第五十三話 爪の無い鷹
いらっしゃい。
恐ろしいことです。本当に恐ろしいことです。読み返すたびに、見つかるのです。望まれぬ忌まわしき存在が。誤字が。何度読んでも見つかるのです。意味不明に挟まれた文章が。
ああ、恐ろしい……。
「ええ~……、へい、陛下に、おかれましては、ますますご清祥のこととお喜びも、申し……」
「ご清祥? おかしいな。余の顔色はそれほど良く見えたか? ついこの間、最も信頼する人間を失ったばかりなのだが」
王座から声が飛んだ。
大広間には王と白髪の男が一人。狼狽える男は蒼白な顔に玉の汗を浮かべ、口から吐き出すべき言葉を必死に考えた。
「…………すみません……」
「……よい、ヘイサー。ただの戯れだ。意地の悪いことをした。貴公も文書のやり取りの様な言葉を選ばなくてもよい」
「は、はあ……。あ! い、いえ、これは失礼、今のはその、咄嗟に言葉がで、出てこなかったためでありまして……!」
「ふ、そう固くなるな。余より十も貴公の方が年を取っているのだ。必要以上に遜る必要はない」
「恥ずかしながら、不才の身に年だけは重ねております」
白髪の男は重さの増したハンカチを額に当て、安心したように自虐の声を漏らした。
「……余と同じだな。授かった地位を分不相応に思いながらも、責任だけは果たそうと貴公が努力しているのは、何となくだが分かる。余も出来ることなら何もかも忘れ、息子と二人で……そうだな、貴公の治めるミルステックでのんびりと海でも眺めていたい」
「は、あ、いや、それは光栄な……、ええ~、あの、なんと申し上げれば……」
「その誤魔化せない言葉が聞きたいのだ。常日頃、器用に飾られた美辞麗句に囲まれていると、貴公の不器用さにはむしろ安心する」
「それは、なんとも……怪我の功名……ですかな? どんな形にせよ、私の様な者が陛下のお役に立てるのであれば、望外の喜びにございます」
男は自分の欠点を褒められたことに対し、素直に喜んだ。
その様子を見て、アマンドラ国王ハーシュタースは苦笑する。
男の名は、ヘイサー・ミルステック。アマンドラの南に接する土地の支配者、ミルステック方伯である。かつて、彼の先祖が不滅の宝玉を時の国王へ献上したことで、ミルステックの名と身に余る重責と闘う運命が授けられてしまった男。
そんな男の姿にハーシュタースは親しみを感じていた。
「それで、用件は何だ? ミルステックからとなると、次期教皇の事か? まだパラノティカ様は踏ん張っておられるが」
「……ええ、まるで今から死を期待しているようで気が進まないのですが、過去に多くの教皇を輩出してきたミルステックとしましては、魔術師団のアマンドラ滞在を伝統の義務として具申せねばなりません」
「分かっておる。大公も宮中伯も城伯も、皆ミルステックの真似事をしていたぞ」
「え、では、既に他の魔術師団が……?」
「案ずるな。全て断った。教皇を箔付けに利用するなど許されることではない」
「それは……はは、有難いというべきなのかどうか、いやはや、何だかミルステックだけズルをしているようで他の方々に申し訳ない気もしますな」
「それこそが魔術の発展に寄与してきたミルステックの役割というものだろう。それに対し、大公と城伯は論外だ。ヴァリエンテもベツェクオールも、そもそもの役割はアマンドラに迫る脅威を阻む壁となる事であったはず。教皇の出自が軍隊の後ろ盾になるようなことが有ってはならぬ。その意味では、セスカの魔術師達も今となってはアマンドラへ入れるわけにはいかん」
ハーシュタースは忌々しい貴族の顔を思い浮かべ、その表情に苦みを走らせた。
強大な軍を持つヴァリエンテとベツェクオールに権威を持たせるわけにはいかない。だから魔術師の受け入れを断った。道理は通る。
しかし、本当の理由はそうではない。
そうだ、ただ単純に気に入らなかったのだ。
たとえ善意であろうと、結果としてそれは、人の死にかこつけて自分達の有能さを誇示する結果となる。
愚かな王を選んだお前たちが、また働いたつもりでいたいのか?
