遠山の金さん外伝
着変えを済ませ、廊下を渡り、奥の部屋へじぃに先導され歩を進める。 人のざわめきが耳に近付きつつある。
広間には親類縁者が詰めていた。
どれも見知った顔ではあるが、どれも道乃進の顔を好意的には見ていない。 当たり前だ。 放蕩して、家を空けたままの男に向けられる目は、蔑みしかない。
景善の亡きがらが横たわっている。
小さい頃、兄上兄上と慕ってきた景善。
おいらは兄上ではないと、何辺いっても、
「兄上は兄上じゃ。」
と、自分にしがみついてニコニコ笑っていた。 道乃進と景善は血のつながりはない。
実父景普が遠山家の養子で、その実子が道乃進。 景善は養父景好の実子。
正真正銘赤の他人なのである。
そもそも景善が生まれて、遠山の家はおかしくなった。
子ができず、養子を取った遠山家。
これは普通の話しなのだが、養子である景普に道乃進という男子が生まれ、そのまた先の後継ができたと、それで治まっていたのだが。 その八年の後、景善が生まれたのだ。
養父景好という人は、かつて大恋愛の末遠縁の娘を貰ったのだが、この娘は身体が弱く
、子を産めなかった。 それが為に周りの大反対にあい、大恋愛となった次第だ。
養父はこの娘とのことを貫き通し、結婚した。 程なく娘は病死した。 五年の後だ。
それからほどなくして養子の話が持ち上がり、妻を亡くして気の抜けたようになっていたであろう養父は、周りの勧めるまま、道乃進の実父景普を養子とした。
その養子はでき過ぎていた。
のほほんとした養父と違い、政治的なこと
、外交、その他摂政、剣や詩にまで長けていた。 そのことでさらに気の抜けた養父は、悶々とした隠居生活を送っていたらしい。
若くして隠居となり、貰った養子はでき過ぎて、呆けてしまった毎日だった。
そこへよくある話で、魔が指したというか
、下女に手をつけてしまった。 子が生まれ
、それが男の子だった。
景善だ。
当時八歳だった道乃進は、実の弟として信じて疑わなかった。 道乃進はこの歳の離れた弟がかわいくてしかたなかった。
実父は仕事で留守ばかりだし、子供が騒いでもうるさく注意するような大人はいない。
それをいいことに養父景好と、森川のじぃと四人でよう遊んだ。
養父はむずかしいことは何も言わず、
「二人とも、健やかに育て!」
とよく言っていた。
道乃進が思うに、実父の景普がいない分、二人は健やかに伸びやかに育った。
しかし知らぬところで実父は画策した。
なぜか、景善を景普の養子とし、道乃進を第二子と幕府に届けたのだ。
年上の者が第二子になることは道理に合わないが、実父のその時の官僚としての実力が
、そんなことをいとも簡単にやってのけてしまったのだ。
実子の道乃進が気に入らなかったのか、はたまた養父景好に気を使ったのか、わけがわからない。
しかし子供だった道乃進たちには何も分からず、遊んでいた養父がふと暗い顔をするのは何でだろう・・・?
などと思うくらいだった。
道乃進たちには養父が父で、実父景普はたまに帰ってくる怖いおじさんでしかなかったのだ。
横たわった景善は死んでいるようには見えなかった。 今にも、
「兄上、御帰りか!」
などと言いそうだ。
「若様のこと、案じておられました。 そのたび、景好様が御慰めになって・・・」
じぃは言葉を詰まらせる。
「じぃ、父はどこだ?」
「弔問の御迎えを。」
「おいら・・・いや、私がそれ、替われないだろうか? 父上は大分御悪いのでなかったか?」
「若様、それはなりません。 景普様が御留守の時は、景好様がこの家の主。 いくら御加減がすぐれなくとも、若様が替わるわけには・・・若様!」
道乃進は話の途中で玄関にいるであろう養父のところへ向かった。 じぃは後を追って来ているが、道乃進は振り向きもしない。
「若様! 若様・・・なりません。」
弔問客や家の者が好奇の眼でこちらを見ている。 やがて父のところへたどり着き、
「父上、私が替わります。 御身体にさわりますゆえ、何卒奥へ・・・」
弔問客が途切れたところで父が、
「遠山の家を背負うのだな、道乃進。」
道乃進は絶句した。
「道乃進、胎は決まったのだな?」
自分は・・・どうすればいいのだ?
