第十五話 満ちる
いらっしゃい。
波の音。潮の匂い。慣れ親しんだベッドの温もりはなく、太陽に抱かれた風が吹き込んでくる。ここはクリモリ村の外。目を開ければそこは……。
見知らぬ小屋の中だった。
「……」
昨日の記憶を辿る。意識を失う前、最後に残っている記憶は……。
ハッとして、覚醒していない泥の人形のような重い体で飛び起きる。
間違いない、海魔の恨みを買ったのだ。
海魔の幼体を食した私は呪いによって意識を失い、その間に連れ去られたのだろう。なんたることか! 危険性を理解していながら、エルフ達を止められず、あまつさえ遺骸を食すという蛮族の如き罪を犯してしまった。
命はまだある。だが、強大な海魔に抗う力は私にあるだろうか? なにより、エルフ達の無事を確認せねば。彼らは村の命綱であり、恩人なのだから。
「ああ、起きただかあ? 昨日は外で寝えてまったが、放っぽりだすぅ訳にもいかねだ、小屋あ運んだが。よお寝えれだみてえだな~」
あ、おはようございます。
起きて外に出ると、浜辺がやけに騒がしくなっていた。
団らんしながら朝食の準備を進めるエルフ達。
そして、海辺で砂に手を叩きつけながら叫んでいる人魚達。
「…………」
「あっ、起きただあか? 日い明けっ頃に人魚さ来いんだが、なぁに言っとおが分がらん。だけえ、アンズラ様待っとたんだあ。こんにいらぁ、あいつらあ何も出来んがぁなあ」
自分達の生活が懸かっているにも関わらず、平然としているエルフ達。もはや、呑気を通り越して、泰然自若とした風格すら漂っている。
「あ、あの……」
「とぉ飯い食うだ。用意さしぃだあな、あれは後でええがあ」
「は、はぁ……」
ひとまずエルフ達の勧めに従い、容量に寂しさの覚える胃に届け物をすることにした。
焼いた新鮮な魚に、クリモリ村から持ってきたレモンの塩漬けをのせた焼き魚に、海岸で捕まえた貝やカニを海藻と一緒に適当に煮込んだスープ。魚は血抜きした後、鱗を取り除き、貝は前日に水につけ、調理前に少し水を温めることで砂を吐き出させる。こうして鱗や砂といった、食べる際に不快な要素を減らす。これだけやっとけば、新鮮な海の恵みはどう食おうが美味いのだ。
昨日に続き、粗野な食事を堪能する。魚を食べるエルフ達の顔は皆笑顔だ。
エルフ達はやはり人間とは違う。明確な種族の差のがあるように思える。村の人間には生きるために必死さと向上心があった。だが、エルフ達は高い知能と身体能力を持っていながら、足るを知るというべきか、今の生活に満足そうだ。自分の生活圏に問題が生じても、焦りは見られない。彼らは高い能力を持つがゆえに、心の奥底でなんとかなるという余裕を持っているのだろう。
それも正しい生き方なのだろうな。
アンジェラはエルフに対してある種、羨望のような気持ちを抱いていた。かつて幼少の折に憧れたイメージ上でのエルフではなく、目の前にいる自然体のエルフに対して。
大悪魔でありながら小さなことで思い悩み、不安を解消するためだけに知識を求め、冒険をすべき時に二の足を踏む。
自分も頑張れば……。いや、ほどほどに頑張らないでいれば彼らのように生きれたのかもしれないな。
ふと、自分の背向が静かになっていることに気づく。物思いにふけながら食事を楽しんでいたために最重要な存在を忘れていた。やってしまったな、そう思いながら振り返ると、そこには何も……変わっていなかった。人魚は騒ぐのをやめてはいたが、波打ち際でこちらを見つめていた。その顔は、羨ましい、物欲しそうなという表現が正しく思えた。
「あ、あの、あ、あれ、あれは……」
「ああ~、まあだ人魚さぁいただか、何考えぇおるんがなあ」
いや、どっか行っちゃったら駄目だろ。
どこかエルフはズレている。ともかく、おとなしくなった今が会話を試みるタイミングかもしれない。人魚の表情を見るに、餌付けという手段も有効なのではないだろうか。敵と決まったわけではないのだ。友好的に接するとしよう。
