第六話 月を望めば
土日に徹夜でEVO 2018見てたせいでふらふらや。
「………………」
爆睡であった。
日は甚だ高く、山川草木一木一草皆等しく朝を知りたり。窓に覗く空は眩しいほどの青だった。
迂闊! 何たることか!
昨晩はよく覚えていないが、何かすごく真剣な考え事をしていた気がする。だが、高位生物である私の時間間隔では、一晩など寸陰にすぎぬ。故に、記憶が曖昧なのは無理からぬことであり、そんな一時の発意はきっと大したことではなかったのだろう。と、思いたい。
それよりも、人間の村に決死の覚悟でやっとこさ入り込むことが出来たというのに、惰眠に至った己が恨めしい。人間にとりて労働こそが生活を守る保障であり、命の盾である。とすれば、早々に怠惰な無能をさらした私は、この村にとって如何な存在に映ろうか。
幾千夜続けた習慣により二度寝しようとする己の体を、焦燥に満ちた己の心が支配を強行する。安楽な顛末は望めるはずもなし。諦めが勇気を生み、足を動かしてくれる。
いざ往かん。聖者の如き罪人の歩みは階段を一段、一段か細き少女の体に重みを持たせながら、確かに進む。
寝過ごしたことを素直に謝ろう。そう、少女は泣きそうになりながら考えたのだった。
「……ぁ、あ、あの……」
階段の横で華奢な体をした亜人の少女が、スカートを固く握って立っている。
「おや、起きたのかい。随分と疲れてたみたいだね。さ、今からごはん用意するからさ、ちょいと待っておくれよ」
「え、い、いや、あの、ご、ごめん、なさぃ……」
「ありゃ、ベッド濡らしちゃったかい? いやでも服は濡れてないし……、どうかしたのかい?」
「あ、えっと、ね、寝坊した、から、み、みんな起きてるじ、時間、に」
「へ?」
沈痛な面持ちで罰を待つ少女の瞳に、呆れたような女性の顔が映り込む。
あえて詰問はしなかったのだろう。返ってきた言葉は白々しいまでに平穏だった。それはまるで、言うべきことがあるのならば自らの口を開け、と問いかけているようだ。生涯で怒られるという経験をしてこなかった為に初手を間違えた。まず第一声で真摯に謝るべきだったのだ。時間は戻せまい。呆れられるのも致し方なかろう。
しかし、誰かに失望されるというのは、格別に辛いものなのだな……。
「フ、フフフッ、何言ってんだい、それでなんであんたが謝らなくちゃいけないんだい? 昨日も言ったじゃないか、あんたはお客さんだって。ここに馴染もうと頑張ってくれるのは嬉しいけどさ、それならまず、もっと太って心配されないようになりな。ほら、ちょうどお昼のごはん用意してたところだ、たんと食べな!」
「え? あ、あい……?」
ドンッ、と威勢のいい音を立てて、木製の器がテーブルの上に置かれる。
荒っぽく行儀のいい所作とは言い難いが、意気消沈していた少女には、それが自分への心遣いであることが理解できた。シャヴィという女性はそういう人間なのだ。
「まったく、あんたって子はつくづく健気だねえ。きっと根っこの所でそうなってんだろうね。その性格じゃ誰も叱ろうなんて気になれないよ。ただ一つ言うとすれば、痩せすぎだからもっと食べなってことかね。さ、あんたの分はチーズも付けといたから好きなだけ食べとくれよ」
「ち、ちぃ、ず……」
目の前に出された食事は、ここが森に囲まれた村であることを考慮すると驚かされるほど豊かである。器に注がれたスープは昨日食べたものと同一であるが、これが絶品である。また、現在、居候しているサリエン氏の家には大きな竈があり、それによって焼かれたであろうパンも机に並び、バターまで用意されている。チーズも用意されていることから、村では酪農が行われていると窺い知れる。そして、昨日も気になっていたことだが、バターやチーズを作れるということは塩を入手する方法が確立されているということだ。
