第九話 空が目を閉じて
いらっしゃい。
その日は土の匂いがした。
いつもより人の多い食堂で少女は食事を済ます。命の糧とは自然によって得られるが、その恩恵を頼むほど、生活はより自然に依存せねばならない。緑の中で生きる者達は空を見上げながら、有意義な時間の過ごし方を模索する。
村の人間には申し訳ないが、少女はにぎやかな場所が好きではない。ここは食堂で、他の建物よりも広いために話し好きの者が集まってくるのは無理からぬことだ。だが、悪魔の鋭敏な聴覚を持つこともあって、情報量の多い空間というのは大変に居心地が悪いのだ。
誰かが自分の話をしているんじゃないか、自分に話しかけようとしているのではないか。
落ち着かない。何を食べているのか分からなくなるほど、味を感じる余裕がない。
「ほら! あんた達、ここは暇人の寄り合い所じゃないんだよ! 食い終わったんなら、さっさと家に帰ってやること見つけな! いつまでもだらだらと席を占領してんじゃないよ!」
「おいおい、満席って訳でもねえんだ、たまの長話くらいいだろ? 外見てみろよ。仕事にならねえぜ? それから嫁の手伝いしろってのも無しだからな? 俺独り身だもん」
「うるっさいねえ、だったら先に嫁さん見つけな! そもそもあんたたちの都合なんてどうだっていいんだよ。あたしが落ち着かないんだよ!」
オブラートに包むという気が一切感じられない女主人の声はいっそ清々しく、暇人たちは悪態をつきながらも言葉には素直に従うのだった。
少女は遠巻きにその様子を眺めながら、味を取り戻したスープに舌鼓を打ち、心の中でシャヴィ・サリエン氏に拍手を送る。少女は彼女の威勢のよさと正直さが好きだ。自分の持っていない快活さには嫌味がなく、敬意を抱く。なにより、そういった気質がシャヴィ・サリエンを一単位の人間存在としてではなく、シャヴィ・サリエンという生命の存在を確立させている。美しさとはそういうものなのだと思う。
「さてと、あたしも少し食べるとするかね。どうだい? これで少しは落ち着いて食べられるだろう?」
……やはり、私はこの人間が好きだ。まったく、頭が下がるな。
静かになった空間でゆったりとした時を過ごす。しっとりと湿った空気は体の力を外に押し出すように沈み、弛緩した筋肉と膨れた胃袋が瞼の重さを思い出させる。思えば、館を出て以来、このように時を過ごすことはなかった。ぼんやりとした頭に、館で過ごした日々の記憶が思い浮かぶ。
そうか、私はこの時間が好きだったんだ。村の忙しい生活が嫌になったという訳ではない。ただ、平穏とはこういった時間を指した言葉なのだと思うのだ。私はなによりも平穏を望んでいたし、そうあってほしかった。それだけでよかったのだ――
バンッ
静寂を切り裂くように勢いよく開かれた扉が声を上げ、村人が息を切らしながら駆け込んでくる。その顔は言葉にするまでもなく,村に非常が訪れたことを物語っていた。
「ど、どうしたんだい!? 何があったんだい!?」
「ま、魔獣だよ! 狼みたいなやつが入り込んでやがった!」
どうやら平穏な一日という訳にはいかなかったらしい。
魔獣……、か。長き時を生きた獣が精霊を介して力を取り込み変質した存在。獣は人間よりも本能に頼る生き物であるために、精霊の力を直感で理解し、より強い魔の力を求める。その獣の性質は、人間や亜人とは共に歩むことが出来ないことを意味する。
魔の力を得た獣は長大な寿命を得て、時と共に更に強固な存在へと変貌していく。それはまさしく、人間の脅威であり、太古の魔獣は悪魔さえも凌駕する力を持つ。
だからこそ駆除せねばならない。だからこそ近付いてはいけない。だからこそおかしい。
何故、魔獣が出るような深き森に人間が暮らすようになったのか。村には魔獣に対抗できるほどの力や備えがあるとは思えない。戦力になるとすれば、大男のヴァンデルと剣の扱いに長けたルヴナクヒエくらいなのではないだろうか。
「魔獣……! 息子は、息子はもうそっちに行ったのかい!?」
「あ、あぁ、狼は群れで動くから、あの魔獣もそうかもしれないって、見張りに行ったよ。俺は魔獣が村の中まで入り込む前に、みんなに伝えてくれって」
殿か。やはり……、生きるための剣じゃなかったんだな。
「……分かった。早く行っとくれ。早く、お願いだよ! 早くみんなに伝えてあの子を助けに行っとくれ!」
普段の気丈さは陰を潜め、ひどく狼狽えた様子は悲痛で、親の姿を探し求める迷子のように弱々しく見える。
私は、どうすべきなのだろうか。
