遠山の金さん外伝
予定通り移動、工事が進み、八割のことが片付いたころ、森川が静かに逝った。
その間、金四郎は二度ほど森川を見舞い、元気づけたものだ。
「若様、年寄りの相手などしておられる場合ではございますまい。 しっかりと奉行の務めを果たして頂きませんと!」
病床の森川も金四郎の活躍ぶりはよく知っているらしく、枕元に金四郎の功績を讃えた瓦版が置いてある。 遠野屋の瓦版だ。
それは金四郎の心にチクリと針を刺すような痛みがあったが。
「相変わらずだな。 しかしこうやって森川の顔を見にくるのも、私にとっていい気分転換になる。 私は森川のことは遠山の御用人とは思わず、身内と思うている。 特に景好の父が亡くなってからわな・・・」
「・・・またそのようなことを・・・」
森川は涙もろくなっている。
「なっ、早う治して、また一献いこうではないか。 今日という今日はを聞きたいものだぞ。 はは・・・」
金四郎は痩せた森川の首筋を見て、そうはならないであろうことを察した。 そしてこの会話が、森川と交わしたことの最後となったのだ。
森川の葬儀は家の者に任してしまったが、ほぼ半日、金四郎は家で過ごした。 書類の整理や指示の確認など、家でやろうかとも考えたが、今日くらいはと全て奉行所に置いてきてしまった。
森川は死ぬ時苦しまず、庭が見たいと障子を開けさせたという。 庭を見た森川は弱弱しい声で“今日という今日は”と言ったそうだが、それを聞いた金四郎は噴き出した。
伝えた下女は泣いていてバツの悪い思いをしたものだ。 実父は長崎よりやはり戻れぬとの知らせがややあって届いた。
金四郎は特に驚きもしなかったし、会いたいとも思わなかった。
「その方がおいら気楽だ。」
などと言っていたが、その後数日後実父から書面が届き、その内容に背筋が伸びた。
金四郎殿
江戸での奉行としての活躍、評判、長崎にも届いております。 父は仕事で森川氏を見送ることはできぬが、金四郎が立派に務めを果たすことを信じておる。 思えば遠山の家の養子の立場であるこの父が、図らずも幕府の重要な役職を授かってしまった。 遠山の家のこと、そなたたちのこと、全て顧みることのできぬほどの重職ではあった。 今思えばそれは言い訳かも知れぬが、取り返しのつかぬことだ。 そなたが私を嫌い、武士までを嫌っていたことを重々承知はしていたものの、なす術を知らなかった。 そなたが心変わりをし、町奉行という役務を立派に果たすことはおろか、上様より直々お言葉を頂戴するほどの功績であること、俄かには信じ難い思いであった。 そなたが幼少の頃、上様の御学友として務めたことを思い出し、合点がいった次第である。 そなたが国を想い、民を想い、その繋ぎ目の鉸めとなり、身を粉にして働く姿を想い浮かべては、私の仕事の糧にしておる今日である。 それは真にそなたらしいことである。 民の気持ちに入りすぎるのではないかと懸念もしたが、そなたも成長し、幕府と民の調和を図ろうとしていること、素晴らしきことと思うぞ。 金四郎よ、私はそなたを誇りに思う。 身体に気を付け
仕事に励み、徳川と江戸の民の発展に寄与するのだ。 金四郎、会える日を楽しみにしている。 だが私は、このままそなたに会えぬまま、遠い他国で殉死することも覚悟はしている。
金四郎、精進せよ。
父
手紙は候文ではない。
この時代の武士には珍しく、口語体だ。
外国との交渉において、日本人特有の御茶を濁すとか仄めかすとか、よく言う腹芸のようなことはできない。
イエス・ノウをはっきりさせて交渉をすることから、自然身内への手紙も、こう書かせたのかも知れない。
それだけに金四郎は父の気持ちが良くわかった。 “父上は私の誇りであります。 私は私のやり方で、徳川に貴恵したく精進いたします。”
