戦いの終焉
海戦が義勇艦隊の勝利で終わったため、ソ連軍は海上からの支援を受けられなくなった。義勇艦隊は損傷艦を下げると、空母艦載機による日本海封鎖を開始し、ウラジオストク軍港から日本海を航行して満州国へ侵攻するルートを完全に締め上げたからだ。
そして陸上での戦闘も、ソ連軍は当初こそ国境線から数十キロの地点まで進軍したが、満州国空軍の総力をあげた航空攻撃によって大損害を被った。
ソ連空軍機は航続距離が短く、充分な航空支援が出来ず、また対空戦闘に使用可能な車両も西部戦線へ優先配備されていたため不足しており、ソ連軍機甲部隊は満州国空軍機の跳梁をただ許すしかなかった。
それでも、ソ連軍は全体主義国家の軍隊である。下手に退却や撤退をすれば政治将校によって粛正の対象となり、将官でも厳罰を免れない。彼らはスターリンの命令なくば、ただひたすら前進するしかなかった。
ソ連軍は数に物を言わせ、遮二無二進撃を続けた。だが満州内陸部へ入れば入るほど、満州国軍の反撃は苛烈を極めた。飛んでくる航空機の感覚は短くなり、各地には英国から購入された17ポンド砲を要した砲兵陣地が気付かれていて、次々とソ連軍戦車を討ち取った。
また、満鉄沿線を進撃した部隊の中には24cm列車砲の攻撃を受けた部隊もあった。
しかし、そうした攻撃による損害にもめげず、多大な損害を出しながらもソ連軍は一つ、また一つ満州国軍の防衛線を抜いていった。
しかし、進撃開始10日後ついにソ連軍は進撃不能になった。度重なる戦闘の損害が極致に達し、さらに後方からの補給が完全に途絶したからだ。
満州国空軍のB24爆撃機がソ連極東地域の生命線とも言えるシベリア鉄道を各地で分断し、ヨーロッパから運ばれてくる支援物資の流れをほぼ完全に止めてしまった。また、それさえも掻い潜った少量の補給物資も、輸送中に満州国軍の襲撃を受け失われてしまった。
現地での略奪をしようにも、住民の殆どは後方に引き上げており、村々には食料も燃料も、衣服や家財道具なども殆ど残されていなかった。
占領した満州国軍の前線陣地や基地も同様で、燃料や弾薬はほとんど残されていなかった。こうしてソ連軍はもはや補給が絶望的な状況に追い込まれた。
さらに、シベリア鉄道への空爆は満州侵攻軍のみならず、ソ連極東地域が干上がる可能性さえも浮上させた。
ことここに至り、スターリンはシベリア鉄道守備の方が現段階では重要として、ついに満州侵攻作戦の一時中断を命令した。侵攻開始2週間後のことであった。
だが、時既に遅く、ソ連軍の侵攻部隊の一部にはついに政治士官の言う事を聞かず、降伏する部隊が出始めた。また、撤退する部隊にも大きな苦難が待っていた。
満州国軍は、今後ソ連の満州侵攻の意志を挫くために、徹底攻撃に移ったのである。その主力となったのが、これまで重要な局面意外出撃を控えていた戦車や自走砲の部隊であった。
彼らは満鉄で各地へと運ばれると、一直線にソ連へ向けて撤退する部隊を側面から攻撃した。戦車の主力はドイツから購入した長砲身砲装備の4号戦車に、4号突撃砲、対空砲を主砲に流用した日本軍との共用車両の3式中戦車、3式自走砲であった。
これら戦闘車両はソ連軍戦闘車両の戦闘力を大きく上回っていた。この時、ソ連軍が保有していた車両はT26やBT7といった旧式車両が中心で、お披露目程度にT34やSu152が配備されているのみだった。しかもそれらさえも、連続した戦闘で弾薬や燃料がつきかけ、車体もボロボロであった。
「突撃!敵は虫の息だ!!満州国陸軍の底力を見せ付けてやれ!!」
そう指揮車両に指定された3式中戦車の上で喚くのは、盧溝橋事件の責任を取らされ日本陸軍を放逐された牟田口中将だ。
職業軍人であった彼は、日本陸軍を予備役編入された直後に満州へと渡り、そこで満州陸軍に移籍した。しかし、当時の満州陸軍は未だ発展途上の段階であり、とくに将軍や士官には軍閥から移籍した経歴の怪しい人間が多数含まれていた。
そのため、総司令官に就任した石原の手によって能力のない者は有無を言わさず首にされた。牟田口もその時、「旧来の戦闘思想に固執している頭の古い軍人」という評価を受け、危うく2度目の予備役編入の危機に遭っている。
そんな彼を救ったのがノモンハン事件であった。その時前線の部隊指揮官を務めた彼は、戦車を使った戦いに惚れこみ、2年ほどドイツに留学して戦車線を学び、現在は戦車師団の師団長を務めていた。
「側面から攻撃しろ、敵に反撃の暇を与えるな!!スピードこそが命だ!!」
ドイツ軍の電撃戦から学んだ彼の高速での戦車運用は、各地でソ連軍を撃滅していった。中には、その報告を聞いて恐れをなし、満州国軍戦車部隊を見た途端降伏したり味方を見捨てて遁走したり、車両を捨てて敗走する部隊さえ出た。
牟田口中将率いる満州陸軍戦車部隊は、まさしくソ連軍にとって、会いたくもない悪魔となって、台風のごとく暴れ回った。
最終的に、この撤退戦の最中に破壊されたソ連軍戦車は560両、捕獲された車両も120両にのぼった。
そして侵攻開始3週間目のその日、最後のソ連軍部隊が満州領内から撤退し、満州とソ連の間に戦われた短くも激しい戦争は幕を降ろした。
この戦争でのソ連軍側の被害は兵員戦死3万、降伏2万、負傷2万、戦車1400両、車両2800両、航空機2200機、ソ連太平洋艦隊壊滅という甚大な物であった。
結局これ以後、ソ連軍はその戦力を東部戦線に集中することとなり、満州国への侵攻が行なわれる事は2度となかった。
一方、満州国側はソ連軍を撃退こそしたが、国境線地域の村や町は大きく荒廃し、多額の予算を掛けてその復興を行なわなければいけなかった。また、人員面でも戦死5千、負傷1万2千という決して無視できない損害を受けた。
ただし、ソ連軍が満州への再侵攻を行う予兆はないために、取りあえず満州国は戦争という重い肩の重荷をようやく下ろすことが出来た。
正式な講和こそまだであったが、事実上太平洋戦争から数えて3年9ヶ月に渡る長い戦争はようやく終わりを告げた。
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