第4話 シュリハスラの花
1
「シーラ、元気だせよ」
「そうよ。くじけちゃだめ」
タダとリサはそう言って励ましてくれるのだが、シーラはすっかりしょげこんでいた。もうこのソファから起き上がる気力もない。
授業が始まって五日間が過ぎた。
この間にシーラたちが習った呪文は、たった一つである。
〈レイ・アーレ〉
この呪文は浮遊呪文と呼ばれる。教師はそう説明した。
非常にありふれた呪文であり、非常に重要な呪文である。魔法使いは、日に何度もこの呪文を使うことになるという。シーラは両親がこんな呪文を唱えたのを見た覚えはないが。
この呪文は、物を持ち上げ、自由に移動させることができる。ただし効果は杖で触れれば届くほどの範囲にしか及ばないし、よほど強い魔力を持たなければ、自分の体重以上の物は持ち上げられない。
しかし極めて応用の利く呪文である。目の前の物に手を触れず動かせるのだから、手で触れては危険な物も操作できるし、熟練すれば、人間の手では不可能なほど込み入った作業もできる。
ただしこの呪文を本当に活用できるのは風の適性がある魔法使いだけである。
〈レイアーレ〉は、風の呪文なのである。
魔法には七つの属性があり、すべての魔法は七つの属性のどれかに属す。ただし、どの属性にも〈初級呪文〉あるいは〈基礎呪文〉と呼ばれる呪文がある。〈基礎呪文〉は、その属性に適性がなくても使うことができる。
シーラたち一年生は、七つの属性の〈基礎呪文〉を覚えなくてはならない。それは全部で二十二ある。二十二の呪文を一通り学習し、その応用についての知識を学ぶのが、一年次のカリキュラムなのだ。
その二十二の呪文の中でも、〈レイ・アーレ〉は、最も基本的で最も重要な呪文である。
担当教師のオッコ教授は、授業のたびに〈レイ・アーレ〉のさまざまな応用のしかたを実演してくれる。それを見ると、生徒たちは大いに学習意欲をかきたてられるのだ。
とはいえ、この呪文を覚えたばかりの生徒たちができることといえば、手のひらに乗るほどの積み木を持ち上げ、てくてくと歩きながら移動するだけのことである。
移動しながら杖をかざしているその下に積み木はくっついて移動している。
最初は持ち上げるだけでも失敗するが、そのうちに確実に持ち上げられるようになる。あとはその状態で移動する。
これに慣れてきたら、クラスメイトたちと交差するように移動する。相手が杖をかざして積み木を移動しているその上側に杖を通し、積み木は相手の下側を通す。魔力が交差する場面で確実に積み木をつかまえておくのはなかなか難しいようで、クラスメイトたちは、今やこの遊びに夢中である。
浮遊呪文の使いこなしに夢中になっているクラスメイトたちを横目で見ながら、シーラは教室の端で浮遊呪文に挑戦する。
しかし、だめだ。
だめなのだ。
ただの一度もシーラは発動に成功していない。
初めは〈虹〉つまり全属性持ちの魔法使いとしてクラスメイトたちの尊敬と注目を集めたシーラであるが、子どもというのは何事にもあっという間に順応してしまう。
シーラが希少な全属性持ちであるという事実に、クラスメイトたちは慣れてしまった。
今やシーラは初歩の初歩の呪文を発動させることもできない落ちこぼれでしかない。
「それにしてもシーラはすごいよ。どうしてあんなに何回も呪文を唱えられるんだい?」
「あたしもそう思った。今日の授業だけでも三十回は唱えてたんじゃないの?」
タダとリサはそういうが、その三十回のことごとくで発動に失敗しているのだから、シーラにとってはなぐさめにもならない。
シーラは気づいていないが、担当教師のオッコ教授は、シーラの立て続けの失敗ぶりに驚愕していた。
失敗し続けたことにではなく、呪文を唱え続けられたことにである。
シーラの同級生たちは、二度も呪文に失敗すれば疲れてしまい、その日はもう呪文に挑戦できない。呪文は失敗したほうが多く魔力を消費してしまうのである。
成功した場合でも、一日に五度が限度である。もっとも同級生たちは、一度成功した呪文の効果をいかに長く続かせるかに夢中であるから、唱えられる呪文の回数には、あまり関心を払っていない。
実際こうしている休憩の時間にも練習してよいなら、シーラは何度でも呪文を繰り返すことだろう。
しかし一年生は授業のとき以外には魔法を使えない。さまざまな安全上の理由からそう定められ、厳しく言い渡されている。
だからシーラは友人たちのなぐさめを聞きながら、談話室のソファの柔らかさにわずかばかりの慰めを得るほかないのである。
2
翌朝起きたとき、シーラは窓のそばにちょこんと小さな白い花が咲いているのに気づいた。