金四郎は父からの手紙を押し頂いた。
遠野屋の案で、金四郎は瓦版に江戸の衆へ向けて言葉を発した。
「遠山の力及ばず、みんなにゃ厭な思いをさせちまって申し訳ない。 ここまで来たら開き直るわけじゃないが、“み”の字と“と
“の字の御手並み拝見と行こうじゃないか。
小屋や商売が打ち壊されたわけじゃねえ。
ひとっところにかたまって、やれってこったから、それはそれでやってみちゃどうかと思うんだ。 江戸っ子の根性見せてやろうじゃねえか! おいらも一緒になって小屋や商売が繁盛するようがんばるからよ! 頼むよみんな。 勝負はこれからだい!」
“み”の字は水田で、“と”の字は鳥井のことである。 江戸庶民は溜飲を下げると共に、大いに盛り上がった。
「やっぱり金さんは庶民の味方だ。」
「金さんがいりゃあ百人力だ!」
奉行所の調査で、江戸の職人、商人その他の町人の賃金はかなり上り、各店舗も売り上げを伸ばしている。 失業している者は減っており、治安は良くなっている。
水田、鳥井、そして遠山金四郎の三名の策は、狙い通り経済を発展させた。 また将軍家慶公も家斉、桂美の方、及び古狸の老中連中を、今のところは抑えている。
金四郎は仏間にあって、亡き家族たちに手を合わせ話しかけた。
「父上、坊よ、そして森川。 あなたたちから教えてもらったことは、何にも換え難いものです。 心労をかけた分、孝行に値する仕事ができたでしょうか? 父上、あなたに教えて頂いたこと、この封建制度厳しい武家社会に於いて、武家と民がぎりぎりまで歩み寄り、日本国の健全なる在り方を模索し続けること、それに近づけたつもりであります。」
部屋の外で足音がして止まった。
「御前、お時間でございます。」
新しい御用人の声である。 森川の親戚筋にあたるまだ三十代の若者だ。 金四郎とそう歳が変わらない。
「わかった・・・」
金四郎は応え、少し息を吐いた。
「森川、あんたの親戚の者だというが、どうも堅くていかんね。 あの“今日という今日は”と腕まくりをしたのが懐かしいよ。
私が奉行を務めたことで、安心させすぎたかな森川・・・もうちょっとそばにおってくれてもよかったものを。 おいら、寂しいよ・・・」
金四郎は静かに立ち上がり、部屋を出た。
供侍を二人連れ、予定通り北町奉行遠山金四郎は視察に出向いた。 場所はもちろん浅草にほど近い、小屋屯だ。
小屋屯とは遠野屋が名付けた。 小屋が屯している場所。 そのままである。 そこは予想以上の人出で、さすがに驚いた。
遠野屋や、芝居小屋の関係者が遠山の金さんが視察に来ると、人を使って噂を流したのである。
「金さんだ!」
「北町の御奉行様だ!」
金四郎はあっという間に取り囲まれた。
今までにもこんなことはあったが、人々の熱気がこれまでと違う。
「みんな、道を開けてくんな。 おいら現場の人の話が聞きてえんだ。 頼むよ、開けてくんな・・・」
皆が金四郎の言うことを聞き入れ、道を開け始めた。 金四郎はあまりに早く言うことを聞いてくれたものだから、少し物足りない
。 “もうちょっとあれこれあった方が、人気がある感じがするのに・・・”
道は開いても人が減ったわけではない。
金四郎はいつものように、店を出してる者たちや、あれこれ働いている人たちを捉まえて、話しを聞いた。
「どうだい調子は?」
「へい、御蔭さまで何とかやっております
。 ちと忙しすぎて困るくらいで。」
「贅沢言っちゃあいけねえ。 結構なことじゃねえか。 頑張ってくれよ!」
年寄りなどは金四郎が声を掛けると涙を流して礼を言う者もいる。 正に芝居の花道。
人気役者の御通りである。
移設させた人気の芝居小屋を中心に、円を描いて、飲食店、見世物、菓子屋、小間物屋と、ぐるぐる取り囲むように作られている。