「慌てずとも良い。 父はまだくたばらぬわ。 その方の胎が決まるまでには、いましばらく時がかかろう。」
父は玄関の外を見据えたまま、道乃進の方を見ずに言った。
何もかも見抜いてる。
情けない。 道乃進は後ずさりをした後、廊下を逆に小走りで逃げた。 父は振り返えらなかったようだ。
「おいらは何者なのだろう?」
影善の傍らで、道乃進は嘆いた。
侍でもない。 町人でもない。
何物にもなれぬ愚か者だ。
弔問の客が順々に焼香をしていく。
あからさまな好奇の眼。 蔑みの眼が自分を囲んでいる。
道乃進を囲んだいろいろな眼が、こつき廻し、嘲り、踏みつけている。
厠に立った時、通りかかった下女が盆に酒を持っていた。 道乃進は一本拝借し、グイッと飲んだ。
わずか十九で逝った影善。
さぞ心残りであったろう。 若さの盛りに
、病弱で何もできず、床につくことが多かった影善。
この遠山の家が、養子だの跡継ぎだの、複雑怪奇なことがなければ、普通に仲の良い兄弟で、剣術や勉学を共にしたはずだ。
幼い頃、何も考えずに済んだ日々。
今日は何をして遊ぼうと二人して駆け回り
、父に叱られた。 景好の父は愛情ある叱り方をしていて、
「これこれ、家の中でそう騒ぐものでない
。 そして少しは勉強をせぬか。」
と言いながら、語尾には笑顔になっていた
。 時には我らを追いかけまわし、捕まえられる一歩手前で足を弛め、
「おのれ、待たぬか!」
などと芝居がかったこともこの父はしてくれた。 実父景普はあまり家にいなかったのだが、珍しくいたある日、景善と二人ではしゃいでいたところを見つかってしまった。
「道乃進! 私の部屋へ来なさい。」
そう言うと二人に冷たく背中を見せる。
景善は心配するが、道乃進にしても弟を巻き込みたくない、
「坊、じぃの処へ行って、この間の数え唄の続きを教えてもらえ。」
「しかし兄上・・・」
「よいから行け。 そして数え唄を兄にも教えてくれろ。」
景善は泣く泣く去って行くが、泣きたいのはこちらの方だった。
実父景普の部屋へ行くと鉄拳が待っていた
。 立てぬほど強かに殴られた後、
「道乃進、なぜこのような目に合わされたかわかるか?」
道乃進はとにかく怯え、父ではなく、何か強大な化け物がそばにいる感じがした。
「異国の脅威が迫っておる! なのに老中や外国奉行など名ばかりで無能きわまりない
! 何のために禄を食み、大きな屋敷に住み
、妾などを囲っておるのか。 馬鹿者どもばかりだ。」
それから父は、旗本とは何であるのか、将軍様の御膝元において、心底徳川家を憂い、
我が身を以って御守りしなければならぬ立場であることを怒気を持って語った。
父はそのような意味のことを延々語り続け
、語りながら興奮してきたのか、同じ内容が二度三度出てきた。
無能である徳川の官僚たちへの怒りが、能天気に遊び回る我が子への怒りにすり替えられている。 単純に八つ当たりなのかもしれない。
殴られた顔の痛みが全身を走り、父の言葉が、徳川幕府、攘夷、献上、外交など、言葉の断片しか聞き取れなくなった。
父の部屋の前の廊下を誰かが歩いて行く。
「あーーっ、あーーー、うぃ・・・」
大きな欠伸を、その人はしたようだ。
実父景普は立ちあがり、襖を開けた。
そこに養父景好が立っていた。
景普は影好と目を合わせたが言葉が出ないようで、思い切って何か言おうとした時、
「失敬・・・」
景好は行ってしまった。
景普は気が抜けたような顔になり、
「ふーっ・・・」
と肩で息をした。
「わしはこれからまた登城せねばならぬ。
道乃進、父が言ったこと、肝に銘じておけ! わかったな。」
「・・・はい・・・」
殴られた痛みと、涙を堪えるのが必死で、気が遠くなっていく。
「若様。」
