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話せる人  作者: kikuchiyo
7/9

遠山の金さん外伝

庭とをつなぐ障子がガタガタ音をたてた。

 「雪にならねばよいが・・・」

 父は誰を相手ともわからぬ台詞を言い、一つため息をついた。

 「のう道乃進、おやいかんいかん。 ははっ私が間違えてはいかんのう。」

 「いやその・・・家慶公は・・・その・・・お健やかでございますか? この歳となって、昔を懐かしみ、少年の頃御相手をした私めを御召しなされるとは、何かこう、妙に心配になってまいります。」

 「そこよ、道乃進。」

 父はもう名前のことを“いかん”とも言わず、正そうともしなかった。

 「実は少し御悪いのじゃ。」

 やはりそうだったか。 

あれほどの高貴で身分の高い御方が、少年の頃の感傷を思い出されるのは、とても良い心持か、ひどく悪い心持のどちらかのような気がする。

 最も、金四郎はそんな高貴な身分ではないのだから想像でしかないが。 三毛には“いい御身分だね”なんて言われていたけど。

 あっ、あいつ何で急にまた喋りだしたんだ

? どうにもまたややこしくなりそうだ。

 「御酒が過ぎられてのう・・・ 私がお会いした折もそうであった。 なんとも酒の匂いがして、御自分でもそうおっしゃるのじゃ

、“やめられぬ”とな。」

 繊細なあの公を思えば、成長し望みもしないこの国の頂点に立たれるとは、何とも気の毒な話だと思う。

 御顔を思い出し、さて御召しを受けて、何を話してよいものやら。 昔話で茶を濁してそれで済めばよいが。 実父の活躍に通じるものがあって、自分に多大な期待を掛けて召されたとしたら・・・

 ごめんこうむりたい。 

このあいだまで町の居酒屋の亭主をやっていたというのに、ここまで世界が変るとなると手に負えない。

 ふと父を見た。 

父は自分の左肩に顔を伏せるようにして、体重を肘かけに掛けている。 そしてゆーーーっくりと、肘かけごと崩れていった。

 「父上、父上!」

 返事をしない。 金四郎は自分の顔から血の気が引くのがわかった。

 「森川! 森川! 早く来てくれ!」


 医者が言うには、心の臓がかなり弱っていて、身体全体の臓器の働きも落ちてしまっている。 度重なる心労過労、御子息の死を思えば、当然と言えますな、などと金四郎の方を医者は意味ありげに見る。 

 金四郎が病の原因の一端であるのだと言わんばかりに。

 この医者は金四郎が小さい頃、診てもらった記憶がある。 五歳を過ぎるまで、よく病気をしていたようだ。

 「気鬱の病とでももうしましょうか。 薬を処方し、家の者に届けさせましょう。 後は安静あるのみ、本人が欲すれば、何か消化の良い滋養のあるものを召しあがるのもよいでしょう。 うんうん、また近いうち顔を出しますので。」

 医者はそう言って帰った。 

 金四郎は医者を見送った後、そばにいた森川に言った。

 「あの医者、年を取らぬな。 おいらが子供の頃診てもらった時と全然変わらん。」

 森川が唖然とした顔をして金四郎を見た。

 「若、なにを仰せられます。 あの医者は息子ですよ。」

 「えっ・・・?」


 遠山の家には正月は来なかった。

 暮れに景善が亡くなり、養父景好が病に倒れたからだ。 金四郎は父の病気をいいことに、親戚縁者への挨拶などすることもなく、

病床の父の話し相手になっていた。

 森川の勧めで、遠山の家を継いだことは、手紙にしたため各処へ送った。 まったくつまらぬ話だ。 

遠山の親戚縁者なぞろくな奴がいない。 だいたい旗本なんぞにろくな奴がいない。 いやいやそもそも武家というものの中にろ 

くな奴がいないのだ。

 父の病状が落ち着いたら登城せよとの仰せだったが、まだしばらくは無理のようだ。   

そんな返事を幕府にしても、実父景普の威光があるのか“ご存分に孝行されよ”返信がやってくる。

 まったく景普様はたいしたものだよ。

 登城の件は気が重い。 

家慶公は懐かしく、いろいろ話はあるにはあるのだが、今の幕府の情勢からしておもしろくない話になりそうだし。 

子供の頃に戻ってなどと呑気なことは言ってられないのはわかっている。

 オミチや町の衆のことも気になる。 

焼け出され、着の身着のままの暮らしをしている人たち。 みんな元気にしているだろうか? 自分のこと覚えていてくれているだろうか?

