第三十四話 闘争の供物
ん、いらっしゃい。
太陽が頭上に煌めく山頂にて、そこに真昼の光を阻むものなく、そこには漠然とした青が広がるのみ。
一同が立つは、そんな場所のはずであった。
大穴の開いた山には、斜面を駆け降りる者達の姿がある。その背には段々と濃さを増す影が速度を上げて迫っていた。
アンジェラはルヴナクヒエの右脇に抱えられたまま、迫りくる影の主を見上げる。
竜が落ちてくる。
予想の三倍は巨大だったそれは、紛れもなく竜であった。想定外の事態に重ねて、想定外であった。もはや戦うなどという発想は頭から消え失せている。少女の脳は冷静に機能を停止していた。
もう、全部任せてもいいだろうか?
少女は竜の後方、太陽を背にした戦士の姿を瞳に捉え、何とかなってくれることを期待した。
リザーの一族は深き森の中、ただ静かに生きてきた。リザードマンはあらゆる種族の中でも異質であった。種族の特性として、生まれつき莫大な魔力を有し、長大な寿命を持つ。この世に生を受けた時点で強者であった。
故に群れる必要もない。故に目的もない。かつては強大なエルフやオークを相手に闘いの日々を送っていたとも聞く。しかし、今となってはリザードマンに立ち向かう者はいない。
満たすものなき生にどれ程の価値があるというのか。一族は長き命を持て余し、何かを為すこともなく、ひっそりとその生を枯らしていた。
そんな無為な時を幾千夜繰り返していた最中の事であった。
男が尋ねてきた。鱗はないが、我らと同じく角を生やした男だ。ぎこちない声で挨拶をしてくる。
このようなことは初めてであった。我ら鱗の一族は他種族から見れば異質であり、近付こうとする者など皆無であった。言葉をかけられたとなれば、なおさらだ。
どうやって言葉を覚えたのかはどうだっていい。外に出た同胞から教わったのか、密かに観察されていたのか。そんなことよりも、わざわざ言葉を覚えて接触してきたということが重要なのだ。森の奥で静かに暮らす我らと敵対する必要性などないのだから、その意味する方向は決まっている。
男は我らに求めた。兵となり戦ってほしいと。
見返りなど、どうでもよかった。ただ、無為に散っていく命に意味を持たせられるのならば、それは、至上の導きに違いなかった。
それに、純粋な興味があった。男は宙に浮かび接近してきた。それは、かつて先祖が見たという竜や天使の用いた術法ではなかろうか。外の世界は大きく姿形を変えているのかもしれない。
我らが外を往かば災いとなる。だが、世界の形が変わったというならば、我らを受け入れてくれるかもしれない。
ならば往こう。男の求めに応じ、存分に腕を振るおう。
その日、悠久の時を経て、リザードマンが陽の下を歩み始めた。
そして、完膚なきまでの敗北を喫した。
リザーは考える。竜は太古から存在する力の象徴であった。一族も闘った経験はない。竜は強敵である。勝てるであろうか?
全身の筋肉に力を込め、無理やり姿勢を制御する。竜の頭骨に叩きつけた戦斧を翻し、落下する竜の尾を掴んだ。
考えるまでもない。あの男を打倒するために磨いてきた、この力。
たとえ神獣であろうと負ける道理などありはしない!
その時、空を見上げる者の瞳に異様な光景が映る。
大地に激突せんとした竜の体が中空に跳ね戻ったのだ。山を駆け降りていた皆が思わず足を止め、呆然と空を見上げた。
そして、その現象を起こしたであろう影に視線が至るも、直後に鳴り響いた轟音に再び地を駆けた。
竜の尾を掴み、体を引き上げたリザーは、竜の頭骨に再び戦斧の一撃を加えていた。戦斧の柄が軋むのを感じる。かつて、戦争に傭兵として赴いた時に礼として賜った、魔法で強化された一品。それが軋むほどに、力を、怒りを込めていた。
リザーの脳裏には、かつて闘った男の姿が焼き付いている。
英雄メイエンヴィーク。二度と再戦すること敵わぬ、最強の男。
あの者に敗北したにも拘らず、傭兵の礼として戦斧と鎧を賜り、感謝された。何たる恥か。情けない。申し訳ない。屈辱だ。この思いは、決して忘れることがないだろう。いや、忘れてたまるものか。
それからは、生まれて初めて喫した敗北を塗り潰すために、ひたすらに研鑽を続けてきた。だというのに、人間の命は儚かった。もはや、天寿を全うしようなどという気はさらさらない。メイエンヴィークよりも強き存在を探し、強大な魔獣を狩りもした。だが、当然ながら、その強さは遠く及ばなかった。
何が南の森の主を屠った勇者だ! この名、この戦斧、この白銀の鎧。これは、我が恥の象徴、戒めなのだ!
