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名前のない悪魔  作者: ジレスメ
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第三十二話 終点にて

 いらっしゃい。

 濛々と焚火の煙が舞い上がり、導かれるように天井に空いた穴へ吸い込まれてゆく。日の落ちた暗色の空に一筋の煙が柱を作り、星の光を目指して駆けていた。


 どうしたらいいんだろう?


 少女は前方にいるであろう老人へかける言葉を持ち合わせていなかった。目線を下げる勇気も当然なかった。そもそも、状況がよく分かっていなかった。


「領主様……、本来ならば、わしの方から挨拶に向かわねばならぬところを、このようなわがままにて、ご足労掛けることと相なりました……。この老いぼれの身にも、忸怩たる思いが染み入ります……。されど、その一方で、恥知らずとは思いますが、体の奥底から喜びが湧き上がってくるのです。領主様、よくぞ来てくださいました……! 感謝の度合いを示せる言葉など見つかろうはずもありませぬ。この時まで醜くも生き永らえてきた理由が、ようやく見つかった気が致します……」


 そっと顔を上げると、天を仰ぐ少女の姿が目に映った。焚火の光に照らされて明暗の影を纏った顔は、泣いているようであり、笑っているようでもあった。まるで静寂の世界に天意が姿を為した彫像の如く、生物と無機物の両方の性質を想起させる存在感は、老人の心に神性を照らした。


 アンジェラは困惑する。極度の緊張で腹筋が痙攣するのを必死で抑えながら、目を動かさずに視野だけ広く意識すると、老人の目に光るものが見えた。領主が来たのでオークの長老が挨拶に来たということは分かる。だが、目の前の光景は度が過ぎる。想定の範囲外であって、理解を超えた。お手上げである。

 アンジェラは思う。もし、ファルプニがいたら、話は私が聞きます、とか、顔を上げなさい、アンジェラ様がお困りですよ、とか言ってくれるんだろうな、と。

 留守番を頼んだ自分の言葉が頭を巡る。少女の思考はもはや過去へ向いていた。


 ファルプニはん……、あたしゃ辛いよ。あんたは今頃、村で食事でもしとるんやろかな? いや、真面目そうやし、律義に見張りでもやっとるんかもしれへんな。




「アンジェラ様、私は貴女様に賜った使命、一切の抜かりなく果たしてみせますよ」


 クリモリ村の上空では、アンジェラ達が旅立って以後、一つの影が漂い続けていた。


 極小の鼠でさえ補足してみせる。


 ファルプニは、今日も村の安全のために空から監視している。小さき主が無事に帰還するその日まで。




 今更やけど、そんな気張らんでええからね。


 アンジェラは焦りがオーバフローした結果、何だか優しい気分になっていた。思考が止まると心が落ち着いたと誤認して、頭は真っ白だが、とりあえずは冷静になるのだ。


「そ、そそんな、ひ、膝を、つけなくて、も、わ、わ、わわわ私はき、気にしませんか、ら、ど、どうか、わ、私なんか、に、畏まらな、ないでくださ、い」

「おお……領主様……、なんと……」


 オークの長老は言葉を失った。不思議な響きで降りかかった言葉は、己の心にはっきりと慈悲の二文字を刻みつけたのだから。

 何故だろう。前に立っているだけで、自然と笑いたくなる。まるで少年のように。おかしな話だ。この老いさらばえた体で、こんな小さな子に聖母の如き情念を抱いているとは。


 ちなみに、長老の目は老眼と涙が合わさって、少女の姿はぼんやりとしか見えていない。ただ、少女のシルエットと、リザードマンに匹敵する魔力量を感じ取ったことで、イメージが勝手に構築されていた。実際はどうかなどお構いなしに、現実の方をイメージに摺り寄せているのだ。

 自身が領主になれなかった責任を感じていたこともあって、長老にとっては、念願の領主が現れた上に、見た目がか弱き少女とくれば、もはや神の使いとしか思えぬのも道理であった。


「あ、あのぉ……」


 あぁ……、すっごい恥ずかしい。少女は顔の火照りを感じ、汗を流す。

 衆人環視に晒されているのたまらんが、こう、何と言いますか、明らかに目上の方が自分に対して跪いて涙を流しているのですよ? なんか、よく分からんけど恥ずかしくなってくるんですよ。分かりますかなあ。