窓辺に寄ったシーラは思わず声をもらした。
「わあ……」
壁面にシュリハスラが生い茂っている。
シュリハスラはどこにでも生えるつる性の植物であるが、シュリハスラに覆われた建物は長く栄えるといわれ〈家護り草〉の異名がある。
めったに花は咲かないのだが、よく茂った若いシュリハスラは白い花を咲かせることがある。シュリハスラの白い花は幸運を運んでくるといわれる。
前に見たときには気づかなかったのだが、シーラの部屋のまわりには、びっしりとシュリハスラが生い茂っている。これだけ生い茂れば花も咲くかもしれない。
——私にも、何かいいことあるかなあ……
シュリハスラに覆われた、ふるさとのアルダ城のたたずまいを思い出して、シーラはちょっぴり元気を出した。
3
八回目の授業である。
オッコ教授はシーラを教室の隅に呼び、杖を構えるように言った。
「いいね、シーラ君。落ち着いてゆっくり息を吸って、はくんだ。よしよし。目の前の机に積み木が乗っているね。積み木をじっと見るんだ。ほかのことは考えてはいけない。そしてゆっくりと積み木が浮かび上がるようすを心に思い描くんだ。ゆっくりとだよ。いいね。では、呪文を唱えてごらん」
シーラは杖を構え、ゆっくり確実に呪文を唱えた。
「レイ・アーレ」
しばらく待ったが、何も起きなかった。
クラスメイトたちは興味津々で見守っていたが、シーラが失敗したのを知ると、それぞれ浮遊呪文の練習を始めた。
結局この授業でシーラはきっかり三十回の呪文を唱え、一度も発動に成功しなかった。
実のところオッコ教授は、シーラがすぐに呪文に成功するとは思っていなかった。ミード教授からシーラの状況について説明を受け、シーラの指導はほかの生徒と同じようにはいかないことを覚悟していたのだ。
一つには、強力すぎる杖を使っているため、どんな魔法にせよ発動にひどく魔力がかかる。ある程度時間がたって魔力が成長し、杖とも十分なじまなければ、どんな魔法も発動しないかもしれない。
一つには、多色持ち、それもたぶん六色持ちであるため、最初のうちはほとんど魔法の行使ができないと思われる。
魔法が発動するには、魔法使いが呪文を唱えて魔力を発し、それを精霊が受け止めて、その精霊が魔法使いの指示に従って魔法を行使するのである。
ただし慣れないうちは、精霊に多くの魔力をくわれてしまい、なかなか効果の発動に至らない。しかも多色持ちなのだから、多くの精霊に魔力を食われてしまう。
だからシーラの場合、相当に魔力が成長し、それが無駄なく行使できるようにならなければ、まともに魔法が発動することはない。
——才がありすぎるというのも気の毒なことだねえ。
オッコ教授はシーラに同情していた。
だからこんな言葉をシーラにかけた。
「シーラ君。あわてることはないよ。私の授業は十回で終わりだが、ほかの呪文を練習するうちに、ふと浮遊呪文に成功することもあるだろう。あわてることはないんだからね」
この言葉は純然たる好意である。しかしオッコ教授は気づかなかった。シーラがはかない美少女のような見かけはしていても、その実ひどく負けん気が強い性格をしていることを。だから八回目の授業の最後にかけたこの言葉が一つの事件を生んでしまうとは、まったく予想もしていなかったのだ。
そしてその夜、シーラに追い打ちをかける出来事が起きる。
4
あまりのシーラの落ち込みぶりに、タダもリサも声がかけられない。
ソファに突っ伏したシーラの全身から〈声はかけないで〉という無言の圧力が放出されている。
そのくせ部屋に引きこもるのではなく、談話室のいつもの場所で時間を過ごしているのだから、シーラにとってタダやリサのそばは、やはり居心地のよい場所なのだろう。
タダとリサは雑談に興じた。
部屋の中には五十人ほどの一年生がいて、それぞれ就寝前のひとときをくつろいで過ごしていた。
その部屋のざわめきの中で、シーラは怒っていた。
——なによ! あの先生の言い方! あわてることはない、ですって? 私の授業は十回で終わりだが、ほかの呪文を練習するうちに浮遊呪文に成功することもあるですって? 冗談言わないで。つまり私はほかの呪文の練習が始まっても魔法には成功しない、ってあの先生は思ってるのね。馬鹿にして! いいえ、先生だけじゃないわ。同級生たちから何て言われてるか、私、知ってる。〈虹というたぐいまれな才能を持ってるのに魔法の使えない能なし〉って言われてるんだわ。
シーラは、何としても次の九回目の授業では呪文を成功させなければならない、と決心を固めた。
そんなとき、部屋のざわめきが、ぴたりと止まった。
——あれ? 何かあったのかしら?
