プロローグ
1
「あった」
一本の若木の前で、その騎士は歩みを止めた。
そのまま倒れるように、若木のそばに横たわった。
騎士の名はエルガー・ロア。
知らぬ者のない英雄である。
その功績は数多いが、なかでも特筆されるのは地霊獣アーカンスの討伐である。
本来地霊獣は地とそこに住む者に恵みをもたらす。しかしアーカンスの力は強くなりすぎた。そのため過ぎた恩寵が大陸を覆ったのである。植物は調和を乱して狂ったように生育し、街や村を飲み込んだ。人や動物は体の調子を崩して苦しみ、死ぬ者も出てきた。
やむを得ず、シュラン国王は騎士エルガーに討伐の勅令をくだした。
騎士エルガーは、騎士団と魔法士団をつけるという王の提案を退け、単身地霊獣アーカンスのもとに向かった。本当のところは、神の獣に刃を向けるという罪深い行為に、自分以外の者を加担させたくなかったのだ。
エルガーは三日三晩にわたる戦いのすえ、地霊獣アーカンスを倒した。
「騎士よ、みごとだ。われは死ぬ。だが願いがある。この種をどこか深い山奥に植えてほしい」
地霊獣アーカンスはそう言って小さな種を吐き出し、息絶えた。
地霊獣アーカンスの死体と残された宝物は、王宮や教会やその他の諸勢力が奪い合った。強大な地霊獣の死体から取れる素材は、武具や魔具の最高の素材となったからである。アーカンスの尻尾の先のわずかな皮さえも、こっそりと莫大な金額で取り引きされた。
地霊獣アーカンスの討伐は、騎士エルガーに栄誉をもたらさなかった。神とあがめられる獣を殺したことを神殿が糾弾し、やむなくシュラン王は騎士エルガーを追放したのである。領地と城と財貨は没収された。
騎士エルガーに残されたものは、着慣れた鎧と無骨な剣と愛馬とわずかな路銀だけだった。しかしエルガーはその運命を黙って受け入れた。
そして辺境を放浪しながら人助けをしたのである。
やがて年老い、死期が近いことを悟った騎士エルガーはカース=ラーカの森に入った。その森の奥深くに、地霊獣アーカンスから託された種を植えていたのだ。その種がどうなったのかを見届けて死にたかったのである。
森に入って間もなく老いた愛馬は死んだ。騎士エルガーは愛馬に黙祷を捧げ、そこからは歩いた。
そして見つけたのである。
そこには、騎士エルガーの身長の半分ほどの見慣れない若木が生えていた。緑の葉はみずみずしく、差し込んでくるわずかな光を吸い込んで輝いている。かすかに感じる霊力は、かつて地霊獣アーカンスから感じたのと同じものである。種は無事に芽吹き、成長したのだ。騎士エルガーは、自分が許されたような気がして、ひどく心が安らぐのを感じた。
騎士エルガーは、若木のそばに横たわり、やがて眠りについた。
目覚めることのない眠りに。
2
長い長い時が流れた。
誰も立ち入らない森の奧で、その木はひどくゆっくりと成長を続けた。
百年ほど過ぎたときのことである。
《うむ? ここは、どこだ》
《やっと目覚めたな。騎士エルガー》
《誰だっ? いや、覚えがある。その声、この存在の波動。まさか。まさか地霊獣アーカンスなのか?》
《そうだ。久しいな、騎士エルガー》
《こいつは驚いた。これはどういうことだ。俺は生まれ変わったのか?》
《これは〈つながる生命の木〉ヤズルーの中だ》
《〈つながる生命の木〉ヤズルー?》
《そうだ。ヤズルーの種に、われの心魂核を封じたのだ。それはそうとお前、話し方が変わったか?》
《そういえばそうだな。何というか若返ったような気分なんだ。それで、ヤズルーというのは、お前が俺に託した実から育った木のことか?》
《そうだ》
《それにお前の心魂核とやらを封じたと?》
《そうだ。それはわれの存在の千分の一のそのまた千分の一ほどの存在でしかないが、それでもわれのすべてを含んだものなのだ》
《もしや地霊獣アーカンス。お前は復活できるのか》
《そうだ》
《そうか……。よかった》
《〈つながる生命の木〉ヤズルーは大地より霊力を吸う。じゅうぶんに霊力をためればヤズルーは花を咲かせ実をつける。われはその実に入り込む。その実を獣に食べさせればよい。するとその獣の子としてわれは生まれることができる》
《ふむ。複雑なのだな。そして時間がかかりそうだ》
《多少の時間はかかる。だがもともとわれは長き時を生きる者だ》
《それにしても俺はなぜ目覚めたのだ?》
《ヤズルーは大地より霊力を吸う。お前の魂には強力な霊力が宿っていたのだ。われを倒してその霊力を浴びたのだから、当然のことだがな。〈つながる生命の木〉ヤズルーはお前の霊力を吸い取った。魂と一緒にな。ある程度以上吸い取ったところで、吸われた魂がじゅうぶんな大きさに育ち、お前はお前に戻ったのだ》
《ふむ? よく分からないが、俺はヤズルーの中にいるんだな》
