遠山の金さん外伝
徳川の財政はひっ迫していた。
それを憂いている者はわずかしかいない。
家慶公を筆頭に、金四郎の父もそうであるし、老中のなかにも少なからずいる。
家慶公は父家斉に実権を握られたまま、お飾り将軍となってしまっている。 それだけでなく、他にも問題があると金四郎は思っている。
ひとつは家慶公の身体のことだ。
幼少より病気がちで、お弱い。
もうひとつは大奥の権力を握る桂美の方様という女性である。 この人は家斉からひどく寵愛を受けているのだ。
自分が腹を痛めた子を将軍にしたい。
だが彼女は家斉との間に二人の子を設けたが、いずれも女子だった。
そうなると家斉をたらし込み、己の思うがまま世を動かしたくなる。 当初、家慶の毒殺まで考えたが、あざといこの女は早めに死ぬであろう身体の弱い家慶は放っておくことにした。
故に家斉の大御所隠居を言いだした。
下腹部を握られた家斉は桂美の言いなりなのである。
「金四郎・・・どうしよう? 民を助けたい、また助けられる徳川でありたい。 だがしかし、最早徳川にはその力もないのかも知れぬ。 金四郎、幼き頃に貴公に教えてもらった市井の人々の逸話の数々、忘れてはいない。 市井の者たちをもっと良くしてやりたい、そう思うのじゃ・・・」
金四郎は何度か家慶公と話すうち、胸の中を熱く輝かしいものが貫いていく感じがしていた。
“子供のころ、だから気があったのだ”
この公は自分たちが、いや徳川家が、多くの民の働きで支えれていることを、強く意識されている。
あれこれと御大層な御役を受け持っている年寄りどもが、自分の地位と家と収入を守るために画策していることに、家慶公は辟易している。
白髪頭やはげ頭が、空っぽのお頭を突き合わせ、あれこれ話し合ったところで葱一把生えてはこない。
百姓が汗と泥にまみれ、血の滲む思いで米や野菜を作っていることを思えば、まったく城の中の御遊びなのだ。
金四郎は三日に一度は登城した。
何やらぶつくさ言う城内年寄りに対して、
表向きは、病弱であられる上様のお話し相手であること。 幼少の折りに気が合われた相手故、お身体の調子が良くなっているということにされた。
「へん! おめぇたちの首切りの算段をしてるんだよ。」
城内で年寄りどもとすれ違う時、金四郎は心の中で舌を出した。
「それで、どんな風に事を進めるって言うのさ?」
三毛が金四郎に言う。
「大まかなところ、江戸城内のことは上様が尽力される。 おいらは町方担当ってことだ。 ただな・・・」
「ただ何よ?」
「徳川に金がない。 そりゃわかってる。
なぜ金がないか。 それもわかってる。
貰える金が一律だとしたら、金に余裕を持たせるとしたら・・・?」
「節約するしかないね。」
この話は家慶様との間でも何度も出てきた
。 そして家慶様自身も
「江戸城内で使う金子が半端ではない。
それは大奥だ。」
はっきりと言っていた。
金四郎ははっとした。 一番の金食い虫は老中などの高級官僚だと思っていた。 ではなくて大奥。
徳川の世次のための施設。
金四郎にはそんな概念しかない。
家慶様もあまり行ったことはないそうで、
家斉様と桂美様で牛耳っておるとか。
大奥にいる側室、その方々をお世話する女性。 行儀見習い・・・
その数およそ二千人・・・
世次のためにこれほどの構成が必要であるのか? 家慶様は嘆いた。
「金四郎は八代様を存じているか?」
家慶様の言う八代様とは、八代将軍吉宗公のことだ。 現代でもテレビなどでよく取り上げられている。
テレビのように、江戸の街まで降りて来て
悪人退治などはしなかったものの、強烈なまでの行政改革をやってのけた故に・・・暴れん坊なのかも。
それは身を切る改革だった。
現代の政治家のように、口先だけではなく
、自らが節約し律したのだ。
自らも質素に暮らし、木綿の着物を着ていた。 絹物を来ている部下を睨みつけたりするので、自然江戸城内は質素となった。
ただこの将軍、あちらの方もすごかったらしく、いくら質素と言っても、大奥はつぶさなかった。
鷹狩に出た折に、気にいった街娘や百姓の娘などいたら、たちどころに覆いかぶさる始末である。
そして部下に命じて、相手に金子を与え、
後日大奥へ来るように伝えるのだ。 逆に、娘の出世狙いで、鷹狩の経路に娘をわざとらしく通らせる親もいたとか。
吉宗は他にも、治水や開墾の事業など、積極的に行ったり、桜を植えて花見の場所を作り、人々の購買意欲を刺激し、内需拡大、経済発展には大いに活躍した将軍なのである。
家慶様は八代様に憧れておられる。
御自分の身体が弱く、父君である家斉公が女人に没し、あまり政治を顧みず、寵愛の佳美様の言いなりであることが、辛くて仕方がない。
「上様とはどのようなお話を?」
城内で年寄りに水を向けられても、
「な~に、子供のころの話ですよ。」
と、金四郎はお茶を濁す。 へたをすると上様御乱心などにも成りかねない。
つまり自分たちに都合の悪いことを成されるのなら、狂われたなどということにして、
城内に閉じ込めてしまいかねない。
金四郎は登城はするが、家慶公はよく体調を崩され、接見できない日も多かった。
そんなことをしているうち、あっと言う間に一年余が過ぎていた。
「会うてほしい者がおる。」
家慶公は少し勿体をつけた様子で、金四郎に二人の男を引き合わせた。
水田那忠と鳥井洋三である。
金四郎は名前と顔だけは知っている程度で
、殆ど初対面と言ってよかった。
「よろしくお願いいたします。」
「よろしくお引き回しのほどを・・・」
三人がそれぞれ挨拶を交わした。
お互いの顔を見、お互いがどのような人物であるのかを見ようとしていた。 年長の水田が最初に口を開いた。
「遠山殿、父君におかれましては対外の御活躍、誠にあっぱれと、この水田、感服いたしております。」
また父の話か・・・
金四郎は少し不快なのだが、事実だからどうしようもない。 また家慶公との話で、阿呆がひしめく幕臣の中で、何とかしようと極少数ではあるが、切れ者が現れるのは世の常ではないかということだ。
金四郎は自分がそうとは言い難いものの、この二人はそうであることは間違いなさそうだと思った。
そうでなければ家慶公が自分に紹介するはずもない。 また本当に出世を望む者であるのなら、家斉公や佳美様に取り入ることの方が楽で早い。
家慶公と事を起こせば、下手をすれば詰め腹を切らされることにもなりかねない。
それが今の徳川なのだ。
金四郎は後で聞いた話だが、各老中、幕僚に今後の徳川政権の展望を己の考えで書き記せとし、各人家慶の元へ提出させている。