3000年前の知識では、こういった田舎村、特にこれほど木々に囲まれた場所に暮らす人々の食事は塩に難儀するのが常だ。燃やした植物の灰を加えることで塩味を得たとも聞く。この様な場所で塩を得るとなると、塩を含んだ水を得られる井戸があるか、近くで岩塩が採れるのか。それならば、このような場所に人間が移り住んだというのにも納得がいく。泥炭から塩を得るには手間がかかりすぎて、日常の食卓に加えて加工品に回すほど作ろうとは思わないだろうからな。
尤も、行商人が塩を運んでくると、まず考えるのが適当なのだろうが、自分の敷地とも言える森に人間の文化圏が固く形成されていると考えたくないので、その回答は思考の外に置くことにしている。
「あれ、どうしたんだい? 食欲ないのかい?」
「い、いや、ぁ……」
少女はパンを齧りながら、チーズの浮かんだスープを見つめて固まっている。
長々と思考していたが、別に意味もなく考え事をしていたわけではない。ただ、現実逃避をしたくなったのだ。
……いや、チーズって……。だって牛の乳やぞ? いや山羊か? まあどっちでもええけど。バターはまだいける。食の主体ちゃうからね。でもチーズはあかんわ、主張が強すぎんねん。
「こ、これ、ち、ちぃずが……」
「ハハ、好き嫌いかい? 食べな」
「あぃ……え?」
これは所謂、母の姿、というやつなのだろうな。
少女は表情筋を凍り付かせたまま、目の前の女性が持つ厳しさについて思案した。
偉大なる我が母君は、こと育児に関しては甚だ無関心であった。故に叱られることなど一切なく、厳しさとは無縁の幼少期を過ごした。故に辛い。故に難しい。
舐めたわけではない。ふざけたわけでもない。ただ、人間の世は真面目に生きるだけでは駄目らしい。
「……ゕ、かく、ご、かん……りょ……ぅ」
「……え?」
少女は神妙な面持ちで黙々と食事を開始する。舌の感覚を消し去り、呼吸を止め、思考は封印した。ただチーズを胃の中に収納する作業に徹する。
「…………」
目の前の少女の変貌ぶりにシャヴィ・サリエンは戸惑った。バターやチーズは体を太らせてくれる健康的な食べ物なので、是非食べてもらいかったのだが、こんなにも難解な食事は見たことがない。食べれない体質なのか? とも考えたのだが、平然と口に運ぶ少女の姿を見るに、本当に好き嫌いなのだろう。さすがに食事は美味しく食べてほしいので、これだけ口に合わないのならば食事内容も考えねばならない。
それにしても、ただ一言強めに言っただけなんだけど……。
素直過ぎる、真面目過ぎる少女の扱いについて、シャヴィ・サリエンは頭を痛めるのだった。
空になった器を前に、少女は手を合わせて深く息を吐く。吐くだけ。吸わない。
「……ごち…そうさ、ま…でし、…た」
「あ、ああ、よく食べたね、えらかったよ。そんなにチーズが苦手だとは思わなくてね…ハ、ハハ……」
あたかも断頭台の前に立ったかの如き表情を崩さない少女を前に、間が持ちそうにないので話題を変えることにした。
「そ、そういえばさ、今日はどうするんだい? 家でゆっくり休んどくかい?」
「あ、門……、オ、オホネさ、まに、お、お供え、す、する」
「オホネ様かい?」
意外な答えに思わず聞き返す。
そういえばジルナート坊やは、オホネ様の前で少女と出会ったと言っていた気がする。なるほど、記憶の無い少女が最初に見るのはオホネ様、何かと聞けば村の守り神。何かしらの縁を感じても不思議じゃない。
「だったら、これとこれと……これも持っていきな。あたしは昼飯食べにくる奴らの相手しなきゃなんないからさ、あたしの分もお祈りしといてくんな」
これは……、桶に手拭いと鎌と……
「川で水汲んでオホネ様を拭ってやんな。雑草が伸びてたら刈って、綺麗な花が咲いてたらお供えするといいよ。あと、それは弁当だから」
「え、べ、べん、とう? で、でも……」
「ハハ、あんたの分じゃないよ。確かにあんたには太ってほしいけど、豚にはなって欲しくないからね。実はさ、今日はあたしの息子もオホネ様のとこにいるから届けてほしいのさ。暇があれば剣振り回してる奴だから、見ればすぐわかるよ。あと、一人で行くんじゃないよ。危ないからね。ジルナートが暇してるはずだから一緒に行きな」
「あい」
ジル……? ええと、誰だ?
