第三話 忘却の羊
よく来たね。
「お、お嬢ちゃん、一体どこから来たんだい?」
老人が尋ねてくる。外見の特徴から言って、まず間違いなく人間なのだろうな。
悪魔の少女は高速で思考を回転させ、状況を打破する方法を考える。だが、動揺は隠しきれない。思考は乱れ、ただ、ただ一つの感想に思いが逸れてしまう。
どうしてこんなことに……と。
館の正面に人間の村があった。
驚きのあまり硬直した。冷静になるため、少し考え込んだ。
いつの間にか、人間が横から近付いてきた。
以上、回想終了である。
どうしてもくそもあるか! あんなでかい音立てりゃ誰だって確かめに来るわ! それに加えて、自分の持つ時間間隔が狂っていることに思いが至らなかった。少しだけ考えるつもりが、だいぶフリーズしていたらしい。いわゆるぼっ立ちだな。
「お嬢ちゃん、お家が何処か分からないのかい?」
「カレフさん、この嬢ちゃんは鬼の子供……なんですかね?」
「そうなんじゃろうかのぅ。だから言葉が通じないのかもしれんのう」
鬼、とは人間が角の生えた亜人に対して使う呼称であったか。当たらずも遠からずといったところか。いや、悪魔自体の定義があやふやだから正解でいいのかもしれん。
まぁ、それは今はいい。問題は目の前の人間達が私に対して言葉が通じていないと考え始めていることだ。一時的には助かる。だが、この誤解は後々面倒なことになるだろう。だって家の目の前に住んでる村人やぞ。下手したら、一生喋れなくなるかもしれない。今後の展開によっては「この子に言葉を教えよう」なんてこともありうる。
憤死である。
なにか、なにか喋らねば……!
「あ、ぁぁあああの……、ふ、ふひ、ひっひひひ……」
人間達はギョっとしたような顔でこちらを見つめる。ま、そうですわな。驚いたやろな。正体不明の子供がいきなり笑い出すんやからね。こっちも緊張で声帯震えとるんでお相子ですわ。
「えーと、嬢ちゃん喋れんのか? だったら名前だけでも教えてくれねーか?」
老人の後ろにいた屈強な男が尋ねてくる。
顔は正面を見据えたまま、心の中で天を仰ぐ。まあ、聞くよね。
どうする? 父様はアノニム・ネームレスで通していた。とりあえず、ネームレスとは名乗ってもいいんじゃなかろうか? いや、そんなに簡単に家の名を教えていいのだろうか? 偽名を使ったほうがいいんじゃ……、くそ、なんで今そんなこと考えるはめになるのだ。あの準備期間は一体何だったのだ!
少女は再びフリーズする。
屈強な男もその様子に困惑し、腕組みをしたまま次に問いかける言葉に窮していた。
「あのぉ、ヴァンデルさん。言いにくいんですが、もしかしてなんですけど、ヴァデルさんに怖がってるんじゃないですか?」
影が薄いのか今まで気づかなかったが、もう一人いたらしい。発言の主は見るからにおとなしそうな優男であった。優男の言葉に、ヴァンデルという名の男も合点がいったらしく、組んでいた腕をほどき、歯茎まで見える快活な笑顔を見せる。
「おう、すまねえな嬢ちゃん。さっきまで畑にいたもんでな。俺は汗っかきだからよ、畑にいるときはいつも上を脱いでるんだ」
ヴァンデルはハッハと笑いながら大胸筋をピクピク――ではなくビックンビックンと動かす。
大胸筋が動くたび、少女もまた顔の前に腕を交差させてビクッビクッと体を震わす。
「いや、だから、それをやめましょうよヴァンデルさん。村の子供の中にはヴァンデルさんの声の大きさに驚いて泣き出す子だっているんですよ?」
優男が再びヴァンデルを注意しているようだ。少女は優男に深く感謝する。なぜなら、マジで怖いのだ。屈強なヴァンデルを見て、少女の脳裏には聖人ザンギューラーの影がよぎる。屈強で半裸の人間は何にも増して警戒せねばならないのだ。
「うぅむ、それは少し悪いことしたかもしれんのう。さっきばかし、こっちの方で大きな音がしたじゃろ? この通り、わしは体が弱いでな、畑仕事中のヴァンデルさんに付いて来てもらったのじゃ。ヴァンデルさんもすまんのう」
「なーに、これも俺の仕事ですよカレフさん」
「……それを言われてしまうと、僕も頼りなくて申し訳ないです……」