 遠山の家に不幸があって、何かしら身内でもめているらしい、くらいの噂はみんなの耳に入っているかも知れない。 だからどうなるもんでもない。

 「気をもんでたってしょうがないよ。 父上がああじゃ、さすがのあんたも外出するわけにもいかないだろう? だったら時を待つんだね。 ここでこのまま気をもんだところで一尺だって物事進まないよ。」

 三毛が話しているのだ。

「偉そうに・・・」

金四郎は猫の方を見ずに言う。

 父が倒れるまで話さなくなっていたのに、このごろどうしたことか、またぺちゃくちゃうるさい。

 「何で一時話さなかったんだ?」

 「あんたの匙加減さね。 弟君が亡くなって、父上が倒れたんだ。 気持ちに余裕ってもんがないだろう?」

 「おいらは余裕がねえとおめえと話せないってわけか?」

 「知らないよ。 あんた自身のことだろう

? 話す話さないはあんた次第なんだよ。」

 養父は床についてから金四郎と影善の子供の頃の話ばかりしている。 

要はその頃は自分も若かったし、子供たちもかわいく、自分の思い通りになってくれたから・・・らしいのだが。

 「あの頃は華であった。」

 養父は天井を見上げて言う。

 「華と言っても顔の真ん中にある鼻ではないぞ。 わかっておるか?」

 くだらない冗談を言い出す。

 「父上、そのようなことを仰るようでしたら、病の方も大分良いようですな。」

 「いやー、いかんな。」

 「はっ?」

 「いやいや、元気が回復しているのなら、もっと冴えた冗談が言えるはずじゃ。」

 「・・・・・」

 金四郎は閉口してしまった。

 「金四郎、御城の方は何と言っておるのだ? 登城の時期は?」

 父は何度もこの事を聞く。 

この前言ったでしょう、とは言えず。

 「父君が臥せっておられるなら、存分に孝行されよとの仰せです。」

 「ありがたいような、歯がゆいような。」


 ぼちぼち梅の花が咲こうかという季節になり、金四郎もこんな宙ぶらりんの生活に変に慣れてしまっていた。

 三毛は、2、3日喋っていたかと思ったら

、急に口をきかなくなったり、へたな飲み屋の女みたいになっている。 口をきかないものだから、

 「勝手にしやがれ。」

 と言うと、

 「ああ、そうさせてもらうよ。」

 と、どこかへ行ってしまう。 

気まぐれにもほどがある。 そうかと思うと、

 「オミチさん、どうしてるかねぇ?」

 などとぬかしやがる。

 「どうしようもねえから、胎決めて時を待てって言ったのはおめえだろ?」

 「・・・まぁね。 ただ元気にはしてたみたいだよ。」

 「見てきたのか?」

 「ああ、見て来たよ。」

 「本当か? 元気にしてたのか?」

 「ああしてたとも。 店もそこそこ繁盛してたみたいだしね。 十二、三の女の子が下働きに来てたよ。」

 「本当か? おめえ、担いでんだろ?」

 「だったらこの話やめよっか?」

 三毛は部屋を出て行こうとする。

 「悪かった。 おいら悪かった。 行くなよ。 続けてくれ。」

 「勝手行ってオカカ貰ってこいよ。」

 金四郎はすごすご勝手に行く。 自分はまったく威厳のないダメな奴だ。 

 オカカと冷や飯で猫まんまをつくって、三毛にあげた。 

 「うんうん、さすがは遠山家、いいオカカを使ってるね。」

 三毛は満足そうだが、金四郎は気が気じゃない。 焦らすようにわざと三毛はゆっくり食べやがる。

 三毛が言うには、遠山の家に不幸があって

、あの旦那は当分、いやひょっとすると、ずっと帰ってこねえかも知れない、などと噂されているらしい。

 オミチの店の客には、植木職人や、出入りの米屋、酒屋の店員などがいる。

中には、旗本の家に出入りがある者もいるから、結構詳しい情報が流れているのだ。

 跡取りの事で、以前からあの家はごたごたしてたの、養子をもらって、その養子にも男の子ができて、万事うまくいくはずだったのに、隠居が下女に手を付けて、これがまた男の子だったからややこしい。

