第8話 甲殻獣
1
タダ・ウジルは、夜中に目を覚ました。
トイレに行きたい。だが、深夜にトイレに行くのはおっくうであるし、少々怖くもある。
それでも欲求はがまんしきれず、タダはトイレに向かった。
無事に用を済ませたあと、ふと庭に出た。月明かりが美しかったからである。
そのとき、ずっと上のほうのベランダに、誰かがいるのに気がついた。
タダは、はっとした。
何かが飛んで来る。
そのときになって、タダは杖を忘れたことに気がついた。もっとも、今のタダには遠距離攻撃の魔法は使えないが。
巨大な月に照らされながら飛んで来たのは鳥であり、二つの頭を持っている。
——両面鳥だ!
両面鳥の片方の首は昼に起き、夜に寝る。もう片方の首は昼に寝て、夜に起きる。そうして昼夜を問わず飛び続けることができるのだ。高価な魔法食を常食する鳥であり、珍しい鳥だ。よほど金のある貴族家でなければ使えない。だが、特定の相手に手紙や物品を届けるには最適。何より魔法探知に引っかかりにくいという特質がある。
両面鳥は、ベランダに立つ人物の所に降り立った。
その人物は、両面鳥の足のあたりで何事かをやっている。
——通信筒をはずしているんだな。
こんなふうに両面鳥を使う通信を、しかも夜中にするというのは、奇妙だ。なぜ堂々と魔法学校宛てに手紙や荷物を送ればいい。そうしたからといって、別段荷物の中身を改められたりはしない。
タダは物陰に身を隠して、ようすをうかがった。
やがて両面鳥は飛び立ってゆき、ベランダの人物はきょろきょろと周りを見回した。
——アルゴだ!
ベランダの怪しい人物は、同級生で同じクラスのアルゴ・ネスだったのだ。
アルゴはすぐにベランダから姿を消した。タダはどきどきしていた。自分が何を見たか理解できない。だが、重要な事件を目撃したような気がする。
じゅうぶんに時間を置いて、タダは部屋に戻り、寝た。
2
「シーラ・イグル。君はパンギルド教授の推薦により、撃剣コースで学ぶことを教授会で承認された」
「う゛。それは辞退することはできないんでしょうか」
「できない。生徒にどのようなカリキュラムが適当かを判断するのは学校側であり、教授会はそのなかで最も重要な決定を担う機関だ」
「撃剣コースから外れることはできないんですか」
「ふむ。いずれにせよ、二年次以降には、何かのコースを最低一種類取らなければならないね。撃剣コース以上に適性のあるコースがあり、両立が難しいとなれば、撃剣コースから外れることは可能だ。だが一年次からコースへの参加が認められるほどの才能を認められたのだよ。まずはその才能を伸ばすことを試みてみてはどうかね」
「カプカル先生。その撃剣コースでの学習は、治療魔術に役立つでしょうか」
「……直接には役に立たないだろうね」
「じゃあ、私、やっぱりそのコースに興味はありません。でも、取りあえず出ないといけないんですね」
「そうだ。来週から、午後は撃剣コースの授業に参加しなさい」
「はい。わかりました。じゃあ、失礼します」
「待ちたまえ、シーラ・イグル」
「はい?」
「杖との契約に成功したとき、君は契約の呪文を唱える前に、杖に呼びかけなかったかね?」
「あ、はい。呼びかけました。フルバル(杖よ)、って」
「! それは、〈力ある言葉〉だ。君は、〈力ある言葉〉を知っているのだな」
「は、はい? 私は古代語をしゃべれますけど?」
「なにっ。しゃべれるだと。それは普通に会話ができるレベルで古代語を使えるという意味かね」
「はい」
「なんということだ」
「それが何か? 父も母も普通に古代語で魔法を操っていましたが。というか、貴族というのは古代語をしゃべれるんではないんですか?」
「君の父上と母上というのはどんな人なのだ? 古代語を普通に話せる者などいない。この学校の教授陣でも、それができるのは校長だけだ。いいかね。古代語が〈力ある言葉〉と呼ばれるのは、その言葉を発するだけで魔法作用を生み出すからだ。ただ一言の〈力ある言葉〉を発することでさえ、普通の人間には苦痛であり、ひどく魔力を消費することなのだ。だから普通の人は〈力ある言葉〉を聞いても、なかなかきちんと認識できないし、しゃべることもできない。かすみのようにぼやけた印象しか持てない。無意識のうちに、〈力ある言葉〉は、覚えることも使うことも忌避されるのだ」
そう言われてみて、ふに落ちることがあった。クラスメイトたちは、なぜかなかなか呪文を覚えられない。不思議に思っていたのである。
「だからみんな、なかなか呪文を覚えられないんですね」
「そうだ。しかも、数回呪文を唱えただけで、ひどく消耗してしまう。君は呪文の成功率は低いが、何十回も平気で唱えられるそうだね。呪文は成功するよりも失敗するほうが魔力の消費は大きい。何十回も平気で失敗できるというのは、大変なことだ」