下女がやってきて、道乃進を抱えた。
自室へ連れていかれ、横にされ、湿布を塗られた。 実父は登城のため出かけたらしく
、ほどなく養父景好が現れた。
養父は吸いこまれそうな大きな目で道乃進を見た。 その目は少し赤く、涙が浮かんでいるように見える。 頭を軽く撫で、
「痛むか?」
「はい・・・」
「叩かれたり、乱暴をされること、厭と思うかの?」
道乃進は少し考え、
「はい。」
と答えた。
養父はしばらく道乃進の顔を見ていた。 本当に吸いこまれてしまいそうな、優しく
、大きな目だった。
「己が厭と思うこと。 そのようなことは他の人にはせぬことだな。 お前が感じた痛みや辛さを、他の人に与えるようなことをしてはいけないのだ。」
子供だった道乃進は、半分わかったようなわからないような、おかしな具合だった。
兎に角殴られたところが痛くて痛くて堪らなかった。
昔の事など思い出しながら、もう話すことすらできない弟を、道乃進はぼーっと見据えている。 視線を感じた。
誰かが自分を見ている。
襖を開け、縁の向うの石灯籠の下に何かがいる。 猫だ。
それも三毛猫だ。 どっかで見た・・・
三毛だ。 まちがいなくあの三毛だ、
三毛は自分の方を向いて“ニャー”と一声鳴くと、ゆっくり歩き始めた。
襖のところに突っ立っている道乃進の方へ
、じわりじわり、縁側のところで一旦止まり
、道乃進のことを、本当に道乃進か確かめているように、じーっと見ている。
「三毛。 三毛だろう。 おいで。」
三毛はしょうがないなとでも言いたげに、だるそうに道乃進の元へ来た。
「どうしてここがわかった? おいらの匂いを追いかけて来たのか?」
抱き上げながら三毛に聞いてみた。
三毛はまた“ニャー”と鳴いた。
うん? 三毛だよな。
うん、三毛だ。
間違いない。 子猫の頃火事場で鳴いていて自分とオミチで育てた猫だ。 見間違えるはずもない。 しかし・・・
話さない。 いや、それが普通なのだが。
じぃが仏前にやって来て、三毛を抱いている道乃進を見て “?”
「若様、その猫はどうなさいました?」
「いやなに・・・おいらが飼ってる猫なんだよ。 後を追ってきたらしい。」
「またおいらなどと・・・以前御二人で、犬か猫を飼いたいと、景好様にねだっておられたこともありましたな。」
そうだった。 実父景普が動物嫌いでどうにもならず、景善は泣いていた。
道乃進はどっちでもよかったのだが、泣いている景善がかわいそうに思ったものだ。
二人で内緒でこっそり飼おうと考えたこともあったが、養父景好に窘められた。
「通らぬことを無理をして通すと、余計にやっかいなこととなる。 できぬことはできぬことと胎に呑みこむことも大事じゃ。」
実父と違い、分かり易く、子供扱いせずに語ってくれるところが養父であった。
景善の顔を見ていると、いろんなことが思い出される。 厭なこと、楽しかったこと、偏らずにそのままの量で、道乃進の胸の内をめぐっている。
「じぃ、今夜は影善のみのことを想い、他のことは考えとうないの。」
じぃは言葉が無いまま、頭を垂れた。 涙がポトリと畳みの上におちた。 しかし大粒だったと見えて、音としてはボトリだった。
とうとう実父景普は葬儀に帰ってこなかった。 長崎での外国からの圧力は相当なものとみえて、景普がたとえ身内の不幸があろうと、長崎を今離れることは、幕府の命取りにもなるかと思われた。
道乃進はどうにも身体に力が入らなかった
。 火事からこっち、町の人たちと力を合わせ、復興というとてつもなく大きな苦労を、非力な自分が担っていた時は、心も身体も尋常でない力がみなぎっていた。
それにしても・・・
三毛は口を利かない。