リザーは憤怒する。
幸運にも、その恥を雪ぐ機会を得ることが出来た。そう思っていたというのに。
竜とは力の象徴ではなかったのか?
その巨体を目にしたとき、どれ程心躍ったことか。だが、今対峙して抱く感情は失望と怒りだ。一切の脅威を感じない。
意志なき獣など、闘いの土俵にすら立っていないのだ。
だが、もし、完全体で意識があったとすれば、良き闘いとなったのであろうか?
……惜しくはある。しかし、我が友エダーの求めを違えるわけにはいかぬのだ。それに、たとえ完全体であったとしても、メイエンヴィークに勝る力があるとも思えん。
リザーは心の矛盾を押し込めたまま、怒りに任せて戦う。
彼は敗北したかった。
彼は悟っていた。未だ己の力はメイエンヴィークに遠く及ばぬであろうことを。
彼はメイエンヴィークに敗北して死にたかった。
自分に勝った男が先に死んだことが許せない。
自分は弱いのに天寿を全うするなど、もっと許せない。
大地に叩きつけられた竜に、さらなる追撃を加える。振るった戦斧に込められた思いは、怒りであり、願いであった。
大地に響く衝撃に、ルヴナクヒエは足を止め、姿勢を低く伏せていた。闘いの規模が大きすぎて、もはや安全な場所など存在しない。竜の巨体が動けば、そこが危険地帯なのだ。
「剣じゃどうしようもねえ相手、か。まったく、嫌になるな。化け物の戦いは」
「えらく冷静じゃねえか。だけどよ、もっと離れたほうがいいんじゃねえのか? ありゃ、俺達じゃどうしようもねえぞ」
「こちとら山道は慣れてねーんだよ。地面が揺れてる中で下手に動くと滑り落ちるし、洞窟に逃げても崩れるかもしれねえ。なにより、危険な存在から目を離したら、もうそれ以上対処のしようがないだろ。震えて神に祈るか?」
「言いたいことは分かるがよお……。はあ、大した奴だよあんたは」
自分よりも一回りは年下であろう青年に、メヒヤーは素直な敬意を抱いた。傍らで放心状態になっている少女を、自らの手で守り切るという決意が見えたから。
「しっかし、どうせなら穴に落としてくれんかなあ……。もう、あのリザーのあんちゃんに任せるしかないんだろうしよ。っていうか、もう死んでるんじゃないのか? 竜はよお」
「い、いえ、竜様の魂は未だ強き力を発しております」
予想していない方向からの声は、思いの外、心臓に負担をかける。
首の筋が伸びる勢いで振り向くと、そこには姿勢を低くしたナズフの姿があった。
「……どうも。あんたはここにいていいのかい? オーク達の安全を確認したりとか、色々あるだろ?」
「オークは皆鍛えておりますから、大丈夫でしょう。それよりも、領主様の身に何かあっては、わしの命を差し出しても詫び切れませぬ。さあ、ここはわしらが盾となります。その間に、遠く離れた場所へ――」
何かが爆ぜるような音がした。
その直後、何かが風切り音を立てて飛来し、前方で槍を構えていた岩石兵を吹き飛ばした。
「よりによってこっちに来たか。どうする、大将? オークの皆さんを盾にして逃げるかい?」
少女は呼びかける声に顔を向けた。そこには見慣れた顔があった。辺りを見渡すと、オークがこちらに集まり始めている。前方ではリザーが首を鳴らしながら立ち上がり、再び竜に向かっていた。
少女は我に返った。
私は何をしているのだ。私は、ここに何をしに来た?