これを元に人選し、水田と鳥井を選んでいた。 もちろんその間両人ともよくよく話合っていた。 金四郎と同時進行である。
「民政としては、そなたたちにまかせようと思うている。」
三人は低頭した。
「だが、そちたちも存じて居るとおり、財政は如何ともしがたい。 そのことは私が主だってやる以外ない。 水田にも少し協力してもらおうとも思うているが。」
家慶公は沈痛な面持ちだった。
それが並大抵のことではないことは、四人ともよくよく承知していた。
“命がけだ・・・”
金四郎は心の中で呟いた。 江戸の街のみんなもそうだ。 日々、命がけで生活しているようなものなのだ。
正式な辞令が出された。
筆頭老中として水田那忠。
南町奉行、鳥井洋三。
金四郎は北町奉行となり、名前もこれを期に遠山金四郎景元とした。
金四郎は水田、鳥井とよく気があった。
水田は年が八つ上で、家柄も上なのだが、偉ぶるところなく、雰囲気が何となく死んだ養父に似ている。
鳥井は歳は一つ違いで、石高もほぼ同じの旗本だ。
目的が同じだから、当たり前と言えば当たり前だが。 三人が会うことは、少し憚られた。 水田が言うに、幕府閣僚の中には、上様他数名が不穏な動きと噂する者がいる。
上様との繋ぎ役は身分上水田一人とし、金四郎はここしばらく、上様を会っていない。
金四郎はあくまで家慶様の良き竹馬の友であり、政治向きのことは何もない。 表面はそうしておく必要がある。
水田は嗅ぎまわる犬のようなくだらん官僚を、欺く意味でも三人は仲が悪いようによそおうがよかろうと、そう言う。
水田は二人よりは格上の幕臣ゆえに、屋敷も幾つか持っている。
水田の下屋敷で三人はよく集まった。
水田の考えは、金四郎には想像もつかぬ突飛なもので、金四郎は会うのが楽しみになるほどおもしろがった。
「絶対的なことは上様だ。 金が足らぬのはどうしようもない。 年々打ちこわしも増え、村を棄てる百姓も増えている。 そこでだ・・・皆で民衆を盛り上げ、気持ちよく、また生産性の高い働きをしてもらいたい。」
金四郎は水田の言うことが漠然としていて
、掴みどころがないようにも思える。
水田が手を打つと、一人の町人がゆっくりと部屋に入ってきた。
「遠野屋喜助にござります。」
遠野屋と名乗ったこの男は、変に迫力のある風貌をしており、四十も半ばあたりの年頃で、鬢には白いものが混じり、それが彼の品を良くしていた。
水田の説明によると、遠野屋は瓦版の総元締めである。 これまでも少し協力をお互いがしていたらしい。
幕府内部の政治向きのことや、大奥内のもめごとなど、今で言うニュースソースを遠野屋が得るかわりに、行政的なことは少し幕府に都合のいいように書いてもらう。
「今度はちと違う形でな・・・」
水田は意味ありげにニヤリと笑い、一同を顔を舐めるように視た。 金四郎はゴクリと大きな音で唾を呑んだ。
水田の考えでは、上様の財政立て直しの実行はかなり難しいという。 これは皆、同じ考えだ。 へたをすると、何もできないまま終わってしまうこともあるだろう。
何しろ相手は先君家斉公、そして佳美様はじめ、大奥の狐と狸・・・
「・・・大奥を廃止とまではせずとも、今の予算の半分・・・少なくとも三分の一。 これでも充分幕府を維持できるのだが。 さらに人員を整理し、余剰の金を国防に回す。 徳川はこれでたちなおれるのだ。」
父に通じてきた・・・と金四郎は思った。
国防を固めることで、他の雄藩を黙らせ、
かつてのように睨みを利かせる。
これは父が以前言っていたことと同じなのだ。 だが、ここでやっぱり金の問題が出てくる。
「上様は我々に民政を任せると仰っられた
。 逆に言えば、財政のことは上様にしか、できないのだ。 我らが家斉公や佳美様に対して、何か申し上げるどころか、お目通りすら叶うまい・・・」
援護射撃という言葉が、この時代あったかどうかわからないが、水田の言いたいことはそこらしい。
入ってくる金が一定なら、出る金を抑えることでしか、財政は立て直せない。 しかし
少しでも入ってくる金が増やせないか?
江戸という一等の商業地を、さらに富ませれば、それが入る金に波及するという考えなのだ。
「遠山殿は善人の顔よのう?」
唐突な発言に金四郎は顎を突き出すような表情になった。
「何のことです?」
「私と鳥井は悪人顔じゃ。」
言って水田は少し笑ったが、鳥井も怪訝な顔をするばかりだった。
「民にとってきつい行政案も、無理に通せば綻びも出る。 だが、芝居のように善悪分かれて揉めたあげく、三つの内二つ通し、一つ阻止すれば民の溜飲は下がる。」
水田は続ける。
「政事の動向は人気の役者や花魁の恋路のごとしだ。 民の注目が注がれる。 そこは遠野屋が面白おかしく記事にしてくれる。
悪評高き老中水田が、小悪魔のごとくの鳥井南町奉行と組んで、民を苦しめる悪法を発する。 そこへ北町奉行遠山がまったをかける・・・」
金四郎はようやく呑みこめた。
「いっそ鳥井洋三だから、妖・・・妖怪がいいか。」
「えっ・・・?」
鳥井は虚をつかれたようになる。
「妖怪って・・・」
鳥井は自分の頬骨のあたりをなでてみる。
「何も顔が妖怪と言っておるのではない、洋三のヨウとかけておるのだ。」
鳥井は“はあ”とは言ったが、何となく納得がいかない感じだ。
「このままでは農業の従事者が減り、江戸の街で一旗あげようなどと考える若者が増えるばかりだ。 そこへ気候が悪天候ともなれば飢饉になる。 人の暮らしが立ち行かなくなる・・・」
唐突に鳥井が我が膝を手で打った。
「なるほど洋三のヨウと妖怪のヨウと言うことですな。」
水田と金四郎は目を丸くする。
「おぬし、何を言うておる?」
「・・・違うのですか?」
徳川将軍家慶公は必死に仕事を進めていた
。 家斉と佳美という正に妖怪に対して、説得し続ける。
「このままでは御家は立ち行きません。
何卒、贅沢を少し抑えて頂きますよう。」
「民、百姓は年貢、租税を納めるのが道理
。 納めたものをどう使おうとわらわの勝手というものじゃ!」
大奥の実権を握る佳美がこう言えば、
「佳美がそう言うておるのなら、そうなのであろう・・」
と家斉が言う。まったく御話にならない。
家慶公がこういったことを何度か繰り返すうち、家斉、佳美の二人は、家慶との接見すら断るようになり、家慶も酒の量が増え、体調を崩すことが多くなった。
「大奥の出費さえ抑えることができたら、徳川は何とかなる。 なんとかなるのだが・・・」
体調不良を圧して、家慶公は老中水田との対談はかかさぬようにしていた。 進展がないまま、また一年余の時が過ぎてしまった。
最悪の作戦として持久戦があった。
