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東京

作者: yui

 ついさっき八月が終わり、九月になった。恐らく日中の気温はまだ高いのだろう。夜は少し涼しくなったのか、エアコンをつけなくても過ごせるようになった。男は暗い部屋でテレビを付けっぱなしにして寝転んでいる。まるで休日の昼間のような光景だ。男は携帯を凝視し、小説を書いていた。今の時代、スマホひとつあれば自分の書いた小説を世界中の人が読める時代だ。

 ふとテレビの時計に目をやる。午前三時半。男は遅めの夕食を済ませた後、これからの人生について杞憂していた。男は働いていなかった。毎日寝て起きての繰り返しだ。携帯の画面を見ることに一日の殆どを費やしている。男は生活保護を受けていた。自分は精神病を患っていて、とても働ける状態では無い。こうなったのはかつての家庭環境のせいだ。そう言い訳しては、自分を慰めていた。そうでなければ男のプライドはとっくにズタボロだっただろう。男は昔からそうだった。何か問題が起こると「これは自分のせいでは無い」と責任転嫁を繰り返して生きてきた。そうすれば自分が苦労することは無いからだ。別に珍しいことでは無い。幼い頃は誰だって人のせいにしたりするものだろう。問題は男が成人済みだと言うことだ。何においても責任感や現実感が無く、自分の人生を生きれてはいなかった。それでもたまには現実を見ることもあった。自分は働けるのに働いていない、このままではまずい、将来自分ははどうなっているか、などだ。そして現実に目をやり、自分が怠けたせいで招いた悲惨な結果を目の当たりにした時、男はまた逃げることを選んだ。

 男は大麻を常習していた。これだけが、この暗く荒んだ人生から目を背けさせてくれた。このままでもいいと、自分を肯定してくれた。男は大麻を使用している間、自分がまるで成功者であるように感じていた。イヤホンから流れてくる音楽を、まるで自分が歌っていると思い込むことで精神を保っていた。そうしなければ、男は自分が存在する意義が見出せなかった。誰からも必要とされておらず、誰からも愛されていない。そんな思いが頭を満たしていた。男は以前から希死念慮を抱いていた。命を失うということに恐怖を感じなくなっていた。何をするにも気力がなく、何かをやりたくても一人では何もできない。それが男の「本当の姿」だった。

 午前四時。男は散歩に出かけることにした。男は夜が好きだった。夜は男にとっての世界だった。男が今の家に引っ越して来てからはじめての散歩だった。夜の風が体を包む。「涼しい」。男はそう思うと、たばこに火をつけ歩き出した。イヤホンからは聴き馴染みのある歌が流れている。午前四時といえば、少し前なら明るくなり始める時間だった。だが夏が終わりかけるにつれ、日の出の時間は遅くなる。日が出るまでまだ一時間近く猶予がある。夜を感じるには充分だった。歩き始めて数分後、男はふと足を止めた。なんでもない標識を見て携帯のカメラを開き、写真を撮ってみた。その瞬間、男はある感覚に陥り携帯を閉じた。どうして世界はこんなに美しいのか。と、強く思った。携帯のカメラでは捉えきれないほど、世界は輝いていた。世界は汚いものだと思い込み、世界から逃げていた自分が妙に情けなくて、その気持ちを夜に見透かされている気がした。誰かにとってはなんでもない日常が、男にはひどく羨ましく感じられた。

 男は歩きながら小説の続きを書き始めた。ここがどこかも分からない。もう少しすれば世界は眠りから覚める。朝が来なければいいと、男は強烈に思った。気がつけばイヤホンから、椎名林檎の「丸の内サディスティック」が流れていた。男がもう一度東京に出ようと思ったきっかけとなった曲だ。この曲に感化され、男は今までの生活を投げ出し、東京にきた。かつてあれほど嫌っていた東京を、彼は愛していた。男は東京に魅せられていた。と同時に、東京を恐れてもいた。この街は自分を飲み込もうとしている。大半の人間は東京に飲み込まれている。男は必死にもがいていた。いや、そう思おうとしているだけだったのかも知れない。男は新宿の近くに住んでいた。そのため新宿がいかに都会かを知っていた。一方で、例え新宿でもオフィス街から外れると、他の地域とあまり変わらない風貌をしている。だが東京には独特の「匂い」があった。それは鼻を介して嗅覚で感じるものではなく、肌に伝わってくるようなものだった。男は二年前からこの「匂い」を知っていた。かつて失敗し、貧乏生活を送ったあの東京生活だ。そんな辛い思いをしたのに、どうしてまだ東京に魅せられているのか。このどうしようもなく美しく、汚い街を何故ここまで愛しているのか。男には分からなかった。そしてある想いを胸に抱いた。「俺が東京になろう」。普通の人間であれば理解不能な言葉の羅列だが、男はその感情を気に入った。