 はあー、あっつい。顔赤くなってるやろな。ああ、あかん、汗が垂れてる。周りに見られてんのに止まらへん。下向いたら汗が落ちてばれるし、とりあえず、顔を手で拭こう。うわあ、手びっちゃびちゃや……。もうあかん、下向くしかない。でも、もう顔上げられへんで。明らかに顔濡れてますもん。ああ~、考えたら余計に汗があ……。


 長老が異変に気付く。少女の呼びかける声が聞こえた気がしたので、涙を拭い目の焦点を合わせると、小さな聖母が俯いていた。


「領主様、どうなされ……」


 その時、何が起きたのか、長老は完璧に把握した。


 顔を覆う少女の手からつたい落ちる玉の雫。


 領主様は、このちっぽけな老人にして憐憫の情を抱き、涙を流しているのだ!


挿絵(By みてみん)


「領主様あ! わしは、わしは、生まれてこれ程の優しさに触れたことは、嬉しいと感じたことはあぁあああ! うぅ、う、うぉおおあああああああ!!」


 長老は号泣した。1000年前、母に負われて泣いていた童のように。


 少女は立ち尽くす。汗で髪の毛も濡れ果てて。


「うぅ、う、あああああ、あぁ、あぁ、う、わあああああああああああ!!」


 長老、もういい。


 私を、殺せ。




「いやあ、これは、失礼を致しましたな」


 オークの長老がにこやかな表情で話しかける。その言葉の音は晴々とした心を映すように、軽やかに聞く者の耳を駆けた。


 結局、アンジェラは食事を口にすることが出来なかった。泣きじゃくる長老は話せる状態ではなく、他の者に連れ添われて別室送りとなったのだが、その後が真の試練であった。広場は異様な空気で静まり返り、食器を置く音が響き渡るほど、誰も口を開かなかった。明らかに場内全員の思いが自分に向けられている。そんな状態では、身動き一つとれないし、衣擦れの音を出すことさえ躊躇われた。


「聞けば、お食事に全然手を付けておられなかったと……。領主様、わしのことなど、気になさらずともよかったのですよ? 旅で疲れた体に食事も摂らずでは、お体に障ります。今、郷一番の料理上手にとびっきりのものを作るよう命じておりますから、少々お待ちくだされ」

「あ、あい……あいあい…………」


 憔悴しきった少女の髪には、若干の塩が浮いていた。郷に来るまでの道中、一切汗を掻かなかった少女が、今になって何故か同行した者の中で最も汗を掻く結果となった。


 ああ、脳裏に焼き付いて離れない。異様なものを見る鬼達の視線、急に畏まりだすオーク達、同情するバランの顔、場の雰囲気がツボに入ってちょっと笑いを堪えているルヴナクヒエ。

 ごめんなさい。でも、私のせいちゃうし、でも、ごめんなさい。申し訳ない。すみませんすみません、本当にごめんなさい、死にたい。


「わしは、この地でただひたすらに平穏を望み、竜様のため、郷のため、尽くしてきたつもりです。されど、一族の中で特別に魔力を多く持って生まれたにも拘らず、呪われた地では領主になることは叶わなかった。力を与えられても、その能を活かせなかったのです。わしでは、皆に安心を与えること出来ない。そんな中、あなた様を見つけたのです。わしは理解しました。わしの力は、領主になるためにあるのではなかった。あなた様を見つけ出すために与えられたのだと」


 あ、ちょっと私のせいかもしれない。


「……い、いやぁ、わ、わわわ私は、そ、そんな大した、者では……。ち、ちょ、ちょちょ長老様のほ、方が、が、頑張って、おられる、と……」

「おお……、領主様の優しきお言葉が頂けて、積年の苦労はたった今報われました。これからは、竜様と等しき忠をあなた様に捧げたく思います」

「……ぐ、ひ、ふ、ふふ…………」


 長老、やってくれるやないか。これまで会った誰よりも私を追い込んでいる。ほんま、やるわ……。


「なあ、お話し中悪いんだけどよ、聞きたいことがあんだが」

「おお、なんですかな、お連れの方よ」


 ルヴナクヒエが助け舟を出す。いや、そういう意図があったのかは知らないが、とにかく、私にとっては、天の助けであったのだ。ありがとう、心の友よ。


「まず、質問する前に礼儀として名乗っとくぜ。俺の名はルヴナクヒエ・サリエンだ。あんたは?」

「いえ、わしの名など些事でありますから……。御耳汚しで覚える必要など……」

「……なあ、あんたはここで敬われてんだろ? だったら郷の奴らの為にも、余所者には堂々とした方がいい。誰も意見する奴がいないんだろうけど、うちの大将も遜りすぎるのは好きじゃないと思うぜ」

「そ、それは失礼しましたな! わしはナズフ。ネームレス一族のナズフでございます」


 ん? 呼んだ?


