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何で生きているのか分からなくなることってない?

 けたたましくなるスマホの電子音で僕は目が覚めた。嫌な夢を見ていた。アラームを止めて、階段を下って、顔を洗うとぼんやりとしていた視界が徐々にはっきりしてくる。


 コーンフレークに牛乳をかけたもので簡単に朝食を済まし、身支度をして自転車に跨って四宮高校を目指した。

 

 僕が一年前から通っている四宮高校は全国的にも有名な進学校だ。R県はおろか四宮高校を目指して隣のP県から通学する生徒もいる。

 何故そこまで四宮高校に生徒が集まるかというと、その大学合格率に答えがある。

 例えば、すべての日本国民が知っているであろうT大学には毎年多くの生徒を輩出して、昨年は最も多くの合格者を出した。また部活動にも力を入れており、公立高校でありながら全国大会でベスト4になった部活もある。そんなみんなが憧れるような高校で僕はつまらない毎日を過ごしている。成績は中の下で誰かを笑うことも笑われることもできない。僕にとって学校は憂鬱なものでしかなかった。


 そんな学校までの憂鬱な道程を十分足らずで終えると、

「おはよう。」

昇降口にいた幼なじみの堂本からだった。


 堂本と一緒に三階にある二年A組の教室に入ると、まだ十人ほどの生徒しかいなかった。前から二番目の一番窓側の日光が四角形を作る席につくと鞄から昨日ブックオフで買った暖かい香りのする本を取り出す。その赤い表紙は日光を浴びてキラキラと光った。


 じっくりと活字を追っていると徐々に教室は雑音で満たされていき、本を読める環境ではなくなっていた。

 担任の田辺先生が入ってくるとそんな雰囲気は一転し、理事の堂本が号令をかけて、形だけの挨拶を交わす。

 担任の田辺先生は来週からテスト期間にはいること、昨日不審者が出たことを伝えてSHLは終わった。

 

 一時間目は数学だった。担当の生徒から嫌われている中沢先生はチョークで黒板を引っ掻く嫌な音を立てながら読みにくい字を書いていた。

「じゃこの問題わかるか?えっと藤巻、やってみろ。」

 僕の隣にいた藤巻は眠そうな声を上げて少し茶色かかった髪を耳にかけるとくりくりとした目がこちらに見える。

「えっ、わかんない。つーか寝てたもん。」

 深いため息の後、中沢先生は堂本を指した。堂本は黒板に出るとカッカッと心地の良いリズムで解答を書いた。それを満足げに見る中沢先生の表情は毛虫が這うような不快感しかなかった。授業が終わると課題のプリントが配られ来週に提出しろと言われた。


 二、三、四時間目の授業を夢うつつで受けて昼休みになり、僕は一階の購買でソーセージパンを買って一人で食べた。マスタードが絶妙な辛さで、いつか食べたパン屋さんのよりも美味しかった。


 ビニール袋をゴミ箱に捨てた後、また赤い表紙の本を取出してしおりを挟んでいたページを開いた。

 ふと気になって視線を上げると、堂本が同じバスケ部の友達と楽しそうに喋っているのが視界に入る。視線をさっと元に戻してあぁ、なにやってんだろう。こんなことしちゃダメだ。幻想を頭から追い出してから別世界に潜り込んだ。


 五時間目の国語すらも集中して受けることが出来なかった僕は自販機でやけに苦い缶コーヒーを買ってから六時間目に臨んだ。

 六時間目のLHRでは、五分程遅れてきた田辺先生がビニール袋を持ってきていた。

「五月になって新しいクラスにもなれたと思うから席替えをするぞ。」

 