父より子が長生きするのが普通だ。
だが、家斉は元気で、まだ子を成しそうな勢いである。 そのくせ政治向きは無能極まりない官僚に任せたままだ。
外交は長崎において、金四郎の父、遠山景好が睨みを利かせ、江戸府内の行政は、金四郎、水田、鳥井が何とか格好をつけていた。
水田は大店の商人から租税を取る案を掲げたが、賄賂を貰っている役人から、猛烈な反発を受ける。
当時、役人の給与は安く、各処からの付け届け、所謂賄賂がないと生活が立ち行かない同心与力が殆どだった。 賄賂が悪いことという概念すらないのだ。
もし商人から租税が取られることとなってしまったら、自分たちの賄賂の取り分がなくなるのではないかという考えからと、もちろん商人たち自らの反対もあり、老中への反発となる。
役人だけではなく、幕臣などの武家の連中も、大きな店に借金をしていたり、最悪な者は、自分の苗字を借金のかたにしたものだから、彼らにとっても、商人への課税は都合が悪い。
借金を返せずに武家で無くなる者もいた。
いきなり苗字を持つ町人が現れる。
この時代、徳川の威光に陰りが出てきたというのもこの辺りであろう。
威光を示すためが目的の贅沢や、必要以上の家来の数も、経済的にその者たちの首を絞めることに後々なるとは、家康公は考えただろうか。
ひとつは米経済の限界だろう。 石高は世の中が変わっても、変化しない。
戦国時代と徳川の世では米の値打ちが違いすぎる。 太平ともなれば商人が台頭してくるのは当然だった。
「金が足らぬ・・・」
水田は頭を抱えた。
同様に、鳥井も金四郎も、
「金が足らない・・・」
三名の極秘の会合はこういった愚痴が多くなり、手詰まりが否めない。
「何だって?」
三毛が毛づくろいの手を止め、金四郎に話しかける。
何の案も出ないまま、家に戻った北町奉行の遠山様は、虚ろな目つきで酒を飲み、溜息をつく。 そして飲む。
「だから・・・何だって?」
三毛がまた言う。
「金が足らないんだ・・・」
溜息とともに同じ台詞が吐き出される。
「分かってたことじゃないのかい?」
三毛の言い方に金四郎カチンとくる。
「お前に何がわかる? 猫に小判と言うが
、人間様の金のことなどわかるはずもないだろうが。」
「ちょっと使い方違うと思うけど・・・
とにかくさ、上様がことを進めてくれないと、こっちは動きがとれないって話だろ。」
金四郎は三毛の言葉にギクリとした。
「あたしだってね、伊達にお奉行様のそばでクッチャベッテルわけじゃないんだ。 金がないならないで、どっかで都合しないといけないんだろう。」
「誰から? 金を持ってる商人とかじゃ話にならんよ。 それで幕臣どもは首が回らなくなっちまったのが多いんだから、幕府として借りて踏み倒すなんてのも考えたが、今時
、戦国時代じゃあるまいし、そんな乱暴も通るわけない。 第一、上様に怒られっちまうよ、そんなことしたら。」
三毛はオテテを二本身体の前へ出し、畳のへりに添えるように置き、目を細めて“うーん”とばかり伸びをした。
その様子に金四郎は“フン”と言い、グイと酒を呷った。
「猫に小判か・・・一両小判に金ってのは割合どれくらいだ?」
おおよそ猫が話すことではない。
少し驚き、金四郎は三毛を見ていたが、
「割合はどれくらいって聞いてんだよ!」
我に返った金四郎、
「四割六分だったかな・・・後は鉄とかで形にして・・・」
「それ、一割減らせば?」
「????」
「だからさ、浮いた分、また小判造りゃ金ができんじゃないのって話よ!」
金四郎は唖然とした。 この猫は何なんだと、また酒を呷る。
「一両小判は金四割六分にしなきゃいけないって法はあったかい?」
幕府が勝手に決めて勝手にやっていることではある。 割合がどれ位なのかも、関係者以外はまあ知らない。 金四郎も正直奉行になるまで知らなかった。
「そんな法、ない・・・」
金四郎、悔しそうに三毛に言う。
「上様がいくらがんばっても、江戸城内の狐や狸のしっぽはなかなか摑めないよ。 それより、江戸府内で少し経済ってもんが廻りゃ、金四郎たちもがんばってるって、上様も励みになんないかい?」
三毛の言うとおりだ。
「三毛、お前どこで、その、どこの塾でそんなこと習ってるんだ?」
金四郎は三毛に対して聞きたいことがたくさんありすぎて、やっと出たのがこんな台詞かと、歯がゆく思っている。
「あたしゃね、人間様と違ってどこへだって入って行けるんだ。 人が通れないようなとこも、すっと入ってすっと出ていける。
いろんなとこでいろんな話が聞ける。 御奉行様のとこで、学者のとこで、長屋の浪人のとこでとね。 なめてもらっちゃ困るよ。
伊達にあっちこっちうろついてないんだ。」
廊下で足音がした。 森川だ。
「どなたかお見えですかな?」
ゆっくりと襖が開いて、中を見た森川が“あれっ?”という顔をする。
三毛が“にゃー”と鳴く。
「御一人でしたか。 何か話し声がしたと思いましたが。」
金四郎は照れ臭そうに、
「三毛と話していたよ。 その、政治向きのこととかな。」
森川は訝しげに“あまり根を詰められませんように”と言い、空いた酒徳利を持って部屋を出て行った。
森川の足音が去ったあと、金四郎は今の三毛の話しを書面にしたため始めた。 金の割合、儒増できうる小判。
「そうそう、オミチさん、越しちゃったよ
、店閉めてね。」
金四郎の筆が止まった。
「・・・三毛や、その話、今よしてくれないか・・・」
三毛は随分の間をおいて“にゃー”と一回鳴くと金四郎の部屋を出て行った。※
水田、鳥井、金四郎の三人の政事は、遠野屋の瓦版の策略もあり、功を奏していた。
百姓が土地を棄て、江戸に出て働こうとする。 当然、米の生産は落ちる。 これを防ぐため、“人返しの法”なるものを出す。
土地を棄てた者に罰を与え、棄てた土地に戻って農業に精を出せというのだ。
当然江戸の人々の反感を買う。
その法に金四郎が縦を突き、待ったをかける。 個人のいろいろな事情があるだろうに
、強制的に土地に返しても生産は上がらないであろうと、老中水田に喰ってかかる。
それぞれ話しを聞いてやり、相談に乗って暮らしが成り立つようにしようではないかと金四郎。 水田と鳥井はそんな悠長なことをやってられるかと金四郎を一瞥する。
もちろんこれは、瓦版だけの話。
芝居仕立てに遠山金四郎は、烈火のごとく怒り心頭。 思わず座を立って、水田、鳥井の両名に挑みかからんとする。
周りの者が必死で止めるも、水田、鳥井の両名はニヤニヤ笑い“まぁそう御熱くならずに話しましょう”と京都の公家よろしく茶をすする。
そんな中、水田の下屋敷に顔を見せた金四郎は、狐につままれた、いや、猫につままれた顔をしていた。
