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夢蟲の母  作者: 棺之夜幟
外聞 識
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灰塵/後

「私から言いたいことは大量にあるのだが」


 スマホをポケットにしまった叔父は、そう言って溝隠を睨んだ。表面を擦ったどころか、自分の車で人を轢き殺した上に、現在進行形で燃やされているのだから、どんな罵詈雑言でも吐き出して殴りつけるくらいの権利はあるだろう。それを口にしないだけ叔父は出来た人だ。


「まずは場所を変えよう。処理は警察と『学長』に頼んである……死体も今は、気にしなくて良い」


 油が燃える匂いを辿って、叔父は燃える車と壁の間を見た。そこで二人が燃えていることは、わかっているのだろう。その瞬間を藤馬が見ていなくて良かったと、心底思う。焼ける人の腕を見ただけで、藤馬は吐瀉物を垂れ流していた。花壇の中に誰の介助もなく吐けるだけ、肝は座っている。僕だって、腕に地楡さんを抱えていなければ、彼と同じような反応をしていただろう。今は、彼女に炎を見せてはいけないという信念が、僕の精神を支えていた。


「韮井せんせ」


 小さく、声が聞こえた。近くの窓から、狗榧さんが顔を出していた。その後ろから、阿良ヶ衣さんと皐月が顔を出した。ちらりと見えた部屋には、ネクタイを結び直す海棠もいた。彼らはジェスチャーを添えながら、僕らを手招く。


「お話、するなら、畜産の加工室へ。密閉されてて、音が漏れづらいですから」


 狗榧さんがそう言うと、合わせて阿良ヶ衣さんが鍵を投げた。叔父はそれを軽やかに受け取ると、「すまん」と一声上げた。手の中で金属音を鳴らしながら、彼は僕達に目を配った。言わなくてもわかるだろうと、叔父は踵を返す。畜産加工室はそれ程遠くはない。僕は小さく息をする地楡さんを抱えたまま、皆の後ろを歩いた。溝隠はずっと、僕の前を無言で歩いていた。


 人のいなくなった畜産科の棟は、その設備のせいもあってか、少し肌寒かった。加工室へ向かう途中、構内放送では、敷地裏で害虫が大量発生しただとか、マンホールが破裂しただとか、ある実験室で爆発事故があっただとか、そういった趣旨の避難指示が流れていた。多分、事情を知っている学長あたりが人払いをしてくれているのだろう。それに甘えて、僕達は堂々と加工室の鍵を開けた。重々しい鉄扉を開けると、消毒液の匂いが鼻についた。何処か病院の手術室にも似たそこには、普通に日常を過ごしていればまず見られないだろう巨大な刃物が鍵付きのガラスケースなどに保管されていた。実習で使うのだろう、それぞれの道具にはきちんとその名称が書かれ、説明が彫られたプレートも壁にかけられていた。


「物珍しいのはわかるのだけど、齢十八の女を抱えて見るものではないと思うの」


 唐突に聞こえた地楡さんの声で、背中が一瞬痙攣する。「ごめん」と小さく溢しながら、僕は彼女をそっと床に下ろした。白いワンピースの裾から、火傷だらけの足が見えた。体のいたる所から覗くケロイドは加工室の独特の灯りに照らされて、彼女の鼓動と共にピンク色に波打っていた。


「地楡」


 そんな彼女の名を呼ぶ男が一人――桑実冬馬は、現実への困惑に顔を顰めている自分の息子を放って、娘に歩み寄った。冷たい目で彼を見つめる地楡さんは、両腕を開いて見せた。それに誘われるように、桑実冬馬は彼女を抱きしめる。


「すまない、母親と妹を殺すような真似をさせて、本当にすまなかった」


 懺悔を吐く。その姿を、叔父は傍観していた。僕からは地楡さんの表情は見えなかったが、対面にいる藤馬がより一層眉間に皺を寄せているのを見ると、慈母のような顔をしているか、反転して般若のように怒りを露わにしているかの、どちらかではあろう。僕は、娘への懺悔をするばかりの桑実冬馬を見下ろしながら、口を抑えていた。彼の口から出る白い蛾を、何度か意図的に踏み潰してみる。これといって彼の体に刺激はないようだった。


「そう、謝りたいのね、貴方」


 ピンと張り詰めた蜘蛛の糸のような、強く細い声で、地楡さんが言った。そこに含まれる感情を、僕は咀嚼することが出来なかった。


「まあ、そうよね。私がこんな姿になったのも、大元を辿れば貴方が花鍬樹に私を産ませるだけ産ませて、傍観していたことが原因ですものね」


 淡々と、弱々しい毒を吐きかける。彼女が喋り出した途端に、桑実冬馬は口を閉じた。反論を展開しないことを理由に、地楡さんは続けた。

 だから。と接続を置く。直感で、腕が動いた。


「波瑠――――春馬、やって良いわ。私は良いわ、これで」


 自分の視界の狭さに、心底驚く。話題にも入らず、僕と地楡さん以外の視界に入っていなかった男――――溝隠波瑠は、藤馬を押し退け、叔父の諦めを含んだ制止をものともせず、牛刀を振り上げていた。それは桑実冬馬の背の肉を突き破り、肺を切り裂いた。その刃先が重なっていた地楡さんに当たろうとした時、僕は彼女を父親の腕の中から引き剥がした。桑実冬馬の肩を踏み、腕を引く。背後に転がった彼の上半身に馬乗りになって、溝隠は牛刀を再度振り上げた。


「君は良いのか、これで」


 唐突に、溝隠が言った。彼が見ている先は、頭をかち割られようとしている桑実冬馬の目。だが、口の先は違う。溝隠を止めようと、もう一度、僕は腕を前に出した。すると、地楡さんが僕の口を手で塞いで、「お願い」と呟いた。彼女の黒い瞳に、自分の顔が映る。迷いに固められた僕は、力無く腕を下ろした。


「良い。もう良いです」


 藤馬の声が聞こえて、時間が進み始めた。反射的に、藤馬の方を見た。彼は苦しそうな顔で、目を瞑っていた。叔父がそれを宥めるように、実に合理的な動きで、藤馬の視界を手で覆った。同時に、ミチ、バキ、と、頭蓋骨を叩き割る音が聞こえた。魚の頭を落とす要領で、溝隠は速度と力、体重を合わせて、硬い額に刃を突き通した。


 動かなくなった桑実冬馬の上で、溝隠は笑っていた。彼の深い青の瞳と、色素の薄い髪が見えた。青い蝶は彼の周囲を舞うのみで、彼の顔を隠していなかった。彼の顔は、藤馬と似た、人好きする穏やかそうな愛嬌のある造形だった。

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