第1話 ゆめうつつ
【4月6日 入学式の夜】
あなたは特別な人間ですか?
藤原零斗が自分が特別な存在だと理解したのは10歳の誕生日のとき。
かつて戦場カメラマンだった祖父からカメラを譲ってもらったときである。
彼にとってカメラとは、この世界から美しい一瞬を切り抜く特権に思えた。
その日からおおよそ6年間、零斗は四六時中肌身離さず、そのカメラを首から下げている。
零斗の愛機は銀塩式の一眼レフカメラである。銀塩式とはいわゆるフィルム式のカメラ。祖父の世代でさえ世の趨勢はデジタルカメラに移行しており、零斗の祖父も仕事場ではデジタルカメラの利便性を選択した。そして、一般人にとってはカメラという道具さえもはや縁遠いものになっており、カメラといえばスマートフォンが持つ『機能』の名前になっていた。
もちろん零斗にはそんなことは何ひとつ気にはならなかったけれど。
そして、零斗のカメラはいま一度、彼を特別な存在にした。
私立千夜学園。世界最大の学園。かつて富士山と呼ばれた場所にある世界とは隔絶された 学生たちのパラダイス。 学費はタダ。寮費もタダ。制服その他の日用品は支給され、生活費まで毎月貰える。 若者たちの持つ無限の可能性に与えられた究極のギフト。
その特別な学園な生徒に彼は選ばれたのだ。
母親が勝手に出した入学願書。特技欄に書かれた銀塩式カメラを愛用との記載。
それが選考委員の目に止まり、これはまた懐かしいということで、彼はプラチナ・チケットを手にしたという次第である。
◇
「入学式の夜に新入生がこんな場所にいちゃあいけないわよ」
零斗はカメラを構えたままの姿勢で慌てて動きを止める。
レンズの先には橋の上から水路を眺める制服姿の少女――その姿がとても美しかったから思わず構えてしまった。彼のいつもの悪い癖である。
てっきり手厳しく注意されるかと思っていたので、その後の彼女の反応は意外だった。
「はははっ、そんなピカピカの制服を着ていれば誰だって分かるってば。それに新入生って奴は想い悩むものだって決まっているものねぇ」
少女はなぜ零斗を新入生と呼んだのか、その理由を説明した。
真夜中の通学路。入学式の夜だったので学生街から寮にかけて、あちらこちらでお祭りじみたバカ騒ぎが催されている。なので、この時間にわざわざ校舎へと向かうだけの通学路に立ち寄る者などいない。
誰にも会いたくない、零斗が今ここにいたのはそんな動機からだった。
零斗は平身低頭、謝る覚悟だったが、少女の関心は新たな生活に馴染めない哀れな新入生の世話を焼くことに注がれていた。
「悩んでおるのだな、少年。でも、いけないよ。どんなに馬鹿馬鹿しいと思っても、ここが自分の居場所じゃないような気がしても、今日だけは石に噛り付いてでも、あの喧騒のド真ん中にいなきゃ。さもないと、私みたいな、はぐれ者になってしまうわけだよ」
特徴的なのは、その目だ。強風に抗って吹き消されまいとする炎。真剣で一途な意志が宿っていた。
少女の見た目は実に無害に見える。
かわいい鼻の上には淡いそばかす。愛想のない表情。
くすんだ灰色のボサボサの髪は捨てられた子犬の様だ。
背丈は低く、痩せこけていて世間でいう憧れのプロポーションには程遠かった。
だが一方で生真面目さと安心感のようなものが伝わってくる、そんな少女だった。
「そりゃあ、もう分かってますよ、ここは千夜学園だ。日本で一番の学校。地上の楽園、学費を気にせず大学まで卒業できる。親も大喜びだよ。そんなスゲーところに俺が合格できてさ、そりゃあ俺だって最初は大喜びだったぜ。人生を変える最後のチャンスかもしれねぇ。でもよ、俺はここで何をすればいいんだ? 何ができる。そんなことを考えていたら、もう誰の声も聞きたくなくなった。一人でいたくなった」
少女は顔を歪めた。この学園の生徒ならば誰だって笑いたくなる場面だ。馬鹿にしているのではない。彼は新入生だったころの自分たちそのものだからだ。初々しい新入生が語る、顔から火が出るような恥ずかしい悩みに皮肉の一つも返してやりたくなるものだ。だが、この日の彼女はそうしなかった。
「他人にアドバイスができるほど立派な人間じゃないけどさ。悩むことはいいことだよ。考えている限り、そんなに酷いことにはならないさ。最悪なのはね、世の中をこういうものだと悟ったフリして何も考えなくなること」
そこまで言うと、少女は難しい顔をして一瞬、黙り込む。
「私、空気読めてる? 先輩風を吹かす女子はウザいよね」
「いや、グッときますよ。とっても良い。そういう話を聞きたかったのかもしれねぇし、誰かに励ましてほしかっただけかもしれない。これから出会うみんなが先輩みたいだったら、俺も気楽でいいんだけどよ」
「笑える。そしたらこの世界はおしまいだよ」
少女は自分しかいない世界を想像し、そしたらおかしくて仕方なくなった。
「ところで、先輩はこんな所で何をしてたんだい?」