 隠居と養子の子と、実子が変に仲が良くて

、養子のとっつあんが塩梅が良くない。

 そんなことまで話しに出るそうだ。

 本当かいな? 

まるで落語に出てくる長屋の噂話だな。 その塩梅の良くないとっつぁんてのが、今

をときめく外国奉行の遠山景普様なのだ。 そして、後からできた隠居の本当の子が早

死にしたもんだから、これまたややこしくな

っちまった。 うーん、実によく知っている

もんだ。

 というか、何でそこまで知っている?

 遠山家出入りの御用聞きは、案外おしゃべりが多いようだ。 余計な話をせぬように、森川から言ってもらわないと。

 「不思議なのはさ、オミチさん、何の変りもないんだよ。 あんたがいた頃とさ。」

 「変わりがないとは?」

 「いやその、普通に仕事して、普通に飯食って、普通に湯へ行って、普通に寝る。 そういうことだよ。」

 「例えばその、来てる客の職人だか何だかが、噂話ってか、その、あの御方はどうしてなさるんだろうね? なんてさ。 そういうのはないのかい?」

 「ないね。」

 三毛はオテテを舐め始めた。

 これは思うに、話に飽きた証拠だ。 

金四郎は肩を落とした。 

町の人らと一緒になって、働いて食べて・・・してきたつもりだったが、記憶にも残らないのだろうか? 

ましてオミチは一夜だけでも男女の仲になったのだから、“あの御方はどうしているのやら、何やら着物の裾が肌寒い・・・”

 何てなことを言いそうなもんだが。

 「バカだねぇ~ ほんとバカだねぇ~」

 三毛がこっちを見て言う。

 「だからあんた唐変木なんだよ!」

 「何でえ、偉そうに。 猫のおめえに何がわかる? わずかの間とは言え、一緒に楽しくやってた連中が、噂話の一つもしてくれないときたら、えぇ、愚痴の一つも零したくなるじゃねえか。 えぇ、違うのかい!」

 三毛が何か言いかけた時、

 「若様、どなたか御見えですか?」

 と森川が入ってきた。

 「いや・・・何・・・猫と遊んでいただけよ。 父上は、どうだ?」

 「はぁ、可もなく不可もなくと言ったところでしょうか。 うまい御茶を入れますゆえ

、御前の御部屋へ。」

 森川は部屋を辞した。 

あのあばずれ猫め、今日という今日は・・・と三毛の方へ向くと、いない・・・どこ行きゃがった!