「好きで失敗してるんじゃありません。というか、変な呪文が多いですよね。呪文なんか使わずに、普通に古代語で魔法を使ってはいけないんですか?」
「ふむ。そんなことは普通できないが、できるのであれば、していけないということはないかもしれない。君の父上と母上は、呪文を使っておられないのだね?」
「使っていないと思います。どうして呪文があるんですか?」
「それは、魔法発動の不発と暴発を防ぎ、確実で素早く魔法を行使するためだ。いいかね。ここに一本のペンがある。浮遊呪文でこれを浮かばせる代わりに、〈ふんわりと浮かべ〉とか、〈壁にするどく突き刺され〉と古代語で命令すれば、よりデリケートな魔法の発動ができるだろう。しかしよほどしっかりイメージしてきちんと発音するのでなければ、失敗する。それにね、いざというとき、それにぴったりの言葉を探すのは案外難しい。それよりは、決まった浮遊呪文を覚えておいて、確実に発動させ、その発動のイメージで作用に多様性を持たせたほうが、効率がいいのだ。特に戦闘など、一瞬の発動の遅れが致命的である場合は、なおさらだ。単純な呪文を、どれほど素早く確実に強力に発動できるかが生死を分ける」
「なるほど。そうなんですね」
「うむ。それに効果が不明な魔法は危険でもある。だから薬学とか医学の方面では、呪文の文言は特に厳密に管理されるはずだ」
「えっ、そうなんですか」
「うむ。シーラ・イグル。当分のあいだ、古代語は使わないようにしなさい。古代語を使えるということも秘密にしておいたほうがよいな。そうでないとほかの生徒たちが古代語を覚えたがるかもしれない。それは危険だ。古代語を使って魔法を行使したいときには、私か他の教授に相談するのだ」
「はい。わかりました」
カプカル・ミード教授は、シーラとの会話について、すぐに校長に報告した。
「ふむ。ミード教授のシーラ・イグルに対する指導は正しい。このことについては、次の教授会で報告せよ」
「はい。それにしても、古代語を普通に話していたとは。ご両親も規格外れな人たちですな」
「ダンバーとドリスは、ここに入学したとき、二人とも古代語を普通に話しておった。というより、ドリスはそれしかしゃべれなかった」
「は?」
何げなく校長がもらしたのは、耳を疑うような事実である。しかし、しばらく待っても、それ以上の説明はなかった。
3
「さあさ。皆さん。お待ちかねの森ですわよ!」
生徒たちから歓声が上がる。かねてからこの日は楽しみにしていたのだ。
学校から魔法の橋が架かり、生徒たちは今、森の入り口にいる。
シーラは誰よりもこの日を楽しみにしていた。何しろ今日の授業は、薬草の採取なのだ。
「基本的な薬草については授業で教えた通りですわ。今から自由時間としますので、それぞれ薬草を探してくださいな。集合の笛を鳴らしたら、この場所に集まってくるのですよ。それでは、採取開始!」
ヨール教授の合図で、生徒たちは森に散っていった。
この森には前日から領域守護の魔法がかけられている。目印となる青い境界線の内側にいるかぎり、危険な魔獣は入って来られない。生徒たちは安全に薬草の採取をすることができる。
生徒たちは、何人かずつに固まりながら、思い思いの場所で探索をする。花タイプの薬草を探す者もいれば、葉に薬効がある薬草を探す者もいる。シーラの狙いは少しマニアックで、地下茎に薬効がある、グリニスという薬草を探していた。切り傷の血を止め、傷の治りを早くする薬が作れる。効き目が強く効果が早いため、それなりの値段で売られている。この機会に血止め薬をたくさん作っておこう、とシーラは考えたのだ。
グリニスは大きな木々の陰になった低い草むらのなかに生える。ちょっと見つけにくいが、いったん見つければ芋づる式に採取ができる。
「あった!」
シーラは身をかがめ、夢中になってグリニスを採取した。
そのとき、何かが背中にかかった。
「えっ?」
振り返ったが、何もないし、誰もいない。
しかし背中をさわってみると、何かの液体がかけられている。
頭上を見た。
何かの汁が降ってきたのだろうか。だが、それらしいものは見当たらない。
背中が汚れているのは気になったが、それより今はグリニスである。こんなにたくさんのグリニスが見つかるとは運がよい。採ったものは自分の物にしてよいのだから、限られた時間のなかで少しでもたくさん採らなければならない。
そうしてグリニス採取に夢中になっているシーラの前に、突然何かがやって来た。
顔を上げる。
巨大な猿のような姿の魔獣だ。全身が甲殻で覆われている。
「甲殻獣! な、な、な、なんで?」
悲鳴を上げるのも忘れて驚いていると、その甲殻獣は身をかがめてシーラに食いつこうとしてきた。
