新たなる戦
総解説の後編は作品の進行とともに掲載します。
フィリピンでの作戦を終え旅順に帰還した義勇艦隊は、艦隊を解き船団護衛任務のために戦隊単位での行動を行うようになった。
日本海軍はマーシャルでの海戦で大打撃を負ったが、米軍もまた大打撃を負っていたためしばらくは動くことは出来ないと予想されていた。実際、日米両軍は大規模な作戦を控えていた。
そのため、義勇海軍も艦隊単位で動く必要がなくなり、専らの任務はフィリピンへの物資輸送船団や、南方からの資源輸送船団の護衛であった。
さて、この対米戦争を消耗戦になると睨んでいた日本満州両国では、兵器の量産が急ピッチで進められていた。特に、満州国における自国ならびに日本向けの陸戦、航空兵器の需要は高かった。
鞍山の戦車工場で作られる最新鋭の1式砲戦車や、奉天航空機製造公司製造の100式重爆「呑龍」が次々とロールアウトし、戦場へ向けて運ばれていった。
そんな中、義勇海軍も戦力の増強を図っていた。それに伴って艦隊創設以来の主力艦艇である「流星」級の改良型、「旅順」クラスが建造されつつあった。
「旅順」級は「流星」級の設計をほぼそのまま継いでいるが、魚雷発射管が一門と爆雷が12個プラスされている。そして、何よりも大きな違いは主砲を今までの平射砲から、対空と対艦戦闘両方に用いれる両用砲に交換したことだ。この砲は帝国海軍の89式12,7cm高角砲を、大亜細亜造船の技術陣が独自に改良した新式砲で、装填スピードが上がっている。
ちなみに、名前がいきなり天体から地名になったのは、最近増えてきた満州出身の乗員に郷土への愛着心を持ってもらおうという考えがあったから。
この「旅順」級はさらに「奉天」「満州里」「新京」が竣工間近で、加えて台湾海上警備隊向けと朝鮮海上警備隊向けに併せて5隻の建造も進んでいた。
駆逐艦の増強に加えて、潜水艦も新たに2隻が戦列に加わっているし、航空部隊の拡張も著しかった。一時的な戦闘の空白期間は、義勇艦隊の戦力増強に大きく寄与したのであった。
この日米共に大規模な戦闘が起きなかった時期は、1942年の2月ごろまで続いた。しかし、その後は大西洋から回航した空母を使ってアメリカ軍は小規模な艦隊を編成してゲリラ的な反抗を開始した。
最初に攻撃を受けたのはウェーク島で、さらにマーシャル諸島各地や大胆にもサイパンにまで奇襲攻撃をかけている。これらの攻撃は飛び石戦法と呼ばれ、大きな戦果は見込めないが日本軍に混乱や戦力抽出をもたらすのが大きな目的だった。
日本側の機動部隊や基地航空隊はこの米機動部隊を追い求めたが、結局捕捉するに到らず、いいように遊ばれ燃料を消耗したのみだった。つまり、米軍の読みどおりの展開で終わったわけだった。
そんなこんなしている内に時間はあっというまに過ぎ、気付けば4月になっていた。
4月になると開戦時損傷した艦艇も次々と戦線に復帰し、連合艦隊は戦力を取り戻しつつあった。それはまた米軍も同じであるから、日本の首脳部はより一層米軍への警戒を強めた。しかし、その彼らにしても米軍の大胆不敵な行動には気付けなかった。
一方で、我らが義勇艦隊は開戦時に建造中だった艦艇全てが竣工していた。
この時点で稼動する戦力は空母4、軽巡2、駆逐艦13、フリゲート2、コルベット4隻、潜水艦4隻であった。これに兄弟組織と言える台湾海上警備隊は軽巡2、駆逐艦8、フリゲート4、コルベット8を保有していた。また、両組織とも基地航空隊も忠実していた。
これによってかなり大規模な航路警備が出来るようになった。ただし、本職の対潜作戦は米潜水艦の動きがなかったため、戦果零であったが、護衛した船団の被害も1隻のみだったからまずは上出来といえた。
そんな中、4月17日。この日、日本の横須賀からウェーキ島への輸送船団が出撃していた。
船団には現地で潜水艦基地として活動する潜水艦母艦や、守備隊ならびに航空隊への物資を満載した貨物船が6隻いた。
この船団護衛に、義勇艦隊が就く事となった。空母「白虎」を旗艦に、駆逐艦4、フリゲート2という大規模な護衛戦力だった。また、日本側も駆逐艦2隻をつけていた。
護衛艦隊指揮官は「白虎」座乗の八島少将であった。彼はフィリピン沖で大活躍した後も転属を拒み「白虎」に座乗していた。そしてそれが、彼を再び戦場へといざなった。