「ジル坊はもっと肉を食わねえとな!」
村人の会話を聞く限り、やはり、いきなり私をどうこうしようという考えはないようだ。また、村人がここに来た理由は想像通りであった。門扉が倒れた音を聞いて、何が起こったのか確認しにきたのだ。ヴァンデルという男は、この村で用心棒のような役割を担っているのだろう。
状況が整理され幾分か落ち着いてきた。この者たちは私が人間でないことを分かっていながら、即座に危害を加えようという意思はない。ならば、自分も下手な小細工はせずに、正直に話せることは話そう。誠意をもって接すれば、返ってくる、そういう者たちな気がする。
「これこれ、お客人様がおるのじゃぞ」
それほど話し込んでいたというわけではなかったのが、二人を抑えて話を始める。これから私に話しかけますよ、という合図なのだろう。
「まずは自己紹介から始めようかの。わしはこの村の長を務めておるカレフじゃ。横におるこの大男がヴァンデルさん。そして、おとなしそうなこの男がわしの息子じゃ。名をジルナートという」
そう言うと、ヴァンデルは答えるように大胸筋を動かし、ジルナートは小さい声でどうも、と言いながら頭を軽く動かす。
「よかったらお嬢さんも名前を教えてくれんかのう」
最初にお嬢ちゃんと呼ばれていた気がするが、今は客人だと意識して呼び方を変えてくれたのだろう。こちらとしてもその方がいい。なんせ見た目は可憐だが、この老人よりも年上なのだからな。礼には礼を。丁寧に接するとしようか。
「ね、ねね……ネームレス、で、です。ま、まえ、のな、なま、えは、ない……です」
……伝わってくれ。これが私の精一杯だ。答えられることは正直に答えたぞ。
「……ネームレス? 名前はない、ですかい?」
「ふうむ、どういうことなんじゃろうかのう」
まずい、伝わってるけど伝わってない。
「もしかして……」
優男が考え込む。ジルなんとかだったか? いいぞ、お前には場を良くしようという気持ちが見える。期待しているぞ!
「記憶がないのでは……?」
あ、そうなっちゃうんだ。
「見たところ、随分と身なりがいいようですし、こんなところに供も連れず、幼い少女が一人でいるのは不自然です。何か恐ろしいことがあり、ここまで逃げてきたのでは?」
「ふうむ、なにか思い出したくないほどのショックを受けて記憶がなくなってしまったということかの」
「なるほど、そりゃ俺を見て怖がるのも無理がねえ話か」
ヴァンデルは考える。目の前の少女は自分たちより強い鬼の一族なのだろう。人間とは考え方が違うのかもしれない。だが、自分だったら暗い森の中、少女を一人で放り出すなど絶対にしない。それだけは鬼であってもきっと同じだと思った。
だから、ジルナートの考えはそれなりに正しいように思えた。
悪魔の少女は考える。ジル何某は妄想癖があるのではないか、と。しかし、これは考え方によっては使えるかもしれない。記憶喪失という設定は今後、余計な説明をする必要がなくなる。3000年分の外界情報がないのだから、ある種正解と言えなくもない。いや、言えないんだけど、私はそれを望むのだ。
「嬢ちゃん、名前が分からないみたいだが、もしかして何も覚えてないのか?」
「……あ、あい」
「やっぱり……」
「難儀じゃのう」
これで、これでよかったんだよな? 嘘をついてしまったことに少し胸が痛むが、質問攻めにあうことはもうないのだと安心もする。
「どうしやしょうかね?」
「……放っておくわけにもいくまい。村に連れて行こうと思うが、どうじゃ?」
「俺は構いやせんぜ。なに、言葉が通じるんだ。なんとかなるでしょう」
「迷ったときは優しい選択肢をとるべきだと思います」
決まりだな、といった顔で村長は頷き、こちらを見る。どうやら村に連れていきたいようだな。どの道、今更嫌だといって状況が改善されるとは思えんし、情報が得られるなら喜ばしいことだ。なんといっても相手に敵対意思はなく、自分は記憶喪失という設定なのだ。そう考えると精神的な優位性に気分が高揚するというものだ。村に行く前に聞きたいことは聞いておこうかな?