江戸見物に来た他所の郷の者などは、その作りがおもしろいと、何度も周り、金を使ってくれる。
新たな江戸の名所である。
遠野屋が名付けたのが「小屋屯地」。
そのままの命名ではあるが、これにかこつけてある芸人が頓智小屋なる小さな寄席小屋を始めた。 頓知を効かせた漫談をやる。
これが結構受けて客が入るようになった。
たちまち水田、鳥井の悪人が、規制を掛けようとしたが、またまた金さんが出て来てその規制にまったをかける。
「知恵を絞った芸人が受ける芸を考えついて、客が入れば規制をかけて、厭なら銭を出しななんて、役人のやることに知恵が無さ過ぎやしねえか?」
これを受けて江戸庶民はまたも“ヤンヤ”の喝さいである。 しかしこれも遠野屋の作り事で、三名に許諾は受けたが、金四郎などは自分が発したはずの文言を、瓦版で初めて知ったのである。
「おいら、こんなこと言ったことになってんだ・・・」
瓦版を見て苦笑していたものだ。
金四郎は自分が別の者へ作られていくことを感じていた。 無意識にも外へ出て、庶民から声を掛けられれば、瓦版の通りの“金さん”になるのだ。
最初は何か居心地の悪い思いもしていたのだが、案外慣れてしまっている。 やり方はどうあれ、景気は上向き、江戸は活気づき、人々は生き生きしている。
“これでいいのだ三毛よ”
いなくなったあいつを思い出す。
茶をかけてから三毛の姿を見ることは今日までない。 愛想を尽かされたか、只の気まぐれかわからない。 これまでこんなに長くいなくなったことはない。
オミチからこっちずーっと一緒だったわけで、金四郎の全てを知っている。 今回の経済政策には随分知恵を借りた。 大凡床の間にでも座布団敷いて座ってもらわないといけない存在だ。
「まさか、そんなな・・・」
思わず独り言を言ってしまい、供侍がそばへ来る。
「御奉行、何か?」
「・・・いや、なんでもない・・・」
取り繕ったところで、“金さん”と声がかかった。 応えようと声のした方を見ると、知った顔だった。
“確かこの男は大工だ。 オミチの店の馴染みで何度か呑んだことがある”
「これは御奉行様、どうも。」
後ろに二人、連れがいる。
市井に出回っていた頃の知り合いが、奉行になった金四郎に声をかけることは珍しくない。 金四郎は顔を作る。
「おう、久しぶりだな。 どうでい調子は? 元気でやってるかい。」
軽快に声を出す。
「ほら見ねい。 俺は御奉行様と顔見知りだと言ったろう。」
男の連れの二人は驚いている。
「こりゃどうも、恐れ入った。」
「御奉行様すまないね、俺は少し前に、御奉行様と一杯やったことがあるなんて言うと
、こいつら法螺だって言いやがる。 今日屯地を御奉行様が御見回りだってんで、ここらで呑みながら待ってたんでさ。」
なるほど。 昔の知り合いに偉い御人がいるのを自慢しているわけだ。 だが、金四郎はこの男が大工職人で、いつも大きな道具箱を抱えていたのを覚えていたが、名前は忘れてしまっている。 そんなものだ。
「まっ、元気でなによりだ。」
いい加減なことを言って先へ行こうとすると、男が小走りに追ってきた。
「金さん、いや御奉行様。 ちょいと耳に入れておきたいことがあって・・・」
「うん?」
男は懐から紙を一枚出した。
瓦版より少し小さい紙で、何かの宣伝のようだった。
「何だいこりゃ?」
金四郎が見てみると、胸の奥につんと冷たいものが流れた気がした。
「こりゃ・・・」
その宣伝は新しくできた見世物小屋のもので、大きな女が怪力を利して、丸太や岩を持ち上げて見せるというもの。
持ちあげた時、スラリと伸びた脚が見えるか見えないか。 現代でいうところのチラリズムみたいなものか。
金四郎はあの両国の大火事の時のことを、鮮やかに頭の中で描き出していた。 いや、これは・・・?
