第3話 虹(プラント)
1
そして三日目の授業となった。
皆が見守る中、シーラは前に進んだ。
湖から風が吹き寄せ、シーラの長い髪を、背中のほうになびかせる。
「シーラ・イグル。始めなさい」
「はい」
シーラは目を閉じて心を落ち着け、そして目を開いて杖を構えた。
「クァルデン・パツラ・ウィドー(われと絆を結べ)」
呪文は発せられた。しかし、何も起きない。
がりっという音がした。
気がつけば杖の先が足元の石畳に落ちている。がっくりきたシーラの腕から力が抜けて、杖を降ろしてしまったのだ。
シーラの目に涙が浮かんできた。
——だめなの? 私はだめなの? 私は魔法使いにはなれないの?
うつむいたシーラの目から、ぽたりと涙が石畳に落ちた。
そのとき、何かが両方の肩に置かれた。
「シーラ・イグル。杖を両手で持ちなさい」
カプカル先生の声だ。肩に置かれたのはカプカル先生の両手だった。その手は不思議と温かい。
シーラは言われた通り、杖を両手で持った。魔法使いにとって杖は何より大事なものだ。その先を地に投げ出していてはいけない。
「湖の向こうの森を見るのだ」
シーラは森を見た。美しい。
「あの森は美しいだろう。あの中には、凶悪な野獣や危険な邪霊もいる。だがあの森は美しい。そして奇跡の効果をもたらす薬草も生えているし、赤輝石や青輝石も取れる」
野獣。
邪霊。
赤輝石と青輝石。
そして……薬草!
そうしたことについてシーラは学びたい。学ぶためにここに来た。
魔の森にはきっと多くの薬草がある。それを見分け、精製し、調合できるようになれば、どれほど多くの人を救うことができることか。
だが今、その最初の関門でつまずこうとしている。杖と契約ができなければ魔法学校にはいられない。退学だ。いや、最初から入学できなかったことになる。
「今のお前たちにとって、あの森は教師の引率を受けるのでなければただの危険な場所でしかない。しかし正しい知識を身につけ、きちんとした対処法を学べば、そこはまさに宝庫だ」
シーラはうなずいた。
「お前がこれから学ぶべきことは多い。その多さから比べれば、杖の契約に三日かかろうと四日かかろうと、それはたいしたことではないのだ。心を落ち着かせ、呪文を試みよ。お前の前には無限の世界が開けている」
シーラは左手で目元をぬぐった。そして杖を構えようとした。
そのとき背中から声が聞こえた。
「がんばって」
タダの声だ。
「あたしがついてるから」
リサの声だ。
「何度でもやってみるんだ」
これは誰の声だろう。
「ゆっくりやれよ」
「落ち着くのよ」
「がんばれ」
「がんばって」
「がんばれ!」
——みんなの声だ。みんな、応援してくれているんだ。私はみんなの何を見ていたんだろう。
シーラはしっかりと杖を構えた。
その瞳には金色の光があふれている。
「フルバル(杖よ)」
シーラが呼びかけると、杖は柔らかな白い光を放った。
カプカル・ミードははっと息を飲んだが、集中しきっているシーラはそんなことに気づかない。
収まったはずの風が吹いている。しかし、どこから吹いてくるのか。
足元だ! シーラの足元から風が吹き上がっている。
これから起きることの予兆であるかのように。
「クァルデン(結べ絆を)」
杖が発する光が石畳に反射され、シーラの顔を体を下側から照らしている。
クラスメイトたちは息をするのも忘れてシーラに見入っている。
来るべき瞬間を待ちながら。
