千島列島海空戦 上
米艦隊が千島に来寇した目的は、士気高揚と日本軍部ならびに自国政府へのパフォーマンス的意味が多分に含まれていた。
4月に日本本土爆撃が失敗し、おまけと来て空母「ヨークタウン」まで失った米海軍はなんとしても汚名返上の必要があった。
しかし、この時点でナチス・独逸へ米国が宣戦布告ししたため、予定していた大西洋艦隊からの空母「レンジャー」や新鋭戦艦「サウスダコダ」の太平洋回航が延期されてしまった。そのため、米太平洋艦隊に残された戦力は主力艦が空母「ホーネット」、「ワスプ」に戦艦「コロラド」のみというお寒い状況になってしまった。
もちろん、これだけの戦力でまともな侵攻作戦など立てられる筈がない。
そのため、新太平洋艦隊司令長官となったニミッツ大将率いる米海軍は潜水艦による通商破壊を目論んだが、まだ潜水艦自体の数が少なく、また義勇艦隊や台湾海上警備隊の活発な活動と、基地から戦場まで非常に遠かったため芳しい戦果を上げられなかった。
しかし、日本海軍もマーシャル沖海戦の打撃から完全に立ち上がっていなかった。この時点で動ける戦艦は金剛級の3隻と、「長門」のみ。空母も本土にいたのは修理中の「蒼龍」と軽空母のみでその他は遠く南方に出払っていた。
そこで太平洋艦隊で立案されたのが千島奇襲作戦だった。この時期北方海域にはソ連太平洋艦隊の増強に併せて、第5艦隊が択捉島単冠湾に配備されていたが空母はいない。また、千島の航空戦力も南方に比べて随分と弱小な戦力しかなかった。
日本本土に近く、なおかつ戦力の薄い地域。今の米海軍に攻められる場所はここしかない。そう考えたニミッツ太平洋艦隊司令長官は、スプルアーンス中将に、ダッチハーバー駐屯の北太平洋方面部隊と合同での千島攻撃を命令した。
これに従い、スプルアーンス中将は5月下旬に真珠湾を出撃した。戦艦1、空母1、重巡3、軽巡2、駆逐艦11、給油艦2からなる機動部隊であった。
艦隊はダッチハーバー到着後北太平洋方面部隊から抽出した軽巡2、駆逐艦5を編入し、一路千島方面へと南下した。
スプルアーンス提督は艦隊の発見を避けるため、潜水艦を動員して日本の哨戒網を一時的に麻痺させた。米軍側も潜水艦3隻を失ったが、日本側の特設哨戒艇や漁船など11隻を沈めるか損傷させ戦線から離脱させた。
そして、6月5日。まず最初に単冠湾へ向けて攻撃隊を発進した。
この時点において、日本の電探配置は海軍が空母、戦艦と南方の主要基地、陸軍が首都近郊と南方の主要基地のみだったため、攻撃隊の発見が遅れた。そして、同地の天寧飛行場配備の陸軍戦闘機隊も、停泊中の船舶も大打撃を負ってしまった。
小型貨物船2隻、漁船6隻が沈没、その他3隻大破炎上。天寧飛行場配備の陸軍の97式戦闘機12機は飛び立つ前に全滅した。
もちろん、日本側は直ちに北海道の基地を中心に索敵を行ったが、智将スプルアーンス提督は引き際をしっかりとわきまえていた。攻撃は一回のみで、終了すると直ぐに偵察機の航続圏外へと脱出した。
あまりに鮮やかな奇襲であった。軍事施設への被害は僅少だったが、それでも本土に間近い海域へ敵の接近を許し、さらには空襲を許したのは軍部にとって大きなショックとなった。しかも、民間への被害が大きかったことから、緘口令を敷く前に情報が漏れてしまった。
海軍は直ちに米機動艦隊撃滅へ動いた。
命令に従い、幌筵に駐屯していた重巡「那智」を旗艦とする第5艦隊がただちに追跡を開始した。しかし、空母を持たない第5艦隊は偵察能力が低く、敵に接触することはなかった。それどころか、米潜水艦の攻撃で駆逐艦1隻を失う失態を見せている。
これが元で、艦隊司令官細萱中将は後に更迭されている。
そして、日本側の努力をあざ笑うかのように、米艦隊は今度は千島列島最北端の占守島に来襲した。しかも、航空攻撃の後には戦艦「コロラド」率いる別働隊による艦砲射撃が加えられた。
この時、占守島には海軍と陸軍の航空隊が駐屯しており、それなりに米軍攻撃隊の迎撃に善戦した。しかし、その後やって来た戦艦にはなすすべがなかった。
この時占守島に配備されていた艦攻、艦爆は対潜哨戒用の少数のみで、しかも魚雷のストックなしだったため、実質的に対艦攻撃能力はなかった。
米艦隊は約30分ほど艦砲射撃を竹田浜付近の陸軍陣地に加えた。戦艦の艦砲射撃の前には陸軍陣地も為す術がなかった。
竹田浜の陣地に大打撃を与えた米艦隊は、意気揚々と離脱にかかった。しかし、最後の最後で彼らは大やけどをすることとなった。この時、占守島には予想していなかった敵がいたのである。
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