ソファに突っ伏したままの姿勢で、シーラは辺りの気配をうかがった。
足音がする。
入口のほうから近づいて来て。
そしてシーラの前で止まった。
「やあ、イグル家のお嬢さん」
男の人の声だ。
先生の声ではない。先生の声ではないけれど、新入生たちの声でもない。
この声。
聞き覚えがある。
どこで聞いたのだったか。
「差し入れを持ってきたよ。これを食べて元気を出して」
机の上に何かを置く気配がする。
頭をたたかれた。いや。優しくなでられた。この感触は杖だ。この男の人は、杖で私の頭をなでたんだ。
「じゃ、僕は帰るよ。皆さん、お邪魔したね」
足音は遠ざかり、部屋を出て行った。
シーラはそのときになってやっと、今の声の主を思い出した。
魔法学校に来たとき、門から部屋まで案内してくれ、そして校長室に連れて行ってくれた先輩だ。名前は……忘れた。
「シーラ・イグル」
氷のように冷たい声がした。クラスメイトのイーリアの声だ。長身で、波打った黄金の髪を持つ少女であり、ちょっときつい目つきをしている。
「あなたの家の領地は東の果てだと思ったけれど、デューン家と縁戚だったの?」
これはまた突っ込んだ質問だ。この声は、イーリアだ。
シーラは身を起こして目を開け、イーリアと目を合わせた。
ちょっとではなく、ものすごくきつい目つきをしている。
だが、デューン家?
あらたまって言われてみると、その家名には聞き覚えがあるような気がする。
「いや、そんなはずはないよ」
イーリアの質問に横から答えたのは、やはりクラスメイトのアルゴだ。小柄で黒髪で、いたずらっぽい目つきをした少年である。
「わがネス家はデューン家と親戚なんだ。末端だけどね。イグル家がデューン家と縁戚なんてことはないよ」
二人の後ろで同級生たちがざわめいている。
(デューン家だって? 今の先輩はデューン家のかたなのか)
(素敵な人だったわね)
(うんうん)
(何を言ってるんだ、みんな! ワグス様だよ。デューン家の御曹司だ!)
同級生たちの会話を聞いていて、シーラは思い出した。
デューン公爵家。
王家の親戚で、たしか宰相をずっと出し続けている家だ。
とはいえ、田舎暮らしのシーラにはまったく縁遠い人々である。今後も縁遠いままだろう。
「シーラ。ワグス先輩とは、どういう関係?」
イーリアの目つきが、ちょっと怖い。
「どういう関係も何も、ここに来た日に門から部屋まで案内してくれて、それから校長室に案内してもらったただけよ」
「それはずいぶん運がよかったのね。でも、それだけの関係なのに、わざわざ差し入れを持って来てくださるなんて、なぜなの」
イーリアの追求に容赦はない。
「そんなこと知らないわ。……差し入れ?」
そういえば、そんなことを言っていたような気もする。見てみると机の上に小さな包みがあった。可愛らしい包装だ。手に取ってほどいてみる。
中にあったのはプラークの実の砂糖漬けだった。
「あ、かわいい」
思わず声を上げた。
懐かしい気持ちがこみ上げた。家にいたときは、毎朝プラークの実を食べていたのだ。
ぱくり。
シーラはプラークの実を口に放り込んだ。
「あ」
「あ」
「あ」
見守っていた同級生たちが声を上げるが、シーラはそんなことは気にもせず、口に入れたプラークの実をかみ締めた。
甘い。果物らしく、少し酸味をおびた甘さだ。少しの苦みと渋みもある。その苦みが何ともいえないこくとなって、じんわり口の中に満ちる。
それは幸せの味だった。
「し、シーラ。それ、プラークだったよね?」
リサが聞いてきた。
「うん? ええ。プラークよ。ちっちゃいけど、おいしかったわ。種は抜いて砂糖漬けにしてあったわね」
「た、食べちゃったの?」
「何言ってるの。プラークは食べるものでしょ?」
「そ、そんな貴重なもの」
「え?」
何が貴重なのだろう。プラークは田舎にいたシーラでも毎日食べられた果物だ。特に珍しいものであるはずもない。とすると、ワグス・デューンにもらったということが貴重なのだろう。
「ところで、イーリア。デューン家って、あのデューン公爵家のこと?」
「もちろん、そうよ」
リサが勢い込んでイーリアに尋ねた。
「じゃ、じゃあ、イーリア。今の先輩がデューン家のご長男なのね? 四色持ちだっていう」
「そうよ」
なぜかイーリアが胸をそらして自慢げだ。
——それにしても、四色持ちか。もしかして多色持ちって、そう珍しくないんじゃないのかしら。
「三年生のときに上級五課題を達成しちゃったっていう」
「そうよ」
「二年のときから〈撃剣競技〉で優勝を続けてるっていう」
「そうよ」
「素敵〜」
「ふふん」
——いや、だから、なんであなたが自慢げなのよ。というか、リサもどうしてそんな情報に詳しいの?
だが同級生たちは、わいわいがやがやと、ワグス先輩のことを話し始めた。どうも有名な先輩のことは、みんなどこからか耳にしていたみたいだ。
シーラは話題から取り残されてしまった。
とにかく、シーラのような田舎者は、同級生たちとは知識も興味もずれているということが分かった。今はそんな知識を増やしたいと思わない。それより考えることがある。
「私、部屋に帰るわ。お休みなさい」
シーラは、そう言い残して談話室を出た。