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新鋭機 中編

 ラグ3型戦闘機はこの時期のソ連の新鋭戦闘機の1機種である。そのラグ戦闘機が何故敵対国の満州国の飛行場にあるのか。


 実はこの機体、越境亡命してきた機体である。パイロットは満州から流れる謀略放送に心を擽られ、スターリン支配下のソ連に見切りをつけて亡命してきたのであった。手ぶらでは亡命後の地位を築く有力な材料にならないと考えて、極東にはごく少数しか配備されていない新鋭戦闘機に乗ってきたのであった。


 越境後はチャムス近郊の満州空軍基地に強行着陸し、機もパイロットも無事という奇跡の脱出を演じたのであった。


 このソ連新鋭機が手に入ったという報告は満州や日本の航空関係者に衝撃を与えた。


 この時期ソ連の航空事情というのは未知の世界であった。僅かに、ソ連領地内のスパイや東ヨーロッパ諸国の大使館や領事館からの情報しか入ってこず、それらは断片的で具体性を欠いていた。


 その状況下で新鋭機が労せず手に入ったのだから、航空関係者の喜びは大きかった。


 パイロットはそのまま亡命申請が認められ解放されたが、機体の方は奉天の空軍基地に運び込まれ、徹底的に調査を受けた。


 ラグ3型戦闘機は、欧米諸国の機体と同じく水冷の機体であるが機体は木製であった。木製であるのはこの時期のソ連機に共通する。


 ただし、新しい工法で作った事により性能にバラツキがあり、悪い機体だと棺おけとまで酷評された。幸運な事に、この機体は出来の良い機体であった。


 性能は最高速力575km、航続力1100km、武装が20mmモーターカノン(プロペラ軸に装備)1基に13mm機銃2基であった。


 満州空軍と日本陸軍のテストパイロットが調べた結果では、性能的には最高速力以外見るべき点はないとした。しかしながらエンジンや機体の構造には見習うべき点が多いと評価された。特に接着剤や高い強度を持たせた木製外版の製造技術は日本ならびに満州に無い物だけに注目を浴びた。


  ちなみに、結局練習機等の二線級機以外で日本側で戦中に実用化した木製機はなかった。


 一方、もう一つのハインケルマンチュリア社製のM1戦闘機は、幻の戦闘機、He113の生まれ変わりと言える戦闘機である。


 設計者はドイツでその名を馳せたハインケル博士である。


 彼はHe111爆撃機等の優秀機の設計を手がけたが、ナチス党を嫌っていた。そのため疎んじられ、次期主力戦闘機選定では、出品したHe112戦闘機が性能に劣るMe109戦闘機に敗北するという屈辱を味わっている。


 そんな折、彼の元に一通の手紙が届いた。それは満州国が自国内に欧米企業を誘致するために各企業に配った宣伝メールであった。


 ハインケルは考えた。


(このままナチス政権下のドイツにいては思うように機体の設計が出来ない。)


 彼は思い切ってドイツ国内の工場を全て部下に任せ、自分は少数の部下を引き連れて、見たことも無い東洋の地にやってきた。1937年のことである。


 彼は首都新京港外に設計室と工場を構えた。それがハインケルマンチュリア航空機製造会社である。工場が完成し工具一式が届くやいなや、彼は輸送機の生産で経営を立てつつ早速新型戦闘機の設計に掛かった。もっとも、その機体はドイツにいた頃から考えていた物で、設計3ヶ月、製造2ヶ月で完成した。それがHe113である。


 時に昭和15年(1940年)の12月であった。


 この機体は試験段階で700km近い速力を出した。また、量産能力を高めた機体も630km以上と驚異的な数値をはじき出した。


 しかしながら、この機体は日本軍を始め、満州国軍でも不採用となった。原因はヨーロッパ機特有の航続力の短さにあった。


 ハインケル博士も太平洋地域で使用されている戦闘機の航続力はヨーロッパより高いと聞き、一応設計上では1400kmの航続力を持たせていた。これはMe109の2,5倍近い値である。


 しかし、満州国空軍の審査官は冷たく言い放った。


「最低でも落下式の補助タンク無しで1500km以上は必要です。それ以外の性能がどんなに優れていても、採用することは出来ません。」


 まさに欧米と太平洋地域との機体設計思想の差を見せ付けられた瞬間であった。もちろん、これくらいで挫けるようなハインケル博士ではなかった。すぐに機体の改修に取り掛かった。


 まず、機体その物を一回り大型化してタンクの容量を大きくした。さらに日本軍のテストパイロットの意見を取り入れて、視界を改善するために風防も涙滴型にした。エンジンはそれまでのベンツ製エンジンを取りやめ、満州国内で創業していたロールスロイスの子会社で製造していたマリーンエンジンを搭載した。


 このマリーンエンジンは日本や本国に輸出されていたが、敵であるはずのドイツ人であるハインケルにも売却された。理由は、どう考えてもヨーロッパ戦線に持ち込めないからであった。


 ちなみに、マリーンエンジンは奉天航空機製造公司でもライセンス生産され、主に魚雷艇等のエンジンに使われていた。


 そして、ハインケル博士の新型戦闘機、仮称M1戦闘機は完成した。それまでのハインケルの名をやめて、心機一転の思い出マンチュリアの頭文字がつけられた機体であった。そして、ハインケル博士は自信を持ってこの機体を今回の性能テストに出品した。


 ところが、同様にマリーンエンジン採用機として、川崎のキ61が今回の性能テストに参加していた。さらに、オーソドックスな設計の零戦や「飛龍」、キ84も手強い相手であった。


 しかし、ハインケル博士はそれでも自信満々であった。


 御意見などをお待ちしています。なお、ラグ戦闘機が満州に亡命してきたのは実話です。

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