《しかり。われとともにヤズルーに宿っている》
《何も見えないし、何も感じ取れないな》
《まだお前が小さいからだ。じゅうぶんにお前が成長し、霊力を取り込んだら、周りを知覚することができる》
《ではそれを楽しみにすることにしよう》
〈つながる生命の木〉ヤズルーは、ゆっくりゆっくりと成長した。
二百年が過ぎるころには、騎士エルガーは森の音を聞くことができるようになった。
三百年が過ぎるころには、ぼんやりと周りが見えるようになった。
四百年が過ぎるころには、近くの動物たちの存在や動きを感知できるようになった。
五百年が過ぎるころには、精霊が見えるようになった。
見えるまで気付かなかったが、この世は精霊で満ちていた。
火の精霊オドル
光の精霊スカント
地の精霊ヤット=グ
風の精霊マト
水の精霊スルラーラ
石の精霊グヴァ
闇の精霊ノイシ
カース=ラーカの森にはあまたの精霊が遊び暮らしており、精霊たちの動きを見守るのは楽しいことだった。
夜の闇が落ちると光の精霊スカントがよく見える。
太陽神の恩寵が強い時間には闇の精霊ノイシがよく見える。
昼は光の精霊の力が強まり、夜は闇の精霊の力が強まると聞いたことがあるので、不思議に思ったが、やがて理解した。
昼はあまりに太陽神の恩寵が強いため、光の精霊は見えなくなってしまうのだろう。
小さな精霊たちが遊び回り、木々を育てたり、風を呼んだり、木の葉の上に光のハーモニーを奏でるのは、いくら見ても見飽きない光景だった。
そして六百年が過ぎるころ、〈つながる生命の木〉ヤズルーは小さな小さなつぼみをつけた。
つぼみは成長してゆき、五十年ほどで花を咲かせた。その花は十年ほど咲いて、実となった。
《騎士エルガーよ、目覚めているか》
《ああ、起きてるよ。どのくらいの時間がたったのかなあ》
《お前が死んでから七百年ほどの時が流れた》
《そんなになるのか》
《お前はすっかりお前になったな。われには騎士エルガーの姿がはっきりと見えるぞ》
《ほう、そうかい? まあまるで生きてたときみたいに意識ははっきりしてるな》
《お前はずいぶん、われの託した種のことを気にかけていてくれたのだな》
《なんのことだ?》
《普通の人間は死んだとき、さまざまなことを気にかけるものだ。だから魂はさまざまに分散し、やがて溶けて神々のもとで生まれ変わる》
《へえ? 神殿の説く教えとはちがうようだな》
《神殿の教えなど、われは知らぬ。とにかく、ここまでお前が再構築されたということは、魂がほとんどこの場にとどまっていたということなのだ。こんなにも長いあいだ》
《ほう。まあ、ほかに気にすることもなかったからなあ》
《騎士エルガーよ。お前に機会をやろう》
《何の機会だ》
《今の魂を保ったまま転生する機会だ》
《人間の俺に、そんなことができるのかい?》
《〈つながる生命の木〉は花を咲かせ、今や実をならせた。その実の中に入れ》
《入ってどうする?》
《その実を食べた動物の子として生まれることができる。今の魂を保ったまま》
《いやいや。それは斑熊や一つ目狐の子として生まれるということだろう。ごめんこうむる》
《何から生まれようとお前はお前だ。人間の姿を持ち、人間の子として生まれるのだ》
《獣の腹から生まれた人間など、人間とはみなされんよ》
《誰も見ている者はない。人間として生まれ、森の恩寵を受けて育ち、成長したら人の世界に戻ればよい》
《いや。しかしなあ》
《無理にとは言わぬ。しかしお前は人間の世界に戻りたいのではないか》
そうなのだった。
ずいぶん長い時間が流れた。
人間の世界はどうなっているだろうかと、騎士エルガーは気にしていた。
人々の営みは続いているだろうか。
自分が生きていたころより、人は豊かで幸せに暮らしているだろうか。
それを一目見て確かめたいと、騎士エルガーは思っていたのである。
《〈つながる生命の木〉の力で転生した者は、特別な力を得る》
《え?》
《前世の知識と知恵に合わせ、前世以上の体力と強靱な肉体、そして何かの新しい能力を得ることができる》
《新しい能力?》
《そうだ》
《どういう能力だ》
《それは分からん。だがお前は騎士だったのだから、攻撃力か防御力に関する恩寵を受けるのではないかな》
《ほ、ほう……》
結局、騎士エルガーは神霊獣の提案を受け入れた。〈つながる生命の木〉の枝に一つだけなっている実の中に入り込んだのである。実の中に入り込んだ騎士エルガーは、少し遅れて巨大な力が実の中に入り込んでくるのを感じた。
「おおおっ?」
それは地霊獣アーカンスの気配である。
「おいっ、アーカンス! この小さな実の中に二人が入ったんでは狭すぎるぞ!」
なにしろアーカンスは頭の大きさだけで人間より大きい。胴体はその二十倍ほどもあるのである。
