覇権大戦
米軍が太平洋方面で反攻を開始したころ、ヨーロッパでは激変が起きていた。ナチス・独逸の崩壊である。
ナチス・第三帝国はヒトラー総統の元でこれまで成り立ってきたが、そもそもそれを支えていたのは驚異的な不況からの脱出という実績と、親衛隊や秘密警察を使った弾圧によるものであった。
不況からの脱出が終わると徐々に国民のナチス熱は冷めていった。ナチス政権はその後もヒトラーのカリスマ性で持っていたが、戦争が4年目に入ると徐々にそれも有効な物ではなくなってきた。さらに、ヒトラーによる軍への介入が増えると軍内部からの批判も大きくなった。
そうした批判や不満を力で押さえつけようとしたヒトラーを暗殺しようとする人間が出るのはごくごく当たり前のことだった。特に、ナチスの考えを受け入れられないプロイセン精神を持った国防軍の人間は顕著であった。
そして1943年11月。西部戦線視察から戻るヒトラーの乗る旅客機が墜落(実際は反ナチ派パイロットによる撃墜)し、ヒトラーは死亡。時を同じくベルリンで行われた国防軍によるクーデターによって第三帝国は崩壊した。
その1ヵ月後、臨時首相に抜擢されたアウデナーがイギリスとの休戦条約に調印し、西部戦線における戦いは一応終結をみた。ちなみに、正式に講和条約が結ばれたのは半年後の1944年6月である。
そして、この休戦条約を待っていたかのようにヨーロッパに雪崩れ込んだのがスターリン率いるソ連であった。ソ連軍は東部ヨーロッパ諸国の解放と現地の赤色革命支援を旗印に突如としてポーランドやルーマニア駐屯のドイツ軍に襲い掛かったのである。
ソ連は政治的空白よってドイツ軍は有効な反撃は出来ないと考えていたのだった。
もっとも、独逸国防軍もバカではなかった。政治的混乱を狙って領土欲に駆られたスターリンが侵攻してくるのは予想済みであった。そのため、ドイツ軍は各地で少ない兵力をやりくりしつつ有効は反撃を行った。
そうして時間を稼いでいる間に、西部戦線や中東戦線から転用した部隊を新たに誕生した東部戦線に送り込んだ。
後に覇権大戦と呼ばれる戦争の始まりであった。
そんな中で、日米はというと。まず米国は英国と同じく休戦条約こそ結んだが、正式な講和を1年以上保留にした。これは米国大統領のルーズベルトがソ連と深い結びつきを行っていたために、起きた事だ。
米国としては、新たな脅威となりつつあった。満州帝国を是非ともソ連に叩いて欲しかったのだ。そのため、ルーズベルトはこれまでにソ連に多大なる兵器の供与や売却を行っていた。
一方の日本は膠着していた英国との戦争にけりをつけるために英国に講和を打診。その結果1944年2月。日英講和(実質的には蘭も含む)が成立した。
日本側の提案した条件には植民地の解放など苦しい物もあったが、国力が疲弊しており、もともと日本との戦争に乗り気でなかった英国は喜んでこの申し出を受けたのであった。その後英国は日本や満州に対して多数の武器を輸出し、ドイツやフランスなどには民生品を輸出する事で大いに儲け、復興している。さすが大英帝国である。
ちなみに、イタリアやフランスの状況も気になるが、ここでは割愛させていただく。
そんな中で、太平洋でも新たな動きがきた。まず英欄との講和がなったため、日本軍はフィリピンを除く南方地域より撤退。それら地域では日本の肝いりで次々と独立政府が立ち上がった。
そうした地域から撤退した部隊は、新たに中部太平洋や千島、樺太に転用されて米ソの侵攻に備えた。
日本の動きに併せるかのように、ソ連と国境を接している満州では、急ピッチで対ソ戦の準備が行われていた。既に建国から13年。初期段階で優先して行った教育等の福祉面での忠実は、国民の帰属意識を生み、国としてのまとまりを作る事に大いに寄与した。そのおかげで、この時点での国民の愛国心はそれなりに高くなっていた。
満州帝国は戦時下では基本的に徴兵制であり、男女共に徴兵対象となった。そうして集めた戦力は陸軍14個師団(内機械化師団3個、空挺師団1個)、空軍航空機1200機とそれを運用するパイロット。加えて鉄道警備隊(列車砲や装甲列車の運用部隊)2個師団であった。
ノモンハン戦の教訓から、満州国軍は逸早く歩兵の機械化も実施した。そのおかげで、歩兵14個師団の内半分の7個師団は移動手段が完全にトラック化されていた。これは日本陸軍以上に高い率であった。
そして、戦車中心の機械化師団も急ピッチで整備された結果、いずれも75mm野砲、装甲50mmを誇る日本陸軍との共用戦車、1式中戦車であった。これら戦車480両に、自走砲240両を揃えていた。
しかし、1944年に入ってヨーロッパからソ連軍の情報が入ってくると、満州帝国陸軍の首脳部は衝撃を受ける事となった。
独逸やソ連が使用している戦車は高射砲改造の長砲身砲をつみ、装甲厚80mm以上は常識であるというのだ。これらかれみれば、満州陸軍が運用する1式中戦車等玩具同然である。
もちろん、日満も戦車の新造を行ってはいた。高射砲改造の75mm長砲身砲に80mmの装甲を備えた3式中戦車が1943年11月からロールアウトを始めていた。しかし如何せん増産が追いつかなかった。
3式中戦車以外にも、88mm高射砲を固定式にしてオープントップとした3式自走砲も開発したが、こちらも数がそろえるのに時間が掛かった。
おまけと来て、対戦車砲も75mm機動野砲だけであった。これだけではソ連軍には勝てない。
そんな満州にとって救いとなったのが、英国と独逸だった。
まず英国は、戦争が終わって余剰となった17ポンド砲を500門、さらに対地支援攻撃機として木製双発爆撃機、モスキート360機を対米戦には使用しないという条件付で満州に格安で売却したのであった。
そして独逸は自国が戦争中であるにも関わらず、中東方面に置いていかれた4号戦車や4号突撃砲合わせて260両を弾薬つきで売却したのであった。これは輸送が不可能となったなった戦車を乗員だけ本国に引き上げて、不要となった物として売り払ったのであった。その代金で彼らはパンサーやタイガーといった新型戦車に置き換えたのである。
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