 微妙な声援の中で行われた席替えは僕にとってはあまり良いものではなかった。

 僕は窓側から三列目前の前から三番目の席、先生から一番見えやすい席になってしまったのだ。隣の席は背の小さい黒く長い髪が特徴的な女子だった。

 その後は来月に控えている学園祭の役割分担をして、LHRは終わった。


 廊下の掃除を終えて、自分の席に戻ると帰りの支度をした。朝読んでいたあの赤い本はすっかりとその輝きをなくしてしまっていた。


「谷崎潤一郎?」

僕の右耳に知らない音が入ってきた。顔を上げるとそこには暗黒が広がっていた。


 ゆっくりと焦点が合って声の主が隣の席になった女子だというのと、暗黒の正体が彼女の髪だというのがわかった。


「それって谷崎潤一郎だよね。初めて読んだのがその『春琴抄』で最初は気持ち悪かったけど、後からあんなに美しい感情はないなと思ったのを今でも覚えてるの。」


 ところが僕はまくし立てる彼女の名前どころか一年の時同じクラスだったかどうかすら覚えてない。返答できずにいると、


「私は真衣だよ。功刀真衣。今更だけどよろしくね。」

 りんごみたいな頬とは対照的な真っ黒な毛先をいじりながらさっきより小さめの声で名前を教えてくれた。

「よろしく……。」


「ねぇ、谷崎潤一郎好きなの?」

彼女は幼い笑顔を僕の方にむけていた。僕は椅子を少し左ににずらしてからそれなりにと曖昧な返事をした。


「じゃあさ、永井荷風は?」


「えっと功刀さんは耽美派が好きなの?」


「そういうわけじゃないけど、綺麗なものが好きなんだ。」


「じゃあ『芋虫』好き?江戸川乱歩の。」


「うん。綺麗過ぎる心だよね。江戸川乱歩はミステリーより、そっちの方が好き。」


 そのあと真衣に図書室に行こうと誘われたが断って一人でなんとか家に帰った。

 真衣と一緒にいてはいけない。僕は本能的に悟った。もし一緒にいたら()()()()()()()()()()()それが怖くてたまらなかった。


 真衣はそっかと言って、小さな背中をもっと小さくさせながら階段を降りていった。僕は真衣がいなくなった後、少しの間動けなかった。


 帰り道、自転車を漕いでいると、オレンジ色の太陽が山頂に突き刺さって、山に生茂る木々を黒に染める。それを見ていると胸を締めつけるような、もどかしいような気持ちがしてこぐペダルに一層力が入った。

 家に着くと、本棚にある江戸川乱歩に目がいったが、これを読むと取り返しがつかなくなるような気がして、隣にあった太宰治を手にとってベッドに倒れ込む。横になりながらなんとなく文字を追っていると胸の中がむずむずして何度も体を動かした。


 下腹部が熱くなるのを感じて本を置き、欲求を無視してキッチンに向かい、昨日作ったミネストローネを温めなおした。トマトのすっぱい匂いが漂ってきて焦がさないようにかき混ぜていると、胸をちくちくするほど匂いが強くなる。