「パツラ(すなわち)」
シーラが目を大きく見開いた。
その目から金と銀の輝きが放たれ、まっすぐ杖に吸い込まれてゆく。
「ウィドー(われと)!」
魔力を帯びた文言が放たれた、その瞬間。
光と風が爆発した。
クラスメイトたちは悲鳴を上げ、身をよじって風から身を守りながらも、見た。
シーラの杖の周りに巨大な光の玉がいくつも乱舞するのを。
赤の光の玉が。
橙の光の玉が。
緑の光の玉が。
青の光の玉が。
藍の光の玉が。
紫の光の玉が。
輝きわたる強力な光の玉が、シーラと杖との契約を祝福している。
爆風は一瞬で収まったが、光の玉は燦然と輝きを放っている。
「全色……」
ぽつりと誰かがつぶやいた。
「やっぱりシーラ・イグルは〈虹〉だったんだ……」
ざわめきがクラスメイトたちのあいだに広がり、やがて大騒ぎになっていった。
だがシーラは周りが何を騒いでいるかなど、耳に入っていない。なぜならシーラの視線は、目の前でうずくまっている巨大な戦士にくぎ付けだったからだ。
それは一人の騎士だった。
ひどく古めかしく見慣れない鎧姿だが、それは騎士に違いないとシーラは思った。
それにしてもなんという巨体か。
その騎士はシーラの前にひざまづいて頭を深く下げているのだが、その深く下げた頭が立ったシーラより上にある。今までシーラが見たどんな人間より大柄だ。
そして、なぜそう思うのか自分でも分からないが、これはおそろしく強い騎士なのではないかとシーラは思った。
あまりにその騎士が現れたことに驚いていたので、担当教師のカプカル・ミードがあぜんとした表情でその騎士を見ているのには気づかなかった。
やがて空気に溶けるようにその騎士の姿は消え、杖の周りを舞っていた光の玉も、すべて杖に帰った。
「おめでとう。シーラ・イグル」
ミード教授の声だ。
シーラは、はっとわれに返った。
いつしかクラスメイトたちも静かになっている。
ミード教授の顔を見つめ返す。相変わらずその眼鏡は冷たい光を放っている。でもシーラは、前に思ったほど冷たくはないような気がしてきた。
「おめでとう」
「やったわね!」
「おめでとう」
「おめでとう」
クラスメイトたちの祝福を受けて、シーラはこの上なく幸せな気分になった。
2
その日の午後、シーラはずっとクラスメイトたちと話をした。
いろんな人といろんな話をした。
「さすが〈全色の魔法使い〉ね」
そう何人ものクラスメイトに言われ、それは何のことなのかと訊き返した。
皆はシーラ本人だけがそのあだ名を知らないことを知って驚いた。
九年前、シーラは神殿に行って魔力判定を受けた。
魔力判定では、魔力があるかないかの判定とともに、どのような種類の魔法に適性があるかも判定される。魔力判定で赤色の判定が出れば火の精霊オドルに関わる魔法に適性があるし、緑色の判定が出れば風の精霊マトに関わる魔法に適性がある。
普通魔力判定で現れる色は一色である。しかしまれに、二色あるいは三色に適性がある者もいる。
この魔力判定で、シーラは赤橙黄緑青藍紫の七色全部に判定が出た。すなわち〈全色〉である。虹の七色であるところから、全色は〈虹〉とも呼ばれる。
全色の判定が出る者など、百年に一人あるかないかであり、過去の全色持ちは例外なく偉大な魔法使いとして歴史に残る働きを現している。
全色持ちが出たという噂は、半信半疑の口調ながらもたちまち王国の端から端にまで届いたのであり、その全色持ちがアルダ領主イグル家の娘らしいという噂もまた、国中を駆けめぐったのである。
