一年間のプロローグ
クリーニングしたての真っ黒なスーツを羽織り、ボストンバッグを持って俺はアパート出た。
まだ日が昇りきらない時刻。容赦なく日差しは照りつけ、不本意ながら袖で汗を拭ってしまうほど暑い。
路肩からは太陽を浴びた植物の懐かしい匂いが立ちこめてきた。
俺はアパートを出てから十分ほど歩き、コンビニの角を右に折れた。
信号で立ち止まると、高校生らしき女子生徒が二人、自転車を引きながら歩いてきてちょうど真向かいに泊まったのが見える。
体育着を着ているその女子生徒の姿は若々しく、いきいきとして、つい見とれこんな時代が俺にもあったんだよなと虚しくなる空想をしていると、信号が青になった。
「こっち見んな、死ね。」
横断歩道の渡り際に、向かって右側の茶色い髪の女子生徒がボソッと呟いた。
通り過ぎると、あいつキモくねという声と、やめなよという声がよく通る声にのって聞こえてきた。
懐かしいなと思えた。酷い言葉だったし、見ず知らずの人に死ねと言われるのは流石に堪えるが、大人になってからそんな言葉を浴びることがなくなって、つい若返った気がして嬉しくなってしまった。
高校生か……二十五年間生きてきたが高校生が一番楽しかった覚えがある。
駅が近くなると人が徐々に増えてきてより一層暑くなってきた。ワイシャツはもうびっしょりで着ていて気持ち悪い。あっちに着いてから着れば良かったなと今更後悔しても遅くて俺は急いで駅の中に入った。
「遅いぞ篠本、何分待ったと思ってたんだ。」
駅に入ってすぐのところで堂本は時計を見ながら仁王立ちしていた。
「悪いな堂本、支度に時間がかかってな。」
堂本は呆れた顔をしながら新幹線のチケットを差し出してきた。
堂本薫は小中高全てが同じ学校で、成人してからもこうやって何度か会う数少ない友人の一人だ。ガッチリした体つきは今も健在で、知らない人なら思わず目を逸らしてしまう様相をしている。
「もう七年経ったのか。早いな。」
堂本が階段を降りながらため息まじりで呟いた。目の前では同じ制服を着た男女が手をつなぎながら眩し過ぎる笑顔を振りまいていた。
「そうだな、七年前はお前とこうやってあいつの墓参りに行くなんて思ってもなかったよ。」
「俺もだ……」
新幹線の鋭い音が堂本の声を遮る。そのあとは新幹線に乗るまで微妙な空気が流れていた。
俺の地元、R県を教える時、いつも迷う。
周りは山に囲まれていて自然は豊かだが、農産物を育てているわけでもなく、林業が盛んというわけでもない。さらに盆地で、雨が降ると県の中心には水がゆっくりと降りてきて、ぐちゃぐちゃになる。一言で言うなら、魅力がない。その上交通便が悪く電車は二時間に一本で午後六時には車庫に入ってしまう。六時以降は車を使わなければならず、そんな地元が嫌で都会に出る者は、やはり少なくない。俺もその一人だ。
そんな俺にとって今日は年に一度しかない帰省の日なのだ。と言ってもあいつの墓はR県にはなく、隣のP県にある。きっかけは思い出せないが、一度R県にみんな——十人ほどいつも足りない——が集まってからP県に行くのがいつのまにか慣習となっている。
発車時刻になり新幹線に乗り込むと車内は全く混んでなくて急ぐ必要もないの堂本は窓側の席を瞬く間にとってしれっと座って、窓の景色を見ていた。堂本が卒業旅行の時も窓側の席を何がなんでも取ろうとしていたことを思い出して、俺はつい笑ってしまった。
「……お前、真衣のこと覚えてる?」
俺が席に座ると、窓の外の無機質な景色を見ながら堂本がそう言った。
「……忘れるわけがないだろ。」
「そうか。」
そう。忘れるわけがない。功刀真衣のような人に会ったのは後にも先にもあの時、高校生の時だけだ。
車内に女性のアナウンスが流れた後ゆっくりと新幹線が動き出した。
俺は持ってきたボストンバックの中から一冊の文庫本を取り出した。
「お前、本なんかまだ読んでんだな。」
「突然だろ、俺から本を取ったら何が残るっていうんだよ。」
「それもそうだな。あいつとの繋がりも本だったもんな。」
あいつ、真衣と出会ったのは高校二年の時だった気がする。
俺の高校時代は——
がたがたと揺れる新幹線が睡魔を誘い、そのまま身を任せ文庫本を右手にゆっくりと目を閉じた。
