72.戸上邸内の暗雲②
”ここから一人で出掛けるというのであれば反対だ”
清藍の前に姿を見せて開口一番に水の神はそう告げた。
相変わらず小さな男の子の姿をしている。晴れた秋の空を思わせる水色の髪とそれより少し深い色をした瞳。子供だというのに整いすぎた顔つきは、その色も相俟ってこの世の物とは思えない。
「そう言うと思ったわ」
”だったら大人しく、勉強の続きでもするといい”
「だからって、はいそうですかって答えると思ってる?」
呼吸すら必要としない存在であるにもかかわらず、水の神がため息を付くようなそぶりを見せる。
”姫巫女の事ならば心配ない……と言っても無駄なのであろうな……”
「姫巫女?」
”戸上に生まれる術力ある女子は皆そう呼ばれるのだ”
「つまり当主候補ね。いたのね、ちゃんと」
”現段階で二人存在しておるな”
「なら私が戸上に保護される理由なんてないんじゃ……」
”そのどちらもが当主候補としては問題ありなのだろうよ。片方は資質に、もう片方は年齢に、な”
「片方が資質が足りなくて、もう片方は年齢が足りない?でも年齢なら別に……時間が解決してくれるんじゃ……?」
”不足しているかどうかなど、並の人間には判らぬだろうからな”
「ああ、そっか。それに、もう一つ問題があるのね。ここで会ったことがないってことは、両方とも長男……陸の姉妹たちではないってことね?」
清藍は未だ陸の父親の名前を知らなかった。会ったこともない。同じ家で生活をしているというのにだ。
自分を戸上の当主にしようと画策しているのは、陸の父なのかもしれない。今更ながらに清藍は思った。
戸上邸に住むようになって二月が過ぎようとしている。住んでしまえば知りたくもない事情と言うものも聞こえてきてしまう。
当主候補が確定していない最大の理由は、綾乃が確とした当主候補を指名していないことだが、それは嫡子に女子がいないからだと言われている。
しかし本当の理由は違っていた。
本当の理由は、『現在いる戸上の血を引く術者の誰もが、当主にふさわしい術力を備えていない』からだ。
そう清藍に教えたのは陸だった。
綾乃はあまり血筋を重要視していない。実力さえあれば誰が継いでもいいと思うと、陸自身が本人の口から聞いたのだと。
けれどそれは、綾乃個人の考えであって、戸上の血を引く術者達の総意と一致するものではなかった。
だからせめて、戸上の血を引くか、戸上の者と婚姻することがもう一つの条件なのだ。
現在、当主候補に名前が挙げられているのは、戸上の血縁者が二人、外様が清藍を含めて二人だ。
本人達は当主になることなどこれっぽっちも希望していないというのに、と清藍はため息を付く。
「陸と徹が捜しに行っているんでしょ、その逸夏ちゃんって子は」
”そのようだ”
「なら、そっちは大丈夫よ。私が気になるのは、この間の土の神様との約束の方よ」
”ああ土の……か。彼の神もそろそろ痺れを切らすころかも知れぬな”
「知っているんだ?」
”彼の神は、古くからこの地一帯の守護眷属神だからの、ワシですら足下に及ばぬお方よ……”
「アーガよりお兄さんなのね。すごい……」
水の神はちらと清藍を見上げた。その表情が僅かに不審気だった。
「どうしたの?」
”いや……今は清藍なのかそれとも藍良なのかと思うただけよ……”
「清藍よ。……多分、ね」
水の神は清藍に藍良の精神の欠片を同居させたことをほんの少しだけ後悔した。
”……そうよな。人は生きていればいいというものではなかったな……”
そのささやきは誰に向けられたものでもない。だから、清藍にも届かなかった。
R03-04-30 サブタイトル変更 戸上邸内の小さな騒動→戸上邸内の暗雲