
振り返って、いつもの明るく元気な笑顔で、騙されたなと笑ってくれ。
質の悪いいたずらだと、ただ驚かせたかっただけなのだと、そう言ってくれ。
シャラマンの祈りは、あまりにも儚かった。
「博士、彼はもう、その名前では振り向かないのだよ」
黒い仮面の男が、シャラマンの耳元で囁く。
「彼は今や、人類の新たな希望なのだ。より強く、より高みに立つ者。彼はこれから多くのメメントを倒し、世界に安寧をもたらすだろう」
この男が何を言っているのか理解できない。シャラマンは渇ききった喉を震わせ、声を絞り出した。
「エヴァンは私の養子になることが決まっていた……その許可が下りていたことを、あなたは知っていた。それなのに」
奪っていくのか。
「それなのになぜ、……なぜです?」
言葉を続けられなかった。あまりにもショックが大きすぎて、胸中を満たす怒りと悲しみの一部すら、満足にぶつけられない。
呆然と、ただ惨めな表情で訴える。そうするだけで精いっぱいだった。
ソニンフィルドがシャラマンの肩に手を置く。仮面に隠された素顔は、どんなふうにシャラマンを見ているのだろう。
「博士、気の毒だが、養子縁組の許可が下りる前に、こちらの計画の実行が決まったのだよ。ほんの少しの時間差だった。どちらが先に決まるかなど、誰にも読めなかっただろう。それに」
黒い仮面が、ぐっとシャラマンに近づく。
「いつかこうなるとわかっていたはずだ。彼は生まれたときから選ばれていたのだから。フェイトと同じように」
「私の、息子なんだ……。家族になると……」
「では誇りに思うといい。あなたの息子は〈アダム〉フェイトとともに、世界と人類を次のステージに引き上げる先導者になるだろう」
膝から力が抜け、シャラマンは廊下にへたり込んだ。
ソニンフィルドと取り巻き集団が遠ざかっていく。シュナイデルが「じゃーね先生」と、やけに明るい口調で言ったような気がするが、シャラマンの耳にはろくに届いていなかった。
養子に迎えるはずだった青年も、ソニンフィルドとともに行ってしまった。一度として振り返ることなく、シャラマンを置き去りにして。
立ち去った集団と入れ替わるように、誰かがシャラマンのそばへやってきた。
そっと片膝をつき、シャラマンの背に手を当てる。ソニンフィルドの抑圧するような力強い手と違い、労わりを感じさせる優しい手だった。
シャラマンは寄り添う人物をゆっくりと見上げた。精悍な顔立ちが、心配そうにこちらを覗き込んでいる。青みがかった紫色の目をした、東方人の男だ。
「ルミナス、あの計画が実行されてしまった。エヴァンの人格は……もう」
すがるように男の腕を掴む。
「私が……私がぐずぐずしていたばかりに、間に合わなかった。守ってやれなかった」
もっと早く行動していれば。もっと早く、養子縁組申請許可が下りるよう動いていれば。もっと早く駆けつけていれば。
今となっては後悔の念すら虚しい。
「博士」
ルミナスが静かに口を開く。〈SALUT〉の少数精鋭部隊〈処刑人〉を率いる男は、任務外では穏やかで寡黙だった。
「フェイトからの言伝がございやす。『希望はまだある』と」
シャラマンが瞠目すると、ルミナスは浅く頷いた。
「参りやしょう。フェイトが呼んでおりやす」
政府の命令を受け、ディラン・ソニンフィルドとクロエ・シュナイデルによって人格矯正を施されたマキニアン――エヴァン・ファブレルは、その存在を抹消され、ラグナ・ラルスという新たな名を与えられた。
隊長ルミナスをも凌駕する戦闘能力を発揮する、メメント対抗戦力最終兵器の誕生であった。
ラグナは、それまで最強と呼ばれていたシェド=ラザの粛清廃棄処理を執行。
第四十番大型討伐作戦〈CASE40〉をもって、正式な初陣を飾る。
当作戦にて、たった一人で大量のメメントを屠りせしめたラグナだが、皮肉にもその驚異的戦闘能力こそが、のちの〈マキニアン抹殺作戦〉および〈パンデミック〉の引き金となった。
ラグナ・ラルス誕生から一年後のことである。