創設 義勇海軍
渤海海戦の3ヶ月後、長春、後の新京において清王朝のラストエンペラー溥儀が満洲帝国の独立と、清朝の復活を全世界へ向けて宣言した。
日本はこれを支持し、ただちに同国を承認の上、日満協約を結んだ。
一方,蒋介石の中国国民党政府は、これを日本による中国への内政干渉と侵略行為だとして国際連盟に提訴した。
だが、その後送り込まれたリットン調査団の調査では、「日本の謀略の可能性が高いものの、確実なる証拠は得られず。また、満州国政府については、民族自治を掲げての独立運動と認めざるえない」という結論で終わった。
そんな中、大亜細亜造船では白根社長が、今後の2隻の駆逐艦の処遇について考えていた。
「参ったな、社の独立採算では2隻を駆逐艦として維持できまい。しかし、満洲政府の言うことを全部聞き入れると2隻と乗員を完全に明渡すこととなってしまう。困った。」
満洲帝国政府からは2隻をただちに新生満州国軍へ編入したいという要請が来ていた。しかし、それとともに、社員の軍への編入も求められていた。
これについては、白根社長は反対だった。自社の優秀な社員を、好き勝手に軍へ引っ張られることはかなわないからだ。さらに、彼としては軍という硬直した組織が嫌いだったのも、除隊した理由の一つだった。
その後,関東軍の石原少将が仲介にあたり,幾度かの交渉の末、最終的に決まった処遇は以下のような物であった。
まず、艦2隻については新設される満州国義勇海軍の所属となる。これは正規の海軍ではなく、大亜細亜造船という民間会社が、有事に満洲防衛のため働く組織である。平時の行動は満州国との協議のうえ、大亜細亜造船が主体となって動かすという広い裁量権が会社側に認められ、逆に有事には満州国の命令を絶対とするという物である。ただし、実際は義勇海軍が戦時でも作戦を立案、実行した。
乗員に付いては仮階級を正式な階級として認め、義勇海軍の所属とする。ただし、その人事に関しても大幅な裁量権を会社側に認める物であった。
これによって、白根は2艦の所有権と行動権をなんとか守りきった。ただし、維持費に付いては政府との折半ということとなった。これは痛い出費である。ただし、戦時は全額政府が出すが。
さて、そういうわけで、白根は大亜細亜造船の方は会長という名誉職について現役を退き、満州国義勇海軍司令へと就任した。階級は少将である。
昭和7年2月1日。満州国義勇海軍の結成式が旅順港にて行われた。
満州国義勇海軍の編成は第一戦隊「流星」「彗星」、第一補給戦隊「黄海」の3隻であった。
補給艦「黄海」は先の渤海海戦で捕獲した、張学良軍の3000t級貨物船の改造艦である。
「ようやく、ここまでこぎつけたな。」
白根司令官は式場でそうそうしみじみと語ったと言われている。
しかし、やることは山ほどあった。
まず、組織の拡充である。現状では兵員を自社の運航部門から集めているが、今後もその体制が続けば人員不足が起きる。それに加えて、あくまで急ごしらえの乗員であるから有事には不安が大きい。渤海海戦でもそれが顕著であった。
そこで、4月に白根は港そばの入江に、旅順海洋学院という水兵養成学校を創設した。
第一期生には定員100人に対して400人が応募してきた。その多くが貧しい家庭の子供たちであった。
第一期生の教育は試行錯誤の連続となった。まず、言語自体が大きく違うことが問題となり、続いては教材の不足であった。
前者は北京官話での教育に統一した。この時期には、白根らの中国語も大分上達していたから、彼らも自ら教鞭をとったりした。後者は日本海軍に教範の譲渡を頼んだが、結局軍事機密のため、かなり古いタイプの物しか渡してもらえず、白根らはそれを改定して使用した。
しかし、さらに大きな問題もあった。実物教材の不足であった。