汗に塗れた男が無言で頷き、扉の外に駆け出すのをただ赤子のように眺めていると、肺の中が空気ではなく、代わりにもやもやとした、今日の空の如き暗く重い塊が入り込んでいるような、そんな息苦しさを覚える。
「大丈夫だからね、あんたはここにいれば大丈夫だから……!」
「…………」
難しいことを言う。なるほどな。あいつはあの時、こんな気分だったのだろうな。
「いいかい? ここでじっとしてるんだよ? 絶対に戻ってくるから、それまでじっとしてるんだよ!?」
そう言い残すとシャヴィ・サリエンもまた外に駆け出して行った。彼女も緊急時に果たすべき役割があるのだろう。そして、少女もまた果たすべきことがある。
ごめんなさいシャヴィさん。
少女は自分の角を強く握り、静かな呟きを吐き出すと、そっと扉に手をかけた。
その姿には、館の外に出るのにも難儀していた少女の面影はない。
変わったわけではない。今、この瞬間に決意があるのだ。
自分が行ったところでどうにもならないかもしれない。魔獣には敵わないかもしれないし、逆に村人達だけで解決できる程度の魔獣かもしれない。だが、そんなものは仮定の話なのだ。今は自分の立場や命を顧みたくない。
きっと、そうしないと心が納得できないのだと思う。
「……なんじゃこりゃあ」
外に出て魔獣の気配がする方向へ向かうと、森の前に村の男たちと土の人形が集まっていた。その数は20体以上になろうか。土の人形は意思を持ったように二本の足で動き回り、周りを見渡せば、他にもこちらへ歩いてくる人形の姿が複数見える。
これは一体……?
「お嬢さん!? 何故こんなところにおるんじゃ!? サリエンさんと一緒ではないのかね!?」
後ろからの声に振り返ると、そこには村長の姿があった。
「そ、そん、ちょ、こ、ここ、これ,は?」
村長は一瞬考えるような顔をした後、落ち着いた口調で話し始めた。
「お嬢さん、怯える必要はない。これらはわしらに危害を加えたりせん。今、この村には魔獣が入り込んでいるらしくての、この土人形たちに守ってもらうことにしたんじゃ。どうやらこの先の森に魔獣が潜んでいるようなんじゃが、1匹ではないそうじゃ。はぐれた魔獣がこっちに来ないとも限らん。危ないからわしのそばを離れてはいかんぞ」
「は、はあ」
聞きたかった情報とは少し逸れているが、どうやら土人形たちは味方らしい。考えるに、これは、魔術の 「人形創造」 だと思うんだが……。
魔術ねえ。魔術、か。魔術を行使したのは……、まあ、村民しかおらんわなあ。なるほど、緊急時の備えはあったということか。田舎村と思い、少し過小評価していたかもしれない。
しかし、昨日ルヴナクヒエの奴が話している時に魔術に関して触れたが、その時の口ぶりでは町に住んでいる裕福な者が嗜むといった風だった。事実、土人形の中には腰の高さほどしかないものや、雨の影響か形の安定しないものが混じっていて、未熟さが目につく。
シャヴィさんの狼狽え方も考えると、村に魔術という備えはあるが、頼りきれるほど万全とは言えないのだろう。そもそも魔獣に対して警戒しすぎるということは無いのだが。
「来たぞ!!」
男たちの声が響き渡る。その直後、森の陰がうねり、土人形の一体に覆い被さるのが見えた。雨が視界を阻み、土人形に素早くからみつく黒い影は、まるで巨大な蛇が襲い掛かっているように錯覚させる。その正体不明の異様に村人たちは思わず後退りをした。だが、悪魔である少女の目には、その正体がはっきりと見て取れた。
雨に濡れた体毛は黒く光り、四足には鋭い爪、口腔には人間の親指よりも大きな牙が見える。体の多くは狼と大差ない。だが、頭骨から不規則に伸びた歪な角は、その獣が魔に変じていることを示している。その素早い身のこなしと鋭い爪があれば、ちょっとやそっとの柵では乗り越えられるに違いない。
おそらく、魔獣になる前は狼だったのだろう。この魔狼と呼ぶべき存在は、狼が元来持っていた性質を確かに残していた。
巨大な影が、その牙によって土人形を砕き割った刹那、影が二つに分かれるのが見えた。次の瞬間、森の中からさらに4つの影が躍り出る。
群れだ。最初に現れた巨大な蛇のような影は、二匹の魔狼が同時に襲い掛かっていたのだ。
「何をしとる! 早く壁を作らんか!! 追い込んだのはわしらの方じゃ!」
辺り一帯に気迫に満ちた村長の声が響き渡る。怯んでいた村人達が己の役目を思い出す。木の束を持った男たちがじりじりと距離を詰め壁を作り、槍を構えた男たちが威嚇する。さらに、その後ろでは弓に矢を番えている者もいる。
少女は驚いた。