「ネームレス? 変わった名前だな」

「はは、元々わしらオークは家の名を持ちませんでしたから、ぴったりの名ですわい。それに、この名は先祖が仕えた偉大な御方より名乗ることを許されたものです。誇りを持っております」


 ちょ、長老あんた、父様の名を……。

 あたしゃあんたを見直したよ……、ナズフさん、あんたは最高だよ……。


「名を大事にするのは良いこった。ちょっと見直したぜ。だが、だったら名乗る時は、なおさら遜るべきじゃないな」


 対して、君は友達やし、言ってることの内容も感心するけど、年上と話す時くらいは言葉を丁寧にした方がええと思うわ。


「それでナズフさんよ、竜ってのは、今どこにいて、今……、あー、大丈夫なのか?」

「竜様ですな。それは……、おっと、食事が来たようですな。領主様、お食事中に話を続けてもよろしいでしょうか?」

「ん? え、あ、あい」


 一々忠誠を感じる。もしかしたら父様も結構苦労したのかもしれんな。おっと、温かいスープや。広場で見たのより、なんか手が込んでる気がするな。あれ、この肉大きくね? ネズミちゃうんか?


「さて、竜様ですが、実はこの洞窟の中におられるのです」

「はあ!?」


 ルヴナクヒエの目つきが変わる。


「あのー、言ってませんでしたけど、実はメヘトがこの奥で大きな魔力を感知していたんですよね」

「何で言わねえんだよ」

「んー、そういうのは、郷の方から聞くべきかなと。余所者が事前に知っていたら、勝手に探ったみたいで感じ悪いじゃないですか」

「ん、ぐ、……そうだな。知っててとぼけんのは、くだらねえからな。年長者の意見は尊重するぜ」

「はは、魔術師様にお気遣い頂けたようですな。この洞窟の奥には、山頂まで通ずる大きな竪穴があるのです。その穴の奥底に竜様は眠っておられます」

「穴の底……?」

「や、それは、厄介かもしれませんね~」

「……竜様は眠っていて動けない。それでも、わしらだけでは不安だった理由が分かりましたかな?」


 隣では話が深まっている。穴の底とか言ってたが、どれくらいの深さがあるんだ? 竜が寝床とするために掘ったのか、自然に出来たものなのかは知らないが、どちらにせよ、想像もつかん深さの可能性がある。幅もそれなりにあるとして、……底に辿り着けるのだろうか? 

 それにしても、美味い。肉、旨い。油に甘みがある。スープに溶けてなお柔らかさを残し、噛み切る度に幸せな満足感が染み出してくる。何よりも、溶け出した旨味がスープの味全体を引き上げているのが分かる。とびっきりだとか言ってたし、よく肥えた良質なネズミだったのであろうな。


「底に行くための道はあるのか? それに深さによっちゃ明かりも用意しないと駄目だろ。それも、十分な明かりじゃねえと薄暗い中で竜が目覚めたら大混乱だぞ」

「そもそも、竜様に関してはわしらに責任があります。わしらだけで底に向かい、仕損じた際の備えとして、穴から出てきた竜様を鬼とあなた方で対処して頂きたいのです」

「つまり……、殺すんだな?」

「……ええ、竜様は死しても魂は不滅。再び蘇りますれば……」

「んー、僕は~、殺すのは気が進まないですねえ……」

「竜様の身を案じてくださり、感謝致します……。これも魂が完全に蘇ってくだされば、こんなことはせずとも……」


 ナズフの言葉には無念の色が混じる。やはり自分達の神に手をかけるのは抵抗があるのだろう。ルヴナクヒエにも、誰かを守るために相手を殺すという覚悟はあった。だが、己が慕う相手を殺す覚悟など出来るはずがない。

 他のオークよりも濃い肌の色と長い牙を持つナズフに対し、ルヴナクヒエは人間よりも高潔な信念と決意を見た。


「しかし、暗い穴の底にオークだけで行ったとして、本当にやれるのか?」

「……正直言って分かりませぬ。しかし、わしらも、元々は戦闘を生業とする部族でありましたから、皆戦う術は知っております。それに今は領主様の加護もある。竜様も体は不完全で、攻撃を弾く鱗も欠けております。眠っている間に鎖で縛り、一斉に急所を狙えば、成功の算段は高いかと」