串にささった魚を一つ手に持ち、人魚達に近づいてみる。黙って見つめていた人魚達も、自分達のテリトリーに近付いてくる謎の亜人に気づき、再び騒ぎ立てる。
《おい! 角生えたクソガキ、持ってるもん寄こしてとっとと失せやがれ! もしくは俺たちの子分になって働け!》
《ここは俺たちのシマだ! 後ろにいる耳の悪いマヌケどもにも伝えろ!》
頭が痛くなってくる。彼女たちは敵意をむき出しにしており、会話ができるかは怪しい。
外の世界でこれほど粗暴な輩を見たのは初めてである。それでも比較的冷静でいられるのは、聞き慣れた言葉を久しぶりに聞いた嬉しさからであろうか。
《あのぉ……、私は話し合いのため伺いましたアンジェラと申します。差し出がましいようですが、友好な関係を築くという考えこそが双方にとって最大の利益になると信じ、ここに具申致します。こちら、つまらないものではありますが、お近づきの印にこれをお納めください》
アンジェラは手にしていた魚の串焼きを差し出す。
《お、おう、何言ってる分かんねえが、殊勝な態度だな。頂くぜ》
《あ、ずるいぞアネキ! 俺にも寄こせ!》
魚の串焼き一つを五ひ……五人の人魚が奪い合う。魚などそこら中にいるだろうに、彼女達にとって調理されたものは格別に価値が上がるらしい。普段、水の中で過ごす彼女たちには火を使うという文化が育たないのだろう。
《がーー、美味い! 歯茎に鱗が刺さらねえぞ!》
《骨も食いやすい気がするな》
《やっぱ、焼きがあると違うな!》
生のものばかり食べている人魚にとって、風味や食管の変化は革命的なのだ。
しかし、引っ掛かる。さっき一人の人魚が《焼きがあると違う》と口にしていた。ということは、焼いたものを食べたことがあるということだ。羨ましそうにエルフの食事を眺めていたのも、食べた経験があったからなのだろうか。
彼女たちが調理されたものを食べる機会があるとすれば、それは――
《人間……、も仲間にいるのですよね?》
人魚は船に人間を乗せて魚を捕らせていたと聞く。だが、ここに船の姿はない。
一体、人魚達と人間はどういった関係なのだろうか。
《あん? お前あいつらのこと知ってんのか?》
《え、いや、ええと、後ろにいるエルフの方達にそのような話を……》
《あいつらのこと知りたいのか?》
《ええ……、出来れば……》
《じゃあ、もっと飯もってこい》
めんどくせ。
アンジェラは、自分に向いていないであろう交渉人の仕事に、多少の嫌気とイラつきを覚えながら、トルマノルに頼んで人魚に差し出す食事を用意してもらった。
一時間後、腹を満たした人魚がアンジェラに話しかける。
《いや、あんがとな。満足したわ。それじゃ、帰るから。また来いよ》
ちょっと待てや。
《あの、人間について、まだ話を伺っていないのですが……》
《おう、忘れてたわ。ごめんごめん……ご、ごめんな……さい》
悪魔の握力によって尾びれが完全にロックされている。人魚は、目の前の子供がその気になれば、自分の尾びれは容易く離断されてしまうことを理解した。
《に、人間達は俺の子分だよ! 俺らの代わりに飯捕らせてんだ》
《子分……人間が?》
《ああ、ずっと向こうで会ったんだ。自分から飯差し出してきてな。俺達の方がずっと強いから、子分にした》
違う。それは子分ちゃうねん。ただの拉致や。
《ただよぁ、最初会った時は焼きの入った魚を渡してきたのに、作り方忘れやがったみたいで普通の魚渡してくんだよ。何回言っても思い出さねえし、困ってたんだよな。それに、最近はちょっと様子が変なんだよな。動きがタコみたいになってきてよ》
《それは……、ちょっと、まずいっすねえ……》
病気かかっとるやん。こら、時間があらへんで。
《あのぁ、エルフの方々が魚の調理法を知ってるんですが、それを教えれば人間も作れるようになると思います。いかがですか?》
