欧州戦線概況 上
昭和18年2月。日米間の戦争はほぼ膠着していた。これは主力艦を失った米軍の本格的な再編が済んでいないことと、反攻拠点がハワイ以外ないために大きくその動きを制限されていた事に起因する。
この隙をついて日本が目指した事はイギリスとの講和であった。前年の開戦直後、マレー沖開戦で大損害を被った英東洋艦隊はセイロン島まで後退し、そして英領マレー、シンガポール、ミャンマーが相次いで陥落していた。イギリス軍首脳は日本軍がインドに迫ると読んでいたが、これは杞憂だった。日本軍にそんな余裕はなかった。
こうした日本軍との戦闘による虎の子の艦艇の損失と、植民地の損失は英国に致命的な損害になりかねなかった。特に数少ない空母の損失は、地中海戦線に大きな影響を及ぼした。そして、英国にとって悪夢ともいえる事態が起きたのはマレー沖海戦直後のことだった。
マルタ島陥落。このニュースは英国を震撼させた。マルタ島はこれまで幾度となく独軍からの爆撃を耐え抜き、逆に地中海を航行する補給物資を運ぶ枢軸国艦船に大きな打撃を与えてきた。
そのマルタ島の陥落は、地中海における枢軸国の跳梁を大きく許すばかりでなく、補給不足で弱体化した独アフリカ軍団の復活という事になりかねなかった。そしてそれは、英領エジプトの危機に繋がりかねなかった。
マルタ島陥落の引き金になったのはフランス海軍であった。
この世界では、連合軍、特にアメリカ軍の地中海戦線への参加が遅れていた。そのため、史実ではヒトラーのフランス全土占領の引き金となった北アフリカ駐屯のフランス軍の連合国との和睦が起きなかった。
地中海での海軍力を増強したかったヒトラーは巧にヴィシー・フランス政府を煽った。その内容は主に、占領地の早期返還や、フランスの枢軸国内出の発言力についてであった。その結果、ヴィシー政府首班のペタン元帥はついに折れ、ヴィシー・フランス海軍が地中海戦線の戦闘に枢軸軍として参加する事になった。
もっとも、参加するフランス海軍兵の多くは、ナチも嫌いだがイギリスも嫌いと言う人間が多かった。それに加えて、この時期アフリカ戦線で活躍するロンメル将軍は国際法を遵守する軍人としてそれなりにフランス人からも人気があった。さらに、ロンメル将軍はヴィシー・フランス海軍司令官のデスタン提督と会談まで開いている。彼を助けに行くのだから悪い仕事ではない。こういうこともあり、フランス海軍の士気は高かったと言われている。
そして2月1日。フランス海軍の誇る戦艦「リシュリュー」を旗艦とする戦艦3、巡洋艦6、駆逐艦11の艦隊がマルタ島に艦砲射撃を浴びせたのである。
この戦闘で戦艦「ダンケルク」が航空攻撃で中破するなどそれなりの代償を払わされたが、フランス海軍はマルタ島の英軍施設をほぼ完全に破壊した。翌日、マルタ島にイタリア軍が上陸し、同島は陥落したのである。
英国にとってさらなる不幸となったのは、これに刺激されたイタリアとスペインがやる気になってしまったことだった。
イタリア海軍は開戦直後から、一部の部隊を除いて士気が低く装備も劣悪だった。海軍も燃料不足から出撃を渋り、さらには1940年のタラント軍港への空襲以降余計動きは低調になってしまった。
しかし、本来仮想敵国であり敗戦国であるはずのフランス軍が大活躍してしまった。これはイタリア人のプライドを刺激した。特にムッソリーニはフランスの発言力が急進することに非常に大きな危機感を覚えた。とりわけ、イタリアが開戦直後に占領した土地が返還される事にならないか心配した。
この結果、ムッソリーニの指示を受けたイタリア海軍は燃料をかき集め、総力を挙げて英国地中海艦隊との戦闘に挑んだ。この時英国地中海艦隊唯一の空母「イラストリアス」はドック入りしていた。つまり、英国海軍が本来優位に立つための条件であった航空戦力が欠如していた。
2月21日。後にドデカネス諸島沖にてイタリア本国艦隊と英地中海艦隊は対決した。イタリアは戦艦「ローマ」を旗艦に戦艦4、巡洋艦3、駆逐艦9.英国艦隊は戦艦「ウォースパイト」を旗艦に戦艦1、巡洋艦6、駆逐艦11であった。
英国艦隊司令官カニンガム中将は夜戦に持ち込み、中小型艦艇の多さとレーダー技術の優位性で勝利をもぎ取ろうとした。しかし、航空機での一撃を掛けられなかったことが命取りとなった。
イタリア艦隊は高速性能を生かして極力砲撃を避けつつ夜が明けるのを待った。最初にレーダー砲撃を受けた「カイオ・チュリオ・チェザーレ」が大破、後自沈に追い込まれたものの、夜があけて弾着観測機が行動できるようになると、報復が始まった。
「ローマ」級2隻の38cm砲のつるべ打ちに、旧式戦艦の「ウォースパイト」は耐え切れず爆沈。カニンガム提督も戦死した。さらに残存艦艇も勇敢に戦ったが、戦艦部隊の大口径砲弾の前に次々と撃沈されてしまい、最終的に英地中海艦隊は駆逐艦3隻を残して全滅した。
イタリア海軍も戦艦と巡洋艦各1、駆逐艦2隻を失ったが、開戦以来負けっぱなしであった彼らにとって、久々の大勝利であった。
そしてこの勝利は地中海が枢軸国の海になった事を示していた。これ以後、終戦に至るまでついに英国は地中海の制海権を奪回する事ができなかった。
マルタ島陥落、英地中海艦隊の壊滅によって進撃が停滞していた独アフリカ軍団とイタリアのアリエテ装甲師団は、本国から思う存分補給を受けられるようになり、逆に補給ルートを押さえられた英国軍は補給量ががくんと減った。
そして3月3日。ついに独軍は重要な軍港であり、イギリス軍の拠点であるアレクサンドリアを占領した。同地のドックに入っていた戦艦2隻と空母「イラストリアス」は枢軸軍の手に渡ってしまった。
英国は紅海とアジア方面からの戦力抽出を図った。また、地中海の入り口のジブラルタルの戦力増強を考えた。しかし、英国への最後のパンチを繰り出した者がいた、それが日本とスペインだった。
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