「やるべきことは分かってるって感じだな。それで、決行はいつになるんだ?」

「明後日を、そう、わしらは考えております。明日は皆で集まり、再び計画をよく話し合うつもりでございます。それでよろしいでしょうか、領主様?」

「は、え、あ、え? いや、おいし……、あ、あい、い、いいいと、お、思いま、す」


 どうやら彼は奇襲が上手いようだ。


「どうした、ガキ……、大将。眠いのか? 話し合いは明日すんだから、今日はこのへんでいんじゃないかナズフさん。子供と年寄りに夜更かしは厳禁だろ」

「はっは、その通りですな。お疲れの領主様を煩わせるわけにはいかん。わしも部屋に帰って横になるとしますわい」

「昼に寝ちまったが、俺も夢の中に付き合うとするか。それと、大将の名はアンジェラだ」

「おお、アンジェラ様……。感謝致します剣士様。良き話し合いが出来ました」

「あ、僕はバランです。この子はメヘト」

「感謝致します魔術師様。聞けば、あなたは村の出ではないにも関わらず来てくださったと聞いております。御恩は忘れませぬ」

「あ、すみません呼び止めちゃって。それでは、また明日よろしくお願いします~」

「こちらこそお願いします。……それでは、私はこれで。領主様、食べ終えた食器は部屋の前に置いてくだされば、片づけますので、ゆっくりおくつろぎください」

「は、あ、あいぃひ!」


 くそ、不意打ちが来ることは分かっていた。流れは読めていたのだ。しかし、意識しすぎることで却って声が上ずった。礼儀に溺れたか、アンジェラ。礼儀は行うものではない、心に宿るものだ。未熟者めが!


 オークの長老ナズフに心の敗走を喫した夜、肉を平らげたスープを飲み干し、己の浅はかさを自問した。十分で寝た。




「なあ、ルヴナクヒエよお」

「どうした? さっきもずっと黙ってたが」


 全く眠くなかったルヴナクヒエは、メヒヤーと外に出て夜風に当たっていた。


「エイゼックから聞いたんだがよ、鬼が何であんなに沢山来たか分かるか?」

「質問は答え知ってる方がするもんじゃねえと思うぜ。要点を言いな」

「つれねえな。まあいい。前にマスティリオ・スタイの名前出しただろ」

「お前は知ってるか濁してたがな」

「俺に関しては今更だろ。で、だ。そのマスティリオ卿、つまりはザッツカーク辺境伯は、鬼の国に睨みを利かせてて、鬼は下手に動けない筈なんだよ。だが実際には、ここに戦闘に長けた奴を百人も寄こしてるわけだ」

「ザッツカークに何かあったのか?」

「ああ、その通りだ。事の発端は辺境伯にあるんだがな」


 メヒヤーは西の方角を眺めながら、吐き出すように語る。


「ザッツカークは今、ヴァリエンテ大公を総大将にした、セスカ、ベツェクオールの連合軍に攻撃されてる」

「お前の言ってた戦争ってのは、それか」

「ああ、原因は辺境伯がザッツカークを通るベツェクオール城伯を捕えて磔にしたからだ」

「……」

「理由は旧ナーデンゲルム伯バルメニヒト・サリエンを陥れたため。そして、その証拠を掴んだから断罪したんだと」


 夜風に沈黙が混じり、予想が当たっていたことを悟る。


「あんたの親父だろ。あんた達が森に落ち延びる前の出来事に、辺境伯が決着つけたんだ」

「……それで、戦況はどうなんだ?」

「絶望的だ。大公が友人の敵討ちに大軍を出してる。戦力に差がありすぎる。今頃包囲されてるかもしれねえって話だ」

「……やっぱり、俺が知っても、どうにもならねえ情報だったな」

「そうだろうな」

「それに、お前がここに来たがった理由も合点がいったぜ」

「……そうだろうな」


 二人の男は長い沈黙の中、立ち尽くした。


 見上げれば山の頂はすぐそこにある。空には星も見えた。

 しかし、月明かりは地の端を照らさず、夜風は戦場の音を届けてはくれなかった。

 お疲れさまでした。

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