屋敷に帰ってすぐの折、話しかけてきた文鳥も黙ったままだ。 養父景好は登城することが多く、森川じぃが小言を言う以外は結構のほほんとしたものだ。
「ちょいと出てくる。」
オミチの奴のことも気になるし、他の動物たちが喋るか喋らないか、そこも気になるので、とにかく町の方へ行きたかった。
だが・・・
「なりません!」
森川じぃが腰にしがみつかんばかりに道乃進を止めた。
「御前様(景好)御留守の折、かような勝手をされては困ります。 この森川、命に替えましても・・・!」
「また今日という今日はか?」
道乃進は以前の通り、じぃを押しきって出て行こうとした。 門の外から声がして、
「これ、道乃進。」
優しくよく透る声。 養父景好だ。
「御前、御帰りなさいませ。」
じぃは我が意を得たりとばかり、どや顔で道乃進を見る。
「道乃進よ。 ちと私の部屋で茶でも飲まぬか?」
「・・・はぁ・・・」
「森川、支度を。」
養父は只ならぬ風であった。
飄々とした養父の風貌は全く変わらぬものの、その時は何かその奥に、大きな変貌のようなものがあるように思えた。 いつの間にか足元にじゃれついてきていた三毛が、
「ニャーッ。」
と鳴いた。
「その猫はどうした?」
「いやその、市井で暮らしました折、飼っていたのです。」
「そうか、かわいいの。」
養父は道乃進と景善が子供の頃、犬を飼いたいと駄々をこねたことを憶えているのだろうか。 もう忘れたか?
そしてふと見ると、養父の背中が妙に細くなっていたような気がした。 道乃進は変に口が渇いた。
養父の部屋に入ると、独特の荘厳な匂いと雰囲気がして、身体がピリリと反応する。
養父はいづまいを正し、ゆるりと座った。
そして、道乃進にも座るよう、眼と手で促した。
「そなたの父上は、当分江戸へは戻れぬらしい。」
望むところと思った。
「長崎は風雲急を告げておる。 ロシアだけでなく、イギリスやフランスまで、開国、そして自国の航行する船への援助を求めておるらしい。」
下女が茶を運んで来た。 重苦しい話の丁度良い間が取れた気がした。
「そなたの父は、その裁量を如何なく発揮し、強引なる異国の使者どもを、ある時は軽くあしらい、ある時は重々しく間を取り、翻弄するも、じわじわ幕府の思う条件に導いておるようだ。」
自分があれほど嫌っていた実父を、今の養父の言葉で一瞬ではあるが、誇らしく思ってしまった。 すぐ後悔した。
「そなたの父は、今命を懸けて、幕府を、日本国を守ろうとしておられる。」
少し風が吹いて襖がカタカタ鳴った。
道乃進にはこの話、別の世界の我が父ではない人の話に聞こえる。 そんなことがどれだけのものだと言うのだ。 町の連中の方が余程苦労をしている。
毎日が命懸けだよ、父上。
自分は町でいろんな人たちに会い、暮らしを共にし、皆の苦労、悲しみ、喜び、そんなものを肌で感じてきたんだ。
長崎にいらっしゃる父上様がどうあろうと
、文字通り遠い国の話であって、町の人たちは、今を精いっぱい生きることに全力を尽くしている。
そうしなければ死ぬだけなのだ。
そして自分たち武士が何か少しでも、尽力することができたならと思う。
「なぁ道乃進。 幕府はとおに人材不足よ
。 旗本とはいえ、さほども格が上とは言えぬそなたの父が、異国列強の者どもの恫喝も跳ね返し、この国を守っておる。」
父は咳こみ、すぐ治まるかにみえて、またひどくせき込んだ。 思い出したように傍らの茶に手を伸ばし、ごくりと音をたててのんだ。 本当に茶があることを忘れていて、思い出して呑んだのだろう。
養父の身体が僅かに左右に揺れたような気がした。 養父は道乃進の顔を見て、
「景普殿は実子であるそなたが亡くなろうとも、今長崎を離れることはできないであろう。」
望むところだよ、おとっぁん!