少女が素直に戸惑っていると、背後から扉をノックする音が響いた。
「すみません、お邪魔しますシャヴィさん。ジルナートです」
ああ、こいつか。間のいい奴だな。探す手間が省けて感謝するぞ。
少女は、おとなしそうな相手にはそれなりに強気である。
「あら、早かったね。ちょっと待っとくれ、今用意するから」
「いえ、お気になさらず。僕がそちらの様子を見ときたかったので」
少女の方に視線を向け会釈すると、少女もぎこちない会釈を返す。
「ところで、その荷物はどこかへお出かけですか?」
「オホネ様のとこに行くんだってさ。あんたもついて行ってやりな。ほら、これはあんたの分」
「あ、どうも。オホネ様ですか。僕も気になっていたので、ちょうどよかったですね。あの辺りには、もしかしたら体の小さい者ならば通れるような抜け道があるのかもしれません」
「本当かい? あの辺りは森が深くなってるからねえ……。やっぱり、もっと大勢で行った方がいいんじゃないかい? あんたはちょっと頼りないからねえ」
「いえ、大丈夫ですよ。昨日から見回りは増やしていますが、これといった報告もありません。大型の魔獣が入り込むことは、まずないだろうとのことです」
「それならいんだけど……」
少女を見やるシャヴィおばさんからは、心配で仕方がないという思いがありありと伝わってくる。この家でなら、亜人の少女も問題なく過ごすことが出来るだろう。問題が全て片付いた訳ではないが、ジルナートは目の前の平穏に安堵を覚えた。おそらく、少女一人がひっそりと暮らす分には、村に大きな問題が生じることはないだろうから。村の者も華奢な亜人の少女ではなく、日々の食料や冬の備えを得ることの方がよほど問題であり、身近な脅威なのだ。
「それでは、おばさん、早速オホネ様のところまで行ってこようと思うのですが、かまいませんね?」
「あ、ああそうだね、いってらっしゃいジル。今日はこの娘もいるんだからさ、気を付けていくんだよ」
「はい、もちろんそのつもりです」
ジルナートは、心配そうなシャヴィおばさんの気持ちが変わらないうちに家を出ることにした。少女も用意万端だったので待ち惚けさせるのも悪いし、腹を空かせた友人に弁当を届けねばならない。なにより自身も腹を空かせている。別に、ここで温かい食事を食べてから赴いてもかまわないのだが、謙虚さを美徳とするジルナートは、なんとなく他の人に悪い気がして、いつも簡単な弁当で済ましている。
外に出るとジリジリとした日の光が肌を刺し、色を増した緑の匂いが初夏の空気を感じさせる。玄関前まで見送りに出るシャヴィおばさんに一礼し、物静かな少女に道すがら何を話そうか考えながら足を進める。心なしか昨日よりも沈んだ表情をしている少女の胸中には、一体どんな思いが交錯しているのか。それを窺い知る方法を自分は持たない。ただ、少女を助けてあげたいという気持ちはある。なんとなくだが、彼女を助けることが自分の成長に繋がる気がするのだ。彼女の持つ神秘性。それに少しでも近づいてみたい。
物憂げな少女は口を堅く閉ざしたまま、ジル何某と連れ歩く。体の奥底から広がる違和感に少女の顔は曇り、足取りも重い。胃の中に収めたチーズが、その香りを食道を伝って這い上がり、呼吸を困難にさせているのだ。
道中、ジル何某から何か尋ねられても簡単な返事や頷くことしかできず、ほぼほぼ無言のまま、目的地まで練り歩くことになるのであった。
お疲れさまでした。
また時間あるときに暇つぶししてな。