第三十六話 恋魔
いらっしゃい。
中空を影が揺らめいていた。風雨に曝されようと、その場に漂い続けている。十日前から現れたそれは、まるで、その地の傘になったかの如く、近付くものを寄せ付けぬ威を発していた。
しかし、この日、影は空に縫い付けられたかの様に動きを停止していた。流れる雲を背に、一点を睨みつける。森の中から迫る、もののふの姿を。
長身の悪魔が村の正門前に降り立ち、舘兜の男と対峙する。
「貴方……ここへ再び来たということは、私、これが挑戦であると受け取りますが、よろしいですね?」
「久しいな友よ。お前と手合うに不足の無いよう、それなりに準備してきたつもりだ。さあ、共に始めよう、心行くまで強者の証明を」
「…………私、貴方が嫌いです。私はアンジェラ様の様に優しくはありません。暴力を誇る方には痛みと敗北を与え、歩むべき道を示しましょう」
「こちらはお前を好きになれそうだ。期待しているぞファルプニ」
男が剣を取り、兜で見えぬはずの顔に笑みを浮かべた。
「アルカハクさんでしたか。やはり、貴方は悪影響だ。この後ろには、愛すべき小さな子供達も住んでいるのです。貴方の存在自体が教育によろしくない。場を移しますよ」
ファルプニの周囲を風が渦巻き、空間が歪む。直後、背後が門に遮られて起こるはずのない突風がアルカハクを飲み込んだ。分厚い風のうねりがアルカハクを空中へ巻き上げ、後方へ押し流す。悪魔はそれを滑空して追いかける。
「どうしたのです? あなたは魔術が使えるのでしょう? こちらも加減が難しいのです、少しは構えなさい」
「これだけ離れたのなら、そろそろいいか?」
「……私を信用しているのですね。余裕ぶって見透かしたかのような態度、気に入りません。理解できぬ好意ほど気味の悪い物はない」
風が止み、ファルプニの周囲に無数の水球が生み出される。
「私の得意とする魔術は水と土。そう心得て大怪我をせぬよう努力なさい」
そう言うと、宙に浮かんだ水球がアルカハクに向け、水弾となって打ち出された。
対して、アルカハクは宙を高速で動き回り、照準を逸らす。成人男性を飲み込めるほどの水弾が躱され、後方の木々にぶつかり爆砕する。常人が当たれば、木のように大地に縛られていないとしても、即死の可能性を覚悟せねばならないだろう。
だが、アルカハクは無数の水弾を躱し、ファルプニに接近してみせた。かつてルヴナクヒエの剣を見切り、いなし続けた反応速度が水弾の間隙に体を潜り込ませる。全ての道が塞がれれば、剣で切り裂き、打ち払い、最低限のスペースを作り出して進んだ。
「全力を出しなさい! 私の目は誤魔化せません、貴方は己の肉体を試すことに固執している! 命は失えば、それで終わりなのですよ?!」
爆ぜた水弾が大気中に溶け、辺り一帯に霧が立ち込め始める。
すると、突如としてアルカハクの動きが鈍った。大気中の水分がアルカハクの手足を包み、水の鎖が縛り付けていた。液体故、振り解くことは容易い。しかし、いくら外そうとも、再び形を作り、纏わりついてくる。水の重さも加わってアルカハクの体捌きにも陰りが生じていた。
「ままならぬ、か。いいだろう、ファルプニ! お前のために用意した全てを使う、受け止めて見せろ!」
刹那、アルカハクの周囲に迫った水弾が全て切り裂かれ、纏わりついた水の鎖も弾かれる。白くなった視界が吹き払われ、アルカハクの姿を顕現させる。さらに、風を切る轟音がファルプニの背後から迫った。
「小賢しい、貴方の術は全て見切っている」
傍らに浮かべた水球を爆ぜさせる。すると、何もなかった空間に巨大な長剣が弾かれ旋回していた。いや、何も見えなかった空間に。
「貴方の術は、肉体強化と浮遊、さらに透過。それを自身だけでなく、万物を対象にとっている。全てを組み合わせた術の精度、これはもはや魔法と呼ぶべき高度な術です。大したものだと思いますよ。しかし、武人を気取っていた割に、陰湿……と言うべきでしょうか、小細工が過ぎますね。随分と優秀な師を持ったようですが、騙し討ちばかり教え込まれたのですか?」