 皿に盛り付けても食欲が湧かず、箸でじゃがいもを半分にしてみたり、スパゲティを掴んでは離してみたりの繰り返しで、それが口に運ばれることはほとんどなかった。

 結局、僕は三分の二ほど残して、ミネストローネを片付けた。


 次の日、教室に入ると隣には真衣が座っていた。

「おはよう」

席に着くと真衣は読んでいた本にスピンを挟んでいるところだった。

「何読んでるの?」

「これだよ」

真衣は読んでいた本の表紙をこちらに向けた。それは一年前、僕がよく読んでいたミステリー作家のはじめて見る作品だった。

「あぁ、懐かしいね、その作家。それって新刊?」

「いや、半年ぐらい前の本だった気がする。ていうか懐かしいって言ったよね。篠本くん知ってるの?」

「前はよく読んでたんだけどなんかミステリー飽きちゃってね。つまらないわけじゃないんだけど。」 

「そうなんだ。私は好きなんだけどな。」

真衣はどこか寂しそうな顔をしたまま下を向いてしまった。

 見下ろせる彼女の頭の飲み込まれそうなほど黒い髪が視界に入ると体の内側が絞られるように軋んだ。

 鞄に視線を移すといくらか落ち着いたが、体の縛られたような鈍い痛みは簡単には取れなかった。


 一時間目の古典が終わるなり、女子は体育着に着替えるためにA組の教室を出て行った。

 ブレザーを脱いで机にかけたあとネクタイを緩めようとすると、吸い込まれるように視界が入り口に向かった。そこには見覚えのある小さな背中があった。一つだけ。

 刹那、猛烈な黒い感情が僕を塗りつぶした。僕にはそれが何に起因して、何を僕にさせたいのかわからずに胸を押さえた。ゆっくりと意識的に呼吸をしていると、


「篠本、大丈夫か?」

深い声が降ってきた。

見上げると着替え終わった堂本がそこにはいた。


「うん。大丈夫だよ。ありがとう。」


「いや、何してないけどな。それにしてもどうした?体調が悪いなら保健室に行っとけよ。俺が先生に言っとくからさ。」


「いや、大丈夫だよ。ごめん。心配かけて。」


「OK、でも無理はするなよ。あと、五分も時間がないから急いで着替えろよ。」

 堂本は大股で教室を後にした。その時に見えた背中は頼り甲斐がある大きな背中だった。


 僕は急いで着替えた後グラウンドに向かうと、数人の男子がサッカーボールを足で器用にいじっていた。

 先生が来ると足を止め、グラウンドにいた男子はだるそうに並んだ。

 基本的に体育は女子とは別で、隣のB組と合同で行う。一クラスの男子はだいたい二十人ほどなので、全部と四つの列ができる。僕は一番左の列に並んだ。


 結果は散々なものだった。列でチームになるのだが、A組のサッカー部の男子はほとんどが僕の隣の列にいて、ゲームの半分はハーフラインのこちら側で行われていた。

 ただ、僕の列は諦め切っていたのか体育の授業が終わると、男子は流行りの携帯ゲームの話になり、負けたことなどすっかりわすれているようだった。


 教室に戻って制服に着替えていると、教室の後の扉から着替え終わった女子がぞろぞろと入ってきた。

「くさっ」

とどこかで聞こえた気がしたが、気にせずにワイシャツのボタンを止めていると前のドアがガラッと開いた。案の定、真衣だった。


 真衣はこちらの心配をよそに、疲れたね、次なんだっけ?と満開のスイレンのような笑顔をこちらによこし、僕の雀の涙ほどの汗が完全に引いたの感じた。

 三時間目の科学の時、真衣が僕の方に体を寄せて、ノートの脇でシャーペンを走らせていた。

『昼休みに図書室に行こう。』

女子らしい丸っこい字だった。

『ごめん』

僕はノートにそう書いた。

僕にはどうすることもできない。

()()()()()()()()()()()

交わっちゃいけない。


 昼休みを穏便に過ごして五、六時間目の授業を半分ずつ寝て過ごすと、

 あっという間に下校の時刻となった。ほうきで遊びながら廊下の掃除を終わらせてカバンを持って学校を出た。外は太陽が山に微妙に隠れて不気味な赤が僕を待ち構えていた。

 風がぴゅうぴゅうと吹いて学校の玄関から山の木がしなやかな動きをしているのが遠目に見える。


「わぁ、すごい風。」

後ろから真衣の声が聞こえてきた。

 振り返ると、真衣は穏やかで、達観していて、寂しそうな表情をしていた。


「ねぇ、篠本くん。」


「何?」

自分でも驚くくらい冷たい声が響く。


「変なこと言ってもいい?」

僕は答えなかった。

真衣はそれをyesと取ったのか、ゆっくりと口を開けた。


「何で生きているのか分からなくなることってない?」

 僕は黙った。いや違う、何も言えなかった。ふざけてるのかとも思った。けれど、さっきの表情がそれを許してはくれなかった。


「私たちはさ、勉強するために高校に通っているでしょ。でもさ、目的を持って勉強している人なんてほとんどいないの。私もそうなんだけどね。そうすると生きるために勉強するのか、勉強するために生きているのか、どちらにせよ自分が自分である必要はないんじゃないか。そう考えちゃうんだよね。目的を持つって簡単じゃないじゃん。

 人間は頭が良くなり過ぎたんだよ、もう少し馬鹿だったらこんな風に悩まずに済んだのに。本当はあそこの木みたいに風に揺られているのが一番幸せなんだよ。」

 真衣が口をつぐむと束の間の波紋のない水面のような時間を過ごした。

 ごめん、やっぱり忘れてと言って真衣は笑ってさっきまで僕も見ていた山の方を見ていた。


 風はさっきよりも大きく山の木を揺らし、真衣の髪をふわっとたなびかせた。その時の真衣は今まで見たことのないほど綺麗で濁りのない表情をしていた。

 


 



 

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