第二話 梟門
いらっしゃい。
憂鬱である。
玄関扉を前にして少女は固まったまま動かない。
少女は強大な力を持った大悪魔である。
だが、目の前の扉は、その大悪魔である自身より強大な存在であると確信する。
対峙して初めて分かる圧力というものがあるのだ。
少女は、激しい動悸と流れる冷や汗に己の恐怖を悟る。
それでもなお、少女は強大なる玄関扉に敢然と立ち向かう。
否、立ち向かわねばならんのだ。
少女は館の中で3000年もの間、たった一人で過ごしてきた。
そんな少女が外に出る決意を固めたの1ヶ月ほど前のことである。
ただ庭に出るだけだ。それだけなのだ……!
私は2000年前に一度、前庭を覗いたことがあるじゃないか!
私は既に経験をしているのだ……!
恐れることはない、もう一度、もう一度それをするだけなんだ!
少女は自身を奮い立たせるため、ブツブツと独り言を噛み締めるように吐き出す。
2000年前、独り言による会話に興じている際、ふと本当に誰もいないのか不安になり、館中を探索した。庭も玄関扉からそっと確認したことがある。
体は外に出ていなかったが、視界は確かに外に出ていた。
たとえ極小の事実でもよい。
勇気が必要なのだ。
炎に向かう虫の蛮勇でいい。
「動いてくれ……!!」
少女らしさを欠片も求めない声で、己の右手を鼓舞する。
汗に塗れた右手は、自分の意志か判別できぬほどに弱々しくも、確かに動いている。
禍々しき長方形が圧縮された時間の中、抉じ開けられてゆく。
恐ろしく重く感じる。ブチブチと引きちぎるような音を錯覚する。
だが――
肌にふわりとした新緑の空気を感じた。
瞼に久しく忘れていた温もりを伴って。
これは、……光だ。
陽の光や……!
固く閉じた瞼を恐る恐る開く。
「ん…………、前庭……だ」
前庭だ。
玄関前に広がる庭園である。
以前見た時と違いがあるとすれば、前方1メートルほどに立派な大木が見えることか。
「……前庭だな」
陽の光を感じたと言ったな? いや、言葉には出してないんだけど、あれは嘘だ。
眼前には一切合切の緑が広がっている。木漏れ日と言うにも烏滸がましい僅かな光は、3000年間暗闇に生きてきた私だから感じとれたのだろう。
館の外壁は蔦とかそういうレベルではなく、緑そのものが覆っている。道理で扉が重く感じたわけである。もしかして後300年くらい決断が遅れたら物理的に家を出られなかったのではないだろうか。
しかし、困ったぞ。
私が外に出る理由に館の修繕があった気がする。
いや、あるんだけどさ、どうしたらいいんだこれは?