彼女は精神に負荷がかかりすぎると楽観的になる性質をもっている。
「お嬢さん、ここは夜になったら冷えるし、魔獣が出ることだってあるかもしれない。村には寝る場所も食べものもありますから、今日だけでもいいから村に来てくださらんかね?」
「あ、あい! あ、あの……」
「おや、なんですかな?」
「こ、ここには、い、いつから、すす住んでる、ん、です、か?」
「そうじゃのう……、わしのじいさんの、そのまたじいさんも住んでたらしいからのう。そうじゃ、村にあった古い墓石に刻まれた年代は数百年前じゃったな。じゃから、ずっと昔から住んどるな」
「す、すごい、そん、そんなにぃひ」
村長は急に質問してきた少女に少し引っ掛かりながらも、心を開いてくれたことに安堵する。村に連れていくと言ったはいいが、誰とも喋らず閉じこもったままでは村で腫物のように扱われるだろう。それではただ同情心で助けただけになってしまう。亜人ではあるが、犬や猫と同じには考えたくなかった。
「そ、それから、あ、あああ、あれ、は?」
「あれ?」
「あれって、ああ、オホネ様のことかい? 嬢ちゃん驚いたろ?」
「オホネ様……ですか。実は僕もどういった存在なのか、よく知らないんですけど」
「なんじゃ、ジルナート、不勉強じゃぞ? 村の者としてよく覚えておきなさい」
「はぁ、すいません。大切なことの割には誰も教えてくれなかったみたいですが……」
不満そうなジルナートを村長が一睨みして黙らせる。どうやらオホネ様とやらは古くから親しまれているらしい。しかし、オホネ様……か。少女があれと言ったのは門の傍らにある祠のことだ。オホネ様とは間違いなく門兵のことだろう。彼は3000年前より待遇が良くなったらしい。
「オホネ様はじゃな、わしらのご先祖様がこの地に来る前からここに鎮座されておられるのじゃ。この……倒れてしまったようじゃが、この門扉を見ればわかる通り、ここには四方を壁に囲まれた立派な館があるようなのじゃ。かつて、ご先祖様が安住の地を求め、この地に足を踏み入れた時、雨風と魔獣から身を守るため、館に入ろうとしたそうな。しかし、その瞬間、既に白骨化していたオホネ様に睨まれたのを感じたらしいのじゃ。ご先祖様は自分達の行いを恥じ、白骨化してなお館を守ろうとするオホネ様に感銘を受け、館に立ち入ることを禁じた。そして、オホネ様に自分達を守ってくれるよう祈りをささげ、館の前に村を作ったという話じゃ」
「はあ、まさか、村の起源にまで関わる存在だと思いませんでした」
「婆さん連中なんかは今でもお供えがしたいと、毎朝誰かしらが俺に連れて行ってほしいと頼んでくるぜ」
……いや、まさか、門兵が村の守り神にまでなっているとは思いもしなかった。いや、彼ならばその資格があるだろう。なんてったって3000年間部外者の侵入を拒んできたのだから。彼がいなければ、目の前にいる人間達の存在に関わる、重大かつ不幸な出会いがあったかもしれない。そういう意味でも村の守り神とは言い得て妙である。
「どうじゃ、お嬢さん? オホネ様は村にとって大切な存在なのじゃ。怖がらなくてもよい。これまで村が存続できたのも、きっとオホネ様が見守っていてくれたからじゃろうて」
少女は思う。門兵はきっと人間達が来たとき意識があったのだ。既に体も動かせぬ状態ながら職務を全うし、人間達に害意がないのを確認して眠りについたのだろう。
「こ、こわ、くない! か、かかっこ、かっこいぃひ、と、おもぅう、う!」
少女は微笑みながら老人の問いに答える。偽らざる本心であった。自分の臣下が誇らしかった。なにより村の人間達が祠を作り、花を添え、親しみをもって大切にしてくれたことが嬉しかった。
老人は迷っていた。少女がここにいつから住んでいるのかと尋ね、それに答えた時はしまった、とも思った。深読みをすれば、それは昔ここに人が住んでいなかったことを知っていたということ。そしてそれは、人が住む前にここを縄張りとしていた者の末裔である可能性が高いということ。
だが、それはもうどうだっていい。少女の微笑みに偽りはなかった。だったらそれを信じればいい。
老人にもう迷いはない。
少女は強大な力を持った大悪魔である。名前はない。今日からは記憶もない。
お疲れさまでした。
寝る前に水分足りてるか気を付けるんやで。