 父の部屋へ向かいながら、オミチと暮らしていた頃を思い出す。 二人が一度だけ結ばれたあと、オミチは何もなかったみたいに、普通にしてた。 そう普通だったなと。

父の部屋に着くと、森川が先に来ていて茶を淹れてくれていた。 父は金四郎の顔を見ると嬉しそうに力なく笑った。

 「退屈であろう? すまぬな。」

 「いえ・・・」

 「町が恋しいか? 金四郎?」

 「いえ・・・そのようなことは・・・」

 「正直に申せ、そなたらしくもない。」

 父の優しい言葉につい、

 「ええまあ、恋しいっちゃ恋しいわけでありまして・・・」

 と武士からぬ台詞を吐いた。

 “しまった”と思った。

 「しまったという顔をせずともよい。」

 まったくこの父にはかなわない。 幼い時からずっとそうだ。 

 「金四郎、景普殿の手前、そなたに話しとうても話せずにいたことも多いのじゃ、わかるであろう。」 

 父はやはり力なく笑い、湯呑の茶を啜った

。 その手が微かに震えているようにも見えたのだが、少し強い風が吹いて、障子を大きな音で揺らし、気が変にそっちへいってしまった。

 「安ずるな金四郎。 そなたはこの父がいなくなっても充分にやって行ける。 そなたをそのように育てた自負もあるにょだ。」

 父は肝心なところでまた噛んだ。

 「ごほん!」

 父は大きな咳払いを一つした。

 「そなたの実父、景普殿は今この国の命運を担っておる、と言って過言ではない。 正直、でき過ぎる養子を貰ってこの私も複雑な想いであった。 そなたの父とは、とかく真面目で政務に掛かり切りとなり、家に帰ることもままならぬ御仁であったため、養子とはいえ、じっくりと話したことも、あまりないのじゃ。」

 父は血の気の薄い顔でゆっくりと天井の方を見た。 釣られて金四郎も、天井に何かあるのかと見ていると、森川に睨まれた。

 父は昔を思い出し、感慨深く顔を上に向けただけだったのだ。

 「不在の多い景普殿に換わり、私はそなたの面倒を良く看た。 そなたはよく私に懐き

、明るく元気で朗らかで、私はそなたのことが、かわいくてしかたなかった。」

 嗚咽が聞こえ始めた。 森川だ。 

これはちょっと間が早いのと、嗚咽の声が大き過ぎる。 父は、“ごほん”と咳払いをした。

 「御茶を入れ替えましょう。」

 そう言って森川は出て行った。

 「私に良く懐いたそなたを、私は本気で可愛がり、実の子と勘違いするほどだったよ。

 ただ、時代というものが、うねりを少しずつ強くして、この家にも近付いてきていたのだ。 それは景普殿を見ていて、いかにのほほんとした私でも思ったものだ。」

 父はここ何日もの間、同じ話をしている。そのことに気づいていたのかいないのか、

よくわからない。 金四郎も飽きることなく

それを聞いていたのだ。

 傍らで森川が涙ぐみ、冷めた茶があるという図式が、ここ数日のことだ。 

 そうして・・・父はあっけない感じで、逝ったのだ。

 

 不思議と涙は出なかった。

 ここしばらく父は、起き上がることが多くなり、逆に横になることを億劫のように言いだしていた。

しかし、毎日寄ってくれていた医師が、

 「ここ数日・・・御気を付けあそばせ。」

 と沈痛な顔で森川に言ったそうだ。

 医者がそう言ったその日の夜。

 冷えてきたと思ったら、父が厭な感じの咳をし出し、金四郎を呼んだ。

 最後の言葉は、もう一度、景善とそなたと三人で遊びたいと言った。 森川が、

 「御前、私めも・・・」

 「おおすまぬ、そであった。 森川も一緒にな。 そうしようそうしよう。」

 まるで公家のような話しぶりだった。

 「金四郎、当分それはかなわぬのじゃ。

 そなたはな、金四郎。 この国の為に、民の為に、懸命に働くのじゃ。 景普殿とは違うやり方で、そなたらしいやり方で・・・

 わかるか? 金四郎!」

 「父上・・・もう御話なさいますな・・」

 それが最後だった。

 眠ったように見えた父は、永遠に眠っていたのだ。 もう自分に話しかけることも、笑いかけることもしない。 

 もう一度そうなる時は、あの世というものがあったとして、そこでのこととなるのだろうか? 

しかし、父が言ったように、自分が何かしらの仕事をやり遂げぬ限り、そうはならない気がする。

 そうでなければ父も景善も森川も、あの世で逢ってくれない気がする。 あっ・・・森川はまだ元気だ。


 四十九日が済むと早速に登城の命が下った

。 父が死んでからのわずかな間、金四郎には何か取りついたように事を運んでいた。

 不思議だった。

 父亡き後の遠山の家を、こうもテキパキと指図をし、そして行動し、森川が舌を巻いているのだ。

 その決断力と言うか、先読み、適格な面と言うのは、父が憑依したとしか思えない。

 “お前の仕事はもっと他にあるのだ。 こんな家のことで煩わされていてはいかぬ”