「時に道乃進、そなたの名前が変った。」
「??」
養父は何の話をしているのだ?
「そなたは本日より、遠山金四郎景元となった。 幕府への正式な届も済んでおる。」
道乃進は言葉が出なかった。
「・・・何故そのような・・・」
「すまぬ道乃進・・・いや金四郎。 場合が場合、火急のこと故な。 許せ。 わかっておくれ。」
養父は軽く頭を下げた。
道乃進は養父の低頭に逆に驚いた。 養父である人が、養子の子供の名を変えるなど、珍しいことではない。
だが、養父のこの低頭ぶりは何かある。
「実はな・・・そなたは正式にこの遠山家の当主となったのじゃ・・・」
「げっ・・・!」
正に“げっ”だった。
本来実父が当主であったはず、その後、跡をとる者が道乃進か影善かと家の中でバタバタして、あげく嫌気がさした道乃進が出て行ったわけである。
実父が国を直接的に支える仕事に関わった
、いや中心となってやっているのなら、さっさと当主を決めよということなのか。
また風がふすまをガタガタと鳴かせた。
妙に冷える。 養父の言葉に冷えを感じたのか、ただただ冬場だからか。
養父は不意に立ちあがると、ふすまを開けた。 雪がちらついている。
「おおっ、冷えると思うたらこれだ。 森川、森川。」
ほどなく森川が来る。
「はっ。」
「炭を頼む。 それと茶もな。」
「これは気が付きませんで。」
じぃがちらっと自分を見た気がした。
“よく御話をお聞きくださいまし”
眼がそう言っている。
養父の話すところによれば、実父影普は外夷から幕府を守ろうと矢面にたっている。
それは道乃進も養父も既に承知していたはずのことだが、ことは彼らの想像を遙かに越えているらしい。
要は実父影普は明日をも知れない命だと言うのだ。 道乃進にとってそれはいい気味だなどと気楽なことを言っている場合でない。
「影普殿が討たれるようなことがあっては
、この国も滅びてしまう。」
「うっ・・・真さような・・・」
道乃進は息が詰まった。
嫌いな父親が家にいなくて気楽だ。 なかなか帰ってこない、それもいいことだ。 いや、実父のやっていることは、もっと大きな
、国の存亡を懸けた大仕事であったのだ。
「夷人の外圧を止められるのは、最早影普殿しかおられぬのだ。 植民支配という言葉を、金四郎は聞いたことがあるか?」
「はっ、武力財力の勝る国が、その力に物を言わせ、他国を制圧し、暴利を貪っておるとか・・・まさか我が国が?」
道乃進は体幹が震えるようだ。
金四郎という新たな名を、養父がすんなり言い、自分もそれを受け入れているのに少しの違和感があった。
「その通りなのだ。 情けないことよ。
徳川も二百年も経ってしまえば、ウゴウムゴウの集まりというわけだ。」
養父は失笑している。
家柄や卓上の勉学、世渡りのみで出世した連中が、鼻くそほどの働きもできない。
この頃は老中の睨みも他藩に効かず、参勤交代を辞退する郷も現れておるとか。
そんな幕府が不安定になりつつある時期、手綱をしめるどころか、夷国からの申し出に慌てふためき、おろおろするばかりが今の幕府の官僚どもなのだ。
そんな処へ遠山景普なる人物が現れたものだから藁にもすがるというやつだ。
「金四郎、そなたは幼い折から、町衆の子供らと遊び、元服前あたりから、政事への、その、不満というか、不服というか・・・
そういうものがあったのではないのか?」
養父の言うとおりだ。
先だっての両国の火事で、オミチたちと知り合い、あの人たちこそがこの国を支えておると実感した。
オミチ・・・今どうしているだろう?