決まっている。オークに3000年前の恩を返したかったのだ。それがこの様か!
少女は立ち上がる。
「み、みみみんな、あ、危ない、の、は、駄目」
自分は荒事が苦手だからと、戦闘の得意なリザーに全てを任せてしまった。
「それは、どういう……?」
自分が呆けている間も、目の前ではリザーが血を流している。
「じ、時間が、惜しいか、ら、さ、下がっ、て」
何をすればいいのかは分からない。でも、自分には力がある。ファルプニみたいに自分の力をうまく使えていれば、きっとみんなはもっと安全で、リザーも血を流さずに済んだはずだ。
「し、しかし。領主様……」
「領主様の言葉だ。従っときな」
「う、く……分かりました。……皆の衆! 下がれ、避難せよ! 領主様の思いを無下にしてはならん、走れ!!」
自分達よりも小さき少女の姿を背に、オーク達は遠のいてゆく。
「ガキんちょ、俺の事情は分かるな? 時間が惜しいからそれ以上は言わねえぜ」
アンジェラは何も言わず、頷いた。
一番守りたい相手だから、逃げてほしかった。だけど、いつもと変わらぬ態度の友人は、何故だか頼もしくて、何よりも勇気が湧いた。
土埃が舞う。轟音が響く。大地が揺れる。
目前では現在進行形で死闘が繰り広げられている。
戦いはリザーが優勢だ。しかし、竜は敵対者を認識して動きが激しくなっている。勝てるとしても、その体が無事だとは限らない。
「お前、何で逃げてねーんだ?」
「……逃げてえよ。だけど、俺はあんたに死なれたくないんだよ」
「そうかい、恰好つけるには男一人の方が様になるんだがな」
メヒヤーの顔は汗に濡れていた。
アンジェラは思う。自分の為そうとしていること、それはルヴナクヒエとメヒヤーも同じなのだ。
誰かを死なせないということ。
ならば、やる事は分かる。
皆を守る。ただそれだけ。
戦い方は思いつかないが、それならば、きっと体が動いてくれるはずだ。
きっと守ってみせる。
竜は追い詰められていた。竜の不完全な体は鱗や皮膚が欠損し、弱点を露にしている。鎧を纏ったリザーとでは、蓄積したダメージの差は歴然であった。
だが、暴走した魂は痛みを無視して荒ぶる力を撒き散らす。
大穴の淵が幾か所も崩れ落ち、、山の欠片が巨岩の飛礫となって舞い上がる。
アンジェラは、それを風魔術によって方向を逸らし、土魔術によって受け止めた。
戦いはリザーが優勢なのだ。守り続ければ勝ってくれる。援護できないのは申し訳なく思うが、こちらに竜の注意を引き付けるわけにはいかない。
どうか、このまま――
突風が吹き、砂塵が舞い上がった。
ほんの一瞬だけ、視界が奪われた。
砂埃に巨影が差す。
眼前では竜の尾が天高く上がり、空を貫く柱を作っていた。
巨体が鞭のようにしなる。
空気が一瞬で圧搾され、震えて爆ぜる。
咄嗟に戦斧で守りを固めたリザーに尾の先端が直撃した。
リザーの体が不自然な速度で真後ろに飛び、大地を削る。
そして、竜は敵対者へさらなる追撃を加えんと、振り下ろした尾の勢いそのままに、巨体を中空に踊らせた。
リザーの吹き飛ばされた場所、それはアンジェラの目の前であった。
「逃げろっ!!」
ルヴナクヒエがアンジェラの前に出て構えた。
だめだ。それは、だめだ。
竜の巨体が迫る。
時の流れがゆっくりと感ぜられた。
少女は無意識であった。己の前に立つルヴナクヒエの姿を見て、咄嗟に魔力領域から黒色の宝剣を引き抜き、竜へ向かって宙を駆けた。
視界の端に驚く友人の顔が見えた。
私は何をしているのだろうか。あの巨体を止めるには、剣よりも魔法を使うべきだろうに。
私の体で止められるだろうか。きっと無事では済まないな。
少女は己の行動が最善だとは思わない。だが、決して間違っていたとも思えなかった。
覚悟は自然と出来ていた。
お疲れさまでしたはぁん。