 父が自分のすぐそばで、囁いているようでもあった。 気がつくと桜が散り舞い踊る季節になっており、日によっては汗ばむほどの陽気である。

 “オミチ・・・今のままでは、おめぇに合わせる顔がない。 私の惚れた御仁は、遠山様よ、金四郎よ、男の中の男よ! なんて言われるような男にならないと。 あんたに惚れたことを後悔なんかしてないよ、なーんて言われたりなんかして・・・”

 金四郎が空想に耽って、ニコニコ笑っていると、いつのまにか傍らに森川がいる。

 「若、どうされました?」

 「あっ・・・いや、なんでもない。」

 金四郎はそそくさと家を出て行く。

 「御前が仰っていたとおりだ。 どこかよそへ行かれる時がある。」

 久しぶりの江戸城は、新緑に包まれていた

。 思えば二十年以上になるかの御無沙汰である。 大きな建物に圧倒されていたが、そこは幼少期でもあり、また上様との気が合った(恐れおおい・・・)ものだから、すぐに庭でわいわいはしゃいてしまったのを憶えている。 先君家斉公は大らかで、はしゃいでいる子供たちを、戒めようとする家来に、

 「構わぬ、好きにさせてやれ!」

 などと言っていたものだ。

 御優しい方と思いきや、後に五十人以上の子を作る、スケベ将軍だとはその頃知るはずもない。 

家慶公は同い年でありながら、なぜか弟のような感じで、金四郎に甘えた。

 庭の中の小さな森になっているところで、気の葉や虫を相手に遊び、そのようなことの知識が豊富な金四郎は、家慶公に随分尊敬されたものだ。

 「道乃進が一番である。」

 家慶公がそう仰るものだから、遠山の家にかなりの褒美が出たようである。 

実父景普の出世の足がかりのもなったのかも知れない。 そう思えば、今の実父景普の地位があるのは、本人の実力もだが、自分の御蔭ではないのか?

 そうだそんなに偉そうにされなくても良いのだ。 まぁ、何年も会ってもいないが。

 恐らく会ったら・・・

 「その方、しっかりやっておるのか?」

 なんて、言うんだろうな。 けっ! むかつく。 などと毒づいてみる。

 「どうかされたか?」

 側用人の声で我に返った。

 どうもいけない。 

金四郎は頭の中でいろいろ考えていると、妙に入ってしまって、周りが見聞きできなくなるところがある。

亡き養父や森川が言っているとおり、よそへ行ってしまうのだ。

 これから上様に御目通りという時に、先が思いやられる。 三毛がいれば嫌味をたっぷり刷り込まれるところだろう。

 気品溢れる衣擦れの音とともに、家慶公が見えられた。 金四郎は畳に額をつけたままだ。 明らかに周りの空気が変った。

 居ずらくなるほどの、品のいい香が香っている。

 「久しいのう、道乃進。」

 嬉しげな声である。

 「ははっ!」

 と言うのがやっとだ。 

さすがの金四郎も今は上様相手にオオチャクなことはできない。

 「苦しゅうない、道乃進。 表を上げい。

 おおっ、名は金四郎であったな。」

 苦しゅうないって言ったって、こっちは苦しいよ。 もう子供の頃とは違うのだから。 

金四郎は側用人の合図を待ってから表を上げるようにと言われてる。 

 「金四郎?」

 上様は再度訊ねる。 

あれれ、側用人、何にも言わんぞ。 金四郎は恐る恐る頭を傾け側用人の方を見た。

 寝てる・・・

 その様子を見ていた上様が、

 「だっ! はっ・・・ははは。」

 笑い出した。 

待ち時間の間、陽気がよくなった今日この頃、側用人様、御年を召しているので疲れが出たのでしょうか?

 てか、ちゃんとやれよ!