心は曇る。こんなこと言えるはずもない。選ばれた王が優れていれば問題なかったのだから。分かってはいる。だが、それでも選帝侯の責任としてしまいたい思いは胸中から晴れない。その黒く濁った感情の向かう先は、目の前にいるヘイサーも例外ではない。
……考えるな。正当な理由があって諸侯の申し入れを断ったのだ。それでいい。それだけを考えればいい。
ハーシュタースは強張った表情を解くため、鼻からゆっくりと空気を吸い込み、深呼吸した。
「……」
ヘイサーは漂う空気の冷たさに、思わず息を呑んだ。小心者である彼は、日頃からそうした変化に聡かった。
アマンドラ国王がセスカ宮中伯を嫌っていることは公然の秘密である。目の前の変化も、話の内容がセスカにまで至ったことが最大の要因であると察せられた。そして、それが最大の要因でしかなく、目の前には見えない壁が確実に存在していることも知っていた。
「……ああ、すまない、話の途中であったな。このところ落ち込むことが多く、つい考え事をしてしまう。悩み事が一つ消えたと思えば、また新たに生まれる。困ったものだ」
「御心労、お察し致します」
「お互いにな」
再び空気が冷たさを増し、止まった。言葉の意味が理解出来なかった。
ヘイサーはまじろぐ事しか出来ず、込み上がる胃液をひたすら耐えた。
「ふ、すまんな。また意地の悪いことをした。誰にでも秘密はある。そうだろう?」
「は、はっ、企てといったものでは、ありませんし、私自身望む事でもありませんが、このような過分な地位におりますと、どうしても秘密保持の必要性が……」
「言ったであろう? ただの意地悪だ。個人的に貴公には親しみを抱いている。そして、悩み事が一つ消えたことに関しては気分が良いのも事実。久しぶりに会うのだ。無粋な話はやめておこう」
ハーシュタースは口角だけ上げて笑みを作った。
実のところ、彼は長く自身の不正義に悩まされていた。正式な軍隊を持っていないセスカの魔術師を受け入れなかった事に関しては、歴史伝統を鑑みても正当な理由が見つからず、私怨でしかなかったためである。それが今、セスカ宮中伯ラス・ミレスにはザッツカーク辺境伯の地位も任じている。順序は歪になってしまったが、過去の不正義を納得させることが出来たのである。
ただの誤魔化しによって自分を慰めているに過ぎないわけではあるが。
「さて、話は途中とは言ったが……、他に用件はあったか? マスティリオに花を手向けるというなら、夜の間に頼まねばならん。難しい立場になってしまってな」
「……そう、させて頂きます」
「互いに忙しい。格式ばったことで時間を取られる必要はない。貴公も苦手であろう」
「…………そう、させて、頂きます……」
「親しみを抱くためには、ある程度距離をとるのも必要だ。近すぎるとどうしても見たくないものが見える。疑いの目が向かうこともある。人間とは、失望をしたくも、されたくもないものだからな」
「……は、御忠告痛み入ります」
ヘイサーは一礼すると足早に大広間を後にした。王より先に部屋を出るべきではないとか、正式な作法は色々あった気がしたが、王は項垂れているし、そういう空気ではないので一刻も早い脱出を選択した。
はあ~……、やっぱり自分には荷が勝ちすぎるよ~……。白髪だらけになっちゃったし。
いつまで続くんだろうなあ……。やっぱ、死ぬまでかねえ……。
まあ、今日の仕事は終わり、終わり終わり。明日も頑張ろっか―。
「総督、例の集落とのコンタクトに成功しました。現在交渉中です」
「それはよい報せです。分かっているとは思いますが、担当者には丁重に接するよう言い聞かせなさい」
「はっ、部下には自身の首を覚悟して臨むよう厳重に伝えております」
「ならばよろしい。今後、我々には彼らの力が必要となります。成功の暁には、歴史書の記述から流血の二文字を減らし、インクの節約にも貢献する事でしょう」
ザッツカークの広大な草原に聳える城塞都市、十字城。現在は総督と呼ばれる男が統治していた。その男こそ、現セスカ宮中伯兼ザッツカーク辺境伯ラス・ミレスその人である。
