84.水と闇の邂逅
殴られでもしたかのような強い衝撃を受けて、彬華は目を開けた。跳ね起きて周囲を見渡す。車内の中には誰もいない。
状況把握が追い付かずに、車の後部座席で跳ね起きた体制のまま固まる。ずきずきと痛む頭のせいで、思考がよくまとまらない。
今まで眠っていたようだ。何で?……頭が痛いから。何で痛くなった?……術力を使いすぎたから。何で術力を使った?使ってはいけなかった筈だ。……ええっと、どうしても必要だったから。
「あぁ、陸って人を助けるため、だわ」
あのイケメンね。背の高い優男。病室で横になっていた青年を思い出して、ため息を吐くと彬華はもう一度背もたれに体を預けた。
「戸上陸か……。絶対、北斗君に怒られるやつよねコレ……」
彬華はもう一度大きくため息をつく。
霊感があると説明したが、術力があることをばらしてしまった事は事実だ。不味いよねぇ。とポリポリと首のあたりを掻いてみる。
「でも、いくら女の術者が殆どいないからって、夜上一族の女に手を出すとは思えないけどなぁ。夜上の血を引く女は多分当主になれないんだろうし」
戸上の血を引く者は殆どの術に適性があるが、唯一闇術だけは適性がないのが特徴の一つだった。闇術が忌避されているという事なのだろう。
それにこれ……。と、彬華は窓の外へ視線を投げた。正樹たち三人が向かった公園のは今も黒い靄の様な物が蟠っているのが彬華の目にははっきり見える。
「違う、よね」
瘴気だと思っていた。けれど、違った。
「痛み……かな。だから……血の様なもんか」
唇に指を当てて少し考えて。
「……あ……そういうこと?」
頭痛すらも忘れて、彬華は慌ててドアを開けて車から出た。ふらつく体を車に手をついて支えて、瞳を凝らすように公園を視る。
「ああもうっ。コンタクト!!これのせいで見ずらいのよ!!」
良く視えると言うよりは、無駄に視え過ぎる目を制御するためのコンタクトだった。
視力の良い琳華にとって視界がクリアな事は当たり前だった。その眼から見える世界の美しさに彼女は何度も心を慰められて来た。
けれど彼女の特異な瞳はそれ以上のモノを彼女に見せた。それは彼女に孤独を与えるには十分な理由になってしまった。
彬華は目を閉じた。どくどくと脈打つように痛む頭と、視界を遮ったせいで余計によく聞こえる心音。集中するには不適切な状態だ。
それでも深呼吸を繰り返し、ゆっくり時間をかけて集中していく。
コンタクトは彬華にとってお守りみたいなものだった。奇妙なモノを見ないための。
子供の頃は伊達メガネを使っていた。視力が良いのに掛けていたせいで、「目が悪くなる」とよく母親に小言を言われたものだ。母親には「頭が良く視えるでしょ?」と答えておいた。
頭痛が酷いのは普段なら見えない環境で、視ようとしたからだった。けれど、ここまで近ければ視る必要などそもそもない。感じればいいのだから。
「……やっぱりそうだ」
小さく疲れた声だった。視界が揺れる。彬華は倒れるようにその場に座り込んだ。
「大丈夫ですか?!」
急にアスファルトに座り込んだ彬華を見ていたのだろう。若い女性が彬華に駆け寄って来る。
「どうしました?気持ち悪いんですかっ?!」
優しい声色に彬華は顔を上げるが、また眩暈を感じてすぐに目を閉じてしまう。
「すいません、立ち眩みしたみたいで。座って休めばよくなると思うので……」
そう言って何とか立ち上がりろうとするが、やまない眩暈のせいでうまくいかなかった。
「この車に乗って来られたのでしょうか。ドア空きますか?……あれ?この車……」
視線を彬華から白い車に移した女性は、運転席のルームミラーに掛かる特徴的なキーホルダーに気づいてもう一度車を見回した。
白い車は所謂スポーツカーと呼ばれる高級車の類で、普段はあまり目にすることはない。けれど、女性はこの車を見た事があった。というか乗った事もあった。多分この車ドアが少し斜め上に向かって開くのではなかったか?
一瞬戸惑ったが、取り敢えず女性は彬華の救助を優先したようだった。車の後部座席を開けて、彬華に手を貸してゆっくり立ち上がらせ、彼女を後部座席に座らせた。
「……ありがとうございます」
後部座席に座り、少しだけ落ち着いた彬華はそう声を掛けて、ゆっくり目を開いた。
綺麗な女性が彬華を気遣わし気に見詰めながら見下ろしている。
「何か飲み物を買って来ましょうか?あ、お水で良ければ今そこで買ったものがありますけれど。まだ未開封なので良かったらどうぞ」
ショルダーバックから500ミリの水の入ったペットボトルを差し出され、彬華は少し微笑んで受け取った。
「ありがとうございます」
再び礼を言って、ペットボトルを開け少しずつ水を飲むと少し落ち着いたのか頭痛が和らいだ気がした。
「助かりました。本当にありがとう」
「良かった。酷い様なら横になった方がいいかもしれません。車の中の人は誰もいないのですか?」
「もう少ししたら戻って来ると思います。私が具合悪いのを知っているのでそんなに掛からないと思います」
「ええっ。具合悪いのを知ってて車に置いて行ったのですか?コンビニの中じゃないですよね。見掛けてなかったし」
「皆が出掛けた時はそれほど悪くなかったのです……ええ?」
「新汰さんですよね?、この車の持ち主」
「新汰……多分、そんな名前だったかも」
また戸上関係者か、と。彬華はまた頭痛がぶり返すのを感じた。
「戸上……さんと呼んでいたから……正確な名前……は覚えていません……けど……多分、そんな名前です」
琳華の声は切れ切れだった。具合が悪いからではない。いや、それも勿論ないわけではないが、それよりも気になる事があった。
正樹が術者であった事すら琳華は知らなかった。術者とはこの場合、『戸上当主の命を受けて土地を守護する者』のことだ。単に術を使える者と言う意味ではない。
それが示し合わせた訳でもなく、こんなに集まってしまった事が何を意味するのか、今まで深く考えていなかった。
「あ……」
突然地面が揺れた、と感じた。次の瞬間には彼女の意識は上空へ飛び、神の視点で世界を見下ろしいていた。
最初は変化は緩やかだった。周囲からたくさんの鳥たちがっ飛び去った。地面が揺れたからだ。音は聞こえない。
上空にいる彬華は感じることはなかったが、地上では大きな地震に見舞われているのだろう。眼下の地形のブレが大きくなっていくのが判った。
そもそも、彬華の体がこの場にあるかさえも判らない状態だ。最初から視覚以外の感覚を彬華が感じることは出来ないのかも知れない。
大きな地割れが左から右へ入った。その地割れを起点に上下で大地がずれ始める。地方都市特有のあまり高くはないビルが地割れに飲み込まれて崩れるのが見える。
彬華に視点が高すぎるせいか、不思議と逃げ惑う人の姿は見えなかった。
「ああ……あああ……」
ジオラマの様に見える崎宮市の街並みがこの場所を中心に崩壊していく。
言葉にならなかった。
怒っている、誰かが。ただそう感じた。
そのまま琳華は意識を失った。
R03-10-13 訂正加筆
R03-12-05加筆