金四郎は男に眼顔でどういうことなのか問うている。
「ええ、オミチさんらしいんですよ。 みた奴がいるんでさ。」
金四郎は大きく唾を呑みこんだ。
「御奉行様、その後オミチさんとは?」
金四郎は伏せた目を上げると、
「よく知らせてくれた。 ありがとよ。」
金四郎はその宣伝のチラシを持って行こうとする。
「おっと金さん、そっちは反対だ。 その小屋はあっちのどんつきを右へ曲がった三軒目ですぜ。」
金四郎は向き直り、男にニッと笑って見せた。 事情のよくわからない供侍はおろおろしている。
「ちょいと寄り道するぜ。」
金四郎は供侍を促し、男に教えられた方へ早脚に進んでいく。 果たしてあった。
男が教えた通り、右に曲がった三軒目。
中から“ひゅーふゅー”と若い男が囃すような声や口笛が聞こえる。
オミチがこの中にいる。 自分が惚れた女が、他の男に足を見せて商売をしている。
拳に力が入った。
“何ができる。 道乃進に何ができる。
何もできぬなら、放っておいた方がいい。“
その声は自分の声にも聞こえ、養父の声にも森川の声にも、そして三毛の声にも聞こえていた。
「・・・オミチ・・・」
極端に腹が減った時、出るような声を出してしまった。 金四郎は少し可笑しくなり、ふふふと笑ってしまった。
そして金四郎は踵を返した。
「川端へ出よう。」
川のほとりは桜が七八歩というところで咲いている。 ここも凄い人出である。 金四郎は供の一人に顔を近づけ、
「その方今夜、水田老中の処へ本日の報告に参るな?」
供は人目を憚りながら頷く。
「あの小屋の辺りは、特に何も起こらぬよう取り計らって頂きたいと、遠山が申していたと・・・伝えてくれ。」
供は意を解し、
「はっ・・・」
とだけ言った。
桜を見ながら歩くと店が立ち並び、大いに賑わっている。 団子、御汁粉、菓子、蕎麦
、多種多様に。 そうして金四郎はいつも通り声を掛けにこやかに話す。
「どうでえ調子は?」
「へえ、御蔭さまで。」
「そいつぁ何よりだ!」
店が途切れた処で、供の一人が言った。
「しかし見事な桜でございますなあ。 八代様が植えられたのでしたな。」
八代様とは八代将軍吉宗のことだ。
金四郎が敬う家慶公が憧れている将軍である。 できることならすぐにでも、家慶公と水田老中、ついでに(?)鳥井も入れて、お互いの労を労いたいと思う。
みな頑張った。
金四郎が胎の内で思い、三毛が指摘したように、民を欺いたことは心苦しい。 けれども三名が描いた図の通り、世の中は回っているのだ。 今のところは。
金四郎は政治家として、役人として、民に対して最低限の誠意は尽くしたと思った。
そうだ、結果が良しなのだから、これでいいのだ。 鳥井たちと本当は仲良くやっていても、金四郎が考えた政策は、実は猫が言ったことでも、結果良しなのだ。
これは方便というやつだ。
正義の味方を気どり、至福を肥やすようなことは何もしていない。 していない。 全ては江戸のみんなのためなのだ。
「オミチ、わかってくれよ・・・」
金四郎の独り言に供の一人が、
「はっ?」
と問うたが、
「いや、先へ急ぐぞ!」
遠山金四郎は大股で一歩踏み出した。