「お待ちしておりましたぞ。」
水田、鳥井の両名が迎える。 両名とも上機嫌で、まずは水田が話しだす。
「いやーっ、遠野屋の瓦版は売れに売れておりますぞ。 民衆は我ら二人を妖怪扱い、遠山殿は庶民の味方。 百人中百人農家に返せずとも、四割~六割、出稼ぎを江戸から減らせれば・・・どうされた遠山殿? 冴えぬ顔をしておられるようだが・・・」
金四郎は唾を一回呑みこみ、
「ちと、聞いて頂きたい旨がございましてな・・・」
「ほう、いかような?」
鳥井が少し前へ膝をずらす、
金四郎はたどたどしくはあったが、三毛の話した通貨の調金の割合を落とす話をした。
もちろん猫が言ったなどとは言わない。
水田と鳥井は目を丸くした。
しばらくの沈黙の後、水田が唾をゴクリとやって重い口を開いた。
「遠山殿・・・それは、どういう、その、いつ、どのように思いつかれたのじゃ?」
金四郎、一瞬目が泳ぐ。
金四郎は夢を見て、飼い猫に話しかけられたとか、味噌汁を作った賄いの下女がどれくらいの味噌の量が一番うまかろうと相談されただとか・・・
なんとかいい塩梅の嘘話がないものかと考えている。 しかし、その時間が長すぎた。
亡くなった養父が言った、時々遠くへ行くとはこのことだったかも知れない。
「遠山殿?」
金四郎はまだ考えていて返事をしない。
「遠山殿?」
「は・・・うん。」
「え?」
「はぁ?」
「え? わっ! 吃驚した!」
「遠山殿、何を一人でその・・・」
声に出さないでも、鳥井は本当にびっくりしたらしい。 いや、金四郎の通貨調金の話ですでにびっくりしており、その直後の金四郎の妙な態度にさらにびっくりして息が切れたようになっている。
一呼吸おいたところで水田が言った。
「遠山殿。 その案、いつ、どのように思いつかれたのか?」
「いや、その、自宅で酒を呑んで思案しておりました時に・・・」
「うーん・・・」
水田も鳥井も舌を巻くとはこのことだと感心していた。
「素晴らしい・・・」
鳥井は肺から漏れるような声で言った。
金四郎は妙な笑顔を作っていた。 当たり前だ。 この話は自分が考えたことではないからだ。
筆頭老中、水田邦忠の指示により、金座、銀座の責任者が徴収され、極秘裏にことが進められた。
各通貨における金銀の含有量が一割減らされた。 その分通貨の量が増える。
水田は増えた分の通貨を、予算を補正する形で各方面に割り当てた。 江戸府内の公共工事や江戸城の修復など、順調に仕事がこなされていく。
帳尻を合わせなければならない。
いったいどこからそんな金が出てきたのか
。 三人は頭を抱えた。
「それを先に考えだしてから、調金を実施すれば良かったですな。」
鳥井が言うことに二人は頷く。
これと言った案も浮かばず、各人持ち帰りで帰宅した。 金四郎は三毛を捜したが、いない。
まぁ、あいつにこれ以上大きな顔をされてもと、思い直したものの、いい考えが出てきそうにもない。
あげく勝手に行って酒と肴をもらう。
「まったく・・・むずかしい・・・ぐびっ
、ぐびっ・・・」
金四郎は自室で酒を飲みながら、思案にくれていた。 水田も鳥井も考えているのだろうか、金四郎が善で、あの二人が悪と、性格設定に問題はないと思えるが。
最も鳥井はちょっと気に入らない感じのようだが。 金四郎はこの善悪の設定を気にいっており、街を歩いても、“遠山様、遠山様!”と声が飛ぶ。
街角のどこかで、オミチが自分を見ているような気もする。 “やっぱりあの御人は私が惚れただけのことはあったね”などと涙して、“ああ悔しい、あの時、縛りつけてでも居酒屋の親爺にしてしまえば良かった・・”
「なーんて言ってたりして! まるで芝居の人気役者になったようだ。」
しかし我に返り、
「そんなこと言ってる場合じゃねえんだ。
どうしよう? 金の出所はどこにすりゃあいいんだよ・・・」
「また思案あぐねて呑んだくれか?」
三毛がいつのまにか部屋に入っていて、毛繕いをしつつ話す。
「わっ、吃驚、した。」
金四郎は驚くが、すぐ何事もなかったかのような態度をとる。 三毛は見透かしているのだが。
「ふん、お前に俺の気持ちがわかるかってんだ・・・あいや、その・・・」
金四郎は悪態をついたものの、通貨の改嬬を教えてくれたのは誰でもない、三毛だ。
あまり大きな口は叩けない。
「いやな・・・お前も一杯やるか?」
「何気ぃ使ってんのよ。 あたしゃ猫だよ
。 酒なんか呑んだら、酔っぱらってフラフラして、そこらの水桶に落っこちて、おぼれ死ぬのがおちだよ。」
「いやね。 その、金の工面は少しできたものの、その出所はなんてね? それで困っちまってんだ。」
「なああんだ。 そんなことか。」
三毛は大きく欠伸をした。
「いろんなことを少しづつ、嵩増ししたらどうなんだい。」
「嵩増し・・・?」
「年貢にしろ、大名の献上にしろ、その他租税にしろ、少しずつ増やすのさ。 一つのことがガツンと増えりゃ変だけど、いろんなのが少しずつ増えてりゃ、人はそんなにゃ変には思わないだろう? 違う?」
金四郎はゴクリと酒とも唾ともつかない感じで呑みこむ。
「・・・ほう・・・」
いったいこの猫は何なんだ?
「それはその・・・いつどのように思いつかれた? またその、御自宅で酒を呑みながらとか?」
感嘆の眼を金四郎に向けつつ、水田邦忠は言った。
「まあ、左様、そのような。」
猫に教えてもらったとは言えない。
金四郎はずっと半笑いである。
とにかく幕府に都合のいい悪法は五、六割の勘定で通っている。 元々全部通そうとは思っていない。
五、六割は最初から決めていたことだ。
瓦版屋の遠野屋の記事により、水田の策はことごとく当たった。 水田、鳥井の二人が
悪法を発し、江戸庶民を抑え込もうとする。
ところがどっこい、庶民の味方、北町奉行遠山金四郎こと、“遠山の金さん”が身体を張って待ったをかける!
遠山の金さんとは、遠野屋が考えた。
「これはいい!」
自画自賛だった。 庶民の味方らしいと言うのだ。 最も金四郎は“どうにも将棋のようでいけない”と厭な顔をしたが、水田と鳥井が推したのもあって了承した。
水田の当初の作戦通り、庶民を圧迫する悪法を幾つか出す。 三つ出せば、本当に通したい法は一つで、後の二つどうでもいいダミーなのだ。
そのダミーを金四郎いや金さんが止める。
一つ通ってしまった悪法は、金さんから、
「おいらの力、ここに及ばずだ。 江戸のみんな、勘弁してくんな・・・」
などと遠野屋がコメントを出す。
“いいとも金さん! 化け物と妖怪相手によくやってくれた! 遠山金四郎こそ、日本一の名奉行だぜ!”
