僅(わず)かな光明
久々のアップです。今日も体調が良くありません。体重も増えました……。少し運動しないとダメですね。
陸はふと顔を上げた。
目に強い疲れを感じて右手で目頭を揉んだ。机の上には古い文献が数冊乗っている。午前中の早い時間にこの席についてから今まで休みも入れずにそれを読み耽っていた。
疲れが出るのも当然だった。
陸は深く息を吐きながら首を回し、それでも足りずに席を立って背伸びをした。
背伸びと同時に深呼吸すると肺に新しい空気が満たされて少しはすっきりした。
今陸が読んでいた文献は、70年程前に崎宮市より北西部で起こった大規模地震当時の様子を克明に記した書物だった。
今回のことに何か関係がないかと読んでいたものだったが、正直関係があるのかないのかはよく判らなかった。
ただ、その地震で熊田市も小さくない被害を受けているようで、それが一番陸の興味を引く点だった。
「被害は特に北部から西部……場所も符合する……か」
だがその時の主な被害地は熊田市というよりはさらに北の土地だった。
「外れかなぁ」
疲れを吐き出すようにため息をつき、陸は机の上の他の文献とは少し離れた位置に置いておいた文献を手に取った。
今回の件とは関係は薄そうではあったが、興味を惹かれたという理由だけで手に取った書物だった。
気分転換になるかと思い軽い気持ちで書物を開く。
相変わらずの達筆すぎる書体で書かれた文章だったが、ここ数日でそれにも慣れたようで読み進むには苦労することはなかった。
それはある地域の民間信仰の祭事を蒐集したものを纏めたものだった。
極めて小規模で特定の神殿や社すら存在せず、各々の家屋の床の間に依代のようなものを祀って行われていたようだ。
そうした一族が数十件ほど熊田市を中心に点在していた。現在もその祭事を絶やさず行っている家はさらに少なく十数件のみ。
文献自体はそうした家々から祭事の内容を聞き取りして纏めたもののようだった。
「三日月信仰……月の神……」
月の神、月読命を祀った神社ですら数が少ないというのに、更に『三日月』に限定して祀っているというのはさらに珍しい。
「あれ?三日月……?」
そういえば……先ほどまで読んでいた書物にそんな記載がなかったか?地震の際に崩れた神社がそんな名前ではなかったか?
慌てて先ほどまで読んでいた書物を再度取り上げてペラペラとページを繰っていく。
「これだ……」
そこには確かに三日月神社という神社が地震の際に崩れ大破した旨が記載されていた。
陸は急いでスマフォを取り出して熊田市の三日月神社の場所を検索してみた。
その場所ばこの間水害を起こしたばかりの白川のすぐ辺りに存在している。ストリートビューで確認しようとしたが鳥居まででその中までは撮影されてはおらず見ることは確認できなかった。
さらに三日月神社を確認してみると祭事の様子などが写真付きで上がっているようで再建されていることは間違い無いようだった。
陸は掛けていた眼鏡をかちゃりを掛けなおした。机の上の文献をそのままに立ち上がり腕時計で時間を確かめる。
まだ、午後を回ったばかりだ。行ってみる価値はありそうだ。
厚い壁に阻まれ、外気を通しにくい構造のおかげで、空調いらずの涼しい蔵から外に出れば一瞬で汗が噴き出す熱気が陸を包んだ。
暦の上では秋だと言って差し支えないのにまだまだ暑い。風に湿気が少ないのが救いか。太陽に罪があるわけでもないだろうが、ほんの少し恨みを込めて空を見上げる。
空は抜けるような青空だ。積乱雲は姿を消してイワシのような小さな雲がちらほらと漂っているだけだ。季節は確実に秋へと移行している証だろうか。
急ぎながらもしっかりと蔵に施錠をして、念を入れてガチャガチャと掛かり具合を確認する。
ここに所蔵されているものは、ある意味で金銭以上に貴重なものばかりだ。失われれば二度と手に入らない原本がいくつあることか。盗難を試みる愚か者がいないとも限らない。
さらに鍵をズボンのベルトループにつけておいた小さな鎖に、鍵の持ち手にあいた穴に繋ぐ。鎖の先は小さなポケットに鍵をしまい歩き出す。
自分でも几帳面すぎると思う。というか、警戒しすぎだ。
蔵の書物の学術的な価値は確かに高いが、こんなものに興味を示すのは大学や研究所に籍を置く、頭髪の薄そうな老人だけではないだろうか。
自分に突っ込みを入れながらも、歩く足は止めない。それでなくてもこの家は移動するのに無駄に時間を取られるのだ。