「案ずるな、騎士エルガー。われもお前も今は魂だけの存在だ。大きさなどないのだ」
「そうはいうが、この圧迫感はたまらん」
「すぐに慣れる」
「しかたないか。お前も復活したいだろうしな」
「いや。一つの実で復活できるのは一つの命だけだ。われはわれの一部をこの実の中に吹き込んだ。お前の復活を見届けるためだ。お前が復活したら、この実に入ったわれは消える」
「あ、そうなのか。しかしそうすると、お前の本体はどうなる」
「何百年かのち、また〈つながる生命の木〉は実をつける。そうしたらわれは復活することになる」
「なるほど」
3
こうして地霊獣アーカンスと騎士エルガーは時を待った。
そしてついに〈つながる生命の木〉の実は枝を離れて地に落ちた。
「おお、落ちたな」
「しかり」
「しかし、ちゃんと獣に食べられるかな」
「地に落ちた〈つながる生命の木〉の実は、あらゆる獣を魅了する香気を放つ。一日もたたないうちに食べられるだろう」
「そうか」
だが一日たっても、二日たっても、実は獣に食べられなかった。
「おい。食べられないじゃないか」
「不思議なことだ。だがそう長くはかかるまい」
しかし五日たっても、十日たっても、実は獣に食べられなかった。
「獣たちは、この実を食べるどころか、避けて通っているぞ」
「こんなばかな……あっ」
「どうした」
「お前だ。お前は、人間の匂いを持っている。だから獣たちはこの実を避けるのだ」
「おい。それじゃ復活できないじゃないか」
「ううむ。困った」
五十日もすると、実は半ば土に埋もれてしまった。
一年が過ぎるころには、完全に土の中に入っていた。
「これ、どうなるんだ」
「やがて実は芽を出し、木に成長するだろう」
「またやり直すわけか」
「いや。この木は実をならせる力を持たない」
「おい」
「すまん」
「ということは、俺はこの木に宿ったままということか」
「そういうことになる」
「ふん。まあいいさ。精霊たちと森の変化や動物たちの動きを見守るのも、なかなか楽しい」
そうは言ったが、人間の世界に戻れないことを、騎士エルガーは非常に残念に思った。
そしてその思いは地霊獣アーカンスには当然伝わっていたのである。
4
地に埋もれた〈つながる生命の木〉の実から芽が出て、ゆっくりと成長していった。人の背の高さの三倍ほどに成長したとき、騎士エルガーが死んでから千年ほどが過ぎていた。
「騎士エルガーよ」
「話しかけられたのは久しぶりだな。地霊獣アーカンス」
「人が来た」
「なに?」
騎士エルガーは知覚の範囲を広げた。
来る。
確かに人だ。
しかもなかなか強力な霊力を持っている。
しかしそれは当然のことである。
あまたの精霊たちに守られたこのカース=ラーカの森の奥深くに入り込むには、何らかの祝福を受けるか、精霊たちの力に対抗できるだけの力を持っていなければならない。かつて騎士エルガーがここに入れたのは、地霊獣アーカンスを殺して受けた霊力のおかげだった。
人間は〈つながる生命の木〉の所までやってきた。
そして、感激したようすでしばらく〈つながる生命の木〉を眺めていたが、やがて片膝を地に突き、こうべを垂れて言った。
「名も知らぬ偉大なる木よ。あなたに願いがある。私の娘が魔法使いになろうとしている。娘に杖を与えてやりたいのだ。あなたは強大な魔力に包まれており、とても私ではあなたから枝を切り取ることはできない。しかしあなたの横に生えているこの若木は、あなたの子どもだろう。この若木から一枝を切り取ることを許してほしい。娘は若木から取れた杖を大切にし、あなたに感謝し続けるだろう。どうかこの願いを聞き届けたまえ」
ずいぶん長い時間、人間は〈つながる生命の木〉に拝礼していたが、やがて身を起こし、騎士エルガーが宿る若木のほうに歩みよると、腰から剣を抜き、呪文を込めた。
「騎士エルガーよ」
「どうした」
「われはこの人間がこの若木の一枝を切り取るのを許そうと思う」
「奇遇だな。俺もそう思っていた」
「その切り取られる枝に、騎士エルガーよ、宿るがよい」
「なに?」
「そうすればお前は、この人間の娘の使う杖となり、人間の世界を見ることができる。それがお前の望みなのであろう」
そうだ。
まさにそうだ。
人の世界がどうなっているかを見届けたい。それが騎士エルガーの願いだ。
見届けさえすれば、そのまま消えてなくなってしまえばよい。
しかもこの人間は力もあり礼節も心得ている。服装も上質である。おそらく人間の世界は、そうひどいことにはなっていない。大いに期待できるといってもよい。
人間が魔力をまとわせた剣を振り上げたとき、その狙いの先にある枝に騎士エルガーはおのれの存在を移動させた。
「地霊獣アーカンス、さらばだ」
「さらばだ」
そして剣は振り下ろされ、騎士エルガーは意識を失った。