草むしりとか、先にやることがありそうな気がしたが、原生林と化した我が敷地をリカバリーするのは面倒臭い。ではなく、可憐な少女の仕事としては荷が勝ちすぎると思う。
目的を決定して行動した以上、まずはその目的を最優先とし、しかるべき時に対処するべきだ。であるからして、この件は後回しにしたい。…したいと考えさせていただく次第であります。
現実から目をそらし、顔の高さまである草を自身の周囲に結界を張って掻き分ける。
「とりあえず、迷わないように道を作って、それから魔力反応も残しといたほうがいいか。……いや、目立つのはよくないな、何か自分だけが分かる目印を……」
ブツブツと独り言を繰り返す。焦ると饒舌になるのは悪魔の性か。
館を奇麗にするとなると、それなりの規模の用意が必要になるだろう。ということは必要な金銭や人員も莫大なものとなり、その人員と機材を受け入れるスペースを作らねばならない。ましてやここは深き森の中だ。道も作らねばならないかもしれない。
ただ館を奇麗にしたいだけなのに……。
庭師は偉大なのだ。
「…………………………」
涙目になりながら木々の間に曲がりくねった簡易の道を作る。
当初、最も苦労するのは、館を修繕するための知識と技術を有する職人を見つけることだと考えていた。なにせ3000年以上前に建てられた魔族の館であり、魔導の知識も必要とする。魔導に関しては自分が補佐すれば大丈夫だろうが、その前の条件は現実的に考えると譲歩する必要性がありそうだった。
あの甘美なる惰眠の日々は遠い過去になりそうである。
明晰な頭脳は思考の放棄を許さず、将来の不安をつぶさに伝えてくる。
故に少女は今、意識的に自分の頭を真っ白にする努力をし、体は草を描き分ける人形と化している。
なんとか自分の脳内を鈍化して思考の安定化を成功させた頃、自身の置かれた状況にふと気づくことがあった。
「……外に、……出てい……る」
驚きや焦りによって忘れていた。いや、意識的に考えないようにしていた。だが、冷静になるとその事実が急激に体を強張らせ、目線を沈み込ませる。吸い込む空気も重い。
「あぁ……、すっごい異物感、異物感がする……」
見ろ、世界は私がいなくともちゃんと回っているじゃないか。そこに私が加わるのか?
勘弁してくれ私は異物なんだ。私がいないほうがきっとうまく回る。その方がベターなんだ。
「ぐぬぅぁああ……」
何に対してかは分からないが、「早く終わってくれ」という言葉が体中を木霊する。今すぐうずくまりたい。誰にも聞こえない叫び声をあげたい。
落ち着けぇ……、落ち着けぇい私。
世界は私が死のうが生きようが小動もしない。
だから、どんなに恥をかこうが知ったことか。
「あーあー広いー、庭広いー、どんだけやーくそがー、あー」
自分でも何を言っているのかわからない独り言を無意識で繰り出すことにより、負荷のかかった意識の発散を促す。
既に目は死んでいる。きっと今が底だ。ならば地に足がついていいじゃないか。怖いのは訳の分からない不安で落ちていくこと。それはもうない。きっとうまくいくさ。きっとうまくいくさ。
彼女は極度にネガティブな気質を持っている。しかし、あまりにも落ち込みすぎると生物としての防衛本能なのか、反転して楽観主義に至る不思議な性質を持っていた。
もっとも、外に出たからといって当然ながら、どうこうなる筈もない。
何故、彼女がこれだけ精神的な疲弊を負ったかといえば、別段トラウマがあるとかそういったことではなく、そういう性分で、そういう生き方をしてきたとしか答えようがない。3000年もの間、自分の知が届く範囲での生活しか選択してこなかった身には、未知への決死行、捨て身の感覚ということなのだろう。とにかく、「おそとはこわい」なのであった。
「うむ、流石だ! なんて広さなのだろうか我が家はハハッ!」
感覚が反転したことで、ストレスによる興奮を高揚感と混線し、情緒不安定に陥っている。結果として足取りは弾むように軽い。元々が本を好む学者肌の気質もあってか、今では新しく得る情報に感動し、期待感を高める有様だ。
森に飲み込まれてしまったかつての庭園を進むこと30分。玄関口から200メートルほど進んだところで立ち止まる。結界で描き分けた草を凍らせ、平らな道を作りながら進んだために随分と時間がかかってしまった。