「全てお見通しか、流石だファルプニ。私の魔術は確かに正々堂々とは言い難いかもしれん。だが、これは、不才の私が強者と立ち向かえるよう、魔術を磨いた結果だ。そして、私よりも強きお前に使うのだ、卑怯とは言うまい」
「……自分よりも強いと思っているのなら、戦うのをやめなさい。種明かしも終わったのですから」
「私は強き者に憧れる。お前に立ち向かい、見てみたいのだ。この全てを防ぎきって見せろ」
そう言うと、もはや意味を失くした透過の魔術を解いた。すると、アルカハクの周囲を鎧のように飛び交う短剣が姿を現す。そして――
「御し難い。本当に愚かだ。暴力の信奉者めが、もはや手心は加えんぞ」
空に黒点の群れが現れていた。遠目から見れば鳥の様に見える。だが、違う。
それらは全て刃であった。数多の剣や斧、鎌が飛び交っている。それも、人間の膂力では扱えぬ巨大なものや、刀身のみのもの、そもそも持ち手の存在せぬ円形の刃が混じった、不自然な光景であった。
膨大な刃の雨が、四方からファルプニに襲い掛かる。
水球を一斉に爆破し、それを跳ね返すが、断続的に飛来する刃には一時凌ぎにしかならない。迫りくる刃に、ファルプニは拡散した水を瞬時に引き寄せ、体の周囲を水の膜で覆う。高速で螺旋状に流れる水が刃をいなす。だが、質量の大きい物は勢いを殺しきれず、なおも体に迫り来る。
「……仕方ない。この異形を晒したくはなかったのですが」
硬質な音を響かせ、大剣が叩き落とされる。ファルプニの右手には、皮手袋を突き破る鋭利な爪が刀の如く伸びていた。
水の膜に喰い込んだ刃を全て払うと、ファルプニは攻めに転じた。アルカハクの万物浮遊は想像する以上に強力な魔法であった。このまま防戦一方では、いずれ受けきれぬ時が来ると判断したのだ。
ファルプニとて、全力を出しているわけではない。だが、リスクはあったし、力を使うこと自体に抵抗があった。それほど余裕があると言える状況ではなかったのである。
刃の雨が行く手を遮り、巨大な円刃が水膜を斬り飛ばす。アルカハクに接近する間も、水弾と水鎖で攻撃は続けているが、全て短剣によって斬り弾かれている。決着をつけるには、接近戦に持ち込む必要があった。
だが、四方どころか、空中では八方から攻撃が飛んでくる。前方の剣を払えば、後方から斧が迫り、上方では大鎌が首を欲していた。手間取れば質量の大きい巨大刃に水膜を破られる。であれば、選択肢は決まっていた。ファルプニは足元に特大の水球を作り爆ぜさせると、開いたスペースから地上へ滑るように降下した。
「その動きは予測済みだ、どう受ける?!」
ファルプニが地面に接近した瞬間、地中から鉄槍が針山の如く突き出され、水膜を貫く。
「小賢しいぞ! 言ったはずだ、私の得意とする魔術は水と土だと!」
勢いよく突き出された鉄槍は水膜を貫くが、それまでであった。鉄槍周りの土が盛り上がり、絡み取るように固まっていた。盛り上がった土はそのまま鉄槍を飲み込んでゆく。さらに、大地から岩石の巨腕が伸び、追跡する斧を掴み取った。
「そちらの武器には限りがある。観念なさい!」
「見くびるな! 接近戦を望んでいたのはこちらもだ!」
「なに……!?」
鉄槍に気を取られた隙に、遠距離攻撃に徹していたアルカハクが水弾の壁を突貫していた。
「一手遅れたか……!」
向かい来るアルカハクに並みならぬ自信を感じ取ったファルプニは、水膜では防ぎきれぬと判断し、急ぎ岩石の壁を作った。
岩石の壁に数多の刃が突き立つ。さらに周囲の木々に劣らぬ幅の大剣が突き刺さった。だが、それでも魔術で強化された岩石を貫くには威力が不足していた。壁はそのまま大地から半円上にせり上がり、アルカハクを覆い被さる。そして、岩石のドームによって閉じ込めた。
後は地下から水を流し入れればいい。これまでの攻撃であれば、壁を破ることは出来ない。しかし、ファルプニは躊躇し、半歩身を退いた。
これで終わるとは思えない。
アルカハクの自信に満ちた直線的な動きに不安を感じていた。
そして、その疑念が身を救った。