そう、ここで答えは出ているのだ。 二本差し、ふんぞり返っていたって、何もできゃしねぇボンクラばかりが江戸城にいるんだ。
「そなたの父上は、御老中格、外国奉行とあいなられた。」
御大そうな身分だが、だれも夷人の相手はできないので、実父に押しつけて鼻を摘んでいるのが本当のところだろう。
養父は遠くを見ながら話を続けた。
「特殊であり、新規の役職であるが故、この遠山家も空位となってしまう。」
「?」
あれれ、風向きがおかしいぞ。
「長崎のそなたの父、各御老中、そして恐れ多くも、上様の御言葉もあり、金四郎、そなたがこれより遠山の家長じゃ。」
「うぐっ・・・」
“上様が・・・自分のことを覚えておいでだとは・・・しかも遠山の家のことまで、気遣われているとは”
尻から背中、首のところへ冷たいものが突き抜けていった。 “何てこった。 ありえない。 どうしてそんな・・・”
「そなたも存じおる話ではあるが・・・そなたの父がこの家の養子で、その実子であるそなたが、この家を継ぐのが自然の流れであった。 が、しかし・・・わしのその・・・
わしの実子、景善ができてしまったがため、話がややこしくなった。」
道乃進にとって、今さら聞きたくもない話なのだが、今は黙って養父の言うことを聞いているほかなかった。
「そなたの父は影善を後継ぎにと押してくるし、わしにしてみれば、そうはいかんと道乃進、いや、金四郎、そなたを押して、幕府への届けが保留となってしもうた。」
もうええですよ父上。
その後実父はロシアからの外圧などで忙しくなり、後継ぎ云々どころではなくなったのだ。 もちろん受ける側の幕府も同じで、遠山景普様を上げ奉り、どうかロシアが攻めてきませんように御題目をあげたようなものだろう。
とりあえずはこの騒動が静まるまで・・・なんてなもんで。
実父は蝦夷地の内、ロシアからの攻撃に対して、対抗できうる地域を選び出し、岸壁を整え、フランスやオランダからの輸入物の砲台を迅速に造り、なお且つ現代で言うダミーまで用意させ、見た限りでは多くの砲があるようにし、ロシア側に息をのませた。
敏腕ぶりを発揮したわけである。
また、ロシアはヨーロッパの国々では嫌われているようで、そういう情報を巧みに利用し、フランス、イギリス、オランダなど、牽制し合っているのを利用したのだ。
御内儀さんたちの井戸端会議みたいなもので、あっちでこう言ってた、こっちじゃこう言ってた、なんて、利益上、いろんな国が日本の後ろ盾になってくれているような言い方をしていたらしい。
牽制し合っている以上、確かめる術もなく
、ロシアは思い切ったことができなかったのであろう。 道乃進が思うに、外交と言うより狡猾で饒舌なのだ。
養父はそういった話を茶を飲みながら道乃進にしていたが、どうも様子が変だ。
座ったままかくんっと、横に手をついた。
「父上、大丈夫ですか?」
「何が?」
「いや、何がって・・・今、横にその、手を附かれましたので。」
養父はなぜか聞こえないふりをしているかのように、ゆっくりと茶を啜った。 いや、本当に自分の声が聞こえなかったのか?
「景善が亡くなった今、当主となるべくはそなたしかいない。」
予想通りの厭な台詞。
養父はその厭な顔を見て、
「まぁ聞きなさい。 私の話を良く聞き、そしてよく考えるのじゃ、そなたの頭で、よーくな。 子供の頃から私はそなたの考えや発想をかなり尊重してきたつもりだ。 違うかな。」
その通りだ。 そしてこの養父のそういうところがこの上なく好きだ。
「仰るとおりにございます。」
「そなたを当主と推したのは、他でもない
、父君景普殿だ。」
やっぱりな。
「そしてこのわたしもな。 景善が亡くなり、そう慌てずともそうなるであろうことを
、なぜ父君が推したか、それは取りも直さずそなたの父君は今、旗本の分を超えて、幕府をこの大和の国の、矢おもてに立って守っておられるからじゃ。」
養父の言いたいことはわかる。
だが、実父の立場や仕事と自分のことは、切り離して考えて頂きたい。 要は遠山には自分の他は誰もおらんということだ。
養父も元気だとは言え、五十を過ぎてしまっている。 景善が生まれた時のように、もうひと踏ん張り?とはいかないだろう。
いや、そんなことを今ここで口に出してしまったら、さすがの養父も怒るだろう。
だが、だがだ。
一時でも武士を棄てることまで考えていた道乃進。 オミチと一緒になって、人のいい居酒屋の親爺になどと考えもした。
いくら煮え切らない性格だとは言え、いよいよ遠山を継ぐとなれば・・・覚悟が決まらない。 やっぱり意気地がないのである。
オミチはそこのところを見抜いていたのだろう、やっぱり。
「金四郎。 そなたが遠山家の跡を継ぐことに、ややも躊躇いがあることはわかっておる。 こうは考えられんか? そなたの好きな町の衆を、立場を変えて救うことを。」
「・・・と言いますと・・・」
「言葉は悪いが旗本の冷や飯食いに何ができる。 火事や震災などあった時、わずかな金と米とで、どれだけの人々が助けられた?