目の前には周囲に生い茂る草と比べて一段と背の高い緑の壁がそびえ立っている。緑の壁を結界越しの手で払うと錆びついた金属が確認できた。間違いない。門である。
闇雲にひた進んでいたわけではない。私の記憶はどうやら錆びついていなかったらしいな。いや、本当なら真っ直ぐ歩くだけでよかったんだけどね、いつの間にか木とか生えてたしね。
まぁ、それはいい。とにかく鍵だな。
悪魔の少女は右手の平を正面にそっとかざす。すると、右手をかざした空間が歪み、複雑に色を変化させる。おそらく光の屈折も同時に歪んでいるのだろう。
これは彼女の行使する空間魔法である。歪めた空間の先には、収納庫として使用している魔力領域につながっている。この魔力領域もまた空間魔法を高度に固定化し保存したものである。ちなみに、この魔力領域は彼女の楽をしたいという純粋な欲求から生まれたオリジナル魔法なので彼女しか行使することはできない。そもそも空間魔法を使える存在自体がこの世界には数えるほどしかいないのだが――。
歪んだ空間を一握りし、ヒョイと持ち上げると、その手にはしっかりと鍵が握られている。この魔法があれば大道芸でも生きていけそうだな。少女はぼんやり考える。でも一々媚を売るのは面倒臭そうだ。ピエロは大した奴に違いない。3秒で否定した将来像に思いを馳せながら錠前に鍵を通す。
ガチャリッ――という音を期待したのだが、案の定錆びついて開かん、というか錆がひどすぎて鍵穴が見つからん。
仕方ない、飛んで乗り越えるか? いや、でも枝とかうっとうしいし、空に抜けると目立つんだよなあ。もう力づくで――
メキッ、という音が辺りに響き渡った。
「えっ」
数拍の間があった。
時の歯車も錆びついていたのだろうか。時の流れがあまりに遅く感じられる。
ゆっくりと、まとわりついた植物が千切れ出すのを見て、時が止まっていなかったことを認識できた。
重厚で頑健だったはずの門扉が意思を持ったように動き、前のめりに沈み込んだ。
少女はその光景をただ静かに見守っていた。最初の音よりも遥かに大きい音が響いたはずなのに、まるで音のない世界に取り込まれたような感覚がした。
……父様、母様、申し訳ありません。この館は既に朽ちております。
ともかく、望んでいた形ではなかったが外への道は開かれた。むしろ、門が主の意を組んだと考えよう。玄関扉君と比べ軟弱過ぎるとも思ったが、それは心の内に留めておくことにした。
地に付した門扉氏に謝辞を述べ、外の世界に足を向ける。
「ん? なんだありゃ?」
外に出て真っ先に興味を得たのは門の傍らにある祠のようなものであった。太古の記憶ではあるが、自分の知る限りこのようなものはなかった。
確認のため正面に回り込む。
「オゥワッ!?」
白骨死体が鎮座していた。
どうやらこの祠はこの白骨死体のために作られたものらしい。
「な、なんだよこの野郎っ! 驚かしやがって、ほ、骨野郎め!」
よく見ると祠はそれなりに奇麗で花も添えられている。それに館の敷地内に比べ草が乱れ茂ることもなく、そこまで荒れていない印象がある。一体、この白骨死体はなんだというのだろうか?
「…………んあぁあ゛あ゛っ!? お前、帰ってなかったのかよ……!」
思い出した。門の傍らにいる者。彼は門兵だ。3000年前も門の横でじっとしていた。使用人には帰るよう言ったが、外にいる彼には伝え忘れていた。
そうだ、私が悪いとも! だけどさ、普通に考えてさ、みんな帰ってくんだから、なんかおかしいと思ってよ! 実直な奴だとは思ったが、まさか、息絶えるまで忠義を果たすとは思わへんやん。いや、元々アンデット兵だから死んだという表現は……、あぁーー、もう、本当ごめーーーん!
悔悟の念に苛まれながら、ただひたすらに悪魔の少女は祈る。
忠義の塊たる唯一の臣下のために。
ふと、疑念が走る。
「……誰が、花を、添えたの……かな?」
館の敷地と比べ荒れていない違和感。ゾクリとしたものを感じ、急いで周囲を見回す。木漏れ日が照らす木々の間に目を凝らし――
「…………村……だな」
人間が暮らしているようです。
少女は強大な力を持った大悪魔である。名前はない。
これからは、人間と共に生きることを決意した。
お疲れさまでした。
よく食べてよく眠るんやで。