第35話 120秒のアドバンテージ
さて、そのころ。我らが主人公藤原零斗は地下世界のさらなる深い闇へと落ちていっていた。
「ひいいいいいいいいいいいいいい」
それは断末魔の絶叫か、言葉にならない叫び声が岩壁に何度も反響する。目にも止まらぬ速さで、下へ下へと落ちていく零斗。彼の運命もここまでだろうか。だが、安心して欲しい。垂直落下というわけでなく、ツルツルに磨かれた大理石がごとき岩盤に尻を擦りつけながら滑り落ちているだけなのだから。
地下水で湿ったその横穴は、さながらウォータースライダーのように零斗とカルラを右に、左に揺さぶりながら、ぐるり180度のひねりも加えて闇の中を滑走させると、最後には食べ終えたリンゴの芯を捨てるかのように、ぽいと中空へと放り投げた。
一瞬の浮揚感の後に訪れる、不快な重力の束縛。そして、ダブンと水面に叩きつけられる。
今度は地底を流れる河の流れが二人を運んでいった。
「藤原さん、私に掴まるのです」
静かに流れる下水道とは大違いの濁った水が勢いよく流れる天然の河。零斗はパクパクと必死に水面から頭を出して呼吸を確保している。何とか水をかき分け、カルラの腕を見つけると手繰り寄せるようにぐっとそれを掴む。
「よし、カルラさんも俺に掴まるんだ」
「…………」
カルラは汚れた水で髪を濡らしながらも、ゆっくりと天井を見つめがら、流れに身を委ねた。
◇
やがて自然と水の流れは収まり、二人へ岸へと上がった。
「さて、ゆっくりしている場合ではないですヨ。これで諦めてくれる相手ではないでしょう……」
泥まみれになった二人は、濡れた制服を乾かす暇もなく歩き始める。
周囲は下水道とは違って、岩盤がむき出しになっていて光を放つようなこともない。ただ、ポツンポツンと光源のようなものが設置されていて、かろうじて足元が見える程度の薄闇が広がっている。
「ここまで予定通りってことでいいんすよね?」
「こういう事態に備えて、初めから逃走路を用意していました。こうでもしなければプロの軍人を相手に走って逃げるなんてのは現実的ではないです」
「本当にプロの軍人なんすか? サバゲー研究会の皆さんじゃなくて」
「ここまでずっと同じ歩幅、同じペースで歩いていたでしょう?あれは軍隊の訓練を受けている証左です。おかげでこちらの位置の特定も楽でした。繰り返し忠告しておきますけど、間違ってもプロを相手にやり合おうなんて思わないことです。約束してくださいネ」
「任せてくれ、腕っぷしには全然自信がない。それだけは胸を張って断言できる」
「ならば、結構――さすがに判断が早い。敵は4人ですカ。数的優位は譲りませんカ」
後方でライトの灯りのようなものが走った。零斗は思わず息を止める。
「さて。ここからが本番です。アドバンテージは120秒といったところですカ。全力で走って逃げますヨ」
カルラは自然と手を伸ばし、零斗の手を握る。零斗もそれを強く握り返す。
駆け出した二人が進むのは網目の状に分岐したうねり曲がった洞窟のような道。右へ左へと分岐をランダムに選択したかのように進んでいく。
「ハァハァ、ここまで逃げれば、もう安心じゃないか」
「それ死亡フラグという奴ですヨ。諦めるという言葉を知らない連中です。ゴールに辿り着くしかないでしょうネ」
「ゴールがあるというなら、俺はどこまでも付いていきますよ」
零斗が黙り込むと、薄暗い世界には静寂が訪れる。二人の吐息だけが静寂をかき乱すのだ。
「なんか世界に俺たち二人しかいないみたいだ」
ガラにもない言葉、それが自然と口に出た。
「あの子と二人なら、さぞ楽しかったですしょうネ」
「今は、カルラさんと一緒にゴールしたい。それしか考えてないよ」
通路はやがて長い長い一本道へと移っていく。もはや駆けるだけの力はなく、一歩一歩足を前に進めるだけで精いっぱいだった。追跡者の影に追われ、肉体も精神も限界が近づいている。
カルラは自分よりもずっと小柄で、しかも女の子だ。体力的にはずっと辛いはずだ。零斗を不安にさせないために力強い表情を崩さないけれど、そのことが無駄に彼女の体力を奪っているのかもしれない。不安ばかりが頭の中をよぎる。