片手でスマフォを操り、目的の場所への交通手段を検索する。
こういう時に自由になる足がないことが悔やまれる。免許をとれる年齢には達しているが、正直教習所に通う時間があるならほかのことに時間を割きたいというのが陸の本音だ。
世間一般の大学生であれば逆なのだろうとは、陸にも自覚はある。大学生にとって運転免許と車の有り無しは生活に大きく影響するだろう。良くも悪くも。
陸は軽く息を吐く。ないものはない。仕方ない。新汰に連絡を入れることも少し考えたが……なんとなく気乗りはしなかったのでやめた。
検索結果はすぐに手に入り、大まかに見積もっても今日中に往復できることを確認すると、軽く頭を振って頭から余計なことは追い出した。
今は無駄なことを考えるのはやめよう。ある種それは逃げのようなものだったけれど。
煮詰まって進まないことがあったとして、それがどうやっても解決しない様相を呈しているのであれば……今思い悩んでもどうにもなるまい。
そう、腹をくくった。
やれることをやろう。取り合えず、できる限り足掻いてそれでもどうにもならないのなら。それはきっとそうなる運命だったと諦められるかもしれない。
そんな風に考えた。
ただ、自分と彼女の糸が切れるだけなのだとしたら。そんなことは大したことではないのは、知っている。身に染みるほどに。
それ以上に大切で、ただそれだけが叶えばいいと思っていたただ一つのもの。
それを守るためならば。ほかにどんな惜しいものがあるだろう。
うっすらと陸の顔に笑みが戻る。それは虚勢。そして、それでも笑える、笑おうとする芯の強さ。
ここ最近の夢のような幸福のせいで目が曇っていたことにいまさらに気づく。最初から何を一番に優先するのかなんて決まっているというのに。
もしもこの事件の解決法が見つからないのならば、おそらく自分は彼女を連れて逃げるだろう。それは確信に近い予想図。
結果、自分の精神にどれだけの負担がかかろうと、だ。
ただ一つの命。けれど、それは陸にとって自分のそれですら比較にならない宝だ。
自らの偏った心――価値観を自覚しながら、そしてそれがともすれば危険思想へとなりかねないと知りながら、陸はそれを抑えようとも正そうとも思わなかった。
かちゃんと手に持っていた物が床に落ちた。何を手にしていたかすら瞬時に思い出すことができない。
手がしびれて持っていることができなくなったのだ。手だけではない。全身がしびれてそれが脳まで達して思考までもが奪われそうだ。
逃げなければ――。急速に奪われていく体の自由。わずかに生きている心だけが、そう急かすけれど体は思うようには動いてくれなくて。
もっと用心すべきだった。何に?誰に?
判っていたはずだ。本当の敵は近くにいるということを。
彼の見えるか見えないかぎりぎりのラインで、陽の中ですら完全に消すことのできない暗い影に身を潜め狙っているモノ。その気配だけをずっと感じていた。
鼻腔をくすぐる風に混じる嗅ぎ慣れぬ香りに気づき、体と同様に痺れ始めた頭の片隅で何かが閃く。
柑橘系の植物を使った香のような香り。宗家ではよく祖母の綾乃が好みの香を焚いて瞑想をしていることがあった。香の香りに離れていた。それ故に気付くのが遅れた。
香は最近では和風ハーブとして一部の女性などに人気の品もあるが、モノによっては毒性や中毒性があり、吸い込むだけで酩酊するような危険なものも存在する。
そして、その種の最大の難点は、自然な作用であるために体への影響に気づきずらいということだ。
「いつから……」
鈍る頭に鞭を打って、陸は記憶を探る。
甘くも苦くもない、さわやかとすらいえる香がまた漂ってくる。
くらりと眩暈を感じる。自らを抱く大気そのものが、傾ぐような感覚に襲われる。まずい――。五感が麻痺し始めている。
次第に下肢に力が入らなくなっていく。いけない――今は――。漂ってくるさわやかな香りとは、反するように体の中から不快さが込み上げてくる。
すとんと、膝が落ちる。家の敷居を出たところで、門に縋るように手をかけて。
増していく不快感と、不自然に動きを速める心臓。明らかに自分の体に異変が起こっていると気づいたその時には、もう体を動かすことはできなくなっていた。
まさか、ここで。
油断があったのか。まさか宗家にいるときに仕掛けてくるとは。
自らの甘さに歯噛みをしながら陸は意識を手放した。
R06-10-09 作品編集中です。一つ一つが短いので纏めている所です。