江戸の庶民は日ごろの溜飲を下げ、金四郎にやんやの声援をおくる。 何のことはない
、今で言うパフォーマンスだ。
政事は粛々と進んでいるのだ。
悪法は金四郎への賞賛の陰に隠れ、やんわりと庶民を蝕んでいく。
「こんなことはいつまでも続けるつもりはない。 いや・・・続かぬ・・・」
水田は二人の奉行の前で、肩を落とす。
上様の仕事が進んでいる気配はない。
それどころか、改嬬によって作った金を、
かなりの治水、灌漑、開墾に回したのだが、
それを耳にした大奥が、なぜこちらに予算が回ってこないと怒り出した。
結局、何割かを持っていかれ、根本的にどこが財政を圧迫しているのか、思い知らされた気がしたものだ。
しばらくすると、物の値段が上がり始めた
。 米、味噌、醤油、油、紙、生活に関わる全ての物が。
貨幣の価値を下げ、流通を多くしたのだから、当たり前と言えば当たり前だが、金四郎たちにはわからなかった。
家慶公はこのところ、会うことすら拒まれる。 自分の仕事が進められていないどころか、金四郎たちの策も、大奥にかすめ取られては、合わせる顔がないのである。
家慶公は酒に溺れた。
「わかった・・・何も浮かばねぇときゃ、ダンマリするってわけだにゃ?」
三毛はこのところ口を利かない。
触ろうとすると、すーっと部屋の外へ出て行ってしまう。 猫らしくはある。
「遠山殿、光明がさしましたぞ!」
水田は喜色を浮かべている。
大奥が予算の二割減を受け入れたというのだ。 金四郎には突然過ぎて水田が何を言っているのかわからない。
「二割減? それは、その、昼の蕎麦か何かの?」
「何を言うておりゃれるのだ! いや、おられるのだ!。 予算が我らの元へもどってくるのですぞ。 大凡七百五十両。 年間、うん、うん、一万にちかい・・・」
水田は感動で泣きそうになっている。
いつのまにか鳥井も来ていて、金四郎の手を取った。
「我らの苦労の甲斐がありましたな。」
金四郎はようやく水田の言っていることが呑みこめた。
「えーーーーーっ!!」
声に驚いて水田、鳥井が、
「ひゃーーーー」
縁側まで飛びのいた。
慌てて水田の家来がやって来て、
「どうされました? 曲者にござりまするか?」
家来の一人は既に鯉口を切っている。
「バカ者! 慌てるでない。 ちょっとつまずいたのだ。」
変に怒っている水田老中に、戸惑いながら家来たちは“失礼つかまつります”とその場を去っていく。
障子扉を閉め、水田は一息ついた。 よほど驚いたのか、肩で息をしている。
金四郎はどこか一点を見つめ、
「・・・信じられません・・・」
と絞り出すように発した。
水田の話によると、酔った勢いの家慶公が、家斉、桂美の二人にへべれけになって詰めより、訳の分らぬことを口走っていたとか。
その形相の凄まじさと、訳の分らぬ言い分が、二人を追い詰め、うんと言わざるを得なかったとか。 鳥井が首を傾げ、
「その・・・訳の分らぬこととは、どのようなことを仰ったのでしょう?」
金四郎に次を話そうとしていた水田は、話の腰を折られてしまい、カクッとなった。
「知らぬわ。」
鳥井はこういうところがある。
他の者と気にかかるツボが違うようだ。
金四郎の眼には涙が溢れた。
「上様が・・・どんな思いで御二人に詰め寄られたのか、金四郎その御気持ちを思うと
、胸が・・・よじれまする・・・」
言葉を発し、咳を一つすると、畳に鼻水がベチャリと飛んだ。
「汚な。」
鳥井は言ったが、二人は無視している。
水田は涙ぐみながら大きく“うん”と頷いて、息をすーっと吐き、そして大きくすーっと吸った。
「これ、誰か、酒を持て、肴も見つくろうて持ってまいれ。」
金四郎は涙でぐしゃぐしゃになった顔で水田を見た。 二人とも顔が喧嘩の後の子供のように、涙で汚れ、笑っていた。
「今宵の酒はうまいでしょうな・・・いつも苦い酒ばかりでしたから・・・叶うことなら・・・上様と・・・」
金四郎はまた泣き崩れた。
「遠山殿・・・そう泣いてばかりでは先へ進めませんぞ。 さぁ、さぁ・・・」
水田が金四郎を部屋の奥へと促す。
縁側に足音が近づき、水田の屋敷の者が膳を運んできた。
「何もございませぬが・・・」
年配の女中が言いながら膳の用意をする。
「いやいや、上等上等、あり合わせにしては、すこぶる品が揃うておる。 上等上等・・・」
水田も言いながらまた涙を浮かべる。
女中は主人がこのところ優しい言葉をかけることがなかったようで、ポカンとしてしまっている。
「うぉーうぉうぉうぉ・・・」
急に鳥井が泣きだした。
「この男は・・・まったくずれておる。」
水田が言うと、鳥井が聞きかえす。
「くずれておるのですか? ずれておるのですか?」
水田は鳥井を無視し、まだしくしく泣いている金四郎の肩を軽く叩き、杯を差し出すのだった。
「そこなんですよ御前・・・」
遠野屋が思案顔で話す。
「大店を二つ三つ叩いたところで、職人や店者の給金がそう上るもんじゃねえ・・・」
貨幣の改嬬で物価が上がり、町人たちの賃金も上ってきてはいるが、追いつかない。
それに加えて少し前に“人返し”で百姓を郷へ返していたものだから、働き手が少なくなっている。
江戸の庶民は慎ましやかに暮らし、物を買い控え、経済が回らなくなっている。
いいタイミングで賃金が上ると、買い物も進み、男たちも働くのに精を出す。 しかしこのところは博打からの借金、それからの悪事という出来事が多い。
治安が悪くなり、不景気なのである。
遠野屋を交えて四人、良い案が浮かばぬまま、時が過ぎ解散となった。
金四郎は家に帰り、自室に入った。
酒を飲む気にもなれず、家の者に茶を頼み
、すすっていた。 障子が開いて三毛が侵入してきた。
金四郎と三毛は随分長い間睨みあっていたが、金四郎から眼をそらした。
“またおいらの負けだ”
困った時、三毛は何かしら話しかけ、答えを導き出してくれる。 言い方が憎たらしいので素直に聞く気にはならないが。
“どうせ教えてくれるなら、気分良く話せばいいものを、あれこれ嫌味言うし”
ここへきて三毛に頼るほかは術がないことを金四郎はわかっていた。 だが、どうしてもこちらから話す気にならない。 しかし他には手だてがない。
意を決して、
「・・・あのな、うん?」
三毛はいなかった。
金四郎は目をそらしていた間に、出て行ってしまったらしい。
「三毛さん、三毛さん?」
部屋を出て、三毛を捜したが見つからなかった。 なんで素直に聞かないかと、三毛がどこかで言っているように思う。
後日、金四郎は屋敷からほど近い神社に参拝に出かけた。 供侍は二人。
ものものしさより親しみやすさを売りにしている遠山奉行は、こういうところにも気を使う。 また、町人たちは金四郎を見かけると口々に、“よっ、御奉行様!”と声をかけてくれる。 心地いい。
「何か困ってることはないかい?」
「へぇ、御蔭さまで何とか・・・」
「商売はどうだい? うまくいってるのかい? よう、おかよ坊。 大きくなっちまったな。 これじゃ坊なんて呼べねえな。」
「やだ御奉行様、あっちを女将さんにしてくれる話はどうなったのさ?」
こんな調子で大層な人気者なのである。
それにしても今日は天気もよくて暖かく、良い日よりだ。 人の出も多く、とても活気が感じられた。
“不景気なんてのはどこにあるんだい、ここはまったく別物だな・・・”
飴や巾着、入用のない物を買い込み、ため息をついて屋敷に戻った。
天気も良く、いい気候でもあり、うきうきするような陽気であるはずが、金四郎は冴えない顔をする。
庭に出てみた。
さして広い庭ではないが、亡き養父、景善と遊んだ庭である。 実父の存在が疎ましく
怖くもあったわけだが、あの日々は替え難く形容しがたい良き日々だった。
今でも養父と景善の声が聞こえてくる気がする。 だが・・・静かなものだ。
口の中が縁日で買った飴で甘く、吐き出そうとして躊躇し、そして強引に呑みこんだ。
強引すぎて咳をし、勢いで飴が外へ飛び出した。 “くえ!”