 男は深く息を吸った。その時、顔に冷たい感触を得た。雨だ。そういえば今日は朝から天気が崩れると天気予報で言っていたことを思い出した。男はそろそろ帰ることにしたが、途中で別れ道にぶつかった。右に進もう。そう思った時、左側の道に強烈に引き寄せられた。気付いた時には既に左に向かっていた。男には昔から直感で物事を決める癖があった。左に進めば特段何かが変わる訳ではない。あるのは道、家、木々、男。たとえ右に進んでもあまり変わらないだろう。では何故、左側の道に惹かれたのか。ここでの選択の一つ一つが自分の未来を創っているような気がした。まるでマルチエンディングのゲームのように。「朝が来るまでに帰ろう」。男は執筆をやめ、スマホをしまって音楽に集中することにした。幸いなことに、朝はまだやって来てはいなかった。

 男は家に帰って来た。そこはたとえ自分がどれだけ世界に馴染めなくても、一人になれる唯一の安らぎの場だった。男はたばこに火をつけて携帯を開いた。今流れている音楽の歌詞を調べるためだ。この曲は数年前から聴いていた。今や世界的スターになった韓国の超人気アイドルの曲だ。ふと、一つの歌詞に目をやった。「僕たちの人生は、捨てるにしてはあまりにも長い」。男は胸を打たれた。これまでの人生、いろんな曲を聴いてきた。だがここまで胸を打たれたものは他になかった。男は知らぬ間に歌詞に自分を投影していた。それは自分を心から愛するという歌で、男に一番足りていないものだった。この男は自己愛が強い。自分を特別だと信じていたし、他の人間にはない能力を持っていると思っていた。身長も高いし、顔だってそんなに悪くない。一方で、男の自己肯定感は極めて低かった。とりわけ他人の目が気になった。すれ違う人みんなが自分に点数をつけている。自分を笑っているかもしれない。といった妄想に取り憑かれていた。怖かった。着飾り、大声を出すことで「本当の姿」を悟られないようにしていた。他人に弱みを見せるのをひどく恥だと感じていたのだ。それと同時に、自分自身をも騙すことにしていた。ある種の防衛本能だろうか。そのせいで、男は世界から逃げたのだ。

 外は既に明るんでいた。あぁ、つい先ほどまで、自分を深く包み込んでいた夜が終わった。男は毎日、夜が明けるたびにひどい喪失感を感じていた。男にとって夜とは、唯一素直になれる空間だった。それが終わったということは、また仮面をつけて偽りの自分を演じ続けなければいけない、とても虚しい時間が来たということだった。いつからだろうか。男は太陽が嫌いだった。というより、街が活発で、人が多く往来する時間帯が嫌いだった。陽の光はとても明るく地球を照らすため、どこにも逃げ場がない気がした。人は日光を浴びないと鬱になりやすいらしい。だが男にとっては逆だった。陽の光こそが彼の心を蝕み、病ませた。外が明るいと、反比例して男の気持ちは暗くなっていった。いや、別に夜だからといって気持ちが明るく晴れる訳ではない。ただ、彼の昼に対する感情は表現し難いものだった。思春期の頃の、父親が仕事を終え帰ってきた時に感じたようなものだった。世の中のほとんどの仕事は昼間に行うものが多い。その時点で、男にとって働くということは容易では無かった。かといって夜の仕事もまともに出来るか不安だった。男は仕事覚えは早い方だ。使えるか使えないかでいえば、使える方だと自負していた。ただ、男は他人にコントロールされることが苦手だった。職場の上司、親、学校の先生など、自分をコントロールしようとする人間には歯向かってきた。そうしなければ、好奇心を失ってしまう。世界を見れなくなってしまう。そう思っていたからだ。

 男はまた時計を見た。午前六時。そろそろ眠りにつこう。そう思い、二時間ほど前から書き始めた小説を終わらせることにした。人生で書いた二作目の小説だ。一作目は小学生の頃に書いた官能色強めの小説だった。確か雪山に住む男の元へきた女の話だったと思う。ふとそんなことを思い出しているうちに、外はどんどん明るくなっていた。さぁこれで終わりにしよう。男は最後に、この短編小説のタイトルをつけることにした。いろいろ悩んだ末、ある一つのタイトルに決めた。「東京」。そうだ、これがいい。

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