前統治者であったスタイ家へ信奉が今なお厚いザッツカークにおいて、辺境伯とは即ちマスティリオ・スタイである。そして、宮中伯は最善を尽くしたと取るか、敵対した事実を取るか、評価の別れる人間の爵号となっている。その為、配下には総督とだけ呼ばせ、面倒な軋轢は避けるようにしていた。
「他には何かありますか?」
「は、セスカ出身者や警備兵にも厳罰を徹底し、規範を示すことで安定した秩序の構築に成功しております。反抗的な者も見受けられますが、気骨を示すには我らの横暴が足りぬようです。実直な民族性に助けられました」
「前任者の治世が良かったのでしょう。それで、問題の種は見つからなかったのですか?」
「は、予想通りネフレスクに動きはなく、ザッツカーク内においては問題なしであると。ただ、ベツェクオール内で病が流行しているようです。どのような経路で病が広がっているかは、現在調査中です」
「病ですか? それはいけません。伝染するものがザッツカーク内にまで広がれば、民衆の不安を煽り、不測の事態を連鎖させる可能性があります。ベツェクオールに書状を送ります。人の移動、物の移動を徹底的に管理しなさい。特に食料品は一時的な禁輸まで念頭に置き、事を調査するよう指示しなさい。それから、病が動物を介して広がっている可能性を考え、鼠や犬の侵入には特に気を付けるように。犬が原因であれば、野犬や狼を介してザッツカーク内にまで入り込んでいる可能性は十分に考えられます」
「は、はっ! 今すぐに専用の指揮系統を作り、調査人員の増加と防疫部隊の用意を伝達致します!」
命令を受けた男は一文字に口を結んだまま表情を凍り付かせ、慌ただしく部屋を飛び出してゆく。
「……大事にならなければよいですが。では、次」
報告のため部屋の中で順番待ちしていた男が立ち上がる。その顔は、先程のやり取りを見て自身のまとめた報告に不備がないか心配し、緊張しているようであった。
「は、ええ……、アマンドラ内で少し」
「何か動きが?」
「は、最近、魔王の元へ角の生えた長髪の男が出入りしているとの報告が」
「あの魔王の元へ、ですか? 妙ですね。我がミレス家の歴史にも魔王の元へ来客が現れたなどという情報はありません。メイエンヴィーク・トレストピア、ゼルネット・サヌトゥハ、彼の偉大なる魔法士二名を置いて魔王に近づこうとする者など皆無。それも、角が生えているというのは……。どうやってアマンドラ内まで我らの情報網に触れず入り込んだのかも含め、謎ですね」
「調査を進めたいところではありますが、人物が人物なだけに、王国内での行動であることも含め、これ以上の調査は危険が大きいと判断致します」
「それでよろしい。王宮内の動きを察知できただけでも上出来です。恐らく並々ならぬ人物でしょうから、下手に動いて気取られるのは面白くない。むしろ、今まで我々が気付かなかったにも拘わらず姿を見せたのですから、こちらから動かずとも再び情報を出してくれるかもしれません。悪し善し以前に思惑があるのかすら判然としない以上、今は待つしかありませんね」
ラスは潜在的な危険を感じつつ、実態の見えぬ脅威よりも目の前の問題に取り掛かることを優先した方が、どちらにせよ結果はよくなるだろうと判断した。
その答えを聞き、調査担当者は自身の判断が認められたことに胸を撫で下ろす。
「それと、王国内にミルステック方伯が訪れました。恐らくは魔術師団滞在許可のためかと」
「ヘイサー卿ですか。それで、王国内では何を?」
「は? あ、いえ、申し訳ありません! え、ええ、はい、方伯は王国内で特に動かず、です!」
「……ミルステックの情報は貴重です。ヘイサー卿の動きは最も注視すべき対象ですよ?」
「は、も、申し訳ありません。……しかし、あの、失礼ながら方伯はその……」
「小心者ですか?」
「……誉のある噂は聞きません。動きのない方伯を見張っていても、労力に見合った情報は得られぬのでは、と……」
総督の変わらぬ表情の中で、目だけがこちらに向き直したのを見て、答えるべき言葉を間違えたのだと悟る。後悔で魂だけが天を仰いだ。
「いいですか? 今、この大陸で最も不穏な動きがあるのはミルステックなのですよ?」
「は、そ、そうなのです、か?」
「毎年、南方の暗黒大陸調査に莫大な予算と人員を投じ、それによって生じた損失の大きさも知っていますね?」