金四郎の吐き出した飴は、小さな池の中にぽちゃりと落ちた。 丸く水紋が広がる。
飴が落ちたところを中心に、小さな丸い波が広がり、薄くなり、消えた。 それは中心に近いほど力強い円に見え、遠くなるほど弱弱しく思えた。
「近けりゃ近いほど力がある・・・」
金四郎は誰に言うわけでもなく呟いた。
「そうさね。 近けりゃ近いほどね。」
いつの間にか三毛がそばにいる。
「あーっ吃驚した。 急に来るなよ。」
三毛は呆れたように言う、
「大げさだねあんた。 ちったあおちつきなさいよ。 北町奉行の遠山の金さん。」
金四郎はバツの悪そうな顔をしながら
「猫ってのはいつも間にかそばに来ているから猫なんだよな。」
「ふーんっ、今日は言いかえしたりしないのか?」
「ああ、お前の御蔭で随分助かったからな
。 鰹節の一本でも奢ってやらなきゃなんて思っているのさ。」
三毛は口の周りをペロリと舐めた。
「どういう風の吹きまわしだろうね。」
「いやあ、別に・・・」
金四郎は少し寂しそうな顔で、2,3回首を回した。
「張り合いがないね。」
「そうか? 済まないな。」
金四郎、言葉にも力がない。
「近けりゃ近いほど、力があるね。」
「うぉん? 何の話?」
「だから、近けりゃ・・・」
「ああ、池の波紋のことか・・・」
二人は(?)しばらく池を見たまま、黙っていた。
「池に、石を投げる。 その石が大きいほど、波紋は長く、強くなる。 力を入れて投げればそれだけ波紋は、大きく長くなる。」
三毛が言いながら金四郎の方を向いた。
金四郎はまだ池を見ている。
「今日行った八幡様のあたりはみな商売が繁盛してたんだろ? それはなんでなんだい? どうすりゃどこもかしこも八幡様みたくできるんだろうね?」
金四郎は池から三毛にゆっくりと視線をずらしていった。
「・・・何か、商売の元になるようなもの・・・」
金四郎は三毛に言ったものか、自分に言ったものかぼんやりとしている。
「そうさね。 そういうのがありゃ、人は集まるんだろうよ。」
「うんうんうん・・・八幡さんがある。 参拝の帰りに蕎麦を喰う。 飴を買う。 団子を喰う。 孫の玩具を買ってやる・・・」
三毛は金四郎を見上げ、ペロリと口の周りを舐めてみせた。
「芝居小屋・・・寄席・・・他に・・・何か、見世物。 曲芸、お化け屋敷、何でもいい。 その客を目当てに“ぼて振り”や御座商売いろいろ集まる。」
「いいねいいね。 中にやぁ美味くて評判になる店が・・・寿司、蕎麦、団子。 江戸っ子はあそこの芝居を見た帰りにゃ、あの店であれ喰わなきゃ、名折れだぜ・・・何てなのが好きだね。」
金四郎は興奮していた。
今で言う総合商業施設のようなものを、金四郎は頭に描いている。 神社仏閣、芝居小屋、寄席、見世物。 美味いもの屋。
人々が消費をすることで、経済が活性し、人の給与が上っていく。 今も昔も同じ理屈である。
「その美味いもの屋の中にオミチさんのめし屋があるといいね・・・」
三毛が耳の後ろをオテテで掻きながら言ってみる。 金四郎の顔色が変わった。
「どうしてそう・・・人の傷口えぐるようなこと言う?」
「うーん・・・八代様が象をな。」
金四郎は早速皆を招集した。
「要はその、目玉が欲しいのですな、目玉が、人が集まる目玉が。」
鳥井が言う。
「だが、それに金はかけられん。」
水田が渋面を作る。
「さよう、その通り。 今象などを外国から輸入しようものなら、いったいいくらかかるやら・・・」
金四郎も弱った顔になる。
「人を引き付ける面白い何か・・・金のかからぬもので・・・いやはやどこぞに人の言葉を喋る猫でもおりませぬかな?」
鳥井の言った一言が金四郎を驚かせ、身体が後ろへのけ反り、手をついた。
「ひっ・・・」
金四郎の口から声にならない声が出た。
あまりの驚きように水田も鳥井も顔を見合わせる。
「遠山殿、そんなに驚かなくとも、何か心当たりがおありか?」
水田が不思議そうに尋ねる。
「いやその、あの・・・何が?」
金四郎は半分キレている。
「何で怒る・・・?」
鳥井は聞こえないように呟く。
やがて瓦版の元締め遠野屋と地周りの喜助親分という眼付の鋭い男が、三人に合流し額を突き合わせる。
「なるほど・・・商売の種をひとっところに集めて、より大きな商売になるように組み立てるわけでござんすね。」
喜助は感心した風にニ三度頷く。
「御侍様にしとくにゃ、もったいねえ御方だね。 ただ、案としてはとびっきりだが、苦労もとびっきりですぜ。」
金四郎は膝を詰めた。
「わかっている。 だから遠野屋さんからあんたを紹介してもらった。 どうだろう、来てくれる商売人には、その・・・商売の内容と規模によって補助金を用意するとか、後の税を少し優遇してやるとか・・・」
水田と鳥井が膝を打った。 遠野屋と喜助は顔を見合わせニタリと笑う。
「・・・おもしれぇ・・・」
喜助の鋭い眼が少し垂れて金四郎を見た。
会合は日を分けて行われ、少しづつ話は進んでいった。 補助金などの出費は極力抑えて、後のミカジメを抑えたり、商売はいいが何かの加減で行き詰っている者。 そんな奴らを優先的に行かせること。
そういった奴らは遠野屋と喜助に大勢心当たりがある。 口には出さないが、金を貸したりしている者もいるのだろう。
しかしやはり、目玉がない。
「うーん・・・何かこう、そこへ行かねばという、強い、その何かがこう、欲しいものでございますな・・・」
「わかっておるわ!」
鳥井の言いように水田が少しキレる。
「まま、落ち着いて。」
金四郎が仲裁に入る。 ここ数日、この目玉のことで話が進まなくなっている。 皆に焦りが出ていた。
「お見えです。」
部屋の外で声がした。 遠野屋と喜助である。 この頃は対立するはずの三人が実は蔓んでいるのではと、江戸庶民の間で囁かれてきている。
行動が今までに増して慎重になっている。
ニタリと笑った喜助が、
「河原芝居で人気の役者を抑えました。」
と言った。
「その役者、どれほど人を呼んでおる?」
水田が聞く。
「ここ三日で五千を超えております。」
座の者たちが“おーっ”と低い声を出す。
「木挽町の中山座。 こちらも古くから人気があり、固定のひいき筋も多いのです。
そこらを組み合わせたら、なかなかの人気が出るかと思いますよ。」
今でいうオールスターといったところだ。
「そこでその、動かし方なんすがね。」
ここで遠野屋が口を挿んだ。
遠野屋は少し前に水田老中が実施した、“贅沢戒めの令”をうまく使えまいかと言う。
絵画や芝居、そういった娯楽を戒め、庶民の生活を質素にしようと試みたことがあったのだ。
金四郎もその時、例によって反対し、三つの内一つを阻止した。 そして“江戸のみんな、勘弁してくんな。 おいらの力これまでだ”と庶民の留飲を下げさせたものだ。