ファルプニが半歩身を引いた、ほんの一瞬の出来事であった。
岩壁が粉微塵に破砕される。漂う粉塵の中からは、貫き手が水膜を破り伸び、ファルプニの鼻先を掠めていた。
「貴……様……!」
「私が目指す強さは、剣士でも魔術師でもない。純然たる肉体の真髄を極めた拳闘士だ」
破れた水膜が復元し、腕を絡み取ろうとするが、アルカハクはそれよりも早く引き抜き、後ろに下がった。ファルプニは鼻から流れ出る血を拭い、左手の爪も皮手袋の内から解放した。
「なるほど、最も長けた魔術は万物浮遊ではなく、肉体強化であったということか。厄介だ。本当に骨が折れる。こんな男に折檻をせねばならないとは」
「ここからは削りあいだ。血を流し、魔力が尽きて地に伏すまで付き合って貰おう」
アルカハクが大地を蹴る。格闘は空中ではなく、地上でこそ真価を発揮する。炸裂した大地を推進力に変え、極限にまで加速された不可視の打撃を生み出す。
水膜を吹き飛ばし、受け止めた悪魔の長爪を軋ませる。さらに加えられた連撃が骨身にまで衝撃を加えた。ファルプニが咄嗟に返す爪の斬撃も見切り、その度に打撃を返す。
周囲に浮かべた水球の爆発と、捌ききれない極小の水弾連射によって手傷は負ったが、それでもなお闘いは有利に進められていた。
ファルプニは追い詰められている。地上での格闘戦は明らかに不利だった。それでも空中に逃れることは出来ない。飛び交う刃に飲まれ、こちらから決定打を与えることも難しくなる。
魔力量は格段に勝っていた。だが、闘争に対する意識が違っていた。一対一の勝負に拘ったことなどないし、そんな闘いを望んだこともない。故に、闘いにおける攻守の技術には、魔術以上に差の開きが存在していた。
アルカハクの体は血に塗れ、ファルプニはそれ以上のダメージを負っている。
交錯した打撃がファルプニの心臓を打ち揺らし、相打ち覚悟で放たれた水弾がアルカハクの兜をひしゃげる。
「ははっ! 美しいぞファルプニ! 私はお前に恋をしたぞ!!」
「な…………」
死闘の最中に発せられた突然の告白。
ファルプニには目の前の男が何から何まで理解できなかった。ひたすらに気味が悪かった。
「貴方、もしや頭にダメージが……?」
「ああ、今も脳が揺れたのを感じれるほどにくらくらしている。だが、それ以上にダメージを負ったお前が、私と同じ土俵に立ち、真正面から向き合っているのだ! これ程の感動と喜びはない、恋と言わずして何と言う!」
「理解出来ません。暴力に喜びを見出すその蛮性、やはり矯正せねばなりませんね」
「だが、本気は出さないのか? 殺さないよう力を押さえている」
「……貴方こそ妙な戦い方をしている。何故顔を避けて攻撃するのです?」
「それが私の矜持だ」
「…………本当に、気に入らない。私は生まれて初めて勝ちたいと思えてきたぞ、戦闘狂いのオークめが」
「そうか、流石だな。気付いていたのか」
アルカハクがひしゃげた兜を外す。
「私の名はアルカハク・サーキュレ。この間は兜を取らずに名乗り失礼した。人の国で生きるに、この牙は厄介なのだ」
兜の下には、白い肌に整った目鼻が添えられている。凛々しく閉じられた唇の端からは、人外の血を表出させた長き牙が零れていた。
「失礼なのは、そこじゃない。……それに、どんな醜き姿が隠されてるかと思えば、随分と綺麗な顔をしている。……貴方は、異形の私とは違う」
「? よく分からぬが、自信を持てファルプニ。お前は美しい」
「あ、あああ貴方の性的倒錯など聞いていません!!」
「何の話だ? まあいい。やる気を出してくれたようで何よりだ。さあ、続けるぞ」
この日、人間とオークの血を引く戦士は、悪魔より変態の二つ名を冠された。
無尽蔵のスタミナを持つ恋する変態戦士に、美しき悪魔がただひたすらに付き合わされている。無視すればそれで終わる話なのだが、激おこな悪魔は乗せられ易い上に、意外と付き合いも良かった。
死闘は続く。もはや闘いと言えるのかは分からない。
白昼響く恋物語であった。
お疲れさまでした。