「ああん、私ぃ? 私はね、月を見ていたんだ。空に浮いてる奴じゃないよ。川面に映る月だ。ゆらゆらと揺れて、眩しくない。本物よりもずっと曖昧で、ちょうどいい。わたしゃポム爺さんかってんだ」
強すぎる光は年寄りにはきつい、零斗の祖父もそう言っていた。ピチピチの女子高生を眺めながら。でも、少女はせいぜい1つか2つ年上でしかない。老成するにはまだ早すぎる。
「その姿がとても綺麗だったんで、俺は思わずカメラを向けたってわけだ。そのことはちゃんと謝る。ごめんなさいだ、このとおり」
頭は下げる零斗。
少女はぐっと唇を嚙んだ。綺麗だなんて言われて口元を緩めた自分が意外であったし、許せなかった。
「盗撮はいかんよ。学園の人間は浮かれてるようで、みなピリピリしてんだぜ。捕まんないように気をつけなよ。それでは、カメラマンさん、どうぞ一枚撮ってくださるかしら。これは私からのお願いだよ。だいたいさぁフィルム式のカメラなんて今どき骨董品でも目にしないよね。それがあんたのベル・エポック(古き良き時代)なのかしら?」
零斗は肩を上げ大げさに驚いてみせた。彼女は最高のモデルだし、愛機に気付いてもらったことも嬉しかった。これが作られたのは、もはや世界の趨勢がデジタルへと移行したずっと後。一つの時代の終わりに生まれた傑作。 祖父が零斗の父が生まれた年に『人類史における銀塩式カメラの最終名器になるかもしれない』という想いで記念購入したのだ。
「へへへ、嬉しいな。これが学園に来て最初の一枚だ。言い訳じゃないが、俺は盗撮はしないぜ。普段はシャターは切らねぇ。ただ、こうやってレンズを通して見ると、色々なものが見えんだ」
「何が見えるの、幽霊?」
「俺は霊感はからきし。そうだな、分かることといえば先輩の正体くらいだな」
「あら、どういう意味かしら?」
興味津々のようだ。
「先輩は水面の移る月と同じだな。つかみどころのない感じがする。ぼんやりとしていて、それなのに想像もつかない強烈な個性を隠してる……もちろん、いい意味でだけどよ!」
「そうだね、当たってる気がする。でも、当たってなくても私はそう答えるけどね。大人はずるいんだ。さぁそんなことより早く撮ろう。桜の花が綺麗だね、アレを背景にしよう」
少女の態度が露骨に変わった。零斗は思う、しくじった。
カメラを通して零斗は、少女の動揺を感じ取っていた。どうやら図星だったようだ。本音なんて見破って何もよいことはないと経験上学んでいたのに。
「おーい、緊張するなよ。こんなチビ女、美人に撮れなんて無茶は言わないよ。そこそこでいいよ、そこそこで。夜桜に月下美人だと出来過ぎだからね」
動きを止めてしまった零斗に少女は発破をかける。
少女は何度も自分を卑下して、不細工といった。
気を遣わせてしまったのだ。
欧州の血が入っているのだろう、どこか日本人離れしたその顔は、よく見れば外国製の人形のような気品と愛嬌があった。典型的な美人ではない、それだけのことだ。
とはいえ、どうフォローしていいものか異性慣れしていない彼には"丁度いい"言葉が思い浮かばない。会話は盛り上がらず、今宵の語らいはここで仕舞いだ。
ポージングする彼女に零斗は黙ってカメラを向け、鼓動に合わせるかのようにシャターを切る。
少女はそれきりカメラには興味失ったかのように、再び水の流れに視界を移す。
「現像したら必ず送るからさ、感想も聞かせてくれよな」
「ああ、あとで君の端末に私のアドレスを送っておくよ」
後で送る、それは体のいい拒絶だってことくらい零斗は理解した。強引に彼女の名前を聞くこともできず、必死な想いで端末を操作する。
オープン・モードに設定した零斗の端末のIDは周囲1.5m以内に公開される。 他方、少女の端末はステルス・モード。彼女がそこに居たことさえも記録には残らない。
「実をいうと私の正体は河童なんだ」
別れも間際、少女は唐突にそんなことを言い出した。
「河童? あの川にいるっていう妖怪。頭に皿、口にクチバシ、背中には甲羅、緑色の肌をして、相撲と胡瓜が大好きなアレ?」
「ああ、皆の良く知る河童さ。この水路の先は学園の地下へと流れ落ちている。ぐーるぐーると渦巻いて、何度も何度も蛇行して下水道の果ての行き着いた先、どぶ池の底に河童の王国があるのさ」
「なんなんですか、その話?」
「川面に移る月は河童のお皿なんだよ。だから、私の正体は河童なんだ」
少女は、零斗が彼女の正体を川面の移る月に例えたことを気にしていたのか。
零斗は、なんとなくペーパームーンという言葉を思い出した。
それには二つの意味があって――
千夜学園ニュースヘッドライン 4月10日「入学式無事終わる」
本日、2035年度生の入学式が行われました。新一年生は31023人。史上最高・最凶と評された現3年生に匹敵する個性的な顔ぶれだとの噂です。在校生代表を務めたのは最年少で図書委員長に選任されるなど話題に事欠かない才女・十和凪子様。学園では皆さん一人一人が主人公だと自覚を持ってくださいと新入生たちにエールを送りました。
(※)高校生なので「学生」ではなく「生徒」が正しいというツッコミはご勘弁。