アルダ領ではそんな噂は立たなかった。というよりシーラの両親がそういう噂を立てさせなかった。都から離れた田舎の領地であることも手伝って、シーラはそんな噂は知らずに育ったのである。
そもそも何色に適性があったかということは、重要な秘密であり、本来は本人にさえ教えない。
ただ神官同士は噂話もするし、貴族というものは、そういう噂話を聞き取る耳を持っているものなのだ。
「全色じゃない。六色だった」
エネス・パイクが言い張った。
クラスメイトたちの中には、確かに六色だったという者もいたし、見落としだろうとか、自分は七色見たという者もいた。しかし六色にせよ七色にせよ、想像を絶する希有な才であることに違いはない。
エネス・パイクがシーラを憎んでいた原因も分かった。そうなのだ。憎んでいたのだ。
エネスは魔力判定を受けたとき、三色持ちの天才だともてはやされた。両親はわざわざパーティーを開いて親戚や隣接領主たちに自慢した。エネスもひどく強い誇りを持った。
ところが半年後、全色持ちが現れたという噂が届いた。エネスの自信は打ち砕かれた。そして両親もぴたりとエネスの自慢をやめた。ある日親戚の女の子たちと話していて、魔力の適性の話題になったとき、好意を寄せていた女の子から気の毒そうな目で見られた。そのときから、エネスはシーラを憎むようになったのだ。
そしてエネスはシーラがずるをしたのだと思い込むことにした。
クラスメイトたちも本当に全色の持ち主などがいるかどうか半信半疑で、シーラに注目していたのだった。
こんな話をエネスが進んでしたわけではなく、うまくタダが挑発して聞き出したのだが、それを知ってシーラはショックを受けた。
——私はなんにもしないのに、どうしてエネスは私をいじめるんだろう、と思ってた。そうじゃなかった。先にエネスを傷つけたのは私のほうだったんだ。
もちろん、このことについてシーラは何の責任もない。シーラ自身は何もしていない。
しかしそれでもシーラがいなければエネスは傷つくことはなかった。そしてシーラはエネスを傷つけたことなど知らずに今日まで生きてきた。
——もしも私がエネスの立場だったら、どう思うかしら。こいつなんであと十年遅く生まれてこなかったんだ、って思うに違いないわ。
自分でそうと知らなくても、自分からそういう行動を起こしたわけではなくても、自分のために人が傷ついたり、そのために人から憎まれることはあるんだと、この日シーラは心に刻んだ。
3
夕食のあと、タダとリサとシーラは談話室で時間いっぱい話をした。
遠回しに騎士を見なかったか訊いてみたのだが、どうもタダもリサもそんなものは目にしていないようだった。クラスメイトたちも誰一人騎士を見たなどと言わなかった。あれは幻だったのだろうか。
とにかくシーラは、騎士を見たことを当分秘密にしておくことにした。
シーラはタダとリサに、魔法学校に入学する前に杖との契約をしていたのかと訊いた。
その答えを聞いてシーラはびっくりした。
「ええ、もちろんよ。だって授業になって突然杖との契約をしても、時間がかかったらみんなに迷惑をかけちゃうじゃない」
「うん。だから杖との契約を済ませてから入学するのがエチケットなんだ。そう教わったよ」
——そんな考え方もあるんだ。じゃあ、前もって杖との契約をしてたのは、ずるじゃないの? してなかった私が悪いの?