その時と同じように、芝居小屋に制約をかけ、移転を促そうというものだ。 人気の芝居小屋を浅草あたりに集中させて、周りに商売をさせる。
火災などの災害の防止。 風俗の乱れの防止。 一か所なら取り締まり易いという嘘の建前だ。
人が集まれば購買につながり、経済が上向き、賃金が上がり、また購買につながる。
これが彼らの思惑なのだ。
「どうせやるのなら、派手な芝居にしたいものですな。」
鳥井はこういうのがすきである。
「中山座も私どもと同じ穴の貉でございますので、いかようにも。」
同じ移転でもすったもんだがあっての移転と、すんなりの移転では人々の関心が違うであろうと、鳥井は言う。
「ここは庶民の味方、遠山の金さんにご登場願いましょう!」
遠野屋が芝居がかった口調で言う。 金四郎はまんざらでもない顔をしながら、
「そんな、それ、そりゃ、やらないでもないわけで・・・」
座は和んでいる。
物事がいいように進んでいる時はこういうものだろう。 金四郎は少し心にひっかかりがあるものの、ここは江戸のみんなのための芝居だからと、自分を納得させている。
数日後、中山座の台本の係が、水田の下屋敷に現れた。 いよいよ移転の話しが詰めてきたのである。 鳥井の言う派手な演出が、この台本の係が、台本にしてきたのだ。
「要は抜き打ちでやす。 南町が抜き打ちに移転を決行する。 金さん慌てて飛んで来て、“おいら聞いてないぜ! 勝手なまねは許さん!”中山座の連中が“金さん、助けてください”とこうくる。」
周りの者はみなもうノリノリだ。
帰宅した金四郎は自室に入り、家の者に酒を頼んだ。 森川は風邪をひいたとかで、ここ数日部屋に籠っている。 “静かでいいわい”と悪態をついたものの、酒の相手もいない今・・・淋しい。
いた。 酒の相手がいた。 三毛である。
器用に襖を開け、金四郎の様子を窺いながら、部屋に入って来た。
「お疲れ様。」
三毛が母親のように言う。
「おう、お疲れ・・・って同僚か?」
金四郎は少し笑いながら酒を口に含む。
「うまく運んでるようだね。」
「うん、まあな・・・」
しばらく間があった。
「・・・いいのかね・・・」
三毛がペロリと口の周りを舐めて言う。
「何のことだい?」
金四郎はわかってはいるが、敢えて言っている。 金四郎自身が心に引っかかっているのだ。
「知らぬが仏とか、言うからね。 使い方あってる?」
三毛が金四郎をからかうように言う。
「ああそうだな。」
神経を逆なでされるような三毛のもの言いも、慣れたとばかり金四郎は表情を変えることはない。 焼き魚の臭いがプンとした。
「おや、今日は何の魚かね? あたしゃ白身がいいんだけど。」
三毛が口の周りをペロリと舐める。
「みんなに嘘をついてることは重々承知してるよ。 だけどこうでもしなけりゃその、
金が回らないんだ。 江戸のみんなの暮らしを良くし、ほいでもってみんなが笑顔にだな・・・なって暮らして・・・もちろん火事とか起こさねぇようにそっちにも予算を都合するさ、そして、そしてだな・・・」
三毛の方をみると、いない。
少し開いている襖を開けて廊下を見ると、
焼き魚のいい臭いのする勝手の方へ、三毛はヒョコヒョコ歩いている。
「くそっ、バカ、薄情者!」
金四郎はやや小さい声でぼやいた。
台本が出来上がりいよいよ決行の日が近づいている。 金四郎はこれまでもいろいろと芝居を得ってきたが、今回は閉めともいうべき事柄である。
「これで江戸の皆が良くなる。 良くなるとも・・・」
嘘という後ろめたさも感じながら準備は進んだのだ。 決行の日が近づくと三毛は喋らなくなっていた。 だが、決行の日、使者が遠山の屋敷に来て、金四郎が出かけようとしたその時、
「なんだか怖いねぇ、みーんな作り事なんだよねぇ。」
玄関に立った金四郎の背中に、三毛の籠った声が染みた。 金四郎は聞こえぬふりで使者の促しに応じ出て行く。
例の芝居小屋の前は大勢の人でごった返していた。 想定通りなのではあるが。
鳥井率いる南町も取り方役人が、芝居小屋の強制撤去を強いろうとしている。 もちろん小屋の関係者にもわかっていることなのだが、上の方の人間だけが事情を知っていて、知らない人が大半だから、反抗やらおろおろやら、実に現実的である。
そこへこの芝居小屋の大衆的な贔屓筋が撤去を止めさせようと、必死の訴えを叫んでいるのだ。 人々の熱気でさすがに金四郎も息を呑みこんだものだ。
「おうっ、どいてくんな! 北町の遠山だ
! 道を開けてくんな!」
道を開けた人々が口ぐちに“おお金さんだ
! 金さんが来てくれたぞ!“とどよめきの声をあげる。 芝居の花道のようだ。
金四郎も入ってしまっている。 これは芝居で鳥井を中心とする南町の奉行所の連中とは打ち合わせが済んでいるのだが、気持ちが高ぶり、芝居を超えてしまっている。
「おう、鳥井さんよ! こりゃどういう理由でぇ! 騙し撃ちたぁちと汚なすぎやしねえか!」
見物人は“やんや”の歓声。
「よっ、金さん! 待ってました!」
「遠山!」
歓声が鎮まるのを待って、
「鳥井が奉行としての権限を大目付の水田様に通して執行しておるまでのこと。 北町の御奉行様にとやかく言われる筋合いはござらぬぞ!」
鳥井も相当に芝居がかっている。
「てやんでいべらもうめ!」
南町の取り方役人、芝居小屋の関係者も身を堅く構えている。
「おうっ、よっく聞きな。 ここらの連中はな、少ない稼ぎでもって贔屓の芝居を楽しみに、汗水垂らして働いてんだ! その楽しみをいとも簡単に奪おうたあ・・・・ひーっ(息を吸った音)てめえら人間じゃねぇ!」
「そうだそうだ!」
「よっ金さんその通り!」
「引っ込め南町!」
「引っ込め妖怪!」
見物人たちも熱が上っている。
「誰だ今妖怪と言ったのは!」
鳥井は声のした辺りを睨みつけたが、そこは女子供ばかりの集団で、逆に睨み返してくる。 鳥井は金四郎に向き直る。
「遠山殿、いかにその方が民衆を味方にしていると言えども、こちらは大目付様の御指図で動いておるのだ。 その方の言動、只では済ませませんぞ!」
「只で済まねえ? おお面白い。 だったらどうなるってんだ?」
鳥井は顔を真っ赤にして、
「ええい! これ以上相手にしておれぬは
。 皆の者、撤去の開始じゃ!」
役人たちは“おーっ”と声を上げ、各々が小屋の取り壊しや、道具や衣装の運び出しを始め出した。
見物人は大声を出し、女や子供は泣き叫び出し、ここが頂点と思われた、その時、
「待ちやがれ!」
間を計ったように、金四郎は声を荒げた。
その迫力に役人たちは手を止めた。 最もここは手筈どおりなのだが。 見物人も息を呑み、泣き叫んでいた女子供も文字通り、泣く子も黙る状態となった。
「やいやいくそ役人ども! 力づくで厭が応でも撤去だとぬかしやがるなら・・・」