「は、ええ、海流が複雑な上に変化も激しく、調査船の九割は到達することに失敗し、帰還出来る船は二割にも満たないと。ただ、これはミルステック家の使命として王に命ぜられたことでありますから……」
「ヘイサー卿は大勢の犠牲が出ることを承知で、王の命であるからと律義にミルステックの予算を湯水のように注ぎ、規模を増大し続けていると? 彼は大した肝の太さですね」
「……」
「ヘイサー卿は小心者ですが、道理はわきまえています。確かにある程度の犠牲は仕方ないでしょうが、それにしては度が過ぎる」
そこまで聞いたところで、調査報告者はミルステックの持つ不自然さに気付いた。
「まさか、方伯は実権を握っていない……?」
「……可能性の一つですね。ただし、あの土地は独自の信仰を持っていますから、彼の地の人々にとって暗黒大陸は妄執に足る何かがあるのかもしれません。あの土地から何が得られているのか。ヘイサー卿は心の奥底に狂信の火を灯しているのか。私はその二つの回答が欲しい」
「……は、は! ミルステックから王国に持ち込まれた献上品や、方伯の摂った食事、使用した寝具、市井にはびこる噂まで精査し、再度報告致します! 失礼致しました!」
先程退出した男と同じように、目を見開いて顔を凍り付かせた男が慌ただしく退出する。職場が同じであると、表情も似てくるらしい。その様子を見ていた次の報告者は口を一文字に結び、緊張で手を震わしていた。
「……寝具まで調べるのはやり過ぎな気もしますが、熱意は評価しましょう。では、次」
「ただ今戻りました」
「……ふむ。御苦労」
「……あの、やはり私には荷が勝ちすぎていると……」
「またか。確かにお前に才はない。だが、だからこそお前で良いのだヘイサー」
薄暗い部屋で男の影が答える。
部屋の中では怪しげな香が焚かれ、得体の知れない薬品が並び、名前も分からぬ四足獣の毛皮が床に敷かれている。部屋の隅で機能を停止した魔道人形がこちらを睨む。
慣れない。
ヘイサーは部屋の入り口で扉を開けたまま、それ以上部屋に入ろうとはしない。世間一般で老人に分類される年齢になりはしたが、この部屋に入ると、夜道を歩く童の様な心持ちにされる。
「お前は策謀を知らぬ。そして己が優れていないことを知っているにも拘らず、それを良しとして向上心がなく、功績を上げようなどという気もない。だから足元をすくわれることもない。最初から転んでいる者の足をすくおうとすれば、その行為は悪目立ちしてしまう」
「? あの、よく分かりませんが、今回は違うんです。陛下が私に疑いの目を向けていたんですよ。もう生きた心地がしなくて……」
「ふん、あの小僧には過去の亡霊がとりついているのだ。器量に会わぬ生き方に絶望が合わされば、目に見える全てに不信の影が付きまとう。そんな者が疑いを持ったところで、どうせ決断は下せぬ。自分自身が最も信じられぬのだからな」
「私も絶望しそうなんですが……」
「儂はお前の無能を大いに認め、期待している。そこに疑いの余地はない。だから大丈夫だ」
男の答えに、分かってはいたが、自分の務めは死ぬまで続くのだと再認識させられ、ヘイサーはがっくりと肩を落とした。
「やれやれ、儂の姿を見ろ。今の世で表舞台に立てると思うか?」
「……ですよねえ……」
「紛い物の神など、我らに祝福を授けはせん。我らにとって神とは、この世に魔術の恩寵を賜られたゼークムントただ一人。世界の在り方を示すためにも、ゼークムントの足跡を追い、魔術の深淵を究明せねばならん。今この間にも遠方で虐げられた同胞達は無念を胸に散ってゆくのだ。お前も生きている内に新たな世界を見たいとは思わんか?」
「いやあ……この年になると大きな変化はちょっと辛いかなあ……」
「……まったく、嘆かわしい。だったら今の立場に不満を言うでないわ。ああ、嘆かわしい。これが可愛い我が孫だとはな」
お疲れさまでした。
以前はどうやって書いていたのだろうか。一時間に二、三百文字しか進みませぬ。いや、きっと、本当に集中すればもっと書けると思うんだけど、世界の歩幅はあまりにも大きくて、僕を置き去りにして夕焼け空に宝石を撒いていくようんぬんかんぬんお粗末。