 その時上様と目が合ってしまった。 

端正な御顔立ちは昔と変わらぬ気がした。 ただ、目が弱弱しく、病んでおられるよう

にも見えたが、懐かしさに金四郎は目が潤む・・・

 いや完全に泣いてしまった。

 驚いたことに上様も涙をこぼされた。

 金四郎は立場も忘れ、顔を上げてしまい、

 「御懐かしゅうございます・・・」

 と言ってしまった。 その時側用人が気が付き、吃驚した顔をして

 「これ、無礼であるぞ!」

 と叱責した。すると上様が、

 「どちらが無礼か!」

 と言ってまた笑い出した。

 側用人は正座のまま飛びあがるような格好になって、目を丸くしている。 上様は金四郎に向き直り、力強く仰った。

 「ゆるりと話そう道乃進、いや金四郎。」


 御城を辞したのはすっかり暮れてしまってからだった。 昼間はそこそこに暑いくらいであったが、日が暮れた今、空が曇り、少し冷んやりとした空気が身体を包む。

上様は、金四郎と次会う段取りをさっさと決めてしまわれ、

 「金四郎、楽しみにしておるぞ。」

 そう、にこやかに仰せられたが・・・

 家では門の前で、森川が行ったり来たりで

、金四郎の帰りを待っていた。

 遠山の家に近づいて来る籠がある。 立派な籠は葵の御紋。 見れば供侍の五名の内二人は遠山の家の者だ。

 「若様・・・」

 森川は泣きつかんばかりに金四郎の駕籠に駆け寄った。 養父亡き後、金四郎にとって身内と言えるのはもうこの人だけだ。

 「遅うなった。 森川、腹が減ったぞ。」

 「よう、御勤めを、よう御勤めを・・・」

 父が亡くなってから、森川は余計涙もろくなっているようだ。 何でも金四郎より一足先に、御城からの使者が来て、明後日の昼前に、再度登城されよと、伝えたそうだ。

 またその使者が、

 「上様にはいたく御喜びあそばされ。」

 などと言ったらしく、森川はもう大喜びで

、少しでも早く、若様の顔が見とうございました、とこうきた。

 「今日という今日は、森川存分に泣かせて頂きますぞ!」

 「森川、少し酒を飲まぬか、おぬしにも聞いてもらいたい、上様の話をな。」

 森川またオイオイ泣きだす。

 「もったいないことを・・・」

 「そう泣いてばかりでは話にならぬではないか、さっ家へ入ろう!」

 森川にしてみれば、遠山の家の頭痛の種であった金四郎が、上様の御召しを受け、上様との話を酒でも飲みながら聞いてもらいたいなどと言うものだから、今までの苦労が吹っ飛んだ気分であったろう。 

いや、そもそも、上様が金四郎を御召しになったのも、金四郎が金四郎たる所以であるからだ。

 「しかし、上様のお話を、酒でも飲みながらとは、ちと不謹慎ではございますまいか・・・?」

 「いやいや森川、その話の中身だ。 上様が欲しておられる事は、額に青筋浮かせ、汗をぬぐいながら論ずる内容のものではないのだ。 まっ、良いから良いから。」

 ともかくも森川は勝手に回ってあれこれ指図を始めた。 金四郎はその背中に“簡単で良いのだぞ”と声を掛け自室に入った。

 そそくさと部屋着に替えて、金四郎は今日のことを振り返ってみた。 家慶公は優れた方だ。 また不幸な方でもある。

 自室にあれこれ酒肴が運ばれた。 給仕は断って森川と二人になろうとしたが、女と入れ替わりに三毛が入ってきた。

 「猫を外に出しますか?」

 森川は言ったが、金四郎は少し考えて、

 「いや、構わぬ・・・」

 と応えた。 

後で何を言われるかわかったものではない

。 三毛は満足そうに舌でペロリと口の周りを舐めた。 金四郎は惣菜の中の幾つかを皿に盛り、三毛に差し出した。

 「気がきくねぇ・・・」

 三毛は皿の中の惣菜を品定めするようにクンクン臭いを嗅ぎ、もう一度金四郎の顔を見た。 にやりと笑った気がした。

 まさかこの猫、話すだけじゃなくて、笑ったりもするのか?