金四郎は右手を懐の方へ抜き、襟元から手を出して、
「この御江戸に咲いた遠山の桜吹雪、散らしてからここを通りやがれ!」
右の肩を台詞の終わりに露わにし、その肩を役人たちの方へよく見えるように突き出した。 そこにはオミチと出会ったあの火事の時の火傷の痕があり、それが桜の花びらのように見えるのだった。
見物人も水を打ったように静まり返り、ややあって“やんや”の歓声である。
「御見事金さん!」
「よっ! 遠山桜!」
口々に金四郎を囃したて、役人たちを睨みつける。 見ていた鳥井は半歩下がり、一つ大きく息を吐いた。
「遠山殿。 今日のところは御主の顔を立ててやろう。 だがこのまま済むと思わぬが
身のためぞ!」
翌日の瓦版には金四郎の活躍が大きく報じられていた。 江戸の街中、金四郎の話しで持ちきりである。
「すごい人気だねえ。」
三毛が寝転んだまま気だるそうに言葉を発する。 例の籠もった声だ。 金四郎は何かの書面に眼を通している。
「遠山の金さん、遠山の金さんって、そりゃ大騒ぎさ。 街の人はうまく言うもんだ、遠山の金さんなんて・・・」
金四郎は答えない。
「あんたが肩出して啖呵を切った件じゃ、火傷じゃなくて本物の刺青だなんて実しやかに言う人もいるんだよ。」
「うるさいな、少し黙っててくれ。」
金四郎はやっと言葉を発した。
次の段取りのことで、金四郎はかなりアップアップしている。 鳥井たち南町奉行所の連中は、明日にでも闇討ちよろしく深夜の時間帯に、人気の芝居小屋を急襲し、強制撤去を敢行する。
金四郎はやられたとばかり、瓦版に江戸の街衆に対する謝罪の言葉を載せる。 それが済んだら飲食店の移動や、その他の興行の移動、それに対する行政指導。 火災対策もしっかり行わなければならない。
「御奉行様はお忙しいか・・・」
金四郎は三毛の話しにまったく耳を貸さない。 自分たちの芝居の構成に夢中なのだ。
「すまねえな、こうなっちまった以上、皆の暮らしが少しでも良くなるように、この遠山が尽力するぜ・・・いや尽力なんて言葉はよくねえな。 がんばるぜ、がんばるよ、がんばるさ、がんばる・・・がんばる・・・」
瓦版に載せるであろう我が台詞を、金四郎なりに江戸の衆に響くよう、考えているらしい。 水田老中と鳥井奉行が悪役となり、金四郎を正義の味方、民衆の味方とした一連の大芝居は功を奏している。
経済効果を上げるため、寄席や芝居小屋、遊郭や飲食店まで集中した場所を作り、人々の購買意欲を刺激し、景気を良くする。
このことをまともに民衆に話し、協力を求めた場合、どれだけの人が理解し、納得し、協力をしてくれるのか?
水田、鳥井、金四郎の三人は無理だと結論を出し、故にこの大芝居となった。
「うそついてるんだよね、早い話が。」
三毛が皮肉めかして言う。
金四郎の右の頬がピクリと動いたが、何も言わない。
「本当のことを江戸のみんなが聞いたらどう思うだろうね。」
書面に目を投じたまま、金四郎はやはり何も言わない。
「オミチさん、どうしてるんだろうね・・・あんたがこんな芝居を打ってるなんて知ったら、オミチさんなんて言うだろう?」
バシャッと水が散るような音がした。
金四郎が冷めきった湯呑の茶を、三毛目掛けてぶちまけたのだ。 寸でのところでかわした三毛はニャーと一鳴きして、部屋を出て行ってしまった。
金四郎が三毛の姿を見たのはそれが最後だった。
「若様、どうされました?」
ゆっくりと入ってきた森川が、部屋の隅に茶が零れているのを見た。
「すまぬ、粗相をした。」
「はっ、では新しいのを淹れてまいりましょう・・・」
「・・・いや、酒をくれ、一本だけだ。
肴は入らぬ。」
その会話の間、金四郎は一度も森川を見なかった。 書面を見ているままだ。
森川は何か言いかけたが、寂しそうな目をして部屋を辞した。
新しくできる娯楽が詰まった地域は浅草に程近い所を開拓された。 金四郎は人足や工事の段取り、予算ぐりなど、目も回るような心地で働いた。
水田も鳥井も一緒には無理なのだが、別の地域担当でよく働いていた。 連絡を頻繁ににとり、着々と計画は進んでいく。
人足や職人その他の商人たちにも活気が溢れ、賃金が上がり始め、計画は予定通りに進んでいるのだった。
金四郎は奉行所に泊まることが多くなり、あまり家に帰ってこない。 使いを出し、着変えなど持ってこさせていたが、ある時、
「御用人様が伏せっておいでです。」
使いの者がそう言った。
「森川が?」
「御本人は風邪だと仰っておいでですが、なかなか臥所をお離れになれません。」
「あの森川がな・・・医者に診てもらうよう言ってくれ。 近々都合をつけて私も顔を見に帰ろう。」
「それが何よりの御薬になりましょう。」
忙しさに感けて家のことはすっかり御座なりになっていたことを、金四郎は少し後悔していた。 森川にしても、養父や景善が亡くなってしまった今、自分が心を開けうるたった一人の人のように思える。
「そう思うと心配になってきた・・・」
声に出して言ってしまった金四郎に少し驚いたような顔をした使者が、
「それと、下女などが言っておったのですが、猫が帰ってこなくなったと・・・」
「・・・猫?」
「はあ、三毛猫でございます。 あれは確か若様が連れておいでになったのではなかったですか? 故に女どもも気に病んでおるようでして。」
金四郎はあらぬ方を見て、
「確かにそうであったが、猫は気まぐれというではないか。 そう気に病むものでないと女たちに言っておけ。」
「ははっ、万事承知いたしました。」
使者が下がった後、金四郎は我知らず小さなため息を吐いた。 何か胸の隅の方に、指先のささくれのような感覚が残った。
三毛に冷めた茶をぶっかけてしまってから
、家の文鳥も街を歩いている時に話しかけている汚い犬も皆話さなくなっていた。
仕事が忙しいこともあって気がつかずにいたが確かにそうだ。 そして三毛が家に帰ってこない。 三毛は“元々あんたにはそういうとこがあったのさ”などと言っていたのだが、どうなったのやら。
“全ては夢幻か? あの大火事も、オミチも、二人で営んだ居酒屋も、そして我が家族
、三毛・・・“
養父が坊が、そしてオミチが手の届かない存在になり、三毛や、うるさいばかりに話していた動物たちも今はもうないと言うのか。
それどころではない。
この仕事を金四郎はまとめなければいけないのだ。 この江戸のそして徳川の存亡がかかっている。 長崎で父は外国の猛者を相手に命をかけている。
“負けるものか!”
そんな思いを秘めながら図面を睨みつける
。 少しでも経費を抑えつつ、円滑に且つ金が回ることを考えねばならない。
今後の幕府の財政はこのことに尽きる。
金四郎は大きく息を吐くと、部下を呼びつけ、関係職人、人足の組頭の集まりの要請を命じた。