しかるべき立場になり、難儀に襲われる人々の多くを救うことは考えられぬか?」
「・・・」
正直、道乃進にはいや、金四郎には養父が言おうとしていることがわからない。
「まだわからぬか? 金四郎! そなたの父が、命を掛けてやっていること、これこそ町の衆を助けてはおらぬか? 夷敵が武力でもって攻めてくる。 上陸し占領する。 我ら武士は元より、町の衆はどうなる? 自由を奪われ、強制的に労働をしいられ、歯向かえば殺されるであろう。 人々に明日はなくなり暗黒しかない。 そうなっても良いのか
? そうならぬよう必死で務めておるのは他でもない影普殿だ。」
養父の言う通りだった。
金四郎が嫌ってやまない実の父、遠山影普こそ、今町の衆を救っている。 金四郎はわずかな銭とわずかな米で英雄にでもなったつもりだったのだ。
金四郎は頭の中が真っ白になっていた。
“昼間から、いい御身分だね”
自分をからかっていた三毛の台詞を思い出す。 まったくその通りだ。 いい御身分だよ。 能天気の極楽とんぼとあー、あっ、おいらのこったー・・・
「金四郎?」
養父の声で我に返って
「はい?」
養父は怪訝な顔で、
「どこへ行っておった?」
「・・・はっ、申し訳ございません。」
「そなたは小さい頃から難しいこと、困難なことに直面すると、逃げ出さないまでも、何かこう、意識をよそへやるようなことがあったでのう。」
仰る通りでございます。
「今、自分の考えや思想、信じて来た事柄を整理し、自分がどの道をどう進むべきであるか、得と考えるのじゃ。 あまりにも情報が多過ぎて、意識がよそへ行くことは、多少なら許せるが、いつまでもと言う訳にはいかにゅぞ・・・ごほん! いかぬぞ。」
養父は決めどころで噛む癖がある。
「父上・・・」
「何だ?」
「金四郎、恐れ入りましてございます。」
すんなりと、金四郎という新たな名を自分で言った。 それは遠山を継ぐという大仕事をやってみようという気になった現れであるのかも知れない。
兎に角金四郎は、恐れ入った。
自分が情けなく、子供じみた人間であったことに気づかされ、恥ずかしく、辛かった。
畳に手を付き、頭を下げたまま泣くのを堪えるのに必死だった。 ここで泣いてしまえば本当に子供じみている。
「金四郎、実はな、家慶公が御召しなのだ
。 是非にとな。」
「覚えておいでなのですか。 私の事を。」
「いかにも。 先日御目通りすることがあって、何故か遠山家のことを気にかけておられるとかで、直々話したいと申されての。」
嬉しかった。
家慶公は金四郎と同い年、少年の頃、御学友として御城に上がり、いっしょに勉学や剣術をやっていた時期がある。
同い年だがなぜか、弟のような感じがする御方で、少年だったこともあり、本当に打ち解けた想いがしていた。
だがしかし、御相手の役も下がった頃、身分の違いも良く分かってきて、何とも寂しい気がしたものだ。
“私は、どこへ行くのも何をするにも、型にはまったことをしなければならぬかのう?