《ほ、ほんとか!? わ、分かった、あいつら連れてくるよ! おい、行くぞバニャ!》
《へい、アネキ! おめえらも行くぞ!》
《あいよ!》
《うっす!》
《あーっす》
人魚達は浜辺から海中へと身を翻しながら跳ね入る。流石、と言うべきか、海中の人魚は黒い影だけを残し、恐るべき速さで進んでゆく。その泳ぎは最適化された肉体の動きに加え、水の魔術も加えているようだった。魔術を理解できるほど、思考能力に優れている風には見えなかったが、そこは感覚が優れているということなのだろう。もしかしたら、人魚というのは、亜人よりも海魔に近い存在なのかもしれない。……昨日の夕飯を考えると、あまり考えたくはないが。
はっきりと数えていたわけではないが、五分ほどして人魚達が戻ってきた。その後ろに船を連れて。
さて、ここからが問題だ。人間達の体調を優先して連れてくるよう人魚を誘導したが、村にとって人間との接触はよろしくないわけだ。そして、自分は悪魔なわけで。厄介な相手でなければいいのだが……。
「た、助けてくれえ!! 誰かいるんだろ! 俺たちを陸に上げてくれ……!」
悲痛な叫びに目を向けると、顔面蒼白な男が船べりに身を預けていた。
人魚達に船に踏み込む許可をもらい、エルフ達と急いで様子を確認する。
「あ、あんたらぁ、人間じゃないのか。だが、助かったぜ。なあ、助けてくれるんだよな?」
「んなあ言われが、話聞かにゃあ分がらん。素性ぉ知らんもんは何すっが分からんだ」
「あ、ああ話す! 話すよ! その前に陸の食いもんを食わせてくれ! 仲間がやばいんだよ。このままじゃ海の呪いで死んじまう!」
船べりに身を預けている男は比較的元気だが、その後ろには這いながら手を伸ばしてくる男が見え、船室からは呻き声が聞こえていた。
「俺達は、もう一か月以上海の上を連れ回されてんだ。漁に出る前に積み込んだ食料はとっくに無くなっちまって、魚しか食ってねえんだよ。陸に上がりたくても、あいつらが水流を操って船を動かせねえし、言葉も通じねえんだ」
「うぅん、どうすっだかなあ。まぁ、なんとかなあだ、おめ、ちょっと口開けえ」
助けを求める側の男は、正体の分からないエルフの指示に従った。
「肌ぁ水気なぐて、歯茎い腫れっだあな。ヤシュヒン、レモンさもっでこい。それがぁ、簡単な飯ぃ用意すっだ。麦い一日分余っとおがな」
エルフ達は手際よく食事の用意を始める。海の呪いとやらの対処も手馴れているようだ。
オーツ麦を鍋で煮て、少し塩を加えながら掻き混ぜる。粥状になったら、火を止めて少し冷まし、ハシバミの木から採れたナッツを細かく砕き入れ、バターを加える。その上に、水で洗ったレモンの塩漬けをのせて、エルフ特性ポリッジの完成である。
しばらくして、食事を終えた男たちは、目に見えて顔色がよくなっていた。どうやら、海の呪いも初期症状と言ったところのようだ。顔色の悪さは、船を水魔術で無理やり動かされたための船酔いが大きな要因となっていたらしい。油断は禁物だが、命を失うことはなさそうだ。
「……助かったぜ。はぁ、まったく俺達はツイてんのかツイてないんだか……」
「そおにしでも、なあで、こおな所で人魚さと一緒にいたあだ?」
男達は一様に黙りだす。だが、助けられた手前、何も喋らないのは礼を失する。最も元気の残っていた男が渋い顔をしたまま口を開く。
「……まぁ、あんた達は人間じゃないしな。別にいいよな。俺達はな……、元々はアマンドラ、あー、西だな。アマンドラっていう西の方の国で兵士やってたんだ。俺達はみんな、田舎村の出でよ、兄弟が多くて家に養う金はねえってことで、金目的で兵士さ」
「そおが、なあんでまた海ぃおるが?」
「逃げ出したんだよ。金は欲しかったが、殺し合いなんてまっぴらだった。最初は戦争なんて久しく起きてねえし、戦に駆り出されることもねえと高を括ってたんだ。今となりゃ、兵を徴募してる時点で気付くべきだったんだがな。貧しくて余裕がないとな、回る頭もねえんだ」