「だから、シーラがぶっつけ本番で杖との契約をしようとしてるのを知って、すげえって思ったんだ」
「うん。あたしもびっくりした」
「さすが〈全色〉。とんでもない自信だなあって」
「ほんと、ほんと」
「でも、なかなか杖との契約ができなくて苦しんでるシーラを見ると、なんだか胸が苦しくて。俺、自分が卑怯なことしてるような気になった」
「シーラは一生懸命だったもんね。あたし、ずっと心の中で応援してた」
そのように言われてみると、わだかまりがすうっと溶けていくのが分かった。
——あらかじめ杖との契約を済ませておくのがエチケットなのか、それとも規則通りそんなことはしないで入学するのが正しいのかなんて、今の私にはどちらともいえない。とにかく、いろんな考え方があるんだ、って覚えておこう。
「タダ。リサ。応援してくれて、ありがとう」
「うん! みんなも応援してたよ」
「そうよ! 一生懸命やれば通じるのよ」
「それにしても、たった八回で成功させちゃうんだもんな。やっぱシーラはすごいよ」
「ほんとだわ」
「えっ?」
「あ、そういえば最後に成功したとき、契約の呪文の前に何か言ってたよね。あれ、何て言ったの?」
リサにそう訊かれてシーラは、
「フルバル、っていったのよ。杖に呼びかけたの。そんなことより、八回が〈たった〉ですって?」
と答えた。
答えるなり次の質問を発したものだから、リサの質問は正しく理解されないまま放置された。
そのためシーラが〈力ある言葉〉をマスターしているという驚愕の事実は、しばらくのあいだ周りに知られないこととなったのである。
「タダ、あんた何回で契約できた?」
「僕は二十七回。リサは?」
「あたしは二十五回。勝ったわね」
シーラは、あんぐりと口を開いた。
4
時間を少しさかのぼった中央棟の最上階。
校長室の中にカブカル・ミード教授はいた。
シーラ・イグルの杖との契約について、校長に報告するためである。
ミード教授は、シーラが杖との契約に成功するとは思っていなかった。
あの杖は強力すぎる。新入生が契約に成功できるような杖ではない。ほかの新入生たちの杖が子馬一頭で引ける小さな馬車だとすれば、シーラ・イグルの持ち込んだ杖は六頭だての大型馬車だ。とてもではないが、十四歳の子どもに契約できるものではない。できたとしても、そのあとずっと六頭引きの馬車を引っ張るような苦労をすることになる。
といっても親のくれた杖を簡単には諦められないだろうから、三日やらせて失敗したところで、小型の杖を貸し与えるつもりだったのだ。
まさか、成功するとは。
そうでなくてもシーラ・イグルは多色持ちだ。
一色持ちは、例えていえば一人で一本の笛を鳴らすようなものだ。普通に息を吹き込めば笛は鳴る。
二色持ちは、同時に二本の笛を鳴らすようなものだ。相当な息の量が必要だし、吹き込み方も難しい。
これが五色持ち、六色持ち、全色持ちとなると、魔法を発動させるための苦労は想像を絶する。膨大な魔力と繊細な技術が必要となる。
〈全色〉が百年に一度しか現れないというのは嘘だ。実際にはもっともっと頻繁に〈全色〉は現れる。
ただまともな魔法使いに成長できる〈全色〉は、百年に一人しか現れないといってよい。
シーラ・イグルは、同級生たちに比べ桁違いに困難な道を歩んでいくことになる。
しかし、わざわざ校長に面談時間を割いてもらったのは、シーラが杖との契約に成功したという事実を伝えるためではない。そんなことは定時の職員会議で報告すればすむことだ。というより、〈虹〉ではないかという噂のあるシーラのことは多くの職員が注目しているから、シーラが六色持ちらしいということは職員会議で報告しなくてはならない。
そうではなく、内々に報告しておきたかったことがあるのだ。
シーラ・イグルが杖との契約に成功したときに自分が見たもの、それが何であるか判断できず、そのため校長に報告しておいたほうがよい、と考えたのだ。
校長はミード教授の報告を聞いたあと、しばらく目を閉じ沈思した。
「ミード教授」
校長の声は、まるで両隣に立つガーゴイルがしゃべっているのかと思えるほどしわがれている。
「はい」
「ひざまずく騎士の姿が見えたのだな」
「はい」
「そしてその騎士からは強大な力を感じたと」
「はい。魔力とは少しちがうのですが、非常に強い力を感じました」
「ふむ。ほかに見たものはないか」
「そのほかには、赤橙緑青藍紫の六つの光の玉を見ました。それぞれ直径一トールほどの大きさでした」
「……そうか。ふむ。ご苦労だった」
「は。失礼します」
ミード教授が退出したあと、校長は机の前に座り込んで、長いあいだ考えにふけった。