 「上様の話というのを聞こうじゃないの。」

 例のこごもった声で、三毛は金四郎に話す

。 もちろんこれは森川には聞こえていない

。 さすがに下町を歩く様に、江戸城内を歩くわけにはいかないのだろう。 

三毛は金四郎の顔をじっと見て、口を開くのを待っている。 金四郎はちょっと得意気になる。

 「上様は御自分のことを節句の人形のようだと仰った。」

 森川と三毛は“?”な顔をした。

 ようは飾り物だと言うのだ。

 実権は先君である父、家斉が握ったままになっている。

 いや、実際の話、大奥の桂琳院という御方様の思いのままなのである。 この御方様は家斉公と御入魂であって、言いなりであるようなのだ。

 「道乃進、私には四十人近い兄弟がいるそうだ。 ・・・その誰にも会うたことがない

。 父は、その、女人が好きで、その欲望は果てしがないようじゃ・・・」

 幼少の頃は武芸より勉学が御好きな方だったが、それだけに政りごとにも深く興味を抱かれていた。 金四郎と仲良くなったのも、市井の話をおもしろおかしくやったものだからである。 

“市井の民のことがわからなければ、政事はなりたたぬ”とのお考えから、それこそ目を皿のようにして聞いておられた。

 「それから? それからどうなるのじゃ?

 皆どうしていくのじゃ?」

 災害や火事、そして飢饉。

不幸に落ちた民百姓は、どうしようもないのだ。 そんな話をひつこく聞くあの方に、当時の道乃進は辟易となり、

 「その後は知らねえ。」

 などと失礼を言ったものだ。

 事実、幼い道乃進は知らなかった。

 今になって、皆地べた這いつくばって、血のにじむ思いで生きていることを、肌で感じられるようになってはきたが。

 地震や火事、その他の災害の話は、怖くてあの方の興味を引いたようだが、それは己の処には遠く及ばないものであるからだろう。

 そして、本当に怖いのは、生き延びたその後の方がもっと怖い。 

 飢えが待っているからだ。

金四郎は最初、偉い方だからと子供ながらに気を使っていたのだが、双方ともにお互いを気に入ってしまい幼馴染のようになった。

 旗本の倅どもはどれもみんな澄ましていたし、御学友などと言えば名誉なことと、胸を張っていたのだ。

 金四郎はそんなことより、外へ遊びに行きたい方だったし、そんな感じで毛色の違う金四郎をあの方はおもしろく思ったのだろう。

 逆に金四郎があの方を好きになったのは、

 「民百姓に為に私が何かできぬものか。」

 なーんてぬかしやがったもんだから、こいつはいいこと言うじゃねえかなんて金四郎は思ったものだ。 


全ては民百姓の働きがあってこその武士である、なんてそこらのバカ大名には言えやしない。

 敏次郎様(家慶公の幼名)は全然偉そうにせず、かと言って卑屈になるわけでなく、金四郎みたいなクソガキの話を良く聞き、考え

、またあれこれ投げかけ、時に金四郎がうんざりするようなこともあった。

 そしてまた外務に敏腕で、今をときめく遠山景普の子息で、将軍継承一番手の敏次郎様が、“道乃進、道乃進”とお気に入りであることから、当時はかなり城内を騒がせたようでもある。