一刻でかまわぬから、何者にも何も言われぬように暮らしてみたいものだ“
そう仰ったことを憶えている。 将軍の子に生まれ、何もかも与えられ、不足なものなど一つもないように見えて、金四郎には羨ましいように思えた。
子供だった金四郎は、なぜあの御方が徳川様で自分が旗本の遠山なのだ? そんな風に考えたものだ。
“道乃進、私はそちが羨ましい”
何をばかなことを言ってやがると思ったが
、金四郎が市井の話なぞすると、かぶりつかんばかりに聞いておられた姿を思い出す。
特に祭りの縁日の話、出店が出て、いろんなものが売っていて、どこを見ていいものやら忙しくてしょうがない。
あれこれ買い喰いをして、最後には腹が痛くなって、急いで家に帰ったが間に合わずにふんどしを汚してしまい、森川にこっぴどく叱られたことなど、幼き日の上様は涙を流して笑っておられた。
あの御方は朝起きてから夜眠るまで、やる事がきっちり決まっている。 金四郎たちと勉強をしたり、遊んだりする時間も決められたことなのだ。
自分の意思で何かをすることがない。
「窮屈ではありませんか?」
あの御方は苦笑して
「おおよそ道乃進ほど、窮屈ということから程遠い者もあらぬの。」
そんなことを言っておられたのを思い出す
。 塾や剣術の稽古、家の使いなどで出かけ
、途中で“そういやあの団子屋まだあるかな?”などと言っては道草をしてまた森川に叱られるのだ。
森川には通用しない言い訳を道すがら考え
、近くの川から入道が出てきたとか、柳の樹に猫がなっておったから、こりゃ猫柳だと観察しておったとか、
「柳の樹に猫などなりませぬ! 猫が柳の樹に休んでおっただけではありませんか!
もう今日という今日は!」
森川がおいらを追いまわす。
養父がいつも間にかやって来て、ゲラゲラ笑いながらそれを見ている。 そして影善・・・
影善が自分の後ろについて・・・
森川といっしょになって
「今日という今日は!」
と笑いながら追いかけてくる。
平和で楽しい日々だった。 その影善はもういないし、金四郎もそんなことをしていられる身分ではなくなったのだ。
「いい御身分ではなくなったってわけだ。」
誰だ? このごごもったような声は?
三毛だ。
いつの間にか部屋へ入ってきている。 猫とはそういうものだ。 と言うか・・・
そういう問題ではない!
三毛は顔を洗いながら意味ありげに一時的に動きを止めたかと思うと、じっと自分を見ている。
養父がいる。 言い返すわけにはいかない
。 金四郎は平静を必死で保ち、
「おおっ、こんなところに三毛が・・・さぁ良い子だ。 あっちへお行き。」
軽く抱き上げ障子を開けて、縁から庭先へだす。 三毛は庭に降り立ちながら、
「うまくごまかしたね。」
振り返り金四郎の目を見て言う。
厭な奴だ。
「近々に・・・家慶様が征夷大将軍におなり遊ばすようだ・・・」
金四郎は慌てて振り返った。
「家慶様が・・・しかし父上、家斉公は御健在であり、すこぶるお健やかでは? まさか・・・なにか急な病でも!」
「いやいや、そうではない。 まっ、家斉公の楽隠居じゃな。」
金四郎はっきり言って、家斉公は嫌いだった。 子供の頃、家慶公の御相手をしている時から父君である家斉公のことは聞いていたし、城中で陰口を叩く者も多かった。
とにかく何十人もの側室を置き、実子は四十人余りに及ぶのだ。
“あの上様は好き者よ”
と陰口を言い、女人さえ与えておけば政事にうるさく言わない御飾将軍なのだ。
実子家慶公は(その頃は敏次郎という御名前だった)幼くして自分の立場がある程度おわかりになる聡明さがあった。
“道乃進、私には何人兄弟がおるのだろう
? 誰一人とて会うたこともなければ、名を聞いたこともない。“
あの御方の寂しそうな顔が目に浮かぶ。