素晴らしいじゃないか。必要最低限ではあるが槍や弓といった武器も揃え、魔獣の襲来に備えて木束も用意していたのだな。それに連携も取れている。土人形――水を吸ってもはや泥人形と化しているが――の囮を使って足止めし、その間に包囲して相手の機動力を殺すわけだ。この戦いは完全に優位を占めて進められているだろう。
最初こそ怯んでいた様子だったが、村長の檄が飛ぶと皆示し合わせたかのように行動を開始した。これは普段から訓練をしていなければ出来ない動きだ。この村には自分たちで生き抜こうという強い意志を感じる。
とはいえ、目の前の魔狼がどれほどの危険性を持ち合わせているのかが分かっていない。それに、優位な陣形が組めているといっても、憂慮すべき点はある。魔狼が傷を負うことを厭わず連携して襲い掛かってくれば、単純な力は向こうが勝っている以上、こちらに被害が出るのは免れないだろう。それに、激しい雨で視界は悪く、地面はぬかるんでいる。これが致命的なイレギュラーに繋がらぬとも限らない。
なにより気になるのはルヴナクヒエの姿が見当たらないことだ。あいつの身に何かあっては、私はシャヴィさんに合わせる顔がないぞ。
「当たった!」
弓を構えた村人が叫ぶ。視線の先には首に矢が突き立った魔狼の姿が確認できた。周囲の人間から声が上がり喜色が広がる。だが――
「ぁ、え、うわ、うわぁぁあああああ!!」
逆上した魔狼が土人形を無視し、弓を持った男の方へ飛び掛かった。村人の構える槍に体を貫かれ、周囲から矢を射かけられるも、意に介さず前進し木束に激突する。さらに、それに続くように他の魔狼が襲い掛かってくる。
木束を支える男が魔狼の圧力に負けまいと必死に踏ん張る。踏ん張ったのだ。
「あ…………」
男の足は沈むように滑り、木束は魔狼の体重により倒れ込んだ。
いかん。
崩れた陣形の隙間に体を捻じ込んでいく魔狼の姿が映り、少女は咄嗟に魔力を開放した。その瞬間、魔力に反応した魔狼が硬直する。
「フンッ!!」
太く重い気合の声と同時に、頭骨の砕ける音がした。
先頭に立った魔狼がピクリともせず地に沈む。魔狼の頭には巨大な斧が振り下ろされていた。全ての運動機能を奪する一刀の斧撃である。
「ヴァンデルさんか!? すまねえ、助かったぜ!」
「おう! とりあえず1匹だ、油断するなよ!」
後ろに控えていたヴァンデルが危険を察知して駆けつけたようだ。その手には軍人が持つような、田舎村には似つかわしくない立派な戦斧が握られている。
「もしかすると、さっきの奴が群れのリーダーだったのかもしれんな。奴ら急にビビりだしたぞ」
ヴァンデルの言う通り、怯えて萎縮した魔狼達は村人から距離を取り、まとわりついてくる土人形の対処にも難儀している。
「よし、今のうちにとっととやっちまおうぜ」
「いや、ちょっとまて」
森の中から素早く忍び寄る影が見える。
「あれは――」
魔狼の首が飛んだ。影は滑るように移動し、土人形の後ろに回り込みながら次々と魔狼の首に斬撃を振るい、刺突を加えていく。
ルヴナクヒエである。
「おうルヴ坊、遅えじゃねえか! どっか怪我してねえだろうな!」
ヴァンデルが魔狼の頭を叩き割りながら声をかける。
「屁でもねえよ。それよりも風邪引きそうだ、とっとと終わらそうぜ」
「そりゃなによりだ! お前が怪我したらサリエンさんがぶっ倒れて、あったけえ飯にありつけねえからな!」
それからはあっという間だった。萎縮した魔狼は相手にならず、毛皮と食肉に加工されることが決定された。牛と羊が1頭づつ犠牲となっているので因果応報である。幸いと言うべきか、頭と首という急所への攻撃で仕留めたために内蔵も破らず、肉質には期待できそうだ。
全部で9匹。森の前で仕留めた以外にも3匹いたようだ。土人形を使い6匹は追い立てることが出来たが、3匹ははぐれて家屋の方に向かった。そのため、ルヴナクヒエが追いかけて始末したらしい。
無茶をする奴だ。
少女はしみじみ思った。
どんな理由があろうと、心配させるような行いは控えてほしい。理解はできる。理解はできるが、やはりやめていただきたい。今回は強力な魔獣ではなかったから無事だったものの、館の書物に名が残されていたような、悪魔の力をも凌駕する魔獣が現れていれば、間違いなく天に召されていたであろう。
こんな危なっかしい奴を息子に持ったら、シャヴィさんもそりゃ心配するわな。
近付いてくる背後の気配に察するものがあり、ゆっくりと振り返る。
星の見えない日は俯きたくもなる。
土の匂いを感じながら、頬に走った温かさについて考えた。
お疲れさまでした。
台風が近づくと眠くなってたまらんのです。