 しかしその仲良し二人は左程も続かなかった。 遠山の家の位置が、やたら高くなることを快しとしない連中が、策を計ったようである。 

敏次郎様との楽しい御遊びが始まって、二年ほどの内に役払いとなってしまった。

 その後は・・・

 家の事、実父の事、養父の事、景善の事。

 煩わしかった。 何もかも。

 勉学や剣術もそれなり打ち込みはしたが、

敏次郎様との幼い日の思い出は、つっかい棒を外されたような、煮え切らない、中途半端なものだった。 

それでも勉学を進める内、敏次郎様が権現様や八代様以来の傑物になられるのではないかと想像をしたりもした。

 いや、その想像は、これから芯を捉えるのかも知れないのだ。


 森川はしんみりしていたかと思うと、涙をはらりと落した。 

 「若様、森川は何と御答してよいやら。」

 「何も答えなぞ必要ない。 上様は恐れ多くも下々の者たちの想いが知りたいと仰っておられたのだ。」

 森川は涙が止まらない。

 「若様、私は、その、若様が上様とそのような御話をなされて、いや、なされた事実こそが、胸を強く打つ感激にござります。」

 「あの不良の旗本の倅がってことかい?」

 「いや、決してそのような。」

 二人は笑った。

 「じぃよ。 内憂にして外患のこと時、上様はその大仕事に取り組もうとしておられるのだ。 その手助けをおいら、いや、私にしてもらいたいらしい。」

 「何たる感激・・・」

 森川は涙が止まらない。

 「話にならぬではないか。 私一人では心もとない。 じぃの歳の功も、これから先、聴かせて欲しいのだ。」

 上様の憂いておられる内とは、大半が幕府の内ことであった。 

あの方はまことに頭の良い方だ。 家斉公と桂美様が君臨する以上、暴君よろしく、力技で執政すれば、乱心やら御病気やらと丸め込まれてしまうであろう。 

そうならないためにも、金四郎のような城の内外で動きがとれる、しかも気心の知れた者と話がしたかったとあの方は言われた。

 森川が落ち着きを取り戻し、袴や襟を正した。 そうして、

 「若様、それがしのような者でも、御役に立てるようであらば、何なりとお申し付けくださいまし。」

 「ありがとう・・・」

 金四郎は息を吐いた。 全てこれからなのだ。 あの日、オミチが言ったように、“一から”なのだ。

 「父君景普様は、外敵どもと戦っておられる。 また、御子息である若様は、内なる敵と戦おうとしておられる。 やはり血は争えませぬな。 幼少の折より、この森川わかっておりましたぞ。」

 どうも話がそれてしまいそうだ。

 「うまく主導権を握らないと、おかしなとこへ行っちゃうよ。 あたいをうまく出汁に使いな。」

 こう言ったのは三毛だ。 

 金四郎はちらっと猫を見て、

 「よちよち、さあおいで・・・」

 と“気味の悪い?”声を出した。 三毛は金四郎に寄ってきた。

 「何か気持ち悪いね・・・」

 いつものこごもった声で三毛が言う。

 とにかく金四郎の素晴らしい変貌ぶりを、感嘆してやまない森川の気を、自分のことより政治向きの方へ向かわさないと。

 「時にじぃよ。 我が家は今、月どのくらいの金子で賄われているかな?」

 「はぁ、五百石いっぱいいっぱいで、何とかやっております。」

 「はて、それはどうかな?」

 「と、言いますと?」

 「つまりだ。 このところの遠山家のように、不幸が重なり、出費が嵩むとそれこそ帳面に△の印が付くであろう。」

 「そこは今回、景普様の御功績もあり、御上から見舞金が多額に出ております。」

 「じぃ、それだけでなかろう? 父の功績により、遠山の家は何かと御手当お頂いておるのではないか?」

 「はぁ・・・まぁ・・・」

 森川は少しばつの悪そうな顔をした。

 「しかし、景普様の御働きを考えれば、遠山家は胸を張ってこの御手当を頂けると、森川は思いまするぞ。」

 「じぃ、そんなことではないのだ。」

 「と申されますと?」

 金四郎は杯を森川に出した。

 返杯と思いそれを取ろうとした森川に、

 「違う。」

 と金四郎が言う。 はっと気づいて徳利をとってつぐ。 森川少々不服そう。

 「上様の御考えはちと違うのだ。」

 本当に功績あるものが正当な利益を得ているのだろうか? 石頭の老中共が、“ああでもないこうでもない”と口先ばかりで働きもせず、現場現場に任せきりだ。

 早い話が父、景普がそうだ。

 命懸けで外敵と渡り合い、何とか他国からの横暴を防いでいる。 しかしその命懸けの御手当以上に地位のある幕臣は高給を取り、食いつぶしている。

 労働の内容に見合っていないのだ。

 いや、もっと多額の金を食いつぶしている所がある。 大奥だ。 話がここまで来て、

森川は顔色を変えた。

 「そんなこと、本当に上様が仰ったのでございますか?」

 「そうだよ。」

 「うん、たいしたもんだ。」

 三毛が口を挟む。 金四郎が睨むと涼しい顔で、ぺろりと舌で口の周りを舐める。



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