◆
「新入生入場。」
先生と思しき人の、の野太い声が聞こえる。息が白くなるほど寒く、暗いここでは、初対面にもかかわらず、僕たちはペンギンさながらに暖をとっていた。
今日は四月六日、四宮高校の入学式。着慣れないブレザーは胸元が開いていて、僕の心臓は動きやすそうに、リズミカルに、自分の仕事をまっとうしていた。
前列がゆっくりと動くと、じんわりと体育館の明かりが視界にはいる。ここから僕の高校生活が始まるのだと思うと足が震えてくるが、僕はかじかんだ手を握って二の足を出した。
「——これで連絡は以上っと、明日は弁当が必要だから忘れんなよ。それじゃあまた明日」
担任の田辺先生がそう言ってLHRは終わった。
入学式自体は一時間もかからないで終わった。その後、僕たちは寒い教室に戻って先生が自己紹介をして、親が来るのを待った。そしてLHRが始まったのだが、それも一時間かからずに終わってしまった。
教室には生暖かい空気が流れて、張り詰めていた空気が崩れぞろぞろと生徒が歩き出した。
「ねぇ、どこの中学?」
「部活どうする?」
「あの子可愛くね?」
「帰っていいのかな。」
「ネクタイ苦しくね。」
気づけばそこら中に会話が転がっていた。
どうしてすぐに人を求める?
「あっ、ごめんね。」
僕の机の前を真っ黒な髪の女子が通り抜ける。
どうして、何でそんなに傲慢なの?
僕はその大きな背中をただただ眺めることしかできなかった。
現実に打ちのめされた僕は一人、重いリュックを背負ってだだっ広い歩道を歩いていた。その脇を一台の車がエンジンをふかして走り去っていく。
「……疲れた。」
ため息と一緒につい言葉が漏れる。
二十分程歩いて家に着いた。
「ただいま。」
僕の声はやけに響き、暗い玄関に吸い込まれていった。
僕は靴を脱いでリビングの電気をつける。
リュックをソファーにおいて制服を脱いでその辺にあった服を着た。スマホのディスプレイに目をやると
「ごめん、今日も遅くなる。」
母親からのメッセージがきていた。
お昼時というのもあってお腹がすいた僕は一度台所に向かった。
冷蔵庫を開けると中には半端な野菜とパックに入った肉、昨日の残りのご飯が入っていた。
フライパンに油をひいて、冷蔵庫にあったもやしを火にかける。ぶわっと蒸気が上がって冷たくなった体がじんわりと温まる。強火で一気に炒めると塩胡椒を振って皿に盛り付けた。湯気にのった美味しそうな香りが口の中を濡らし、我慢できなくて手で掴んで口に放り投げた。しゃきしゃきと音をたてて崩れるもやしから塩っけを含んだ水分が溢れ出す。
僕は机に炒めたもやしと冷蔵庫にあったご飯を持っていった。
「いただきます。」
ご飯と一緒に食べるもやしは独特な風味がしてあまり合わなかったが、僕にはそれで十分だった。
食器を水につけて、二階の自分の部屋に向かう。ベッドに横になって脇に置いてある本を手に手を伸ばした。最近話題になっているミステリー作家の新刊だった。そして僕はゆっくりとページを開いた。
目を覚ましたのは日がすっかり落ちてからだった。少し軽くなった体を起こして、階段を降りる。スマホを見ると五時半を示していた。夕飯の支度もしないといけない僕は、炊飯器にといだ米を入れてからパーカーを羽織って外に出た。自転車に跨ってペダルに力を込めると少し暖かくなった風がふわっとして心地よかった。五分も走ると目的のスーパーに着いた。中に入って、じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、豚肉、カレールーを買って家に戻った。
鍋を取り出し、野菜を切って、肉を炒めて、一緒に煮込む。
同時にご飯が炊けて、皿に盛り付けた。大したことはしていないはずなのにお腹が空いていたのか僕はあっという間に平らげ、満足した後シャワーを浴びた。暖かくなるとまぶたが重くなり、
「カレーを作っといたよ。」
と置き手紙を残して自分の部屋に入った。また本を開くと、ちょうど人が殺される血が滴る描写だった。なんとなく嫌な気がしてぼくは電気を消して眠りについた。
こんな毎日を過ごして一年が経つ。
僕の生活は未だ変わらない、はずだった。