脱走兵か。立場としては国を捨てた身となるわけだ。だったら、村に連れ帰っても大丈夫そうだ。まだ治療も必要なわけだしな。
「それでよ、逃げたはいいが、その後どうするかは決めてなかった。とりあえず、遠くへ行きたかった。そん時思ったんだよ。俺は漁師町の生まれじゃねえかって。それで、こいつらに相談してよ、支給された剣や鎧なんかを売っ払って少しだけ出来た金をオンボロの船やら道具手に入れるのに使ったんだ。自慢じゃねえが、これ全部俺達で修理したんだぜ?」
エルフ達は黙って男の話を聞いている。別にここまで喋れなんて言ったつもりはないのだが、長きにわたる海上生活は不安で寂しかったのかもしれない。
「もうよ、俺達はまともに暮らせねえって分かってたから、こんな危険な場所まで、人と離れてひっそりと暮らそうって思ってたんだ。だがよ、人がいない所為か魚が山ほど捕れんだ。それで、意外とここの生活も悪くないかもなって思った時、あいつらと出会ったんだ」
複雑な表情で男は、ぽかんとした表情を浮かべる人魚達を見る。
「その日は波が無くてな、これなら火が使えるって船室から出て魚焼いてたんだ。そしたら、興味深そうにこっち見てる女の顔があってよ、まじでたまげたぜ。人魚だとは分かってたんだが、数か月ぶりに見る女の顔だったもんで、つい近くで見ちまいたくなったんだ」
「そ、それで、魚、を、わわ渡した、のか」
「ん? ああそうだ。嬢ちゃんはエルフじゃねえんだな」
「あ、あい」
話は見えた。迂闊ではあるが、同情は出来る。
「に、人魚は、強さ、が、きき、基準。さ、魚、を、貰って、に、人間が、子分に、なった、と、お、ぉお思ってる」
「……あぁ、そうか。嬢ちゃんが人魚と話してくれたんだな。ありがとよ。ハハ、なるほどな。子分か。何言われてんのか分からなかったが、確かにそんな気はしてたぜ……」
男はがっくりと肩を落とし静かになった。自分が軽率な行いをしたために、仲間を危険な目に合わせたのだと思うと、饒舌にお喋りという気にはなれないのだった。
アンジェラは男の意を汲み、話しかける対象を呆け顔でこちらを眺めている人魚に移す。
《人間達は病気にかかっている。このままでは死んでしまうかもしれない》
《え!? まじで!? やべーじゃん、なんとかしろよ!》
《だから、私達の住む村に連れ帰りたいと思う》
《え……》
人魚達は困ったような表情でお互いの顔を見合わせる。
本能に生きる彼女たちは考えるということに慣れていない。故に、考えても分からないことを悟り、自分たちの定める基準に従うことにした。
《……分かった。お前は私より強い。だから信じる》
アンジェラは安堵した。我儘で気分屋な彼女達は、事の深刻さを理解出来ないかもしれないと考えていた。彼女たちは純粋な素直さも持ち合わせていたようだ。
ほっと胸をなでおろすアンジェラに人魚が語り掛ける。
《だけど、人間を連れていく前に、お前に頼みたいことがあるんだ》
浜辺で人間達を保護してから二日、船室で呻いていた男もなんとか歩けるまでには回復した。海に来てから三日経ち、海も季節風が吹いて荒れてきている。そろそろ村に帰らなくてはならない。
「この海ともおさらばか。……思えば、短い間だけど、あの船は俺達の全てだったんだがな」
彼らの処遇がどうなるかは分からない。それを決定するのはクリモリ村の人々である。だからこそ、どこへ連れて行くのかも伝えていない。
陸に揚げられたボロ船は嵐に耐えてくれるだろうか。
光を揺らす水面を背に、男達は歩き出した。
「に、人間!」
波打ち際から声がした。
「お、お前、また、来る。こ、ここ、マーニャ、待つ!」
何を言われているのか、今度は分かった。
「メヒヤー。俺の名前はメヒヤーだ! 俺はお前らの子分じゃねえぞマーニャ! また会おうぜ!」
お疲れさまでした。