少し広めの空間に出ると、そこには壊れて錆びついた削岩用ドローンが横たわっていた。
ずっと握ったままだったカルラの手を放す。零斗の覚悟はできた。
「カルラさん、目的地には何があるんですか。地上との連絡手段がそこにあるんですよね」
カルラはうなずく。
「俺がここで足止めする。先に行ってくれ」
「どうせこうなると思ってたんです。でも、私は本当に嫌なんですよ」
カルラはうんざりした様子で睨み付ける。
「重いかもしれませんが、預かってもらえますか」
零斗は首から下げたカメラを彼女に手渡した。
「嘘をつく必要はありません。アイツらに捕まったらすべて正直に話してください。私の救援が間に合うか、二人とも捕まるか。あとは時間との戦いですから」
零とは必死に掛けるカルラの背中を見守った。
零斗はカルラに別れを告げると、ちょうど武器になるような鉄の棒を拾い上げ、削岩用ドローンの陰に身を隠した。
とにかく奇襲で一人を倒す。武器を奪って、根性で何とかする。それでダメだったら……。
クルルカンにに殴られるカルラの姿を思い出す。
「痛いだろうな……」と、ボコボコにされている自分を想像して自嘲する。
一瞬とも何時間とも感じられた時間が過ぎた。
それは120秒のアドバンテージ。付かず離れず、長い長い追撃戦は逃げる側にも、追う側にも傾くことはなかった。
広間に二人の兵士が侵入してきた。ヘルメットにボディアーマー、大きなバックパック。手にはアサルトライフル。これだけの重装備にもかかわらず、彼らに疲れた様子は見えない。
どこを狙う?頭はヘルメットに守られ、首元もボディアーマーにしっかりと覆われている。流石に機能的だな。後ろから襲うなら、足か。それとも武器を奪うか。
武道の心得があればいざ知らず、一般人には他人を『制圧する』という概念がほとんどない。殴る、蹴るといった行動は思い浮かんでも、その終わりが想像つかないのだ。
考えはまとまらないが、このままだと石像になって永久に動けなるような気がする。乾坤一擲。
零斗は鉄棒を振り上げると、勢いよく飛びだし兵士たちへと襲い掛かった。
陶酔的ヒロイズムはここまでだった。
男たちは、経験から伏兵を予想していた。いや、予想していたのではない。当然に警戒していたというべきか。あらゆる可能性を想定するのがプロの仕事というものだ。
下肢を狙った零斗の一撃はすんでのところで躱され、有効打とはならなかった。
お礼とばかりに振るわれた銃底は零斗の顎を粉々砕いた――砕かれたと錯覚するほどの激痛を走らせた。
兵士の一人は、零斗の頭を掴み持ち上げると二度三度と拳で殴りつけ、腹を蹴り上げた。それはまさに作業というべきでそこに感情はなく、瞳は冷静に目の前の少年が苦しんでいるか、やりすぎて致命傷を負わせていないかを観察していた。
最後に喉を締め上げると「女と一緒だったな。女はこの先か」と質問を投げかける。
抵抗力する気力も失っていた零斗は黙って小さくうなずくのだった。
「距離にして三分というところか」
兵士は大人しくしていろよといいながら、零斗の両手両足を縛ると軽々と肩に担ぎあげた。兵士たちの暴力は最後に残った体力と気力を確実の削り落としていた。
零斗の自己犠牲は僅か1分の時間さえも稼ぎ出すことはできなかった。情けなさに涙がこみ上げる。もはや自分はただのベッドロールに過ぎない。あとはカルラが潔く自分を見捨ててくれることを願うばかりだった。
そんな絶望に沈む零斗の視界に異様な存在が移りこむ。
ガスマスクのような仮面を被った男たち。ぼろ布を継ぎ合わせたかのような粗末な服を着こみ、手には各々槍だの斧だのの形を模した手作りの武器を持っている。まるで秘境の奥地に棲む未開の部族を連想させる姿。
彼らが放り投げた網が、零斗もろとも二人の兵士を飲み込む。兵士も必死に抵抗を試みるけれど、顔面に向かって刺激性の強い粉状の何かを投げつけられると、涙とよだれを噴き出しながらも地面を転げまわる始末だった。5人、いや10人か。数の暴力の前に歴戦の兵士たちも瞬く間に制圧されてしまっていた。
「へ、ヘルプミー。アイムノットデリーシャス!!」
何でもありの学園だが、まさか地底人に襲われるとは思っていなかった零斗であった