そのときのシーラの反応速度は、あとになって自分自身で感嘆したほどのものである。
「騎士エルガー!」
そう叫ぶなり、採取桶を左手に構えて呪文を唱えた。
「スタドリアレ・パッロ・ゴンドア!」
とたんに桶は鋼鉄のごとく堅くなり、甲殻獣が突き出した二本の牙を受け止める。
「ぬおおおおおおおおおっ」
このときのシーラからは、巨大な甲殻獣と力くらべなどするべきでない、という常識は抜け落ちている。ただただ、この理不尽な魔獣への怒りに突き動かされていた。
シーラは左手一本で、のしかかってくる甲殻獣を支えきると、右手に杖を構えて呪文を唱えた。
「スタドリアレ・パッロ・シャトラ!」
攻撃用硬質化呪文は、普通杖にはかけない。もしも杖が折れでもしたら、もう魔法は使えないのであり、戦闘中であればただちに死ぬ。だが、そんなことを考える余裕は、このときのシーラにはない。
「くたばれーーー!」
シーラは杖を振るった。その杖は魔獣の頭部に当たる。
「グェアアアアオオオオオーーーン」
魔獣が上げた悲鳴はすさまじいものだった。
強敵にダメージを与えた、という気持ちがシーラの気持ちを一瞬ゆるませた。だから、右から飛んできた魔獣の腕に対する反応は、本当にぎりぎりだった。
シーラは左手の桶を右に回した。騎士エルガーの恩寵を受けていなければ到底不可能なスピードを出して。
桶は見事に魔獣の攻撃を防いだ。しかし、その場で踏みとどまるにはシーラの体重は軽すぎた。彼女ははじきとばされ、高く宙を舞う。落ちたのが草むらだったから、怪我はしなかったが、一瞬、何がなんだかわからなくなった。
はっと気付いて身を起こしたときには、すでに魔獣は至近距離に迫っていた。
右手と、左手と、牙とが同時に迫る。
「ど、どれを防いだらいいのっ?」
そのとき、魔獣の頭部が爆発した。魔獣は後ろに吹き飛んで倒れ、そのまま起き上がらなかった。
「えっ? えっ? えっ?」
「危ないところでしたわね、シーラ・イグル」
ヨール教授が杖を構えていた。
「シーラ!」
「怪我は? 怪我はない? 大丈夫なのっ?」
タダとリサが飛び込んで来た。
4
「ですから、カプカル教授。シーラ・イグルが古代語を話せるということを、ただちに伝えてくださるべきだったのですわ。教授会など待たずに。少なくとも、授業でシーラと接する者には。当然ではありませんの」
「申しわけない、ヨール教授。確かにその通りだった」
「校長先生の判断にも問題がありますわ」
「わしからも謝る。ヨール教授が適切に対応してくれねば、大変な事態になるところであったわい。しかし、ヨール教授。カリダソクルポス(猿型甲殻獣)が出現したのは、確かに結界の内側だったのじゃな」
「ええ、校長先生。確かに。結界は完璧でした。あんなものが入ってこれるわけはないのです。ただし、古代語で結界の効力を妨害するか、魔獣を特に興奮させるようなことをしたとしたら、カリダソクルポスが入って来たことに説明はつきますわ」
「ヨール教授。シーラ・イグル自身が、自分は古代語を使ったと言っておるのですかな」
「そんな質問はしておりませんわ。その時点ではわたくし、シーラ・イグルが古代語を使えるなどと知らなかったのですから。もっとも、そんな質問をしたら、ほかの生徒たちにもそのことは知られてしまいましたから、かえってよかったのかもしれませんわね」
(おいおい。今日はヨール教授、ばかに鼻息が荒くないか?)
(いや、最近、あの人、調子がいいらしいよ。管理してる植物園の成績がよくて、珍しい魔花がいくつも咲いたとか)
(術の効果も上がってるとか聞いたな)
(へえー)
「ううむ。教授がたに申し上げる。シーラ・イグルについては、古代語を知っているという前提のもとで、授業の安全措置をはかってもらいたい。なにぶん、まだ新入生なのじゃ。これからどう成長するか楽しみな生徒でもある。温かい目でみまもっていただきたい。カプカル教授は、もう一度シーラ本人に、古代語の使用を控えるよう念を押すのじゃ」
5
カプカル教授に呼び出されて指導室に向かう途中、シーラは考え事をしていた。
薬の素材の多くは森にある。しかも、強い魔力に満ちた森ほど有用な素材がある。そして強い魔力に満ちた森は、強力な魔獣のいる場所でもある。
戦闘の恩寵など、治療魔術には関係ないと思っていたが、薬の素材を集めに森に入るには、強力な防御力と、多少の攻撃力があると有利だ。結局それは、強い騎士に守られて薬草を採取するのと同じだ。
アルタ城には優秀な騎士たちがいるが、たかが薬草採取にいつもいつも騎士の護衛を頼むわけにはいかない。しかし、シーラ自身が強力な騎士の加護を持てば、魔の森の深淵にだって入ってゆけるかもしれない。いや、むしろ、採取しほうだいではないか。
「きめたっ。私、騎士エルガーと契約するわ!」